2014年4月6日日曜日

花見川地峡成立の自然史を遡ってみる

シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討- 
第1部 現代から縄文海進まで遡る その1

■■■ シリーズの開始と構成 ■■■
シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討- を始めます。

このシリーズは次の4部構成として順次掲載して行く予定です。

●シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討- の構成
第1部 現代から縄文海進まで遡る
第2部 花見川河川争奪に遡る
第3部 印旛沼筋河川争奪に遡る
第4部 下総台地形成に遡る

4部構成に示した通り、このシリーズの掲載順番は、通常の地史記載方法である過去→現在という時間軸に沿ったものと反対の順番になっています。

その理由は現在に近いほど情報が多く、自然史の確からしさが高いのですが、過去に遡るほど情報が少なく確からしさが低くなるためです。

つまり、情報が多く確からしさの高い項目から記述していった方が、記述がスムーズに行うことができ、効率的です。要するに自分にとって記述が楽になります。

また、確からしさの高い項目から記述して行くことによって、仮説的検討の論理的結びつきを強めて行くことができます。

ということで、読者の便ではなく、筆者の便により現在→過去という時間軸でこのシリーズを記述することになりました。ご容赦ください。

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1 地図に花見川地峡が表現されているか?
現代から縄文海進までの時代に関する地図を対象に花見川地峡の表現に関して考察してみました。

1-1 5mメッシュデータによる地形段彩図(現在の地形の状況)
5mメッシュデータを使ってGISソフト地図太郎PLUSで地形段彩図をつくりまし。

段彩の区分はソフトの初期設定によるもので、低地は濃い緑で、台地は標高が高くなるほど濃い茶色で表現され、海は白色、水部は薄青で表現されています。

地形段彩図(現在)

云うまでもなくこの図は機械的に作成した図であり、花見川地峡を表現しようとかどうとかの意思は反映されていません。

図をよく見ると、花見川の堀割が表現されていて、花見川と新川(印旛沼堀割普請前は平戸川)が台地を「割って」通っています。

印旛沼堀割普請と戦後印旛沼開発が行われたのですから当然です。

台地を「割って」いる付近を拡大表示すると次のようになります。

地形段彩図(現在)拡大図

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手が花見川両岸台地縁に表現されてきているので、ますます台地を「割った」感が強調されます。

この地形段彩図を見て、現代人は、河川の専門家でさえ、「花見川は下総台地を開削して作られて人工物だ」と感じて疑うことはなく、この場が地峡(2つの海を隔てる陸地)であるという認識を持つに至ることはほぼ皆無だと思います。

印旛沼が2つに分割され、極端に縮小してしまっています。

東京湾の埋め立ても広がっています。

このような状況から東京湾と印旛沼の「海同士のつながり」を地図上からイメージすることは殆どできません。

せいぜい「印旛沼水系という河川を東京湾に落とす」という認識が既に所持している知識に基づいて生まれる程度です。

1-2 明治中期測量迅速図(近世の地形の状況)
明治中期測量迅速図の集成図をサイト「歴史的農業環境閲覧システム」で閲覧することができます。

このサイトから画像をハードコピーで取得し、画像ソフトで貼りつけた迅速図集成図を作成し、その集成図に湖沼と位置関係を知るために必要な最小限の河川と東京湾の一部に塗色しました。

明治中期迅速図集成図(湖沼等塗色)

この地図に表現される湖沼分布は利根川東遷が行われた近世全体を通して存在していたと考えられる状況を表現しています。

利根川を軸に大きな湖沼が各所に貼りついている状況は、利根川低地全体が陸と水部の境が定かではない水郷である状況を示しています。

この迅速図集成図を見ると、埋め立て前の広大な印旛沼が表現されています。印旛沼が利根川と連絡している様子も良くわかります。

この図から花見川-新川ラインが東京湾と印旛沼という2つの海・湖沼を連絡している状況をイメージできます。

この地図から東京湾と印旛沼を境する地峡が存在し、その地峡に運河・放水路を通すために花見川-新川ラインを利用したかつての印旛沼堀割普請をイメージすることができます。
(明治期から戦前期までの人はそのように理解したと思います。)

1-3 下総国印旛沼御普請堀割絵図(安永・天明年間頃の印旛沼堀割普請関係図、約240年前)
安永・天明年間頃に印旛沼堀割普請の構想・計画のためにつくられたと考えられる下総国印旛沼御普請堀割絵図を示します。

この絵図は八千代市文化財として指定されています。この絵図の画像ファイルは八千代市立郷土博物館より提供を受け、このブログで公表する許可をいただいています。

下総国印旛沼御普請堀割絵図(八千代市立郷土博物館提供)

この絵図は印旛沼と東京湾を結ぶ放水路を建設しようという大土木工事に関する意思(構想)を表現した地図です。
ですから、綿密に土地(地勢)を観察した結果得られた概念が明瞭に表現されています。

この絵図に水部を水色で塗色し、読み取れる土地(地勢)概念を描きこんでみました。

下総国印旛沼御普請堀割絵図の分析

この絵図作成者(普請事業者)は香取の海と東京湾、それを結ぶ当時の地峡、地峡の中に存在する横戸村と柏井村の分水界を描いています。

横戸村と柏井村の分水界は縄文海進時代の花見川地峡に該当します。

この絵図が書かれた頃の実際の湖沼分布は、明治中期迅速図集成図で表現される湖沼分布と大差はなかったと考えます。

そう考えて、この絵図と明治中期迅速図集成図を比較すると、この絵図がデフォルメして表現しようとしている土地(地勢)概念(香取の海、東京湾、当時の地峡、分水界)をより明瞭に理解することができます。

なお、香取の海が詳しく、大きく、東京湾が小さく描かれているのは、この絵図作成者(普請事業者)が印旛沼地域に本拠を有していて、事業の主要目的が印旛沼干拓だったからです。

つづく

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