2014年4月9日水曜日

花見川筋の縄文海進時海陸分布

シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討-
第1部 現代から縄文海進まで遡る その4

2 花見川地峡の縄文海進検討
花見川地峡の縄文海進時の海面の広がりについて、ボーリング資料に基づいて、花見川筋と平戸川筋に分けて検討します。

2-1 花見川筋の縄文海進時の海陸分布
千葉県地質環境インフォメーションバンクで公表している次の3点のボーリングデータから花見川筋の縄文海進について検討します。

ボーリングデータ位置図

3点のボーリングデータについて標高が比較できるように並べて、検討しました。

ボーリングデータ検討図
塗色は千葉県地質環境インフォメーションバンクによる

地層はA層、B層、C層に対比することができます。

N値はA層とB層が1程度、C層は50程度で全く異なります。このことから、A、B層は沖積層、C層は洪積層(上岩橋層)と考えられます。

C層の上面高度は東京湾方向に向かって低くなっていることから河川谷底の縦断勾配を表現しているものと考えられらます。

A層は腐植土と記載されていて、この付近で化灯土といわれる泥炭であると考えられます。

以上の情報から、次のような地層堆積の歴史を合理的に考えることができます。

1 縄文海進前に地層C(上岩橋層)を浸食する谷津があった。(花見川谷津)
2 縄文海進により花見川の谷津に海が侵入し、花島南、花島では海底にシルト(地層B)が堆積した。柏井橋付近ではここまで海が侵入した可能性もあるが、主に川の影響による有機質シルトが堆積した。
3 縄文海進最盛期の海面高度は標高3m程度と言われている。
4 縄文海進最盛期後、海退期には後背湿地的環境が生れ、腐植土が堆積して化灯土となった。
5 その後河川堆積物(シルト)が腐植土の上に堆積することもあった。

柏井橋付近のB層は高度的には縄文海進の影響の範囲内です。
細長い内湾奥での海と川の微妙な関係をリアルに想像できませんが、B層下部が海成であってもおかしくないと思います。
川の流域はいたって小さいので、川の影響は少ないと考え、海進最盛期には柏井まで海が来ていたと考えることもできます。
しかし、柏井橋付近まで海が入っていたかどうか、ボーリンデータだけからの判定は困難です。

花島を例にとれば、谷底の標高は次のように変化したと考えます。
最終氷期には谷底の標高は-3m程度であった。(C層上面高度)
縄文海進の最盛期が終わって、海が引いていった頃の谷底の標高は2m程度であった。(B層上面高度)
その後谷底の湿地の腐食層の堆積が進み、標高は4m以上になった。(A層上面高度)
その後花見川の洪水堆積や火山灰降灰、人工盛土等により谷底の標高は現在の約7mになった。
結局縄文海進が残した地形面(標高2m程度)と現在の地形面高度(約7m)を比べると、その差は5mです。
各種要因により縄文海進後地盤は5m程高くなったということです。
なお、この検討には地殻変動量は考慮していません。

このボーリンデータによる検討から縄文海進の海は花見川筋について、花島まで入っていたことは確実であり、柏井まで入っていたかどうかは検討の余地ありということだと思います。

現在の土地の標高で云えば、標高7m(ボーリング地点花島の標高)~標高12m(ボーリング地点柏井橋付近の標高)に海が入っていたことが考えられます。

私は現在の谷底標高から、縄文海進の海がどこまで入っていたかを厳密に知ることはできないと思っています。
しかし、花見川付近では、貝塚の分布等から、標高8~10mの等高線のあたりまで縄文海進最盛期の海が入っていたと、便宜的に平面位置を捉えると、いろいろな問題を整合的に解釈できることが多いと考えています。

次に、縄文海進分布イメージを現在の標高8m、標高9m、標高10m付近の土地が海陸境界だったと仮定したケース毎に示します。

なお、花見川筋については何れのケースについても、花島と柏井橋付近の中間付近に境界を設定しました。

縄文海進分布イメージ ケース1 海陸境界標高8m

縄文海進分布イメージ ケース2 海陸境界標高9m

縄文海進分布イメージ ケース3 海陸境界標高10m

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