1 西根遺跡学習の3ステップ
2014.09.24記事「交通・交易の証拠となる出土物」で、図書「印旛の原始・古代-縄文時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)」の西根遺跡(縄文後・晩期)記述について紹介しました。
記述は、沖積地小河川沿いに多数土器が長期にわたり集中して置かれたという極めて特異な遺跡であるにも関わらず、その意義(それが何であるかという推測や説明)について全く書かれていないという異様なものであるので、記述の仕方に対する強い感情と出土物・遺跡サイトに対する強い興味を持ちました。
そこで、図書紹介シリーズ記事の趣旨から少しずれますが、この遺跡について少し集中的に検討してみます。
検討は自分の見立力のレベルを知るという検証も合せて行いたいので、次の3ステップで行います。
1 図書「印旛の原始・古代-縄文時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)」の情報だけを出発点にして、手持ち情報と思考力(想像力)だけを頼りにして、この遺跡が何であるか推測してみる。(見立て)
2 西根遺跡に関する発掘調査報告書を閲覧して、そこで書かれているに違いない遺跡意義考察を学習する。
3 1と2から西根遺跡の意義について専門家が考察している内容と、当初自分が見立てた意義を比較して自分の見立力のレベルを推し量る。
この記事では上記のうち1について書きます。
2と3は連続して記事にはできないと思いますのでご了解ください。
2 西根遺跡に関する資料閲覧前考察
2-1 西根遺跡サイトの広域地理的位置
2-1-1 縄文時代の関東-東北交易路の想像
次の図は「枝村俊郎・熊谷樹一郎(2009):縄文遺跡の立地性向、GIS-理論と応用vol.17 no.1」(※)収録の図版「図7 縄文遺跡のカーネル密度による面的表現」です。
縄文遺跡の密度を表現しています。このブログで作成しているヒートマップと同じ手法による地図です。
縄文遺跡のカーネル密度による面的表現
「枝村俊郎・熊谷樹一郎(2009):縄文遺跡の立地性向、GIS-理論と応用vol.17 no.1」より引用
この図を利用させていただいて、次の「縄文遺跡連担状況から想像する縄文時代の関東-東北交易路」を作成しました。
縄文遺跡連担状況から想像する縄文時代の関東-東北交易路
もし、関東と東北の間に交易路があるとすれば、大局的にみれば、それは必ず縄文遺跡が連担しているルートに存在しているに違いないという考えのもとに描いたものです。
メインルートは遺跡連担の状況が濃い内陸ルートであり、海路による沿岸ルートもあったに違いないと想像しました。
なお、内陸ルートは旧石器時代人の移動ルートである下野-北総回廊と一致する(陸路と水路の違いはある)ことに感慨深いものがあります。
2-1-2 縄文時代関東-東北交易路(想像)と西根遺跡の位置
上記の関東-東北交易路(内陸ルート)を地形段彩図を使って関東平野について描いてみて、その中に西根遺跡をプロットしてみました。
縄文時代関東-東北交易路(想像)と西根遺跡の位置(基図は地形段彩図)
縄文海進による海、あるいはそれに関連する水面・河川を最大限に利用したルートを考えると幾つかのところで陸越えをする場所が必要になります。
その陸越えをする場所(つまりミナト)の一つが西根遺跡であると考えざるをえません。
西根遺跡は関東と東北を結ぶ交易ルートの中で、奥印旛浦東端のミナトであり、ここから交易品が東北方面に出荷されたり、あるいは東北方面の交易品が奥印旛浦にもたらされた場所に位置します。
上図の基図を縄文遺跡ヒートマップに差し替えてみると次のようになります。
縄文時代関東-東北交易路(想像)と西根遺跡の位置(基図は縄文遺跡ヒートマップ)
ヒートマップの最大の目玉(印旛沼南岸から東京湾にいたる縄文遺跡密集地)が関東-東北交易ルートの最南端ターミナルであり、そこから出発した交易品の最初の陸越え地点が西根遺跡であると考えます。
2-2 サイトの地形環境
西根遺跡の場所は縄文海進の時の海岸線付近に丁度位置しています。
また、土器の集積場所が上流から下流に向かって、順次古い時代から新しい時代に変化するので、その変化のしかたが縄文海進が海退に転じ、水面の高さが順次低くなり、ミナト機能を維持するためには場所を下流に移動せざるを得ない状況を示しているように見られます。
西根遺跡のある場所は定期的に洪水に見舞われる場所ですから、縄文人はそれを承知で長期間使っていたので、そのことは土器の用途を絞りこむための重要なファクターとなります。
地形の状況がよくわかる旧版25000分の1地形図白井図幅、小林図幅(ともに大正10年測量)を使って、西根遺跡の場所をみてみました。
西根遺跡の位置と付近の谷津
西根遺跡から丸木舟で川をさかのぼり、あるいは谷底を徒歩でさかのぼると分水界に出て、それを越えるとすぐに手賀沼の海に続く谷津にでます。
2-3 付近の縄文遺跡
次の図は西根遺跡を中心とするふさの国ナビゲーションの地図です。
ふさの国ナビゲーションの地図
西根遺跡の近くの戸神遺跡は縄文遺跡であり、船尾白幡遺跡は旧石器、縄文、古代の遺跡です。
西根遺跡が生きていた時(機能していたとき)、それを近くの縄文遺跡(集落)が管理していたと考えます。
2-4 土器の用途
1200の土器が7箇所の川辺に集中して存在し、完形個体を順次平面的に据え置いたような状況であり、祭祀用土器は全くでいません。
この土器の用途について1人でブレーンストーミングを行い、つぎような用途例を抽出して、それを検討し、絞ってみました。
土器用途に関するブレーンストーミング
恐らく奥印旛浦の水面を使って物資を運ぶ時には、物によっては土器が用いられる時があり、西根遺跡のミナトから手賀沼方面へ陸運で運ぶ時は土器を使わないで肩に背負子のような道具でかついで運んだのだと思います。
2-5 飾弓について
飾弓と漆の入った土器が見つかっていることから、この付近に漆文化があったと図書で推察しています。
西根遺跡がミナトであると考えると、飾弓と漆の入った土器がこの付近(西根遺跡の近辺)の産であるという保証はありません。
ミナトであると考えると、寧ろ遠方からもたらされたもとの考える方が自然です。
飾弓も漆の入った土器も遠方から遠方へ移動する途中で、たまたまこのミナトで水中(土中)に没してしまったと考えるほうが自然です。
ふさの国ナビゲーションの情報を見ると、石器(縄文時代)も出土しているようです。
私は、石器材料が東北から関東にもたらされる主要ルートがこの内陸ルートだと考え、石器以外にも多くの物品が東北からこの西根遺跡のミナトを通過したのだと考えます。
2-6 遺跡の意義
西根遺跡の広域地理的位置と縄文海進時海岸線付近の丸木舟が出入りできる地形から、土器を運搬用コンテナ・パレットとして考え、この場所が関東と東北を結ぶミナトであったと極自然に推察できます。
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※ 論文「枝村俊郎・熊谷樹一郎(2009):縄文遺跡の立地性向、GIS-理論と応用vol.17 no.1」は千葉市埋蔵文化財調査センターの西野雅人様より提供していただきました。感謝申し上げます。
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