花見川地峡史-メモ・仮説集>3花見川地峡の利用・開発史> 3.1埋蔵文化財データに基づく地域特性基礎検討>3.1.27縄文遺跡の増加場所分析
旧石器時代遺跡の分布と比べて、縄文時代遺跡の分布場所がどこで増えたのか、特徴があるのか、調べてみました。
次の図は擬似「縄文遺跡分布図」(縄文時代 埋蔵文化財が存在する町丁大字プロット図)に旧石器時代遺跡を検討した時に作成したゾーン区分に準じたゾーン区分図をオーバーレイした図です。
擬似「縄文遺跡分布図」とゾーン区分図のオーバーレイ図
このゾーン区分に従って、縄文時代遺跡数をカウントしてみました。
縄文時代遺跡のゾーン別集計
旧石器時代から縄文時代にかけて遺跡数は約7.5倍も増えているのですが、ゾーン別にみると、その増え方の違いには微妙な変化が見られるだけで、極端で特徴的な変化があまり見られないというのが第一印象です。
旧石器時代人も縄文時代人も同じ狩猟民であるため、土地の利用方法が似ているためにこのような現象がみられると考えます。
旧石器時代遺跡のほとんどが縄文時代遺跡と重なることと同じ現象です。
極端なものではありませんが、微妙な違いとして次のような現象が観察できます。
ゾーン5(房総中南部~南端部)で旧石器時代より縄文時代の%値が増えています。
これは地形の起伏が激しく旧石器時代人は殆ど狩猟につかっていなかった場所に、縄文時代人は新たな狩猟道具(弓矢など)を獲得したり、漁猟や栽培農耕など新たな生活技術開発したことにより、進出したこととして理解できます。
ゾーン1(香取の海沿岸)で旧石器時代より縄文時代の%値が増えています。
この理由を直感的に知ることは出来ませんでしたが、次のように考えました。
旧石器時代人は当時の深い谷地形である鬼怒川水系谷津を狩の場として利用しただけです。その谷津を超えて北に移動したことは無いと考えます。
一方、縄文時代にはその場が海となり、北の台地に住む人々と交流ができるようになります。
従って、ゾーン1が単に狩猟の場だけの意味ではなく、縄文時代には対岸との交易・交流の場になったことが考えられます。
このような地域の果たす機能が違ったことが%値の増加に関係しているのかもしれません。
ゾーン2(奥東京湾沿岸)で旧石器時代より縄文時代の%が減っています。
この理由を直感的に知ることが出来ませんでしたが、次のように考えました。
旧石器時代の人々は定住していなくて、絶えず移動していたのですが、そのメインルートがこのゾーン2であったと考えます。
南房総の峯岡山地から磐越高地に至る移動ルートの本道から、ゾーン1やゾーン3は外れます。
そう考えると、縄文時代に定住集落が営まれるようになると、他ゾーンと比べゾーン2は相対的に地盤沈下したのだと思います。
ゾーン3(太平洋沿岸)で旧石器時代より縄文時代の%が減っています。
この理由を直感的に知ることが出来ませんでしたが、次のように考えました。
定住集落を営むようになると、近隣地域との交易・交流の必要性が飛躍的に高まります。
その点で、ゾーン1とゾーン2は香取の海、奥東京湾を通じて近隣地域との交易・交流のルートが確保されています。
一方、ゾーン3は太平洋の先に交易・交流ルートを確保できません。
このような不利な条件が、ゾーン3の地盤沈下を招いた可能性があります。
ゾーン4(印旛沼周辺)では、旧石器時代と縄文時代の%値がほとんど変化していません。
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