最近の記事と関係ありませんが、気が付いたことがあるのでメモしておきます。
2015.09.21記事「参考 文字「六万」分布からの連想」で千葉県出土墨書土器文字のうち「六万」が2遺跡から19点出土していて、その中には須恵器ヘラ書き土器もあり、この文字を使う集団が土器生産地に特注できるだけの力をもっていたと推察しました。
参考 文字「六万」の出土遺構
また「六万」出土遺跡の高岡大山遺跡は東海道本路に位置し、村上込の内遺跡は東海道水運支路に位置していることから次のような記述をしています。
「高岡大山遺跡は東海道(陸路)を押さえていて、その権力の一翼を担う「六万」共有集団の一部が東海道水運支路(仮説)を押さえている村上込の内遺跡に派遣され、その場の権力の一翼を担うということが連想できます。
文字「六万」が2つの遺跡から出土した背景には、東海道陸路と東海道水運支路(仮説)が連携して活用されていたという古代交通事情があるものと考えます。」
参考 文字「六万」の出土遺構と交通との関係
突然ですが、この「六万」の読みがムツマンドコロであることに気がつきました。
六はムツと読みます。
ムツとは陸奥国のことです。
万はマン(ドコロ)と読みます。
政所(まんどころ)のことです。
政所は次の辞書解説にあるように古代から使われてきた政務や事務を行う場所の意味です。
まん‐どころ【政所】
〖名〗
① 一般に政務を執り行なう所。政庁。
※蜂須賀侯爵家所蔵文書‐天平宝字三年(759)八月五日・筑前国政所牒案「仍除二本籍一、謹請二処分一者、政所依二申状一具状」
② 平安時代以後、親王・摂政・関白・大臣・大将家や三位(さんみ)以上の貴族の家で荘園の事務や家政などをつかさどった所。
※宇津保(970‐999頃)俊蔭「政所の人装束して出で来て、めしたてつつ給ふ」
③ 大きな神社・寺院で、所管の事務全般を取り扱う所。
※観智院本三宝絵(984)中「政所に飯をかしぎて露車につみて、朝ごとに僧坊の前よりやりて」
④ 大寺院の長官。別当。
※春日社記録‐中臣祐重記・養和二年(1182)八月一六日「御寺政所法印僧都信円、権別当僧都覚憲」
⑤ 中世、荘園の事務を現地で取り扱った所。
※東寺百合文書‐に・応永一四年(1407)一二月一五日・丹波大山荘一井谷百姓等申状「政所給一石三斗御免あるましき事蒙仰候」
以下略
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
つまり、「六万」(ムツマンドコロ)は陸奥政所の意味であり、陸奥国に出向く軍勢や役人の世話あるいは軍事物資輸送管理をした役所にかかわる集団の祈願語であると考えます。
祈願語としての意味は「陸奥政所の業務をすべて滞りなく実行して、軍勢や役人あるいは軍事物資を無事陸奥国に送れますように」というようなものであったと考えます。
「六万」が村上込の内遺跡から出土していることから、陸奥政所の支所がその場所にあり、白幡前遺跡などを経由して陸奥国に向かう水運路に関する政務を行っていたと考えます。
輸送の実務(軍務)の場所が平戸川西岸の白幡前遺跡であり、その政務が東岸の村上込の内遺跡にあったことは大変興味深いことです。
白幡前遺跡からは会計(「圓」)や文書作成(「文」)に関連する墨書文字が出土していますから、実務(軍務)の場でも事務活動が行われていたことは確実です。
したがって「六万」集団の仕事は実務集団に指示してそれを動かすというより高次の役割を担っていたと考えます。
「六万」(陸奥政所)という国家レベルの高級官庁出先があったものと考えます。
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