2015年12月7日月曜日

鳴神山遺跡の紡錘車出土状況

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.239 鳴神山遺跡の紡錘車出土状況

鳴神山遺跡から出土する奈良・平安時代遺物には土器のほかに紡錘車、鉄鏃、刀子、他の鉄製品(釘、穂積具、鍬、斧、鉋、鎌、不明品)、羽口、瓦塔、帯金具などがあります。

この記事では紡錘車について検討してみます。

鳴神山遺跡の奈良時代・平安時代遺構から出土する紡錘車は鉄製品8、石・土製品29合計37です。

近くの萱田遺跡群の遺跡と比較すると次の表・グラフのようになり、白幡前遺跡と比べて遜色のない出土状況になっています。

紡錘車出土数

竪穴住居100軒あたり紡錘車出土数

白幡前遺跡も鳴神山遺跡も単なる奈良時代開発地ではなく、蝦夷戦争の兵站・輸送基地として計画的に配置建設された開発地であると考えています。

兵站・輸送基地であることから、その開発地に居住する住民が食べる食糧、身にまとう衣服以上の食糧・衣服を生産し、陸奥国に送っていたと考えます。

空想の域をでませんが、上記表で北海道遺跡の「竪穴住居100軒当たり紡錘車数4.4」が住民自身の衣服生産と一般調生産に必要な紡錘車数であり、それ以外の遺跡の数は陸奥国に送るための余剰生産分を含んだ紡錘車数ではないだろうかという印象を持っています。

(「竪穴住居100軒あたり紡錘車出土数」は相対指標として使ってます。当時の社会で使われていた紡錘車実数をイメージしているわけではありません。)

紡錘車の出土遺構分布は次のようになります。

紡錘車出土遺構

環状道路沿いに広く分布しています。遺跡の北側には少なくなっています。

環状道路沿いの竪穴住居で紡錘車を使った糸づくりが行われ、恐らく糸から布が作られていたと考えます。

つくられた布は環状道路がなす土地の中央にある掘立柱建物群に集められ保管され、そこから陸奥国に発送されたと考えます。

その掘立柱建物群の直近竪穴住居から墨書土器文字「依」が多量に出土します。

墨書文字「依」出土分布図

墨書文字「依」は衣服にかかわる集団の祈願語であると考えています。2015.10.18記事「墨書文字「依」の意味深考」参照

麻から糸をつくり、布にしてそれを掘立柱建物に持ち寄り、陸奥国に発送する際に酒宴を行い、文字
「依」を墨書した土器を打ち欠きしたのだと思います。

紡錘車は鉄製と石・土製があり、鉄製の方が高機能品であったと想定します。

鉄製紡錘車は衣服作成集団のなかでもランクの高い人が使っていたのではないかと想像しています。

鉄製紡錘車の出土状況

石・土製紡錘車の出土状況





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