帀(アマ)はこの遺跡(開発集落)の心理面における求心性を持つような代表的な文字ですから、その出土状況の変化を子細にみると集落社会の変化の様子を知ることができると考えました。
そこまで考えた時、そもそも墨書土器全体の出土状況を十分に把握していないことに気が付きました。
3か月間地名検討に熱中してしまい、墨書土器検討のカンが大分鈍ってしまっていたようです。
そこで、この記事では改めて船尾白幡遺跡の墨書土器の出土状況を年代別に観察して、その中で帀(アマ)を見直してみることにします。
船尾白幡遺跡の帀(アマ)に関する検討を徹底して行い、もしなにかの蓋然性の高い情報を得ることができれば、帀(アマ)と同じように開発集落の人心をリードするような祈願語である鳴神山遺跡の大(オオ)、白幡前遺跡の生(セイ)などについて、さらに理解を深めることが可能になると考えます。
1 年代別竪穴住居軒数・墨書土器出土数・墨書土器「帀(アマ)」出土数
船尾白幡遺跡の年代が推定されている竪穴住居軒数・墨書土器出土数・墨書土器「帀(アマ)」出土数をグラフにしてみました。
船尾白幡遺跡の年代が推定されている竪穴住居軒数・墨書土器出土数・墨書土器「帀(アマ)」出土数
竪穴住居軒数及び墨書土器出土数はⅤ期(9世紀第3四半期)がピーク、墨書土器「帀(アマ)」出土数はその前のⅣ期(9世紀第2四半期)がピークであることがわかります。
このグラフだけではわかりずらいので、竪穴住居軒数と墨書土器出土数の関係、墨書土器出土数と墨書土器「帀(アマ)」出土数の関係をもう少し詳しくみてみます。
2 竪穴住居軒数と墨書土器出土数の関係
竪穴住居1軒当たり墨書土器出土数を求めてみると次のようになります。
船尾白幡遺跡 竪穴住居1軒当たり出土墨書土器数
墨書土器を使った祈願は個人が自由勝手におこなっていたのではなく、集団の組織活動として行われていたと考えます。
生業に関わる社会集団が特定の祈願語を共有して、生業の発展を祈願していたと考えます。
そのような社会集団による祈願行為がピークになるのが、竪穴住居1軒当たり出土墨書土器数が最も大きくなるⅣ期(9世紀第2四半期)であると考えます。
Ⅳ期(9世紀第2四半期)までは社会の成長は順調であったと考えます。
Ⅴ期(9世紀第3四半期)になると竪穴住居1軒当たり出土墨書土器数はその値が若干減ります。
この現象から、集団が生業の発展を祈願語を共有して祈願するという活動が若干陰りを見せていることがわかります。
集落社会崩壊の前兆を見てとれます。
次に、竪穴住居分布と墨書土器分布の空間的関係を年代別にみてみます。
Ⅰ期(8世紀前葉)の竪穴住居分布と墨書土器分布
墨書土器出土数は1つだけです。
Ⅱ期(8世紀後葉~9世紀初頭)の竪穴住居分布と墨書土器分布
竪穴住居分布と墨書土器分布がほぼ一致します。
Cゾーンを除くと、竪穴住居分布と墨書土器分布がほぼ一致します。
Ⅳ期(9世紀第2四半期)の竪穴住居分布と墨書土器分布
竪穴住居分布と墨書土器分布がほぼ一致するような印象を受けます。
竪穴住居分布と墨書土器分布がほぼ一致するような印象を受けます。
墨書土器は出土しません。
以上の空間分析から、竪穴住居分布と墨書土器分布はほぼ一致することが判りました。
集落全体でⅠ期からⅤ期に向かって出土墨書土器数が増え、1軒あたりでみるとⅣ期がピークであり、空間的には竪穴住居分布と墨書土器分布の間に大きな食い違いは無いということになります。
これで、墨書土器全体の年代別変化の概況が判りました。
次に、これと帀(アマ)との関連を見てみます。
3 墨書土器出土数と墨書土器「帀」(アマ)出土数との関係
墨書土器「帀」(アマ)の墨書土器全体に対する出土割合をグラフにしてみました。
船尾白幡遺跡 墨書土器「帀」(アマ)の出土割合(%)
帀(アマ)の割合はⅣ期(9世紀第2四半期)がピークで26.2%になります。集落の祈願文字の4つに1つが帀(アマ)であったということになります。
帀(アマ)は天照大御神を意味していて、外部から集落に移住してきた人々ともともと集落にいた人々の間を取り持つ絆の役割をする祈願語です。
ですからⅣ期までは年代毎に外部から移住してきた人ともともと集落にいた人々の間の関係が深まっていた時期であると想定できます。
Ⅴ期になると帀(アマ)の割合はⅣ期の半分以下に急減します。
ですからⅤ期には新住民と旧住民の一体感を生むような、集落全体の求心性が急速に減少したと考えられます。
よく言えば多様性が、悪く言えばバラバラ感が生まれていたと考えます。
帀(アマ)の割合が減少したのですから、その減少した分を埋めた別の祈願語があったはずです。
その帀(アマ)と入れ替わった祈願語がどのようなものであるかは次の記事で検討します。
集落全体での帀(アマ)割合の年代変化が判りましたので、次にそれが空間的にどうであったか検討します。
年代別に墨書土器分布と帀(アマ)分布を対照して観察してみます。
Ⅰ期(8世紀前葉)の墨書土器分布と帀(アマ)分布
帀(アマ)の分布はありません。
Ⅱ期(8世紀後葉~9世紀初頭)の墨書土器分布と帀(アマ)分布
Fゾーンでは墨書土器と帀(アマ)が対応します。
Dゾーンでは墨書土器が多数出土するのに帀(アマ)は1点だけです。
恐らく、帀(アマ)を祈願語とした人々(新住民)はDゾーンには少なかったのだと思います。
想像に想像を重ねれば、Dゾーンで帀(アマ)を祈願語としたのは転勤族として赴任した官人かもしれないと考えます。
Dゾーンの人々がどのような祈願語を使っていたか、次の記事で検討します。
Ⅲ期(9世紀第1四半期)の墨書土器分布と帀(アマ)分布
Fゾーンでは墨書土器と帀(アマ)分布が対応します。Fゾーンは外来の新住民による集落であったと考えます。
DゾーンはⅡ期と同じような状況であり、このゾーンは旧住民(おそらく宗像神社の氏子)の居住域であったと考えます。
Ⅳ期(9世紀第2四半期)の墨書土器分布と帀(アマ)分布
各ゾーンともに墨書土器の出土数が増え、それに対応して帀(アマ)も分布します
船尾白幡遺跡の集落社会が最も発展して、かつ社会の求心力が備わっていた年代です。
Ⅴ期(9世紀第3四半期)の墨書土器分布と帀(アマ)分布
墨書土器分布はⅣ期とあまり変わらないのですが、と帀(アマ)はFゾーンとDゾーンだけに限定されていまいます。
各ゾーンで帀(アマ)が使われなくなり、別の祈願語が使われるようになったことが判ります。
Ⅴ期に使われた祈願語を分析すれば、崩壊直前の、あるいは崩壊しつつある社会の祈願語が判りますから、社会の様子を祈願内容から推し量ることができる可能性があります。
次の記事で検討します。
Ⅵ期(9世紀末~10世紀前半頃)になると集落は崩壊し、墨書土器出土はなくなります。
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