鏡味完二の地名型全21の16番目の「在家」について検討しました。
1 鏡味完二の検討 地名型「在家」
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Zaikeの地名
在家の研究は,米沢盆地西側のものに関しての長井博士の調査と,一志氏による長野県内のものの記述,清水博士の説述などがある。
米沢盆地では庄園時代から戦国にかけての地名で,武家や僧侶などの所有した耕地であるらしい。
一志氏は粟岩英治氏の定義,「在家とは寺家(ジゲ)などと同様に,寺域内の農家をさす言葉である」を引き,寺に近い位置から上在家,中在家,下在家などと称すること,寺と関係のない遠方には"半在家"の地名があるが,一般的には古文書にみるように,「中世氏人の屋敷とそれに附属した耕地」をさしているらしいとして,1511年の3集落,1523年の1集落,1534年の3集落をあげ,1在家の広さは1町歩ばかりと述べている。
米沢盆地では8戸からなる在家の名をもつ集落が最大でその面積は8町歩あり,他はそれより小面積である。
在家の名義を最も明瞭に言い表わしたのは清水博士で,同氏は「寺の荘園内の村にあって,富裕な名主級の人々を在家といった」と述べ,1257年と1273年の例を記している。
これは鎌倉中期の頃であり,著者はこれを地名の編年に資することにした。
この地名型の分布は近畿~鎌倉の間に前充実地をもち,その東西に対称的に分布をとる典型的Patternを示している。
この地名の分布するところは,戦国時代に最も活躍した武将の揺藍地であったようである。
分布の重心は前項の"~ノ宮"よりはやや東に移動している。
この地名も開墾地名であるとみられる。
"田代"や"~屋敷"の地名では,既に充実地域となっていた東部瀬戸内地域も,"在家"の頃になると再び開拓地域となっていることは,恐らく上代と中世との文化水準の向上による,開墾能力の差に帰すべきであろう。
〔地図篇Fig.319〕
(Fig.22No.16)
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用
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2 在家の意味
在家の国語辞書における説明は次の通りです。
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ざい‐け【在家】
〖名〗 (「け」は「家」の呉音)
③ (在郷の家、民家から転じて) 中世、在家役と称される課役を徴収するために定められた単位。
住屋のみならず、付属の田畠と農民を含む。
関東・東北・九州などの後進地域にその実例が多い。
はじめは領主の財産として売買譲渡の対象となるなど隷属性の強い場合もあったが、次第に耕作権などをもとに自立性を強めた。
鎌倉末期から南北朝期には階層分化が進んで有力在家(本在家)から分家的な小在家(脇在家(わきざいけ))を分出した。
〔石清水田中家文書‐延久四年(1116)九月一五日〕
塵芥集(1536)八二条「在家一けんのうちのてんはく、ならひのさいけにふみそへ候事」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用
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3 千葉県における地名「在家」検索結果
野田市の1件だけ検出できました。
野田市東金野井 前在家(マエザキ)
「在家」地名の位置
この小字の由来が鏡味完二が説明するようなものであるのかどうかという検討は今後の課題とします。
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