大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 2
中テン箱数の多い竪穴住居の様子を観察してみました。
1 中テン箱数の多い竪穴住居
中テン箱数の多い竪穴住居
中テン箱数6以上をピックアップしてみました。
漆喰貝層出土竪穴住居から5軒、漆喰貝層非出土竪穴住居から1軒が抽出されました。
中テン箱数6以上の竪穴住居
中テン箱数6以上の竪穴住居の分布です。
漆喰貝層出土竪穴住居で中テン箱数が6以上のものは全て南貝層に位置しています。
漆喰貝層非出土竪穴住居J30は南貝層と北貝層が途切れる場所に位置しています。
2 中テン箱数6以上竪穴住居の観察
J74竪穴住居の観察
J74竪穴住居からは人骨7体が出土していて、集落のあちこちで殯がおこなわれていて既に作られていた死亡時期のことなるミイラ(遺体)が、ある時この廃屋墓に持ち込まれ合同の埋葬が行われたと推定しています。
またJ74竪穴住居はJ105竪穴住居の中に内包される形でJ105を切っていて、かつJ105から集落リーダーを想起させるような鯨骨製骨刀が出土していることからJ74とJ105の間には密接な人間関係が隠れていることを既に考察しました。
2017.12.13記事「多くが女性の人骨7体出土縄文廃屋墓 追考」参照
J74竪穴住居から出土物が多いのは集落最盛期の堀之内1式期の集落リーダーの妻に関わるような埋葬であり、かつ7人もの埋葬が同時に行われたので関連する祭祀の回数や参加者が多く、それだけ祭祀跡に遺物が残されたものと考えます。
J81、J82、J78竪穴住居の観察
発掘調査報告書ではJ81竪穴住居を廃屋墓としてカウントしていませんが、ヒト骨が出土しています。
同じくJ78からもヒト骨が出土しています。ここも発掘調査報告書では廃屋墓としてはカウントしていません。
J81、J78から遺物多量に出土する理由の一つにここが廃屋墓であり、埋葬された人間の社会的地位が高かった可能性も検討する必要があると考えます。
なお、J81の西隣J9と東隣J18共に廃屋墓です。
J30竪穴住居の観察
J30は集落から漆喰貝層出土竪穴住居が消えてしまった時期の加曽利B1式期の竪穴住居です。まるで漁業従事者がいなくなったので初めて漆喰貝層非出土竪穴住居からも多めの遺物が出土するようになったように観察できます。
3 考察
3-1 竪穴住居の重複について
J74、J81、J82、J30はそれより古い竪穴住居を切っています。この重複が「後日たまたま切ってしまった」というものではなく、意識して切っている様子が見えます。
特にJ74とJ30はそれが顕著です。
J74は集落リーダー住居であったJ105を集落リーダーの妻の住居を作るために切った(空間を再利用した)と考えました。
J30も親族等の人間関係のある間での空間再利用だと考えました。
そして、J74は漁業従事者(漆喰を利用し、貝層で覆土する人々)であり、J30は非漁業従事者(漆喰を利用せず、覆土に貝を使わない人々)です。
漁業集団と非漁業集団がそれぞれ別に、世代を超えて竪穴住居敷地を継承していたことになります。
3-2 貝塚の非連続について
J30竪穴住居付近で南貝層と北貝層が分断されています。その理由はJ32→J31→J30と続く非漁業家族がそこに住んでいたからだと考えることができそうです。
集落内における土地所有権がすでに存在していて、家族に継承されていたと考えることができそうです。
そのように考えると、漆喰貝層非出土竪穴住居に住む人々(非漁業者)は漁業者よりも貧しく、劣位であったかもしれませんが、土地所有権を相手に認めさせるだけの社会的地位はあり、完全隷属とか完全なる非支配のポジションにはいなかったと考えられます。
3-3 漆喰貝層出土竪穴住居の消滅について
漆喰貝層出土竪穴住居は堀之内2式期までしか存在しません。
次の加曽利B1式期とB2式期は漆喰貝層出土竪穴住居は存在しません。
漁民がなぜ消えたのか今後検討を深めることとします。
あるいは後期集落が衰滅するとき最初に漁民が消滅した理由について検討を深めることにします。
非漁民の方がしぶとく最後まで粘っていたと捉えることもできそうです。
3-4 隠れ廃屋墓について
発掘調査報告書では廃屋墓とカウントされていませんがヒト骨出土竪穴住居は廃屋ぼであった可能性があります。
またヒト骨は出土しなくても元来は廃屋墓であったもののかなりあったのかもしれません。
今後検討を深めます。
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