2018.02.07記事「大膳野南貝塚後期集落の漁場とそこへ通じる2つのルート」で西側谷津に張出部を向けた竪穴住居、つまり西側谷津を利用して漁場に向かう竪穴住居家族は近隣集落とのいさかい覚悟の上で生業を行おうとする、集落運営上の末期症状であると考えました。
漁場全体が陸化消滅するなかでトラブル覚悟の生業活動をするのですから集落崩壊の予兆現象であると考えました。
そうした考えが妥当かどうか、この記事では西側谷津方向に張出部を向けた竪穴住居群と南側谷津方向の張出部を向けた竪穴住居群の特性を比較することによって検討してみました。
1 1群と2群の区分
堀之内1式期の竪穴住居について、南側谷津に張出部を向けた竪穴住居を1群、西側谷津に張出部を向けた竪穴住居2群として区別しました。
1群と2群の区分
2 竪穴住居面積の比較
1群と2群の竪穴住居面積の比較
1群より2群の方が面積が狭く、2群の方が用意できる木材の量や太さが劣ることになり、また維持管理の手間もかける余裕がないことを示していて、2群は経済的に貧しかったといえます。
3 中テン箱数の比較
1群と2群の中テン箱数の比較
中テン箱数は出土物総量を比例しますが、主に土器量と直接相関すると考えられます。
2群の中テン箱数は1群と比べて1/3と大きく見劣りし、2群の貧しさが浮き彫りになります。
4 石器数の比較
1群と2群の石器数の比較
2群の漆喰貝層有竪穴住居の石器数が1群漆喰貝層無竪穴住居より少なくなっていることから、1群と2群は単純に貧富の差があるというよりも、2群の極端な(絶対的な)貧しさが観察できます。人口急増期に外部から流れ込んできた貧しい集団が2群かもしれません。
近隣貝塚集落が先行して崩壊し住民が各地に逃げ出し、その一群が大膳野南貝塚の北側にたどり着いて居住を請い、許されたけれども南側谷津の利用は拒否され様子が一つの可能性として想像できます。
5 獣骨出土数の比較
1群と2群の獣骨出土数の比較
獣骨出土数は竪穴住居廃絶後の祭祀で行われた獣食の様子を示していると考えられ、その面からも2群の貧しさが浮かび上がります。
6 考察
想定した通り、1群と比べ2群は極端に貧しい集団であり、集落急成長ピーク期にそれが崩壊する前兆(あるいは崩壊の最初場面)を表現していると捉えることができました。
2群は空間的に集落の北にまとまっているので、近隣貝塚集落で先行して崩壊した集落から逃げてきた人々かもしれません。
大膳野南貝塚後期集落の崩壊要因の一つに先行崩壊集落からの流入民による人口急増押上現象があるのかもしれません。
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