2018.03.15記事「土坑墓」で大膳野南貝塚後期集落の土坑墓及び土坑墓の可能性のある土坑について検討しましたが、その記事に関連して後期集落の埋葬関連遺構の時期別分布を参考までに整理しておきます。
1 大膳野南貝塚後期集落の埋葬関連遺構
大膳野南貝塚後期集落の埋葬関連遺構として次の項目を対象とします。
ア 廃屋墓
イ 床下墓坑のある竪穴住居
ウ ヒト骨出土竪穴住居
竪穴住居覆土層の中から獣骨とともにヒト骨が検出された竪穴住居が4軒あります。発掘調査報告書では埋葬関連情報としては扱っていませんが、これらの竪穴住居が埋葬施設として利用された可能性は濃厚です。(なお、ヒト骨の観察情報が発掘調査報告書では存在していないので、人肉食の可能性を完全に否定することはできません。)
エ 土坑墓
オ 土坑墓の可能性のある土坑
皿状断面形状等を指標とする検討を行うことにより、今後、土坑墓の可能性のある土坑の数が増える可能性があります。
カ 小児土器棺
キ 単独埋甕
発掘調査報告書では単独埋甕が小児土器棺である可能性を論じています。発掘調査報告書では人骨が出土した単独埋甕を小児土器棺としています。
ク 単独人骨
2 埋葬関連遺構の時期別分布
2-1 加曽利E4~称名寺古式期
加曽利E4~称名寺古式期
2-2 称名寺~堀之内1古式期
称名寺~堀之内1古式期
2-3 堀之内1式期
堀之内1式期
2-4 堀之内2式期
堀之内2式期
2-5 堀之内2~加曽利B1式期
堀之内2~加曽利B1式期
2-6 加曽利B1~B2式期
加曽利B1~B2式期
2-7 全期
全期
3 考察
3-1 空間分布に関する考察
全期の埋葬関連遺構分布図と地点貝層から3m圏の空間をオーバーレイすると次のようになり、ほぼ重なります。
埋葬関連遺構と地点貝層分布
地点貝層3m圏はその中に北貝層と南貝層をほぼ完全に包摂します。つまり貝塚(貝層)の分布範囲に埋葬関連遺構が収まっているということです。
この分布事実を次のように解釈します。
「貝層分布範囲に位置する埋葬関連遺構の多くが現代にまで残存していて、発掘調査で発掘され社会として知ることになった。貝層分布範囲以外の埋葬関連遺構は貝層による理化学的保護と物理的保護(貝層の存在により土層が固く開発がしにくい)が無いため後世の削平によりあらかた破壊され消失した。」
この解釈はこれまでの苦労した検討結果(下記記事参照)に基づいています。
2018.02.15記事「「後世の削平」の影響が強く選択的に働いていることに気が付く」
2018.02.17記事「「後世の削平」が強選択的に働いた理由」
2018.02.18記事「出土物統計の不適切考察記事について」
貝層分布範囲(ドーナツ状空間)以外、特に集落中央部分には土坑墓などの埋葬関連遺構が存在していたと考えており、そのような視点から今後検討を深めるつもりです。
2018.03.15記事「土坑墓」の考察参照
3-2 時期変遷に関する考察
時期別埋葬関連遺構数を示すと次のようになります。
埋葬関連遺構数
発掘調査報告書では堀之内1式期、堀之内2式期では廃屋墓が優勢であったが、加曽利B1~B2式期になると土坑墓が優勢に変化した旨の考察を行っています。発掘遺構の数はその通りですが、それは埋葬様式(埋葬行動)の変化を意味するものではないと考えます。
堀之内1式期、堀之内2式期は貝塚造成時期であり、廃屋墓が貝層に覆われ、人骨が残ります。加曽利B1~B2式期では仮に廃屋墓が形成されても貝塚造成は行われていませんから人骨は残りません。
堀之内1式期、堀之内2式期と加曽利B1~B2式期の違いはあくまで単なる見かけであり、葬送活動そのものが変化したと結論付けるのは早計であると考えます。
堀之内1式期、堀之内2式期には廃屋墓と土坑墓(可能性あるものを含む)が共存していますから、他の時期も共存していた可能性があると考えます。
なお人骨がでなくても土坑墓である可能性が読み取れる土坑をピックアップすれば、廃屋墓と土坑墓の割合がどの程度であったのか検討できるかもしれません。
廃屋墓とは葬送の時に適当な廃屋存在が必要ですが、土坑墓はいつでも掘れます。従って土坑墓で埋葬される人の方が廃屋墓で埋葬される人より多かったに違いないと、現時点では空想します。
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