1 土坑再検討の検討項目
発掘調査報告書に掲載されている土坑一覧表に基づくデータを電子化してQGISで分布図化できるので、最初にその項目を全て時期別に漆喰貝層有無別竪穴住居と関連付けて検討します。
既に電子化してある項目
●土坑体積
●土坑平面形状
●フラスコ型土坑
●円筒型土坑
●貝層土坑
●漆喰土坑
●周辺小ピット付土坑
●土坑墓可能性土坑
これらの検討の後、再度発掘調査報告書土坑記述を精読して検討項目を補足して検討する予定です。
この記事では以下土坑体積に関する検討に着手します。
2 土坑体積による類型区分と時期別土坑数
発掘調査報告書に掲載されている土坑平面規模と土坑深さのデータから土坑体積を計算しました。土坑体積はそれに要する労力の大きさと収納空間の大きさに比例します。従って土坑体積の大小は、土坑用途の違いは有るにもかかわらず、縄文集落にとっての重要性に比例する基本指標になると考えます。
土坑体積は次のように4段階に区分してその時期変化を考察することにします。
土坑体積の累計区分
なお、土坑体積の全平均は0.48㎥になります。
時期別土坑数
3 時期別体積区分別土坑分布
3-1 体積区分別土坑分布の解釈の前提
以下に示す時期別土坑・竪穴住居分布図は、その図に示されるもの以外に、その時期に含まれる別の土坑及び竪穴住居が存在していた可能性は十分にあります。
また、図示される土坑・竪穴住居がすべて同一時点で存在していた保証はありません。
しかし、限定された遺構とは言え、ほぼ同時期(50年間くらいのタイムスパンか?)の土坑と竪穴住居分布が判ったことは貴重なデータが得られたと考えられます。そこで、あえて図示した全ての遺構のみが同時に存在したかのように仮定して情報を取り出します。
なお、その用途を類推できる情報が存在しない場合、特大土坑、大土坑の主な用途は貯蔵、中土坑は多用途、小土坑の主な用途は送り場であるとイメージして検討することにします。
3-2 加曽利E4~称名寺古式期の土坑と竪穴住居
加曽利E4~称名寺古式期の土坑と竪穴住居
●検討
竪穴住居から離れた場所(15-6m)に大土坑が3つ、小土坑が1つ、竪穴住居のすぐ近くに小土坑が1つ分布します。
竪穴住居からはなれた大土坑は貯蔵用でありその場所が遺跡北側という特異な場所であることに着目します。
小土坑は送り場であると想定し、竪穴住居直近のものと離れたものがあり、同じ送り場でも具体的な様子は異なっていたと着目します。
3-3 称名寺~堀之内1古式期の土坑と竪穴住居
称名寺~堀之内1古式期の土坑と竪穴住居
●検討1
遺跡南西部に大土坑と中土坑が集中し、この場所がこの期の貯蔵庫ゾーンであったと推定できます。
竪穴住居から離れた場所にある小土坑は日常的でない送り場(例 土坑墓なども含まれるかもしれない)の可能性を疑います。
竪穴住居直近の中土坑と小土坑は日常的な送り場(現代風に考えればゴミ捨て場)であると推測します。
●検討2
貯蔵庫ゾーンの場所が前期集落における貯蔵庫ゾーンの場所と略一致するのでメモしておきます
参考 前期集落の貯蔵庫ゾーン(土坑集中域)
参考 前期集落貯蔵庫ゾーンからのオニグルミ核出土状況
後期集落の称名寺~堀之内1古式期における貯蔵庫ゾーンと前期集落の貯蔵庫ゾーンの場所が略一致する理由はその場所が竪穴住居から離れていて衛生面で有利であることと、西側の深い谷津に面していて地下水位が深く水はけがよいことなどが挙げられます。
●検討3
加曽利E4~称名寺古式期の貯蔵庫ゾーンと称名寺~堀之内1古式期の貯蔵庫ゾーンの場所が全く異なる理由は加曽利E4~称名寺古式期の住民は漆喰貝層無竪穴住居の住民であり非漁民であり、称名寺~堀之内1古式期の住民は漆喰貝層有竪穴住居の住民であり、つまり漁民であり、その生業と出自が異なる異集団であることに由来すると考えます。
加曽利E4~称名寺古式期の集落は遺跡区域北側の外に広がっていて、遺跡区域内に存在する竪穴住居はその時期集落の南端に位置していたのかもしれません。
……………………………………………………………………
●メモ
なお発掘調査報告書では加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期の土器型式の違いに時間的な前後関係を想定していますが、このブログでは異なる集団による文化受容スピードの違いである可能性を想定しています。
加曽利E4~称名寺古式期土器利用集団(漆喰貝層無竪穴住居住民)と称名寺~堀之内1古式期土器利用集団(漆喰貝層有竪穴住居住民)は時間的に共伴していた(共存していた)と考えています。
参考
参考
……………………………………………………………………
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿