東京地学協会から届いたCD-ROMをパソコンに入れて、巨智部忠承「印旛沼堀割線路中断層の存在」(地学雑誌4巻3号 明治25年)を早速読みました。
漢文の素養に欠ける私は漢和辞典を頼りに読み進め、この論文の要点を次のように整理しました。
1堀割線路中の花島村「板所ベタ」の稲田では、灌水はことごとく地中に吸収され、挿苗には泥土の上層を填補して仮に水の滲漏を防ぐという。
2ここから数十歩の柏井村「八斗蒔」では安政2年東京大地震と同時に南北長さ30間から50間(約54mから90m)、幅2~3尺(約60cm~90cm)の大地開裂があり、2~3年以前まではその跡が残っていたという。
3ここから南10丁(約1090m)の犢橋村と天戸村の間の溝渠に沿う天戸村の崖地に第3紀と第4紀層の露出があり、東面に斜下約10度で、層向南北である。
4(千葉町以西の県道沿いの第3紀と第4紀層は下総常陸武蔵の平地の平坦地層の一部分で、概ね平準であるが、)登戸村地内で西千葉町との村界から2~3丁(約218m~327m)東南の地層が東に斜下約6~7度で層向は南北で、花島村地震割裂線とも同位である。
5平坦地層の1部が波紋状もしくは湾曲状になっているのは下層が維持する力を失っているから、脆弱な上層がその部分の陥落を惹き起こしている
6以上の現象(灌水が漏逸する土地の割裂、平坦地層一部分の陥落)は地層中の断層の存在を推測するに足るものである。
7余の測定は、堀割線路中溝渠の一部で懇水(※)を地中に漏逸する〔農民の〕憂いである。
※大切な水の意味か。
8幸い断層は狭小だから格別の変動をつくらないだろうということであれば、〔農民の憂いを〕防ぐことはできない。
9ここにこれを記述して当局者が地質構造がどうなっているかという点に注目することを希望する。
この論文のハイライトは1と2の大地開裂であり、これを知った著者が断層説を裏づけるために3、4、5の材料を集めたように感じます。
ただし2の大地開裂はヒアリング結果であり、著者は現場で確認していません。しかし、著者は現場確認していませんが、2~3年前までその跡が残っていたという農民の証言と、農民とのコミュニケーションを深めてヒアリングしたことが推察されることから(7、8、9)、大地開裂を事実として受け止めて間違いはないと思います。
なお、安政2年(1855年)大地震の32年後の明治20年(1887年)にこの論文が書かれています。
「板所ベタ」と「八斗蒔」は次の図面の「辺田」と「八斗蒔」でその位置を確認できます。
3、4、5の論点の可否は私には直感できません。3は平面位置的に納得できますが、4と5は平面位置が離れているのでなんともいえません。
私は専門家ではないので、今から124年前のこの論文を評価することはできません。ぜひとも専門家の方に評価していただきたいと思います。
なお、地域住民の1人として、趣味の散歩の次元とは別に、地域防災の一つの基礎情報としてこの論文が見過ごされてきているかもしれないと思い、この論文の存在を千葉県と千葉市の防災部局に連絡しました。
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