花見川源頭部付近にあった古墳 その9
1 古墳境界杭説
原野の獲得が初めて村の課題となった時代に、横戸村はいち早く行動を起こし、双子塚と高台南古墳を奪取し、それらを結ぶ線分を持って他村(柏井村)との境を設定し、高台向(たかだいむかい)と呼ばれる台地上の原野(鷹之台カンツリー倶楽部がある付近)を獲得したものと考えました。
柏井村もこれにより広大な柏井内野を手中に収めたのだと思います。
古墳を境界杭代わりに利用して野の領域設定をしたという考え方を、このブログでは古墳境界杭説と呼ぶことにします。
2 古墳境界杭説からの逆発想
2012.5.4記事「双子塚の境界機能 測量技術発達的特徴」で述べたように、柏井村と横戸村が実際に領域を確定させる際には、現場での杭打ち(現場での領域界の確定)を行い、その際古柏井川の河道(谷壁と谷底)が横戸村に入るように直線を調整(変更)したと考えました。
そしてその結果が、現在に伝わってきている柏井町と横戸町の境界線であると説明しました。
その発想に立脚するならば、逆に領域界線と古墳を結んだ直線の差分から、印旛沼堀割普請の盛土により失われた古柏井川の河道を復元することが可能であると考えることができます。
3 古柏井川河道の復元
そうした発想から、印旛沼堀割普請の土手となっている区域における古柏井川の河道復元図を作成しました。
古柏井川河道の復元
何はともあれ、寄り道で進めている古墳の検討から、思わぬところで、このブログの本論である地形検討の貴重な情報を得ることができたことは、うれしいことです。
* * *
双子塚以南の古柏井川河道復元予定
古柏井川の河道は双子塚付近で東京湾水系花見川の深い谷によって浸食され、その連続性は一旦失われてしまいます。
しかし、その河道は河岸段丘として断片的に南に追跡することができます。
その検討をこの古墳記事連載の後でスタートし、花見川河川争奪についての検討を深める予定です。
古柏井川の復元がさらに進むと、次のようなことが判る可能性があります。
・地形発達と花見川河川争奪現象の詳細な説明
・花見川-古柏井川-平戸川(新川、勝田川)をルートとした、旧石器時代、縄文時代、弥生時代などにおける東京湾と印旛沼(香取の海)の物質的、文化的交流の実態
・印旛沼堀割普請の土工事の詳細 など
つづく
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