花見川地峡の自然史と交通の記憶 23
花島観音についての詳しい資料を求めて、手持ちの資料をいろいろと見ていると、次の記述があり、驚きました。
「西暦709年(和銅2年)、僧行基千葉寺・天福寺を建立したと伝える。」(千葉市史現代編p515「千葉史年表」)
天福寺とは花島観音のことです。(正確には花島観音の別当寺として天福寺がつくられたと考えられています。現在花島観音は天福寺境内にあります。)
花島観音と同じ西暦709年に、行基は千葉寺をも開基しているのです。
千葉寺は河曲駅のすぐ近くにあります。
私は、浮島駅と花島観音の関係に行基が介在したことに注目したのですが、同じように、河曲駅と千葉寺の関係に行基が介在したことになり、情報が相似的に対応するので大いに興味が湧きます。
早速千葉寺の開基について調べてみました。
1 千葉寺の開基
「千葉市史 原始古代中世編」(千葉市発行)によれば次のように記述されています。
「当寺縁起によれば、その創立はかなり古く、元明天皇の和銅2年(709)僧行基が池田郷において、弥陀観音の像影を彫み、これを一つの精舎に安置し、聖務天皇の御代(724-748)寺家数十ヵ寺、脇堂十八軒、本堂十八間四面の一大伽藍を起こし、その地を三界六道を称し、海照山歓喜院青蓮千葉寺と号したが、その後永暦元年(1160)雷火の為「堂宇数多の並甍須臾にして灰燼」に帰したので、西方8丁ばかりの地に一宇を建立したのが今の寺地であるというであって、その故地と伝えるところには、現在は煙滅してしまったが、かつては観音塚と称する封土があり、近くに引越谷なる字名をのこしている」
確かに、千葉寺の開基が行基によるものであるとの伝承を確認できました。
2 千葉寺の位置
千葉寺の位置と関係事項の位置を次に示します。
千葉寺の位置
3 強く興味が湧く情報の相似性
つぎのように、情報の相似性が見られ、興味が深まります。
古代水運路の存在仮説における情報の相似性
事項
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花見川-平戸川筋
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都川-鹿島川筋
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東海道の最寄駅の存在
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浮島駅
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河曲駅
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東京湾と印旛沼を結ぶ水運路存在の可能性
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東海道(陸路)に併用された水運路の可能性がある。
花見川と平戸川が近接している。
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東海道(陸路)に併用された水運路の可能性がある。
都川と鹿島川が近接している。
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地形上のネック
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地峡部あり(一部陸路になる)
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地峡部あり(一部陸路になる)
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(土木面で民衆を救済したことが大きな業績となっている)行基が開基したという伝承のある寺が存在する
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花島観音
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千葉寺
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開基伝承年
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和銅2年(709)
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和銅2年(709)
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花島観音の開基伝承は、行基が土木面で民衆を救済したという側面から考えると、花見川地峡に堀や溝を開削したいという地域の願望の表れであると考えました。
千葉寺の開基伝承が同じように考えられるのか、空想の度合いが高まり過ぎていて、検討するということにはなりませんが、この情報相似性をヒントにして、今後の検討をさらに深めていきたいと思います。
つづく
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