花見川地峡の自然史と交通の記憶 27
1 八千代市高津は古代港湾施設であるという仮説に気がつく
そして、花見川地峡の北すぐの八千代市に高津という地名があります。
素直に考えると、この高津がかつては国家が管理する港湾であり、土地を植民支配する際に義務付けられた重要施設であるとする仮説を持つことに何ら不都合がないことに気がつきました。
一旦この仮説に気がつくと、逆にこの仮説の合理性について次々と情報が集まり出し、高津が古代港湾施設があった名残の地名であると強く思うようになりました。
2 高津の地名由来説
2-1 角川日本地名大辞典
高津の地名由来については、角川日本地名大辞典では「地名の由来は、左大臣藤原時平の娘高津姫がこの地で暮らしたという伝説に付会される。地内の高津比咩神社は高津姫を祀る。」となっています。
伝説紹介でそっけなく、かつ断定的な印象を受けます。
この説明を読んで、これで高津の意味は分かったと勘違いして、私は危うく思考停止に陥ってしまうところでした。
2-2 大日本地名辞書
吉田東伍の大日本地名辞書坂東では高津について次のような説明をしています。
「延喜式云、下総高津馬牧トアル盖此地トス。」
高津馬牧を現在の八千代市高津付近に比定しています。
2-3 千葉県地名変遷総覧掲載情報
千葉県地名変遷総覧(千葉県中央図書館)の高津の項に次のような情報が掲載されています。
「高津牧、兵部省馬牧ナリ、今郡中に高津村存す。」(荘園志料、清水正建、昭和40年12月)
2-4 地名由来説でわかったこと
2-2と2-3から、高津の由来が古代律令国家と関わりを持っていることが強く示唆されます。吉田東伍の高津馬牧=高津比定説をとるならば、高津という津(律令国家直轄の港湾施設)が最初にあり、それから派生した地名高津を使った馬牧があったと考えることが十分に可能です。
3 高津の位置
現在の地名高津は平戸川(新川)からみてだいぶ奥まった所にあります。
しかし、古代の高津はもっと平戸川(新川)に近い、平戸川との合流部付近にあったものと考えられる材料があります。
次の図は「八千代市の歴史 資料編 近代・現代Ⅲ石造文化財」(八千代市発行)の別添付録「八千代市小字図」(八千代市立郷土博物館)の部分コピーに情報を書き込んだものです。
「八千代市小字図」(八千代市立郷土博物館)に情報を書き込んだ図
大字高津は江戸時代の高津村という広域地名を元としますから、現在の地図の表記ではだいぶ西に書かれています。
現在われわれが意識する高津は広域地名としての高津です。元来の高津からは西に移動してしまっています。
この図に小字「上高津」が表記されています。
八千代市域付近の地名で上○○と下○○がある場合、必ず水系の上流、下流と対応しています。例えば、上高野-下高野や上木出-下木出など沢山あります。
このような地名の付け方の規則性を考えると、上高津の下流に下高津があったことは十分に考えられます。
つまり、高津という地名は、高津が村名となってその範囲が広がる前は、高津川と平戸川が合流する付近にあったことが想定されます。
この付近は縄文海進の際には海であった場所であり、奈良時代には水運に適した場所であったことは確実です。
このことは、高津の津が港湾を意味しているという仮説を支持します。
高津川は平戸川に合流する前に大きく屈曲します。
この地形は、平戸川方面から敵が攻めてきた時に防御しやすい軍事的要害になります。
津が軍事拠点であることを考えると、この屈曲部背後に軍事港湾としての津が出来たのだと思います。
香取の海を遡って最上流部につくられた拠点だから「高(タカ)津」と呼ばれたのだと思います。
高津は陸地に奥深く入り込んだ場所であったので、その場所近くに牧をつくり、その名称が高津馬牧になったのだと思います。高津という植民・支配・軍事にかかわる拠点があったからこそ馬牧がその近くに成立したのかもしれません。
(上高津の東隣に「堰場」という小字があります。沖積低地に堰があるのは極普通ですから、納得できます。同時に、もしかしたら古代の「関」場かもしれないと妄想したりしています。)
つづく
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