2013年7月20日土曜日

古代官道(仮説)と地籍図(補論)

花見川地峡の自然史と交通の記憶 35

2013.07.19記事「古代官道(仮説)を地籍図からみる」で示したように、古代官道の跡が昭和9年の地番割図から読み取れることが判りました。

関連情報を補っておきます。

1 地籍図上の古代官道(仮説)位置と馬防土手、古墳の位置
昭和9年の地番割図を2枚近づけた図に馬防土手の位置と二つの古墳の位置を掲載しました。

古代官道(仮説)に関する情報図
次の情報を集成している。
●大字柏井と大字横戸の地番割図(近づけ図)
出典:「千葉県千葉郡犢橋村全図」(昭和97月、全国町村地番地図刊行会陽明社、全4枚)(情報提供:千葉市立郷土博物館)
●境界沿いの細長い筆とクランク
15は境界線に接する細長い筆
AFは境界線のクランク
●迅速図(明治15年測量)
馬防土手位置を2枚の地番割図にそれぞれ記入。(馬防土手が2つあるわけではない。)
●千葉県埋蔵文化財分布地図
双子塚古墳と高台南古墳の位置を記入。

この情報図から、この直線状境界が馬防土手起源ではないことが判ります。
古代官道(仮説)と2つの古墳との間に深い関係があることがわかります。

2 双子塚古墳付近の筆形状

次の図は旧版1万分の1地形図に現代の町丁目界線をプロットしたものです。
双子塚古墳が直線状境界の起終点になっていることと、それが横戸村サイドに含まれていることを確認できます。

旧版1万分の1地形図に表現された双子塚古墳と現代の町丁目界線
旧版1万分の1地形図は「三角原」図幅(部分)(大正6年測量)

この部分の地番割図を拡大してみると、興味あることが判ります。

大字柏井と大字横戸の地番割図(近づけ図)(部分拡大)
出典:「千葉県千葉郡犢橋村全図」(昭和97月、全国町村地番地図刊行会陽明社、全4枚)(情報提供:千葉市立郷土博物館)

柏井村サイドの地番割図の直線状境界が折れ曲がる所は現代の町丁目界線と同じ形状になっています。
ところが、横戸村サイドの地番割図は一旦クランクしてから折れ曲がります。
双子塚古墳を避けて筆が成立しているものと考えました。

このことから次の2点について考察しました。
ア 双子塚古墳そのものが古代官道の起終点であったと考えられること。
双子塚古墳からスタートして古代官道がつくられたと考えます。古代官道が使われなくなり、その敷地を柏井サイドと横戸サイドが早いもの勝ちで取得していった時代に、双子塚古墳を自分のものと横戸サイドが考えていなかったことがあったのだと思います。それが、このクランクに表現されているものと考えます。

イ 当初、双子塚古墳を避けて横戸村が筆の界線を描いた理由は明白
双子塚古墳は東京湾水系花見川の下流平野部を耕作している豪族の古墳です。その古墳が古代律令国家によっていわば道路の起終点標(杭)として利用されたのです。それが使われなくなって、国家中央の影響が薄くなって、道路敷が早い者勝ちの取り合いになったからといっても、最初は横戸村サイドに遠慮みたいなものがあったのだと思います。
横戸村は印旛沼水系平戸川を根拠とする集落です。
結果としてこの古墳は横戸村のものになっているのですが、奈良平安の時代に地籍図上では(地籍図は無かった思いますが、それに替わるような社会の仕組みの中で)横戸村のものにしていなかったことがあり、その残像みたいなものが昭和9年まで引き継がれたと考えます。

3 古代官道の幅員について
「千葉県千葉郡犢橋村全図」(昭和97月、全国町村地番地図刊行会陽明社)は縮尺3000分の1となっています。

この縮尺を頼りにして、横戸村サイドの地番割図から読み取れる直線状境界における細長い筆とクランクの幅について8つを計測してみました。

その結果平均は11.6mという結果になりました。

古代官道の幅員は、東海道本道に匹敵する広幅員道路だった可能性が濃厚です。
古代に、東海道本道に匹敵するような広幅員道路がつくられたので、その跡が町丁目界線として現代にまで忠実に残っていると考えることができます。

つづく

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