時代変化による遺跡数変化の様子を流域別に見てみます。
1 分水界の様子
調査範囲における古代の分水界の様子を図に表現してみました。
古代における香取の海と東京湾の分水界の様子
参考 流域界別の面積
ただし、古代において水面であった土地の面積も含めています。
2 流域別遺跡数
古墳時代遺跡分布図と奈良・平安時代遺跡分布図に分水界を記入して、流域別遺跡数をカウントしてみました。
古墳時代遺跡分布と遺跡数カウント
この結果をグラフにあらわすと次のようになります。
時代別流域別遺跡数
遺跡数合計を見ると、古墳時代162から奈良・平安時代179と10%ほど遺跡数が増加しています。
流域界別に見ると、香取の海流域は古墳時代93から奈良・平安時代141と大幅に増加しています。
ところが、東京湾水系は69から38へと半減しています。
流域界別にみると極端な特性を見るとことができます。
遺跡密度をグラフにすると、この極端な特性がそのまま表現されます。
流域界時代別遺跡密度
遺跡密度をみると、古墳時代は東京湾流域の方が香取の海流域より高かったのですが、奈良・平安時代になると逆転します。
律令国家の支配体制が確立し、国家はこの地域で水運社会インフラとしての船越を建設して周辺地域の地域開発も積極的に推進したと考えますが、香取の海流域と東京湾流域との極端な差異は、その理由検討の興味を否が応でもそそります。
この差異の理由は現時点では次のように考えています。
ア 東京湾流域で奈良・平安時代になると遺跡数が減少する理由(仮説)
花見川河口津は軍港としての機能を有し、玄蕃所(治部省玄蕃寮の東国出先)がつくられ、蝦夷俘囚の収容所として機能した。従ってこの周辺一帯が特殊機密地域となり、周辺住民と俘囚との接触等を防ぐために、国家が一般住民の居住に制限を加えた。
イ 香取の海流域で奈良・平安時代になると遺跡数が増加する理由(仮説)
これまで東京湾との繋がりが弱かった香取の海流域が、船越等水運インフラ整備により東京湾流域と直結して地域開発好適地となったため地域開発が急速に進展した。
東京湾流域に直結すると、下総国府や国家中央との交通が格段に便利になり、地域開発上きわめて有利になる。
この仮説検討がどの程度確からしいかはまだ判断ができませんが、次の記事からより属地的検討に入り、この仮説を検証して行きます。
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