2015年1月29日木曜日

花見川付近の地域構成イメージ検討

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.52 花見川付近の地域構成イメージ検討

花見川付近の古墳時代水田開発可能地をイメージすることができました。(2015.01.28記事「古墳時代の水田開発可能地の検討」参照)

古墳時代の水田開発可能地は花見川でいえば、その支流の狭小谷津が該当することがわかりました。現在水田地帯となっている花見川平野は古墳時代には水面(海)であったり荒地であり、治水技術を持たなかった当時は水田開発する可能性がゼロでした。

この水田開発可能地分布図の上に、ふさの国ナビゲーションで得られる古墳時代遺跡に関する情報をプロットして、検討作業途中図を作成しました。

検討作業途中図 花見川・浜田川付近の古墳時代遺跡の出土物・遺構

ただし、書きこんだ内容は、その遺跡が奈良・平安時代にも重複している場合、出土物・遺構の時代はわかりませんから、古墳時代とは限りません。奈良・平安時代期の出土物・遺構も含みます。

正確性に欠ける作業図ですが、時代別の正確な出土物・遺構の情報は遺跡報告書を閲覧しなければわかりません。そのため、正確性に欠けても、遺跡報告書を閲覧していない自分にとっては、現状では大切な情報です。

「土」記号は土器片のみ出土した遺跡です。

この検討作業途中図をよく見ると、古墳時代の地域構成がかなり明瞭にイメージできました。地域構成が明瞭にイメージできたからといって、結果として正しいかどうかの保証にはなりませんが、これからの検討(報告書閲覧)を効率的に進めることができる条件が整ったことになります。

明瞭にイメージできた地域構成を次に示します。

検討作業途中図から生まれた問題意識

Aは軍事・交易機能を示す遺物・遺構が存在するので軍事・交易ゾーンとして考えました。

Bは工房や工芸品出土遺跡を含むもので、古墳密集地に持近く、工芸・消費ゾーンと考えました。有力首長はこのゾーンに居を構えていたと考えます。

Cは水田開発可能地に分布する遺跡を連ねたゾーンであり、水田耕作ゾーンとしました。谷津源頭部に遺跡が多い分布図をみて、私は、古墳時代の水田開発は、水手当の心配が少なく、かつ洪水の心配も少ない源頭部から下流に向かって行われたと考えるようになりました。

Dは貝塚を伴う遺跡で、海漁業を担う集落の遺跡であると考え、海漁業ゾーンと考えました。このゾーンの近くに方墳(愛宕山古墳)があります。水田耕作に関わる遺跡に随伴する円墳はすべて台地上にあるのですが、この方墳は台地下の標高6mの土地にあります。ですから方墳の被葬者は社会階層上水田耕作を担う上位首長の下に位置付けられていたと考えます。その下位集団が海漁業や航海に携わる集団であった可能性を予感します。

Eは水田とは関わらないで、かつ花見川に面した台地に立地する遺跡です。そのうち、2箇所の遺跡から土錘が出ています。また近くの遺跡から紡錘車がでています。そこで、川漁業・畑作ゾーンと考えました。台地上で麻を栽培し、川で漁業を行っていたと考えます。川漁業・畑作ゾーンとしました。この遺跡分布域は古墳を伴っていません。水田耕作に伴う遺跡は古墳を伴います。従って、このゾーンの住人は社会的に劣位なポジションにいた可能性を感じます。

Fは花見川・浜田川圏に隣接する別圏域です。なお、小中台川筋には古墳が狭い範囲内に異様に多数分布します。暫定調査範囲内だけでも15あり、花見川・浜田川圏とほぼ同数です。また、横穴が存在することも気になります。小中台川筋にはそれなりの特殊事情があると予感できますから、興味が湧きます。また田喜野井川筋には鍛冶遺構が出土していますが、前方後円墳に対応する圏域(支配領域)毎に鍛冶施設があったに違いないと考えます。

以上のイメージを念頭に遺跡報告書の閲覧に入ります。

(東京湾流域の遺跡報告書閲覧の後、香取の海流域の予察検討を行い、その後報告書閲覧する予定です。)

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