2015.01.27記事「前方後円墳の把握」で東京湾岸の3つの谷津に対応するように3つの前方後円墳が存在していることがわかりました。
3つの谷津と対応する前方後円墳
前方後円墳は地域の上位クラスの首長存在と対応していたと考えることができますから、3つの谷津それぞれを生活領域とするグループが並存的に存在していたことになります。
(3つのグループの間の関係は後日検討することにします。)
当初自分は内心で田喜野井川や小中台川の谷津は狭小であるから、花見川谷津を支配する首長がこれらの狭小谷津も一緒に支配していたに違いないとタカをくくっていました。
予想が外れました。
なぜ予想が外れたか、考えて見ました。
答えは意外と早く見つかりました。
自分は無意識のなかで谷津谷底の広さを比較し、それが水田面積に比例し、ひいては首長の力の大きさに比例していると考えていました。
しかし、古墳時代の水田は狭小な谷津内でつくられていて、水面や荒地の拡がる広い谷津谷底は開発不可能であり、水田はつくられていなかったという知識を失念していたことに気がつきました。
古墳時代の技術力では河川増水に対応することはできなかったと考えます。
花見川、平戸川、印旛浦などの広い谷津谷底は水田耕作不可能な土地であったのです。
広い谷津谷底は支配領域の境となっていたことが上位ランク古墳の分布からわかります。
水田耕作は台地を刻む支流狭小谷津のなかにつくられていたと考えます。
古墳分布(円墳等のより下位の首長存在の分布)もこのような水田分布推定と対応しています。
古墳時代にあって、谷津谷底分布のどの付近までが水田耕作不可能地であり、どこらへんから水田耕作が可能であったか、的確な情報を持っていません。
しかし自分の思考レベルをアップするために、とりあえず感覚的・イメージ的に検討してみました。
次の図は現在の標高を0-2mは黄色、2-4mは水色、4-6mは紺色、6-8mは桃色、8-10mは白色、10m以上は赤色で表示した地形段彩図です。
谷津谷底の標高を示す地形段彩図
この地形段彩図で標高6m付近を境にそれより標高の低い土地は古代では水面、荒地などであり水田耕作は不可能であったと考えてみます。
この図に近代水田分布をオーバーレイしてみました。
近代水田分布と地形段彩図のオーバーレイ
近代水田分布は旧版25000分の1地形図(大正10年測量)の水田分布を転写したものです。
近代水田分布は源頭部までの谷津を利用しています。
田喜野井川の源頭部には古墳時代の状況は不明ですが、延喜式に寒川神社として記載されている神社と考えられている二宮神社が存在します。
また花見川源頭部には古墳時代の祭祀遺跡である子和清水遺跡が存在します。
このような情報から古墳時代には源頭部の水源を管理していたことが考えられます。従って、実際の水田がどの程度つくられていたかは不明であるとしても、水田耕作が可能であった範囲は近代と同じく源頭部まで含まれていたと考えることができます。
この情報と標高6m程度より低い土地は開発不可能地であったと考えると、つぎのような古墳時代水田分布推定図を描くことができます。
古墳時代水田分布推定図
この図を見ると、古墳時代人は水田開発について、花見川というくくりで土地を考えていなかったことがわかります。
古墳時代人が「広い」水田開発適地が拡がっている考えた場所(そして実際に水田開発された場所)のトップ3は田喜野井川谷津、浜田川谷津、小中台川谷津です。
花見川支流の谷津はそれより「狭い」水田開発適地になります。
このような予察的分析をしてみると、3つの河川谷津に対応して3つの前方後円墳が存在していることの意味が自分なりに判る様になりました。
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