2015年3月23日月曜日

ハマグリを食ったのは誰か

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.94 ハマグリを食ったのは誰か

銙帯という古代服飾品を知り、その出土遺跡分布図を見て、大いに刺激を受けています。

その刺激を受けた感想をメモしておきます。

1 ハマグリを食ったのは誰か
花見川地峡の北側の平戸川(現八千代市の新川)筋の古代遺跡から多量のハマグリが出土します。

ハマグリの貝殻が出土するのですから、活貝を東京湾から直送しています。東京湾の海の幸が平戸川筋古代遺跡に直送されていたと考えて間違いありません。

距離からして、また花見川と平戸川の分水界付近には律令国家が建設した直線道路(仮説)があったのですから、朝採集されたハマグリや他の魚介類は、川と道路を通って村神(村上)の各集落に運ばれ、夕食のおかずになっていたと思います。

これまで、このハマグリ出土から、そのハマグリを採集したのは誰かという問題意識を持ってきました。2015.03.11記事「古代幕張付近のハマグリ採集者は誰か
この問題意識は解決に向けて検討中です。

さて、平戸川(現八千代市新川)筋の銙帯出土遺跡分布とハマグリ出土古代遺跡が重なります。

銙帯出土遺跡とハマグリ出土遺跡
基図の薄ブルー小丸は古墳時代~平安時代の遺跡

この図を見て、蝦夷戦争のための戦略的兵站業務(戦略物資生産・供出、輸送支援等)に日夜邁進している(銙帯を付けた)官人がハマグリを食ったのではないかと考えました。

新鮮な東京湾産魚介類を象徴するハマグリの出土を、これまで単純な集落間交易や交通路の問題としてだけで考えてきました。

しかし、官人がハマグリを食っていたと考えた途端に、単純な交易ではなく、官人達を兵站業務遂行の先兵として配置し働かせている、より上位の地方権力機構が関わっていたのかもしれないと、想像するようになりました。

例えば銙帯出土とハマグリ出土が重なる村上込の内遺跡、白幡前遺跡、北海道遺跡、権現後遺跡などの官人は高津馬牧の経営とか、高津(直轄港湾)の運営とか、高津を通る将兵や俘囚に対する補給・輸送支援など戦略的兵站業務を担当していたと思います。(より具体的には今後検討する予定です。)

さらに、自らの食料を得るために周辺の谷津や台地の開発(開拓)も行っていたと思います。

そうした国家戦略的で困難な業務を遂行させていた上位地方権力機構が、現場官人に対する見返りサービスの一環としてハマグリや新鮮な魚介類を優先的に提供してもおかしくないと想像しました。

ハマグリ出土は単なる交易とか、交通の問題ではなく、水系を越えてまで新鮮魚介類を提供するという高次行政サービスの存在として捉えることができると考えたのです。

太平洋戦争中に物資が配給制になり、軍や関係機関に優先して物資供給を行い、国民には耐乏生活を強いました。それに類するようななんらかの統制が古代にもあり、ハマグリや魚介類の生産とその流通が、計画的・重点的に官優先で行われていたのではないかと想像しました。

全ては蝦夷戦争を成功的に進めるために、人々の活動が高度に組織・統制されていたと考えます。その様子の一端が銙帯出土とハマグリ出土が重なる現象から、垣間見えたと感じました。

官人の下で動員されて働く一般住民や俘囚などが果たしてハマグリを食っていたか、遺跡発掘調査報告書の情報を詳しく分析すればわかるかもしれません。

2 各遺跡の戦略的兵站業務の内容は
花見川-平戸川筋が東海道水運支路(仮説)であり、蝦夷戦争の重要な兵站ゾーンであると考えると、各遺跡(集落)が担う兵站業務の特徴が何であるか、興味が湧きます。

発掘された遺跡(集落)の様子は、そこに人が居住していたのですから、集落一般の姿と似ていると思います。しかし、漫然と人が暮らしていたのではなく、特定の兵站業務遂行に邁進していたのですから、その兵站業務の内容を窺うことが出来るような遺構・遺物等が必ずあると考えます。

遺跡(集落)が担った兵站業務を、これからのブログ活動で検討していきたいと思います。

なお、「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)では銙帯出土遺跡について次のような説明をしていますが、下線を引いた部分に違和感を持っています。

「千葉県においては、117遺跡から260点以上の銙帯が出土している。この数値は、全国的にみてもかなり多いといえる。関東地方は、畿内に次いで銙帯の出土点数が多い地域であるが、そのなかにおいても千葉県での出土点数は多いものである。また、関東地方のほかの都県と異なり、一般の集落跡からの出土がほとんどである点も特徴といえる。特に、8世紀後半からの大規模な開発によって、すがたを現した集落からの出土が目立って多い。地域的には、やはり大規模な発掘調査が実施された印旛沼の南から東にかけての地域、千葉市の南部地域、山武郡南部地域に集中している。」

銙帯が出土した遺跡の多くは「一般の集落」ではなく、蝦夷戦争の兵站業務遂行に特化した集団の集落であり、活動拠点であったように感じます。

例えば、兵部省所管施設(牧・駅家・津)等の建設・管理運営を担っていた集団が居住する場などから銙帯が出土しているように感じます。

こうした考えから、千葉県では銙帯が「一般の集落」から出土するという記述に違和感を感じます。

花見川-平戸川筋をイメージすると、銙帯が出土した、つまり官人がいたということは、その遺跡(集落)が国家的目的の一部を担って活動していた特別な遺跡(集落)であったと考えます。

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