八千代市井戸向遺跡と白幡前遺跡の比較的珍しい出土物を地図にプロットしてみました。
井戸向遺跡・白幡前遺跡の出土物
青銅製和鏡の画像は「八千代市井戸向遺跡 -萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅳ- 図版編」(1987、住宅・都市整備公団 首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用
三彩陶器托・小壺、燧鉄・燧石の画像は「八千代市権現後遺跡・北海道遺跡・井戸向遺跡 -萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅶ-」(1994、住宅・都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用
小金銅仏、瓦塔、周溝のある寺院遺構の画像 は「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
白幡前遺跡では寺院遺構及び瓦塔出土と同じゾーンに3間×3間総柱構造掘立柱建物が存在し、その周辺から大量のハマグリが出土しています。
このゾーンから人面墨書土器が出土している等の情報から、総柱構造掘立柱建物は都と戦地陸奥国を往来する中央貴族の逗留場所、接待施設と想定しました。
人面墨書土器は地元の接待係(地元支配層)が書いたと考えました。そして、寺院と接待施設のセット性に着目しました。2015.05.01記事「八千代市白幡前遺跡 寺院と接待施設のセット性確認で深まる遺跡理解」参照
白幡前遺跡では寺院-接待施設(政治権力・行政の中枢施設)のさらに北に掘立柱建物建物群が存在し、その場所には軍事的機能が存在したと想定しました。2015.04.15記事「八千代市白幡前遺跡 掘立柱建物を指標とした集落イメージの検討」参照
つまり白幡前遺跡では仏教寺院と政治・行政権力施設と軍事中枢施設がセットになって存在しています。
このような施設の在り方は鎮護国家の権力の在り方として合理的なものであると感じます。
僧侶と政治家・行政と軍人が協力して蝦夷戦争を戦っていたと考えます。また軍需物資増産のための土地開拓も僧侶・政治家・行政・軍人が一緒に行っていたと想像します。
このような白幡前遺跡における検討を踏まえて、井戸向遺跡の出土物をみると、次のような感想を持ちます。
第Ⅰゾーンの一番はずれ(平戸川の津(港湾)に一番近いところ)から小金銅仏と青銅製和鏡が出土しています。
小金銅仏はそれを信仰対象として安置していた場所があったことは確実です。ですから寺院的な施設があったことになります。
参考ですが、この場所の小字名は「寺の台」であり古代寺院に関連した地名である可能性も存在します。
一方、青銅製和鏡は権力の象徴であるように考えます。
つまり白幡前遺跡で観察できた寺院と政治・行政権力のセット性が井戸向遺跡でも見られると考えます。
そしてそのセットがある場所が同じように平戸川の津-河岸段丘-台地面の縁の区間であることも共通しています。
奢侈消費であるハマグリ出土が井戸向遺跡に全く見られないことから、井戸向遺跡は白幡前遺跡からみて支店筋(現場筋)と考えましたが、支店筋(現場筋)の中にも本店筋にあると同じような寺院と政治・行政権力のセット性がミニチュア的に観察できると考え、井戸向遺跡に興味が湧きます。
このような思考がどの程度的確であるか、次におこなう墨書土器検討である程度判ることと考えます。
三彩陶器托・小壺と燧鉄・燧石が第Ⅳゾーンの近くから出土することについて、その意味は今後検討したいと思います。
しかし、この出土物から、また近くに「坊山」という小字名があることから、台地面の開拓事業(雑穀畑・麻畑・炭焼き等)に僧侶が活躍していた可能性を感じます。
銙帯も出土していることから、官人や僧侶が先頭になって地域開発を精力的に行っていた風景があるように感じます。
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