2016年4月27日水曜日

珍しいイスラム人面画を触媒とした人面墨書土器の意義再考察 その1

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2016.04.24記事「人面墨書土器の人面は人か鬼か?」及び2016.04.25記事「千葉県出土人面墨書土器の人面は祈願者の自画像」で、平城京出土人面墨書土器の人面は鬼であり、千葉県出土の人面は祈願者の自画像であると考えました。

そのように一旦は考えをまとめたのですが、偶然に見た珍しいイスラム人面画が墨書土器人面画と似ているように感じることから、再び人面墨書土器の意義について思考がスタートしてしまい、止まらなくなりました。

結局、イスラム人面画が、私の思考活性化の触媒のような働きをして、人面墨書土器の人面の意味についてより一層思考を深めることができました。

そこで、イスラム人面画を思考の触媒として活用しながら、考察を深めた人面墨書土器意義について記事を2回に分けて書きます。

1 珍しいイスラム人面画

サマルカンド(ウズベキスタン)のレギスタン広場にあるシェルドル・メドレセ(1636完成、イスラム神学校)のイーワーン(内部ドーム型開放空間建築物)上部に2つの人面が描かれています。

イーワーンに描かれた人面画(モザイク画)

イーワーン光景

レギスタン広場

人面画の1つをPhotoshopで正面画にして回転させ、顔を正立させると次のようになります。

シェルドル・メドレセのイーワーンに描かれた人面画(調整)

千葉県出土の古代人面墨書土器の人面画とどこか似ていることから、現場で思考が活性化しました。

しかし、現場ではこのイスラム人面画と人面墨書土器が、思考上、どのように関連するのかわかりませんでした。

ブハラ(ウズベキスタン)でも同じ時代の神学校(ナディール・ディヴァンベキ・メドレセ、1622完成)のイーワーン上部中央に1つの人面画が描かれています。

イーワーンに描かれた人面画(モザイク画)

イーワーン光景

ナディール・ディヴァンベキ・メドレセのイーワーンに描かれた人面画(調整)

いづれも同じ支配者の時代につくられた建築物です。


2 イスラム教義に反する人面画とその言い訳

シェルドル・メドレセの人面画は鹿を狩るライオンの上に輝く太陽の顔になっています。

ライオンと太陽はチムールの紋章であり、チムール後継である当時のサマルカンド・ブハラ支配者の紋章でもあったと考えられます。

WEB等からは、サマルカンドやブハラを支配していた当時の支配者が、偶像崇拝を否定するイスラム教義に反して、自分の顔をイスラム神学校のイーワーンに描かせ、自分の権力を誇示したのではないかという解説情報を得ることができます。

サマルカンドとブハラの人面画がほぼ同じ顔つきですから、ある特定の支配者が教義に反して自分の顔を描かせて権勢を誇ったと一般論的には考えます。

しかし、そのような説明だけでは満足できません。

なにか言い訳が有るはずと考えていたのですが、現地ガイドの方から次のような話を聞きました。

人面画は太陽の顔であり、人の顔ではない。太陽の顔という存在しない抽象物だから偶像ではない。

ライオンといってもトラのような模様をしていて、ライオンを描いていない。抽象動物を描いている。
鹿も鹿ではなく、その姿をみてわかるように抽象動物として描いている。

ブハラのイーワーンには不死鳥が描かれていて、これも空想上の抽象動物であり、偶像に値しない。

つまり、実際は権力者が自分の顔を描かせているのに、宗教上は全部抽象物を描いていて、偶像崇拝の対象となるような物は描いていないという言い訳をしているのです。

3 教義に反する人面画が描かれたことから私が汲み取った思考ヒント

次の地図は17世紀のイスラム世界とサマルカンド・ブハラの位置関係を示したものもです。

17世紀のイスラム世界とサマルカンド、ブハラの位置

イスラム人面画が描かれたサマルカンド・ブハラは当時のイスラム世界主要部(オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国)からみると、辺境地です。

この空間的関係、つまり当時のイスラム世界の主要部から離れた辺境の場所にサマルカンド・ブハラが位置するようになってしまったために、イスラム教義に反して人面画が描かれてのではないだろうかと考えました。

サマルカンド・ブハラもイスラム文化という意味では歴史的な重要拠点です。イスラム文化の中心地の一つであることに間違いありません。そもそもサマルカンドはチムール帝国の首都でもあったのです。

しかし、17世紀にサマルカンド・ブハラがイスラム世界の政治・経済的主要部からみて、空間的辺境に位置するようになり、イスラム教義にゆるみが生じたのではないかと考えます。

ある場所の文化は、政治・経済的主要都市が別の場所に移動していまうと、時間が経つと、独自なものに変化してしまうという現象があったのではないだろうかと考えます。


話は大飛躍しますが、イスラム人面画の考察から、「政治・経済・文化の主要部から空間的に離れた辺境地では、文化面で独自の動きが発生する」という事象をヒントとして汲み取ります。

そして、そのヒントをいわば触媒として、千葉県出土人面墨書土器の人面の意義について、次の記事で再検討します。

つづく

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