花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.323 鳴神山遺跡の漆業務を示す墨書土器
2016.04.04記事「漆業務発展祈願の墨書文字を認識した瞬間」で書いた通り、鳴神山遺跡で漆業務を示す墨書土器が見つかりました。
見つけた墨書土器「七 知益」の他に、鳴神山遺跡で「七」「益ヵ」の墨書土器も見つかっていますので、その出土位置を示します。
鳴神山遺跡 墨書文字「七」「知」「益」の出土状況
「七 知益」は斃牛馬処理集団が生産した皮革の価値を高めるために漆を使っていたことが判明しました。
「益ヵ」が「益」で間違いなければ、漆の液を意味していて、その場所で漆業務が行われていた可能性があります。
出土した遺構(Ⅱ125竪穴住居)からは墨書土器「冨廾□」、「長」、「太ヵ」、「大」が出土しています。「長」(オサ)などから統率性が感じられます。
また出土物として紡錘車と帯金具(銙帯)が出土しています。銙帯の出土から官人の存在を読み取ることができます。
統率性や指導性、あるいは官人の存在がある場所は物資生産の中枢の場所であり、技術の高い場所であることが一般的ですから、この場所(あるいはこの付近)で漆業務が行われていた蓋然性が増します。
もし漆業務がおこなわれていたとすると、その対象素材は木とか麻などであり、皮革以外のものであったと考えます。
「七」は中世の溝(M002)から出土していてその正確な場所は不明です。
この溝は10世紀以後にそれまでに存在した竪穴住居等を破壊して作られているので、9世紀頃までの遺物が多数出土しています。
墨書土器「七」もそのようにして中世の溝に入ったものと考えられます。
「七」が漆(シチ)であり、つまるウルシ(漆)であるとすれば、それが最初にあった場所は「七 知益」と「益ヵ」の場所とは異なる第3の場所になります。
つまり、鳴神山遺跡では墨書土器情報から見る限り、少なくとも3カ所で漆業務が行われていたことになります。
養蚕活動が鳴神山遺跡の全域を覆うように展開していたことが判ったように、恐らく漆業務も3カ所だけで行われていたということではなく、もっと多数の活動拠点があったに違いないと想像します。
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