その古代遺跡検討は花見川-平戸川筋が古代東海道の水運路であったという「東海道水運支路仮説」の検証という大目的の元におこなっています。
そのような大目的との関わりとの直接的結びつきは一見弱くなりましたが、GISを使った古代遺跡検討方法(学習方法)の開発が進んでいて、結局は「東海道水運支路」の検証に役立つと考えられますので、現状ではかなり精細な技術的検討(技術的開発を伴いながら行う学習)を行っています。
この記事では竪穴住居の遺物分布ヒートマップについて検討します。
次の図は竪穴住居から出土した遺物の平面位置図(平面ドット図)を基に作成したヒートマップです。
上谷遺跡 A102a竪穴住居 遺物分布ヒートマップ
半径パラメータを0.5mで作成したものです。
この図では分布の具体性があまりに強いので、ヒートマップを半径パラメータ1mで作成してみました。
上谷遺跡 A102a竪穴住居 遺物分布ヒートマップ
半径パラメータ1m
この図の分布状況の抽象性が自分の思考レベルに合うと直観できますので、この図を使って検討してみます。
このヒートマップにピット等の分布図をオーバーレイしてみました。
その結果、次のような遺物出土に関する仮説を想像することができました。
赤くなっている領域つまり遺物出土密度が高い部分が廃絶時出入り口ピットを中心とする西側に集中しています。
また廃絶時に竈があった近くにも2番目の赤い領域があります。
このことから、遺物(墨書土器や鉄製品など)を置いた人々は廃絶時出入り口と竈の双方を目印に集まってきていることが推察できます。
廃絶した住居の機能を確認して遺物を置いています。
このことから、遺物がそれ自体意味を有しない穴に投げ込んこまれたのではないことが判ります。
もし、廃棄物投棄用の穴であった場合、廃棄された遺物は穴に投げ込まれ、恐らく四方から投げ込まれ、穴中央部の遺物密度が最大になると考えます。
廃絶した住居機能を踏まえて(念頭において)遺物を置いているのですから、その住居空間ひいてはその住居に住んでいた人に対して尊重の念の存在がうかがわれます。
廃絶した竪穴住居空間とそこに住んでいた人を尊重、尊敬、尊崇していた可能性を感じとることができます。
もしその想像の的確性が高かったならば、竪穴住居中央部に簡易な祭壇が設けられたり、祭壇は無いにしても、祈祷の場になったりした可能性を想像できるかもしれません。
なお、この竪穴住居が廃絶して、その場所で祭祀が行われたとすると、周辺のどのようなところから人が集まってきたのか、知りたくて、A102a竪穴住居周辺の遺構分布図を見てみました。
A102a竪穴住居付近の遺構分布図
A102aの西側も東側にも竪穴住居が分布しています。
A102a遺構の西側に遺物が多いということと、周辺竪穴住居の分布との対応はないのかもしれません。
上谷遺跡では奈良・平安時代というくくり以上に詳しい年代検討は行われていないので、残念ながらそれ以上の検討は今後の課題となります。
直観的には、周辺の竪穴住居の分布ではなく、A102a竪穴住居の出入り口跡が大きな意味をなし、廃絶後の穴にも出入り口跡の場所から入っていったのだと考えます。
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