大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習をするための基礎知識習得のために「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の貝塚の項の学習をしています。
この記事では縄文時代早期中葉の学習をします。
1 図書の記述
図書では次の貝塚分布図と説明文が示されています。
縄文時代Ⅰb期(早期中葉・沈線糸文期) 貝塚分布図
説明文の概要
・Ⅰa期に存在した中心地域のうち取香(とっこう)川谷と高谷(たかや)川谷の分水嶺付近(B)のみが残る。
・大きな中心は大須賀川谷水系(A)に存在する。
・借当(かりあて)川水系(C)にも多い。
・印旛沼水系にも散在するが、東京湾沿岸は著しく希薄となっている。
・分布が分水嶺付近から沿岸への立地に移動し、明らかに県北東部に偏っている。
・貝塚は1カ所にすぎない。海産資源の利用が活発になったという証拠は得られない。
・Ⅰ期の遺跡分布には旧石器時代からの伝統が強く残っており、生産・居住のあり方はそれほど変化していなかったのではないかと考えられる。
2 疑問・興味
●「Ⅰ期の遺跡分布は旧石器時代の生産・居住の在り方とそれほど変化していなかった」という記述に対する疑問
Ⅰa期の遺跡分布と旧石器時代遺跡分布はある程度似ていますが、A~F域に遺跡が集中していて、それ以外の場所に同様の遺跡集中場所がありません。
旧石器時代とⅠa期で遺跡分布特徴が異なることは確実です。生産居住の在り方が大きく異なったので、分布が異なると考えることが妥当です。
参考 旧石器時代遺跡分布図
参考 Ⅰa期遺跡分布図
次にⅠb期の遺跡分布は旧石器時代遺跡分布と大きく異なることはさらに明瞭明白です。
Ⅰb期の遺跡分布と旧石器時代遺跡分布を比べて、「生産・居住のあり方はそれほど変化していなかったのではないかと考えられる。」とは到底言えないと思います。
遺跡分布変化は明瞭ですから、その説明はしたけれども、その背景となる理由が見当たらなかったというのが真相であったと考えます。
証拠はないけれども「遺跡分布の変化から生産居住の在り方が大きく異なったに違いない」と考えることが妥当です。
●旧石器時代とⅠ期の遺跡分布が異なる理由(想像)
Ⅰa期からⅠb期にかけて遺跡中心域が沿岸域(海)の方向に移動していることに着目して次のような想像をしました。
縄文Ⅰb期遺跡分布図の想像的解釈
遺跡がその当時の海辺の交易拠点を支える後背集落、交易に関連する生産・消費集落であると考えると、その分布特性の理解ができます。
海の幸利用と関わることはあると思いますが、それ以上に、旧石器時代には存在しなかった海上交通が生まれ、遠方との交易交流が可能となり、その影響が遺跡分布に表現されているのではないだろうかと想像します。
陸域の交通だけの時代では、狩猟好適地で生活すればよかったのですが、海を利用した遠方との迅速確実な交通が生まれるとその影響は生活のあらゆる面に及んで、集落立地をも交易対応型に変化させたと考えます。
海の出現によって海上交易が生まれ、生活が革命的に変化したのではないだろうかと空想します。
このような想像(空想)から遺跡データを見直すとあらたな気づきがあるかもしれません。
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