この記事では縄文時代後期前葉~中葉の学習をします。
1 図書の記述
図書(「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行))では次の貝塚分布図と説明文が示されています。
Ⅵ期(縄文時代後期前葉~中葉)貝塚分布図
説明
Ⅳ期とともに県内に大規模な集落・貝塚が最も多く形成された時期である。
分布図をみると古五田沼低地から養老川低地付近まで大型貝塚が大きくとぎれることなく存在している(図7)。
Ⅴ期の傾向を引き継ぎ、さらに南北に延びた形である。
古五田沼低地の野田市東金野井貝塚や、印旛沼低地の八千代市佐山貝塚など汽水産のヤマトシジミを利用し始めることもひとつの特徴であるが、大型貝塚を形成した主要貝種はイボキサゴ・ハマグリ・オキアサリの3種といえる。
真間川低地と都川低地以南では、イボキサゴが圧倒的に多い。
この地域の貝層が際立って大きいのはこの貝種の利用によるものであろう。
Ⅳ期の様相がどの集落・貝塚も均一的であったのに対して、この時期では集落・貝塚間でさまざまな差がみられる。
分布・立地をみると、海岸線付近から、谷に沿って何㎞もさかのぼった谷奥まで幅広く存在し、分水界を越えた古鬼怒湾水系の谷にも大量の貝が運ばれている。
このようなあり方について、一水系で遺跡間の比較を試みた都川・村田川貝塚群のデータをみてみたい(文献12)。
表3をみると、貝類については貝塚間での類似性がきわめて高い。
魚類の利用は立地条件の違いが明瞭に現れている。
すなわち、都川谷最奥部の千葉市緑区誉田高田貝塚では淡水魚が中心であるのに対し、より下流側に位置する同市中央区矢作・若葉区加曽利南・緑区木戸作の各貝塚では海産魚が大半を占める。
特に、最も海に近い矢作貝塚では魚の種類が豊富で、漁獲技術にも多様性が認められる。
このような遺跡間の関係については、各集落がそれぞれの地理的条件に応じた生業を独立して営んでいた可能性や、多様な生業をもつ集落が結合し、地域全体が相互補完的な資源利用システムを構成していた可能性など、さまざまな解釈が可能であり、今後の研究課題である。
表3 都川・村田川貝塚群の4貝塚の比較
2 理解促進のための分布図調整
図書記述の理解を促進するために貝塚分布図をIllustratorレイヤを活用して調整し、見やすいものにしました。
Ⅵ期貝塚分布図
直前時期であるⅤ期の分布図と比較すると、Ⅴ期→Ⅵ期の変化の特徴(「Ⅴ期の傾向を引き継ぎ、さらに南北に延びた形である。」)がよくわかります。
参考Ⅴ期(縄文時代中期後葉~後期初頭)
3 疑問・興味
●Ⅴ期からⅥ期にかけて貝塚集落によって構成される房総縄文人社会が成長発展した様子を確認することができます。
●消滅したⅣ期貝塚集落とその後新たに建設されたⅤ期・Ⅵ期貝塚集落の差異は、2つの異なる縄文人社会の差であり、その概要を図書の記述から次のようにまとめることができます。
房総貝塚集落 Ⅳ期とⅤ・Ⅵ期の比較 1
この比較表を眺めていると、Ⅳ期貝塚集落を建設した縄文人社会は恵まれた環境を生かして、恵まれた生活を送っていたことが忍ばれます。
そしてⅣ期縄文人社会は消滅しました。
Ⅴ期・Ⅵ期貝塚集落を建設した縄文人社会は、それまで利用していなかった条件の悪い場所にも進出し、地域全体で相互補完的な資源利用システムを構成するというⅣ期には見られない頑強性を備えるようになっています。
あたかもⅣ期縄文人社会の失敗の教訓を学んで、厳しい環境にも適応していったように感じられます。
次の記事で、改めて、恵まれた環境を生かして生活していたⅣ期縄文人社会がなぜ崩壊したのか、Ⅴ期・Ⅵ期縄文人社会がなぜ頑強な社会システムを構築したのか、その理由を検討します。
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