2017年2月17日金曜日

千葉県の貝塚学習 縄文時代中期後葉~後期初頭

大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習をするための基礎知識習得のためにの貝塚の項の学習をしています。

この記事では縄文時代中期後葉~後期初頭の学習をします。

1 図書の記述

図書では次の貝塚分布図と説明文が示されています。

縄文時代Ⅴ期(中期後葉~後期初頭)

説明
「Ⅳ期に多数存在した通年定住型の集落は、加曽利EⅡ期の終わりから加曽利EⅢ期の始まりにかけて、すべてが消滅したものとみられている。
Ⅴ期には、わざわざ集落の故地を避けて、分散的に居住するようになる(文献16)。
図6をみると、分布は一見Ⅳ期と似ているようだが、それまで空白となっていたところに多く、東京湾沿岸の矢切低地から小櫃川・矢那川低地まで大きくとぎれることなく広がっている。
広場集落・群集貯蔵穴・大規模な貝層はみられなくなり、貝層はすべて遺構内貝層となり、骨が検出される例はまれである。
船橋市新山遺跡群と、千葉市若葉区餅ヶ崎遺跡はこの時期を代表する大規模な集落群であるが、やはり骨は混じらない。
Ⅳ期に大型貝塚が集中した2か所の河口干潟は、Ⅴ期にはごく小さくなり、東京湾沿岸に延々と続く出入りの少ない干潟を形成したものと考えられる。
生産性の高い河口干潟が失われたことは、貝類と小魚の安定した入手には痛手となったであろう。
ただし、加曽利EⅣ期から称名寺期には幾つかの集落で次のⅥ期につながる様相が現れる。
その例として、市川市権現原貝塚・船橋市宮本台貝塚・千葉市緑区六通貝塚・市原市武士遺跡・横芝町中台貝塚を挙げることができる。
権現原貝塚以外は、すべてⅥ期以降、Ⅶ期の終わり(晩期前半)まで継続する各地域の中心的な拠点集落である。
権現原貝塚は、2系統の集団が合体して集中居住型の集落を形成したことを具体的に示す分析成果がある(文献12)。
その後拠点を市川市堀之内貝塚に移した可能性がある。」
「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用、赤字は引用者。

2 理解促進のための分布図調整

図書記述の理解を促進するために貝塚分布図をIllustratorレイヤを活用して調整し、見やすいものにしました。

Ⅴ期貝塚分布図

直前時期であるⅣ期の分布図と比較すると、Ⅳ期→Ⅴ期の変化の特徴がよくわかります。

参考 Ⅳ期貝塚分布図

3 疑問・興味

●Ⅳ期の貝塚集落は全て消滅して、その後Ⅴ期になりⅣ期貝塚集落故地を避けて新たに貝塚集落が立地しているということは、Ⅳ期縄文人集団がⅤ期になり別の縄文人集団に入れ替わったと考えざるをえません。

●より直接的に表現すればⅣ期貝塚集落を建設した集団が滅びたということです。房総のⅣ期縄文人集団が滅びたことは、Ⅴ期には古鬼怒湾の貝塚集落がゼロであることからも推論できます。

●図書記述では、Ⅳ期貝塚集落が消滅した理由を、次の記述にあるとおり、自然環境変化で説明しようとしているように感じられます。

「Ⅳ期に大型貝塚が集中した2か所の河口干潟は、Ⅴ期にはごく小さくなり、東京湾沿岸に延々と続く出入りの少ない干潟を形成したものと考えられる。
生産性の高い河口干潟が失われたことは、貝類と小魚の安定した入手には痛手となったであろう。」

この説明はⅣ期集落が消滅したのだから、それは2カ所の河口干潟が小さくなって漁場価値が減少したのだろうという推論によるものだと考えます。

2カ所の河口干潟が小さくなって漁場価値が減少したというデータ(事実)があって論じている説明ではないと思います。

●図書の分布図及び説明からⅣ期→Ⅴ期の縄文人集団の入れ替わりを次のようにイメージしました。

Ⅳ期→Ⅴ期変化の検討


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