2017年2月26日日曜日

縄文社会崩壊プロセス学習 縄文時代晩期後半の衰退

大膳野南貝塚学習のための基礎知識習得のために、「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)の「第1編第8章縄文社会崩壊のプロセス」の学習をしています。

この記事では縄文時代晩期後半の竪穴住居跡数衰退の理由記載等について学習します。

1 縄文時代晩期後半の竪穴住居跡数激減の様子

縄文時代晩期後半の竪穴住居跡数衰退の様子

2 縄文時代晩期後半の竪穴住居跡数衰退の理由

図書では竪穴住居跡数衰退の理由について次のように説明しています。

従来、弥生小海退と呼ばれていた寒冷化は、今日では後期後半から晩期初頭に相当するものと考えられる。
晩期初頭の遺跡数の減少は、この寒冷化と関連する可能性がある。
無論、遺跡数の減少や人口の減少の原因のすべてを、環境の変化に求める環境決定論的な立場によって縄文時代の繁栄や衰退を語ることは危険であるが、晩期初頭において、いわゆる亀ヶ岡式土器が汎列島的に分布する様相も注目すべきであろう。
散発的ながら九州や中国地方でも出土し、近畿地方での出土も決して珍しいことではない(図35)。
房総では晩期初頭以降、遺跡数に大きな変動はなく、衰退期が続くこととなったが、晩期終末から弥生時代前期の時間幅の中で遠賀川系土器・東海系条痕文土器などの他地方の土器の流入や、新たな葬制である壺棺再葬墓の採用など、新たな要素が加わる。
また、壺棺再葬墓の採用と同時に、焼畑農耕の可能性も示唆されている。
この様相は、まさに中期後半や後期中葉の衰退と再編成に相当するものであろう。
縄文時代的な衰退は、縄文時代的な再編成を生み出す。
広域な土器の分布はさまざまな情報が伝達されやすいシステムの上に成り立っていることから、弥生時代的要素の獲得を容易にする土壌を備えている。

この文章を自分なりに敷衍してまとめると次のようになります。

・晩期後半の衰退は寒冷化が要因である。したがって、3つの衰退期(中期後半、後期中葉、晩期後半)ともに寒冷化が要因である。
・3つの衰退期ともに遺構に新たな要素が加わり遠方との交流が密になっている。
・3つの衰退期ともに汎列島的規模の類似形式土器分布がみられ、列島規模で交流と人の移動が密になっている。

3 感想

3つの衰退期が寒冷化に関係していることはその通りだと思いますが、「寒冷化」という3つの漢字の言葉以上に具体的な情報がこの図書ではありません。

寒冷化による衰退メカニズムが3つとも同じであるとは考え難いので、その差異を知りたくなります。

3つの衰退期のうち、中期後半の衰退期の学習では第2波渡来民の移動と房総到着を想像しました。

ヒトゲノム研究成果を考古歴史に投影して、3つの衰退期ともに渡来民の移動と関連付けて考察してみることも価値があると考えます。

3つの衰退期ともに汎列島的規模の類似形式土器分布がみられるということですが、その情報を具体的に知ると、果たして、そこに人(渡来民)の西→東移動を想定できるような大局的情報を観察できるのか、出来ないのか、興味が湧きます。

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