天保の普請はお手伝い普請で、全国5大名に申し渡されました。難所は最も深く掘らなければならない横戸村-柏井村間(庄内藩担当)と化灯場の柏井村-花島村間(鳥取藩担当)でした。庄内藩以外はすべて人夫を雇って工事を進めましたが、庄内藩だけは地元鶴岡から藩領の農民1400人以上を徴集して土工に当たらせ、それだけは間に合わないのでさらに外部から人夫を雇いました。
上図は黒鍬者の労働の様子のイラストです。(続保定記 山形県平田町 久松俊一家文書、「天保期の印旛沼堀割普請(千葉市発行)」掲載)
「黒鍬者」は岩波日本史辞典(岩波書店)の同項3番目の説明に「各地の新田開発や川普請に従事した日雇人夫。尾張国などからの出稼ぎ人が多かったという」とあります。
図の説明文には土の重さ三、四十貫(水がつけば七十貫)目も担ぐとあります。(1貫=3.75キログラム)
「ハアドッコイショ」「アアヨイショ」という掛け声が書かれています。(「ハアドッコトショ」と刷られていますが、版木彫職人が「イ」を「ト」に間違ったものと推察されます。)
次の図は庄内役人と農民の労働イラストです。(続保定記 山形県平田町 久松俊一家文書、「天保期の印旛沼堀割普請(千葉市発行)」掲載)
庄内農民は担ぐことに慣れていないので、専ら背負うと説明されています。プロ土方と較べて華奢な感じがします。腰には社寺の御守護をぶら下げています。家族と別れて鶴岡から千葉まで徒歩で来て、なれぬ重労働に従事した一般農民の苦労が偲ばれます。
半ば強制的な団体労働に従事した徴集農民のうち19人が現場で病死したということです。
病死した農民の墓が現在も残っています。
「荘内大服部村百姓仁兵衛墓」と読み取れます。「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)収録の資料を見ると、大服部村百姓仁兵衛は天保14年(1843年)9月24日明方死亡、土葬、57才、戒名観阿道哲信士と確認できます。また横戸村神光明星寺(現存)宛ての「金二百疋仏供料 日牌之証文 為観阿道哲信士菩提」の内容も同書に掲載されています。
荘内大服部村百姓仁兵衛墓は下横戸共同墓地にひっそりと建っています。
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