花見川地峡の自然史と交通の記憶 10
1 吉田東伍著「利根治水論考」掲載の衣河流海古代(約千年)水脈想定図紹介
2011.11.08記事「余談」で復刻版でない吉田東伍著「利根治水論考」原本を入手した経緯を書きましたが、その「利根治水論考」に衣河流海古代(約千年)水脈想定図と明治時代の利根川水系の現況を示した中下利根水脈図が掲載されているので紹介します。
衣河流海古代(約千年)水脈想定図
吉田東伍著「利根治水論考」、日本歴史地理学会発行、明治43年12月1日
(画像を濃くしてあります。)
衣河(キヌガワ)とそれが流れ込む流海(ナガレウミ)の奈良・平安時代の水脈を想定したと本文中に説明があります。
この図に、印旛浦に流れ込む新川(平戸川)と東京湾に流れ込む花見川の水系が、近接している様子が描かれています。
印旛浦をふくむ流海一帯の植民に海の民・水上生活者がかかわり、中世になると平将門の乱の舞台ともなったことなどを知り、この内海に興味を深めつつあります。
この内海と東京湾の水系(花見川)が最も近づく場所の一つが花見川地峡です。
利根治水論考には、治水・利水以外の、流海と東京湾の交通等に関する記述はありませんでした。
中下利根水脈図
吉田東伍著「利根治水論考」、日本歴史地理学会発行、明治43年12月1日
(画像を濃くしてあります。)
吉田東伍の時代の利根川現況図です。
利根治水論考における花見川地峡に関する記述は印旛沼堀割普請と明治期の治水・利水に関わることです。お雇い外人技師のデレーケによる、花見川地峡を活用した運河構想など、興味深い記述があります。
2 このシリーズ名称の「船越」を「交通」に改める
これまで、このシリーズ名称を「花見川地峡の自然史と船越の記憶」としてきましたが、次の理由から、「花見川地峡の自然史と交通の記憶」に改めます。
1 花見川地峡を曳舟で越えたことがあると考えていますが、縄文海進時代に丸木舟を担いで越したというイメージで想定しています。地形的に曳舟(ロープとコロ使用)が可能な地形であったかどうか不明です。(曳舟の直接証拠をまだ見つけていません。)
2 船越という地名は花見川地峡にありません。
つづく
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