花見川地峡の自然史と交通の記憶 13
最近、集中的に情報収集して、中世の東海道の変遷については詳しく研究されていることを知りました。
A:上総国(大倉駅)-鳥取駅-山方駅-荒海駅-常陸国(榎浦津駅)
B:武蔵国(豊島駅)-井上駅(下総国府)-浮島駅-河曲駅-鳥取駅-山方駅-荒海駅-常陸国(榎浦津駅)
C:武蔵国(豊島駅)-井上駅(下総国府)-茜津駅-於賦駅-常陸国(榛谷駅)
次の図は「鈴木哲雄:中世関東の内海世界、2005、岩田書院」に掲載されている平安時代の東海道の路線図を単純化した図です。(花見川付近の河川名を書きくわえてあります。)
この図は上記Cの時代の東海道の姿を本道、支路、古道として表現しています。
ここに支路として表現されている井上(いかみ)駅、浮島(うきしま)駅、河曲(かわわ)駅の交通についてみると、いずれも東京湾沿いを通る東海道(陸路)と水運路の交点に駅が設定されていることが判ります。
井上駅は太日川の水運と、浮島駅(幕張)は花見川・平戸川(印旛沼)の水運と、河曲駅は都川・鹿島川(印旛沼)の水運との交点にあります。
これは水運と陸運を併用して東京湾と香取の海を結ぶという平安時代頃の交通のあり方の具体的姿であると思います。
浮島(幕張)に駅が設けられたのは、それが単に、井上と河曲の中間地点にあるという理由ではなく、浮島(幕張)に東京湾と香取の海を結ぶ水運路(一部陸路を含む花見川-花見川地峡-平戸川のルート)のミナトがあったからだと考えます。
この水運ルートの存在を示す資料上の情報はまだ見つけていませんが、水運と陸路の併用という平安時代の交通のあり方に関する研究成果(「鈴木哲雄:中世関東の内海世界、2005、岩田書院」)を私なりに咀嚼して、井上、浮島、河曲の交通機能を次の模式図のように考えます。
水運と陸運の併用模式図(仮説)
この模式図を利用して、花見川地峡の交通について、状況的にその存在仮説を語ることはできそうです。
また、都川-鹿島川の水運ルートについて調べると、花見川-平戸川ルートの情報もなにか出てくるかもしれないとの期待も持ちました。花見川-平戸川ルートよりも都川-鹿島川ルートの方が情報が多いと思います。
つづく
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