花見川地峡の自然史と交通の記憶 11
1 香取の海付近における古代の交通
最近、古代交通研究という専門ジャンルが存在し、かつて「古代交通研究」という専門誌が発行されていたことを知りました。
この専門誌を対象に、花見川地峡の交通について参考となるような研究を探したところ次の論文を見つけましたので、参考として紹介します。
山路直充(2003):「衣河の尻」と「香取の海」、古代交通研究第13号、p3~20
この論文に花見川地峡のことが述べられているわけではありませんが、花見川地峡の古代の交通について考えている私にとって、大変参考となるものです。
この論文では、古代(印波国造の本拠地が香取の海の要衝である長沼・根子名川流域を本拠地とした時代)の下総と武蔵との交通ルート(舟運ルート)として次の3つを考えています。
①香取の海-常陸川-印旛沼-鹿島川-千葉-東京湾
②香取の海-常陸川-手賀沼-大堀川-流山-江戸川(旧太日川)-東京湾
③香取の海-常陸川-逆川-江戸川(旧太日川)-東京湾
①と②のルートの場合は一部陸送、③のルートは逆川での引船を想定するとしています。
この3つのルートを吉田東伍著「利根治水論考」掲載の衣河流海古代(約千年)水脈想定図に、私がプロットすると次のようになります。
吉田東伍著「利根治水論考」掲載の衣河流海古代(約千年)水脈想定図に山路直充(2003)想定交通ルートをプロットした図
この図を見て、大まわりで長い陸行を要する①ルートがあるのならば、それより距離が短く、陸行の少ない、私が考えているルート(④のルート)が存在するという仮説について、その確からしさの信念を深めることが出来ました。
吉田東伍著「利根治水論考」掲載の衣河流海古代(約千年)水脈想定図に山路直充(2003)想定交通ルートと私の考えるルートをプロットした図
私の考えるルート
④香取の海-常陸川-印旛沼-新川(平戸川)-花見川地峡-花見川-東京湾
この論文では、陸上交通と香取の海とのかかわりも検討していて、下総国と常陸国を結ぶ駅路について次の3つのルートを想定しています。
A:上総国(大倉駅)-鳥取駅-山方駅-荒海駅-常陸国(榎浦津駅)
B:武蔵国(豊島駅)-井上駅(下総国府)-浮島駅-河曲駅-鳥取駅-山方駅-荒海駅-常陸国(榎浦津駅)
C:武蔵国(豊島駅)-井上駅(下総国府)-茜津駅-於賦駅-常陸国(榛谷駅)
そしてA→B(771年)、B→C(805年)とルートが変遷し、それは下総と武蔵との交通ルート(舟運ルート)が①→②へ変遷したことであるとしています。そのルート変遷は印波国と王権との海上権益に関わる関係変化との対応で検討しています。
説明図
山路直充(2003):「衣河の尻」と「香取の海」、古代交通研究第13号
この論文のおかげで、古代交通研究というジャンルに接触することができ、花見川地峡の交通に関する私の仮説を、世の中に存在する他の考え・情報と対比しながら考えることができるかもしれないという感触を得ました。
2 自然史的情報の発信の大切さ
なお、この論文を含め、これまでに花見川地峡の交通について論じた著作にほとんど遭遇していませんが、その理由の大きなものとして、次の2点の存在を強く感じるようになりました。
1 花見川地峡に存在する特殊地形(河川争奪による東京湾水系の深く長い谷、印旛沼水系との谷中分水界)を、自然・人文の専門家を含め、世の中の誰も知らないこと。
2 花見川地峡が印旛沼堀割普請の舞台となり、人工改変によりそこに存在した特殊地形の多くが失われたことと、普請の歴史的印象が強烈なため、印旛沼堀割普請以前の自然や歴史について、自然・人文の専門家が興味を持つ環境にないこと。
このことから、花見川地峡の交通を論じる大前提として、花見川地峡に関する自然史的検討(例 縄文海進分布)を深め、その情報を自分だけが知っているのではなく、誰でもわかるような情報として表現し、世の中に発信する必要性を痛感しました。
つづく
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