2011年3月2日水曜日

縄文海進時の近隣流域の様子

            縄文海進時の近隣流域の様子
            同じ範囲の地形図
 花見川中流域の縄文海進の様子を知るために作成した情報を縮小表示して、近隣流域の状況を見ました。
 東京湾岸を見ると、花見川の北西に(図が欠けていますが)船橋の海老川の湾入部が、南東に都川の湾入部があります。海老川の湾の周りには貝塚があり、花輪の地名が残されました。花見川の湾の周りにも沢山の貝塚があり、花見、花島、亥鼻の地名が残されました。都川の湾の周りにも加曾利貝塚をはじめ沢山の貝塚があり、亥鼻の地名が残されました。柳田國男によれば「花」や「鼻」の地名はアイヌの言葉を話す人が高台を意識してつけた地名だそうです。縄文時代の海進で出来た、これら3つの湾入部でアイヌの言葉を話す人々が漁猟や狩猟の生活をどのように行っていたか、上図を見ているといつまでも想像してしまって、時間があっという間にたってしまいます。当時は緑に塗った部分(標高10m以上)は実際に原生林が繁茂していて、青系統で塗った部分(想定した海面部分)が谷の奥深くまで侵入していたと考えられるので、その自然の豊かさや景観の美しさは現代人には想像を絶するものです。
 なお、印旛沼も内陸奥深く侵入した海であり、最奥部は東京湾側の湾入部と直線距離で5キロほどしかありません。印旛沼を生活領域としていた人々と東京湾を生活領域としていた人々がどのように交流していたかなど、この図をみているといつまでも興味が尽きません。

0 件のコメント:

コメントを投稿