2015年4月29日水曜日

八千代市白幡前遺跡 ハマグリを食った場所はどこか

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.119 八千代市白幡前遺跡 ハマグリを食った場所はどこか

八千代市白幡前遺跡からハマグリをメインとする貝層が出土してますので、検討します。

1 これまでの検討
2015.03.23記事「ハマグリを食ったのは誰か」では、平戸川筋(現在の新川筋)古代遺跡から多量のハマグリが出土していることについて、蝦夷戦争のための戦略的兵站業務(戦略物資生産・供出、輸送支援等)に日夜邁進している(銙帯を付けた)官人がハマグリを食ったのではないかと検討しました。

銙帯出土遺跡とハマグリ出土遺跡

2 八千代市白幡前遺跡における貝層出土状況
白幡前遺跡貝類出土遺構を地図にまとめてみました。

白幡前遺跡貝類出土遺構

この地図からきわめて特徴的な情報を引き出すことができますので、次項以降にまとめてみました。

3 ハマグリ出土の偏在性
掘立柱建物150棟、竪穴住居279軒の遺構が検出されていますが、貝層出土遺構は少量出土遺構もふくめて、わずかに15箇所です。建物数にたいしてその偏在性は大変特徴的です。

次の図は以前検討した千葉市上ノ台遺跡(古墳時代後期)の貝層出土竪穴住居跡分布図です。

参考 上ノ台遺跡 貝層と魚骨出土分布図
この分布からは、竪穴住居跡300超の集落で、その住民がこぞってハマグリを食べ、それを廃滅した竪穴住居跡のゴミ捨て場に捨てた様子が示されています。

このような一般住民がハマグリを食っていた様子と較べると、白幡前遺跡では特定の選ばれた人間しかハマグリを食っていなかったことは明白です。

4 貝類特別多量出土遺構P138土壙(井戸)のあるべき所属ゾーンの検証
貝類特別多量出土遺構は1BゾーンのP138土壙(井戸)1箇所です。

土壙(井戸)の年代は不明とされていますが、報告書中では、共伴する土器は3期(9世紀初頭)であり、3期に廃滅したとしています。従って、貝類の廃棄も3期であることがわかります。

報告書では「北側から多量の貝が廃棄されており、その量は埋土全体の約1/3を占める。貝層は中心部で1mを超し、ほぼ純貝層と言えるものである。断面の観察から8層の分層が可能で、それぞれの層は廃棄の単位を示していると考えられる。」と記述し、0.16m3サンプルを6つ取り出し、その貝リストを掲載しています。
サンプルの主な貝は次の通りです。

ハマグリ 19637
シオフキ 10310
他13種

P138土壙(井戸)は、報告書では1Bゾーンに入っていますが、プロット図に示したように、1Bゾーン主部(掘立柱建物群)から200m程離れてしまいます。また1Bゾーン主部からこの土壙(井戸)に来るには坂を上ることになります。

また、P138土壙(井戸)は2Aゾーンに隣接し、2Aゾーンが使っていた段丘崖斜面の途中にある井戸跡であると考えられます。

このような地理的・地形的情報から、P138土壙(井戸)は2Aゾーンとの関わりで考えるべきことが、判明します。

(P138土壙(井戸)は北側から埋め立てられているということは、斜面にある井戸ですから、斜面下側の位置、つまり井戸の北側に井戸の入り口があったと想定でき、その入り口から埋め立てられたと考えられます。従って、北側から埋め立てられたということは、井戸北側にある1Bゾーン主部から廃棄物が運ばれてきたということを意味しません。)

情報を地図にプロットすることによって、情報が「見える化」するという典型例です。

結果として、P138土壙のハマグリは2Aゾーン(寺院ゾーン)で消費された貝類の廃棄物であることが判明しました。

これまで、報告書を読んでいる時は、P138土壙の大量ハマグリは1Bゾーンに想定する司令部や高級将官逗留に関わるものであると、てっきり考えていましたが、その想定は完全に覆りました。

1Bゾーンの主部には5箇所のハマグリが少量出土する遺構があり、司令部や高級将官逗留に関わるハマグリはそちらが対応するのです。

5 P138土壙ハマグリと関連する特別遺構H066

P138土壙付近の1Bゾーンと2Aゾーンの遺構配置を地図にすると次のようになります。

P138土壙付近の1Bゾーンと2Aゾーンの遺構配置図

P138土壙を2Aゾーンとの関係で把握すると、なんとH066 3間×3間総柱構造掘立柱建物のすぐ近くに3箇所の貝層出土遺構が集中している様が浮かび上がります。

H066 3間×3間総柱構造掘立柱建物から10mの場所にD140貝層多量出土遺構、20mの場所にD136貝層少量出土遺構、30mの場所にP138貝層特別多量出土遺構が存在します。

H066の直近に3箇所の貝層出土遺構が存在する意義を考えることは多くの情報をもたらすことになると思います。

遺跡発掘調査報告書ではH066を次のように記述しています。

「総柱構造の建物は白幡前遺跡全体でも非常に少なく…H066は3間×3間という規模を有し、束柱の掘り方もかなりしっかりしている。H066は収納施設として妥当と考える。」
「H066は1棟だけ他の掘立柱建物から離れて位置するが、周辺の竪穴住居跡は3期後半以前の構築であり、H066を取り囲むように配置されている。H066についてもH069(※)と同時期に存在していたと考えられる。」
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)より引用
※周溝内の身舎部分が3間×2間四面廂付総柱構造掘立柱建物。

報告書では、H066は周溝を巡らした寺院施設から1棟だけ離れている、さらに寺院のメイン施設であるH069より大きいにも関わらず「収納施設」と考えています。

私は「収納施設」であるとか、そうでないとか証拠をあげることができませんが、H066の直近に3つものハマグリ出土遺構があり、その一つは白幡前遺跡最大のハマグリ出土遺構であることから、H066のメイン機能はそこで大きな宴会が開かれたことにあると考えます。

具体的に想像するならば、律令国家中央から蝦夷戦争に向かう、あるいは都に戻る貴族等がこの場所で逗留し、地元兵站基地のリーダーから接待を受けたのだと思います。

貝層が8層になっているということですから、H066で連日宴会が開かれたという状況が8回あったということです。4人の中央貴族が都と陸奥国を往復したことを物語るものかもしれません。

空想力をたくましく考えれば、例えば、797年征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂が第5次の征夷軍(の一部)を率いてこの場所を通過し、その時H066に逗留して、連日宴会が催され、大量のハマグリが消費される。
帰途には蝦夷の首長である阿弖流為を捕えて都に向かい、再びこの八千代市白幡前遺跡H066に逗留し、日夜宴会が催されたということも、あながち荒唐無稽ではないと思います。

ミクロな観点でみると、H066は寺院周溝から離れていて、かつ寺院建築物より大きいのですから、寺院施設の一部と考えるより、中央貴族の逗留場所、接待施設と考えることが合理的思考であると考えます。

マクロな観点でみると、H066は寺院施設の直近であることからその文化性、宗教性、静謐な環境等で中央貴族の逗留場所として最適です。


2015年4月28日火曜日

習志野市小字分布図

小字地名データベース作成活用プロジェクト 9

習志野市小字地名データベースについて、2015.04.23記事「習志野市小字データベース完成」で報告しましたが、習志野市小字分布図が習志野市によって作成されていますので、参考として紹介します。

習志野市小字分布図は「習志野市史 別編 民俗」(習志野市発行)に付録として添付している大判地図です。
2014.03.20記事「「習志野市史 別編 民俗」紹介」参照

地図の名称は「第2編第1章第1節「環境と暮らし」付図 習志野市域の大字と小字名」です。
次のような説明が書かれています。
「習志野市議会文書「議決書四」1954所収「議会提出資料」に示された字名と字界線を図化している。地形的特徴を捉えるために旧版地形図を原図として用いた。」

大判地図をA3サイズで小分けにスキャンして主要部をつないで簡易的に作業図として複製してみました。

習志野市小字図(主要部複製)

データベースだけではその地理的位置が判りませんが、このような小字分布図が存在すると作成したデータベースの利用価値が一挙に高くなります。

参考までに2015.04.23記事「習志野市小字データベース完成」において検討した「地名の層序年表との対応」4つの語根型の位置をプロットしてみました。

語根型抽出結果

なお、データベースと小字図は小字情報の出典が異なると考えられ、詳細に比較すると異なる点があります。

小字はデータベースの方が詳細に区分けされているところがあります。
大字は次のような対応が見られ、小字図の方が歴史的情報を多く含んでいます。

●データベース(D)と小字図(K)の大字対応
津田沼(D)…久々田(K)
谷津(D)…谷津(K)
藤崎(D)…藤崎(K)
大久保(D)…大久保(K)
鷺沼(D)…鷺沼(K)
花咲・屋敷(D)…馬加(K)
実籾(D)…実籾(K)
なし(D)…愛宕(K)
なし(D)…安生津(K)


2015年4月27日月曜日

2015.04.27 花見川の藤

花見川堀割の藤が咲き出しました。5月初旬が満開になりそうです。

花見川の藤 普通モード
この写真は横戸緑地下で、藤は花見川西岸に広くみられます。

花見川の藤 アートモード

花見川の藤 アートモード
まだ藤の花が満開になっていないので色が淡く、新緑の淡い草色に溶け込んでしまってあまり目立ちません。数日経てば藤の花が輝くようになると期待しています。

昨年と一昨年も藤の花の記事を書いています。
2014.05.03記事「花見川の藤
2013.04.22記事「花見川堀割の見事な藤の花

今朝もフクロウを見かけました。

弁天橋から上流

弁天橋

2015年4月26日日曜日

船橋市小字地名データベース完成

小字地名データベース作成活用プロジェクト 8

1 船橋市小字地名データベースの作成
千葉県地名大辞典(角川書店)附録小字一覧のうち船橋市分の大字・小字の文字表記を電子化してエディタ上(※)でデータベースを作成しました。なお、船橋市分については大字にはルビがありますが、小字にはルビはありませんでした。

※ Excel上ではなくエディタ(WZ EDITOR 9)上でデータベースを作成する理由は番外編2015.04.22記事「WZ EDITOR 9 の俯瞰機能」参照
ただし、小字名等のカウントをする際にExcelは便利ですから、Excelにもデータを流し込んで、作業用のファイルは作成しています。

これで、千葉市、八千代市、習志野市、船橋市分の小字データベースが完成しました。
花見川流域に直接かかわる残り四街道市、佐倉市の作業が済んだ段階で、中間的考察を予定します。

小字地名データベース作成市町村(2015.04.26)

2 船橋市小字地名データベースの諸元と試用
2-1 船橋市小字地名の諸元
・大字数 101
・小字数 1342

2-2 試用 地名の層序年表との対応
「地名の語源」(鏡味完二・鏡味明克、昭和52年、角川書店)掲載の「地名の層序年表」(※)との対応を調べると、21の語根型のうち、次の6つの語根型が出現しました。
※ 2015.04.10記事「千葉市小字地名の層序学」参照
……………………………………………………………………
船橋市小字地名データベースから抽出した語根型別地名

【先史地名】
●田所
古和釜町 田所

【古代地名】
●~部
~部ではありませんが、もし「ベシロ」と読む地名なら関連が疑われる地名です。
米ガ崎町 部代

●別所
田喜野井町 大別所、中別所、小別所

●~屋敷
三咲町 屋敷裏西側
藤原一丁目 中屋敷
藤原三丁目 元屋敷
丸山町 元屋敷、古屋敷
前貝塚町 屋敷下
行田町 紙屋敷
大神保町 屋敷下

【近世地名】
●~宿
宮本一丁目 本宿、入作本宿
宮本二丁目 横宿
宮本四丁目 上宿
宮本五丁目 下宿、上宿
宮本六丁目 台宿、原宿

●~新田
本町一丁目 松遠新田
海神町南一丁目 巳新田、未新田
海神町三丁目 松遠新田、未新田
海神町四丁目 未新田
海神町五丁目 未新田
印内町 新田前
小栗原町六丁目 新田前
三咲町 神保新田
旭町 新田道
大穴町 新田前、新田台

2015年4月25日土曜日

出土銙帯分布からわかること 追補

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.118 出土銙帯分布からわかること 追補

2015.04.24記事「八千代市白幡前遺跡 出土銙帯分布からわかること」を追補します。

銙帯出土地点がすべて掘立柱建物群の間近であることは既に述べましたが、あらためて銙帯出土と掘立柱建物との関係を考察します。

次の図は銙帯出土分布図と建物統計グラフ図を並べたものです。

白幡前遺跡出土銙帯と竪穴住居跡と掘立柱建物跡の比

竪穴住居跡/掘立柱建物跡の比が大きい2Bゾーンと2Cゾーンからは銙帯が出土していません。このゾーンは掘立柱建物が少なく、一般農業集落的性格が強いと考えました。
官人は居住していなかったのだと思います。

2Aゾーンは寺院施設がありますから御堂や収納施設や人が居住する掘立柱建物があったものと想定します。銙帯が出土しないことは、寺院施設であることから官人が常駐していなかったこととして説明できます。

他のゾーンは竪穴住居跡/掘立柱建物跡の比が小さく(竪穴住居に対して掘立柱建物が多く)、2Dゾーンを除き全て銙帯が出土します。官人が居住していたと考えられます。

さて、「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)では1Bゾーンについてのみ、竪穴住居跡の覆土層からの出土遺物の量が多すぎるので、近くの掘立柱建物に人が居住していたことを推定しています。

しかし、銙帯が出土したゾーンは出土しないゾーン(2B、2C)と比べて掘立柱建物が多いのですから、銙帯出土ゾーンの掘立柱建物は官人の居住に利用されていたと考えて不都合はないとかんがえます。
不都合はないと消極的に考えるよりも、積極的に銙帯出土ゾーンの掘立柱建物の一部は官人の居住用であったと考えるべきものだと思います。銙帯は全て、掘立柱建物跡の直近ゴミ捨て場(竪穴住居跡覆土層)から出土しているのですから。

2Dゾーンからはたまたま銙帯は出土していませんが、近隣の2E、2F、3ゾーンと同じように官人居住ゾーンと考えてよいと思います。

次の表は、2Bゾーン、2Cゾーンの掘立柱建物がゾーン維持のためのベーシックな倉庫であり、同様の倉庫は各ゾーンとも同じような数量で必要としたと仮に考えた時、それ以上の掘立柱建物を有する場合、それは居住や業務用として用いられたと考えた場合の試算表です。

2B、2Cゾーンの掘立柱建物数がゾーン維持ベース倉庫棟数であると考えた時の想定

このように想定してみると、白幡前遺跡ではゾーン維持ベース倉庫棟数より、居住用及び業務用建物のほうが多いことがわかります。

また、銙帯出土ゾーンは1Bゾーンと3ゾーンが特段の業務中枢機能を担う官人の居住が想定され、1Aゾーン、2Eゾーン、2Fゾーンは部隊を引き連れた官人の居住が想定されます。

2015年4月24日金曜日

八千代市白幡前遺跡 出土銙帯分布からわかること

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.117 八千代市白幡前遺跡 出土銙帯分布からわかること

1 八千代市白幡前遺跡の銙帯出土状況
次に、八千代市白幡前遺跡の銙帯出土状況をまとめてみました。

白幡前遺跡出土銙帯
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編、図面編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)より作成
銙帯スケッチは図面編より引用

銙帯出土ゾーンは1A、1B、2E、2F、3です。

銙帯は全て竪穴住居跡の覆土層から出土しています。(ゴミ捨て場に混じって捨てられたような出土状況)

全ての銙帯出土遺構がそのゾーンの掘立柱建物群の直近であることが大きな特徴です。

1Bゾーンの掘立柱建物群は人が居住していたと推定されています。その近くから銙帯が出土したのですから、掘立柱建物群に支配層(リーダー層)としての官人が居住していて、その場所が司令部等の重要な機能を果たしていたと推定できます。

1Aゾーンの出土遺構の直近には掘立柱建物群とともに、馬2頭と人1人が捨てられた9世紀土坑があります。
官人が居住していた場所が武力抗争の始末場所でもあったことがわかります。相手集団殺害を官人居住場所つまりゾーンの核となる場所で、見せしめとして行いその場に埋めたことを想像できます。

2Eゾーンの建物群はその方向など強く規制されていることが特徴ですが、そのゾーンから銙帯が出土したことは、そのゾーン開発を官人が行なった(指導した)ことを示す有力な証拠です。

2Fゾーンの開発も官人によって行われたと考えることができます。

3ゾーンは集落全体(基地全体)に関わる倉庫群であると考えれていますが、その建設・管理に官人が関わったことを銙帯出土が示しています。

2 銙帯出土と建物指標からみたゾーン特性との対比
次の図は建物指標(竪穴住居跡と掘立柱建物跡の比)から見たゾーン特性です。

建物指標からみたゾーン特性
2015.04.15記事「八千代市白幡前遺跡 掘立柱建物を指標とした集落イメージの検討」参照

この図と銙帯出土状況を対比すると、寺院(2Aゾーン)とタスクフォースB(2B、2Cゾーン)[農業集団]からは銙帯が出土していなくて、タスクフォースA(1Aゾーン、2D、2E、2F)[軍事的・業務的集団]、司令部機能又は高級将官逗留施設(1Bゾーン)、備蓄倉庫管理警護(3ゾーン)からは1つを除き全ゾーンでと銙帯が出土していて、良く対応します。

この対応関係から、この集落を一般農業集落と捉えることの蓋然性が低く、律令国家が計画的に設置した軍事兵站・輸送基地であると捉えることの蓋然性が高いことを確認できます。

3 銙帯出土遺構の時期
次に銙帯出土遺構(竪穴住居跡)の時期を図に書きこんでみました。

白幡前遺跡出土銙帯 出土遺構の時期
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編、図面編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)より作成
銙帯スケッチは図面編より引用
スケッチに時期を書きこんでありますが、時期はその銙帯が出土した遺構の時期を示しています

時期は次のように区分されています。

白幡前遺跡及び近隣遺跡の竪穴住居消長

1Aゾーン及び2Aゾーン出土銙帯の時期は4b期と5期です。

9世紀前半から9世紀中葉です。

集落(=基地)の機能が最大限発揮されていたと考えられる頃です。

銙帯出土は集落(=基地)の機能発揮に官人が枢要な働きをしていたことの証明資料になります。

2Fゾーン、2Eゾーン、3ゾーン出土銙帯の時期は2期及び3期です。

8世紀後半から9世紀初頭です。

これらのゾーンは後半期(4期以降)に最盛期を迎えますが、銙帯の出土はそれらゾーンの最初の建設期に官人が関わったことの直接証明資料になると考えます。

2015年4月23日木曜日

習志野市小字地名データベース完成

小字地名データベース作成活用プロジェクト 7

1 習志野小字地名データベースの作成
千葉県地名大辞典(角川書店)附録小字一覧のうち習志野市分の大字・小字の文字表記を電子化してエディタ上(※)でデータベースを作成しました。なお、習志野市分についてはルビはありませんでした。

※ Excel上ではなくエディタ(WZ EDITOR 9)上でデータベースを作成する理由は番外編2015.04.22記事「WZ EDITOR 9 の俯瞰機能」参照

これで、千葉市、八千代市、習志野市分の小字データベースが完成しました。

小字地名データベース作成市町村(2015.04.23)

2 習志野市小字地名データベースの諸元と試用
2-1 習志野市小字地名の諸元
・大字数 7 (大字に「花咲・屋敷」表記があり、暫定的に1つの大字として扱っている)
・小字数 168

2-2 試用 地名の層序年表との対応
「地名の語源」(鏡味完二・鏡味明克、昭和52年、角川書店)掲載の「地名の層序年表」(※)との対応を調べると、21の語根型のうち、次の4つの語根型が出現しました。
※ 2015.04.10記事「千葉市小字地名の層序学」参照
……………………………………………………………………
習志野市小字地名データベースから抽出した語根型別地名
【古代地名】
●~の庄
直接的な「~の庄」ではありませんが、庄司が出現しています。
谷津 中庄司池、上庄司池、下庄司池

参考
しょう‐じ シャウ‥【荘司・庄司】
〖名〗 荘園領主から任命され、荘園を管理し、荘園内の一切の雑務をつかさどった役人。荘官。荘のつかさ。
※正倉院文書‐天平宝字六年(762)三月・造石山寺所牒「造石山寺所牒 坂田庄司」
※平家(13C前)五「畠山の庄司重能〈略〉大番役にて、おりふし在京したりけり」
『精選版 日本語国語大辞典』 小学館

●~屋敷
花咲・屋敷 屋敷台

【近世地名】
●~宿
津田沼 下宿、浜宿
谷津 上浜宿、下浜宿
実籾 上宿、下宿

●新田
谷津 伊藤新田
花咲・屋敷 新田台

……………………………………………………………………
なお、大字実籾は2015.03.30記事「奈良の都への供米のための水田開発」で奈良時代地名であることを検討しました。

2015年4月22日水曜日

遺跡文献の悉皆閲覧活動の途中感想

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.116 遺跡文献の悉皆閲覧活動の途中感想

花見川-平戸川筋の古代(古墳、奈良、平安時代)遺跡(全部で300遺跡程)の発掘調査報告書の悉皆閲覧活動を展開しています。2015.01.18記事「遺跡文献の悉皆閲覧計画」参照

その途中の感想をメモしておきます。

1 遺跡文献検索方法の見立てを誤る
遺跡文献検索方法の最初の見立てを誤りました。

最初は次の遺跡文献検索方法が正道であると確信していました。

・ふさの国文化財ナビゲーション(千葉県教育委員会の遺跡情報データベース公開WEBサイト)で入手した古代遺跡情報に掲載されている文献情報(文献番号)を知る。(ふさの国文化財ナビゲーションでは文献番号がでているだけで、文献名称等の諸元はわかりません。)
・ふさの国文化財ナビゲーションの文献番号を「千葉県埋蔵文化財分布地図(改訂版)」(平成11年3月、千葉県教育委員会)の「文献」ページの文献リストの番号と照合して文献諸元情報を入手する。
・その文献諸元を使って図書館サイトで検索して、文献が所在する図書館に出かけて閲覧する。

実際にこの方法を実施してみると、とてつもなく非効率なうんざりする作業でした。

さらに元資料(「千葉県埋蔵文化財分布地図(改訂版)」(平成11年3月、千葉県教育委員会))に多数のケアレスミスがあり、非効率の2乗、3乗という状況になっています。

非効率の状況をブログ記事にしたほどです。(2014.12.25記事「玄蕃所遺跡発掘調査報告書を閲覧するまでの顛末」参照)

結局、この方法で遺跡文献を検索することは断念しました。

2 現在の検索閲覧方法
地元図書館(千葉市、八千代市など)のホームページで遺跡名称で検索して、ヒットする報告書を図書館に出かけ閲覧・コピーあるいは帯出しています。
この方法で漁りつくしたと感じるまで検索閲覧すると、大体ほとんどの資料を閲覧できることを体験的に知ることができました。
ふさの国文化財ナビゲーションには掲載されていない最新報告書も図書館では検索することができます。
この方法で花見川流域筋は大体終わり、平戸川筋の途中で現在は白幡前遺跡の報告書を閲覧しています。

3 図書館の制約に閲覧が大きく制約される
文献閲覧という場面では図書館の運営特性に大きく制約されてしまうことが問題です。
重要で興味をそそられる遺跡の文献は図書館で簡単にコピーできるようなものはそれでよいですが、大冊報告書になると自宅に持って帰らなければ閲覧(利用)できません。
報告書の情報をGISに転記したりする作業は図書館ではできません。
上ノ台遺跡は報告書を図書館から借り出し、延長を含めて約4週間借りて、その間にブログ記事を書きました。ラッキーです。

現在取り組んでいる八千代市白幡前遺跡の報告書(「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編、図版編、図面編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)3冊は千葉県内の公共図書館では千葉県立中央図書館、千葉市立中央図書館、八千代市立大和田図書館にしかありません。
そしてその3館ともに禁帯出本に指定されています。
さらに、私が奥の手で使う「一夜貸し」(※)の制度もこの3館にはありません。

※「一夜貸し」制度とは、禁帯出本を閉館間際時間に借りだし、翌日開館直後に返却する制度。多くの図書館で採用している。

結局、近隣の八千代市立大和田図書館で本編の古代部分をコピーしました。(2回に分けて130枚のコピーをとったのですが、そのコピーにもドラマがありましたが省略します。)

また、図版編や図面編を利用しようと思い、本日八千代市立大和田図書館に出かけたところ、図書館移転のため図書搬送中で7月まで利用できませんとのことでした。図書館ホームページにはそのような告知はなく、館長が「広報もしないで、すみません」とのことでした。

このような強い制約を受けるくらいなら、もしWEB古書店にあるなら購入したいと思いますが、残念ながら白幡前遺跡報告書の商品は以前から見つかっていません。

また、博物館等の専門機関で図書を貸し出しているところもないようです。

文献閲覧という場面で、図書館の運営特性に大きく制約・規制された状況下で活動しているのが現状です。

4 遺跡文献の共通特徴に気がつく
多数の遺跡発掘調査報告書を閲覧して、次のような共通特徴に気がつきました。
・遺構、遺物の観察と記述は時代を経るに従って精緻を極める。
・遺構、遺物の意義考察は想像以上に「控え目」である。

精緻を極める観察、記述は情報量が多いということです。その情報を使って分析しがいがあるということです。
一方、意義考察が「控え目」であるということも、分析考察の残り代が膨大であるということです。

5 情報を分析すれば宝の山
ようするに、遺跡発掘調査報告書は総じて、それを能動的に分析すれば豊かな情報源になるということがわかりました。
能動的に分析しないで、直接的に情報を得ようとすると、大した成果を得ることが出来ない代物です。

このブログでは次の情報操作(分析)を行い、有用情報を引き出そうとしています。

・情報の地図化…見える化
・地形情報と重ねる
・地名情報と重ねる

6 遺跡文献の電子化と公開の必要性
遺跡及びその文献についてその情報が電子化されてデータベースとなり、情報公開されれば、地域の考古歴史についての市民の認識が深まり、地域づくりの質が高まると思います。

社会として、次のような公共事業が必要であると考えます。
・遺跡データベースの公開、メンテナンス
・遺跡発掘報告書の電子化、データベース化、公開

20150422 今朝の花見川

2015年4月21日火曜日

八千代市白幡前遺跡 古代寺院関連地名

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.115 八千代市白幡前遺跡 古代寺院関連地名

八千代市白幡前遺跡の古代寺院に関連する地名を検討してみました。

1 白幡前遺跡ゾーンと「八千代市小字図」の対応図作成

白幡前遺跡ゾーンを「八千代市小字図」(「八千代市の歴史 資料編 近代・現代Ⅲ 石造文化財」(八千代市発行)別添附録)の該当域にプロットしてみました。

白幡前遺跡ゾーンと「八千代市小字図」の対応

2 白幡前遺跡付近の古代寺院関連地名(想定)

白幡前遺跡付近の古代寺院関連地名(想定)

●堂ノ後
ゾーン2Aに古代寺院跡があるのですが、そのすぐ北隣の小字が「堂ノ後(どうのあと)」となっています。「堂の跡」つまり御堂の跡という意味だと思います。寺院の御堂が存在したこを伝える9世紀頃付けられた地名であると考えます。

●寺谷津
古代寺院跡のすぐ西の小谷津の地名が「寺谷津(てらやつ)」となっています。白幡前遺跡古代寺院に由来する地名と見て間違いないと思います。近くだから付けられた名前というより、古代寺院がその谷津を開拓したというより積極的な意味があるものと感じます。

●坊山
「坊山(ぼうやま)」は僧侶が開拓した山という意味だと思います。古代寺院が土地の開拓に関わっていた(主導していた)ことを物語る情報だと考えます。

●寺の台
図に※印をかいた小字は名称が欠落しています。
一方、千葉県地名大辞典(角川書店)附録小字一覧の八千代市大字萱田の項では次の順番で小字リストが掲載されています。
…戸田下、牛食下、志津根、寺の台、井戸向、弁天作…
このリストの順番から、名称欠落小字の名称は「寺の台(てらのだい)」であると考えて間違いないと思います。
名称欠落は「八千代市小字図」の単純ミスです。

つまり寺谷津対岸の井戸向遺跡に「寺の台」という地名があるのです。
その地名付近から小金銅仏や「寺坏」「佛」といった墨書土器が出土しています。

白幡前遺跡の古代寺院と小谷津を挟んで対岸に寺院施設があったことを地名が伝えているのだと思います。

地名から、古代寺院が地域に深く根を下ろした様が浮かびあがりました。

3 古代事象・地物等の関連地名(想定)

古代事象・地物等の関連地名(想定)

●白幡前
白幡の意味として、以前の記事で次のように検討しました。
「白(シラ)は新羅(シラ、シンラ)=白羅(シラ、シンラ)であり、意味としては新羅(シラギ)であり、幡(旗)は秦氏であると考えました。」(2015.02.08記事「古墳時代の鍛冶遺跡-妙見信仰-秦氏」参照)

「白幡前」の地名が白幡前遺跡2Aゾーン(寺院存在)、2Bゾーン(寺院を支える集団?)の場所に該当しますから、白幡前遺跡の寺院ひいてはそのスポンサーである集落全体の支配者の出自が渡来人系である可能性が推察できます。

●牛喰
古代「殺牛祭神」の儀礼がそのまま地名として残ったのだと思います。貴重な文化情報を伝える地名です。
「殺牛祭神」は渡来系の人々によって行われたので、白幡地名と整合します。

佐伯有清(1967)「牛と古代人の生活-近代につながる牛殺しの習俗-」(日本歴史新書、至文堂)では、「殺牛祭神」について詳しく論じていますが、その信仰を「牛を殺し、その肉を食べ、酒を飲み、多くの男女が会集して、賑やかに項羽神的怨霊神を祭ることこそ、その祭りの核心」であるとしています。また、2度にわたり禁止令がだされた(延暦10年(791)、延暦20年(801))ことなどが詳しく書かれています。

佐伯有清(1967)「牛と古代人の生活-近代につながる牛殺しの習俗-」(日本歴史新書、至文堂)

小字「牛喰」から八千代市の知られざる古代社会の扉を開けることが出来るかもしれません。

●志津根
志津は市津であり、古代の津(港湾、船着場)の存在を伝えていると考えます。

●木戸浦
木戸は柵と木戸がある防備を固めた施設、つまり重要な官施設が在ったことを伝えていると考えます。

●萱田
古代地名、墨書土器で「草田」が出土していて、カヤタと読むとされています。

2015年4月20日月曜日

八千代市白幡前遺跡 「村落内寺院」は存在しない

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.114 八千代市白幡前遺跡 「村落内寺院」は存在しない

1 集落内寺院及び瓦塔
白幡前遺跡の集落内寺院及び瓦塔について「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)の記述を引用して紹介します。

「村落内寺院」は、集落のほぼ中央の2A群に位置している(図7)。

図7 白幡前遺跡の村落内寺院

「村落内寺院」が含まれる建物群は、竪穴住居跡37軒、掘立柱建物跡19棟から構成され、その中に、3×2間の身舎(もや)に四面の廂がついたH069という掘立柱建物跡を中心として、周囲を溝(M021)で区画した一画がある。この区画内から掘立柱建物跡10棟、竪穴住居跡10軒が検出された。この区画を「村落内寺院」とする根拠として、四面廂付建物の存在とともに、周囲を区画する溝状遺構を横断して掘られた溝状遺構と区画内竪穴住居跡から瓦塔(がとう)が出土したことがあげられる(写真3)。


写真3 白幡前遺跡出土の瓦塔

さらに周辺の遺構から「佛」と墨書された鉢や壺、「寺坏」と読めるロクロ土師器坏が出土したことは、さらにそれを裏付けるものである。また溝による区画の外側に3×3間の総柱構造の掘立柱建物跡があり、収納施設と考えることができる。

瓦塔は、溝状遺構(M034)及び竪穴住居跡(D126、D128)から出土しており、最低3個体が確認されている。これらの瓦塔は柱部分に朱を塗り、壁は白土で化粧しており、本格的な寺院建築を模倣している。その内訳は、塔が2個体、堂が1個体で、焼成の具合からこのうち2個体が塔と堂のセットであったと考えられる。また、出土した遺構の前後関係から、瓦塔にも前後関係があることが確実で、8世紀後半から9世紀前半にかけて新しいものと交換されたと推定できる。なお、区画内の竪穴住居跡の出土物から、「村落内寺院」は8世紀後半には機能していたようで、9世紀中葉頃に廃絶したのではないかと思われる。

このほか「村落内寺院」の北側の建物群からも瓦塔が出土している。出土地点は、「村落内寺院」の区画溝から北に100mほど離れた所で、同一個体とみられる塔の破片がある。

萱田遺跡群には、北海道遺跡出土の「勝光寺」という墨書土器、井戸向遺跡出土の仏像や「寺坏」「佛」といった墨書土器、そして白幡前遺跡の「村落内寺院」と瓦塔というように、仏教的な遺構や遺物が点在している。本来、白幡前遺跡に存在する「村落内寺院」を中核としていた仏教信仰が、個々の建物群を舞台に広がっていったものと理解できるが、どの程度の独自性をもって広がったものかは検討の余地がある。」「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から図・文章引用

参考 瓦塔、瓦堂のイメージ

井戸向遺跡から出土した小金銅仏

本来、白幡前遺跡出土瓦塔に納められていたものであるのかもしれません。(※ 地名の分析から井戸向遺跡にも寺院施設存在が濃厚となりましたので、打消し線を引きます。2015.04.21追記)

2 集落内寺院に関する考察
2-1 「「村落内寺院」は存在しない」という指摘
石田広美・小林信一・糸原清(1997)「古代仏教遺跡の諸問題-重要遺跡確認調査の成果と課題1-」(千葉県文化財センター研究紀要18)のまとめに「「村落内寺院」は存在しない」という小見出しで次のような記述があります。

最初に寺院が建立される。初期寺院は当然としても所謂「村内寺院」においてもこれはあてはまる。
従来「村落内寺院」と言われてきたものには一般の村落ではなく、寺院を支える機能を有する「村落」も含まれている。
言い換えれば寺院の付属施設である。初期寺院、国分寺と違い明確な伽藍区画をもたないために、また近接して竪穴住居、掘立柱建物が営まれたための誤解なのである。
萩ノ原遺跡(「寺」「寺塔」)、東郷台遺跡(「寺」)、永吉台遺跡群遠寺原地区く「士寺」「山寺」)、山田台廃寺跡、白幡前遺跡(「大寺」)、郷部・加良部遺跡(「忍保寺」「大寺」「新寺」)、山口遺跡(「忠寺」)などは独立した寺院として存在していたのである。
ただし、須田勉が提唱した「村落内寺院」は以上のような遺跡ではなく一般村落において堂のみが存在する「寺院」や仏教関速遺物を出土する村落において使用できる用語ではある。
しかしながらその定義付けは根本的な変更が必要になる。

要約すると、白幡前遺跡のような寺院は既存集落から独立した寺院であり、その寺院を支える「村落」を従えていた、ということになります。

白幡前遺跡2Aゾーンの寺院はもともとその周辺にあった村落の内部から育ったようなものではなく、いわば計画的に設置されたものであり、その寺院を支える同じく計画的に配置された村落がその近くに存在すると考えるべきだという思考です。

このブログで考えている白幡前遺跡の出自(兵站基地として計画的に配置された)と合致する(整合する)思考方法です。

遺跡発掘調査報告書(「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター))で使われている「村落内寺院」という言葉が、村落の発展の中で生まれた寺院という印象を持つので、このブログではこれまで意識的に避けてきました。

その言葉の代わりに、遺跡全体を集落として捉え、集落内寺院(集落区域内=遺跡区域内に存在する寺院)という言葉を使ってきましたが、上記論文の記述から自分が形成した寺院イメージが正しいことがわかりました。
(さらに、1で引用した「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)の文章中「村落内寺院」と鍵カッコを付けている理由もわかりました。)

またこのブログでは、寺院のある2Aゾーンに隣接する2Bゾーンを、掘立柱建物の比率が小さいことや墨書土器の出土が少ないことから「一般農業集落的性格の強い集団の居住地だったような印象を受けます。近くの谷津における水田耕作や台地における麻栽培などに従事していたのかもしれません。」(2015.04.15記事「八千代市白幡前遺跡 掘立柱建物を指標とした集落イメージの検討」)と記述しました。

この記述は、2Aゾーン(寺院)を支える機能として2Bゾーンが配置されたと考えることの裏付けになる情報になる可能性が濃厚となりました。

参考 竪穴住居消長からみたゾーンの活動活発時期区分

これまで、2Bゾーンが食料生産部隊だとすると、それは集落全体(基地全体)のためであるに違いないと考えてきましたが、そうではなく、2Aゾーンのためであると考えを変更することになります。

思考をさらに発展させれば、これまで寺院を主として戦勝祈願・士気鼓舞施設として考えてきましたが、もっと広い視野から、例えば僧侶の力を借りて食料生産など基地維持運営に必要な地域開発を推進する社会装置として考えることも必要であると感じるようになりました。

遺跡(集落=軍事兵站・輸送基地)のなかで寺院の占める役割が自分が考えていた以上に大きなものであることがわかりました。

この論文(石田広美・小林信一・糸原清(1997)「古代仏教遺跡の諸問題-重要遺跡確認調査の成果と課題1-」(千葉県文化財センター研究紀要18))から刺激を受け、兵站基地と寺院がセットで存在している理由や意義についてより一層興味が深まりました。

また、白幡前遺跡が「一般農業集落」ではないことがますます明白になりました。

つづく
予定(2-2 小字「寺谷津」について、2-3 寺院廃絶の理由)

フクロウを追いたてる小鳥

キーキー鋭い小鳥の鳴き声がするので上空を見ると、小鳥がフクロウを追いたてていて、フクロウは東岸から西岸にゆっくりと移動していました。

小鳥の種類は判りませんが大きさはヒヨドリとかツグミくらいの大きさです。

小鳥がフクロウを追い立てる様子

花見川東岸には未舗装サイクリングロードがあり、フクロウはこの谷津縦断方向飛翔が可能な空間を横断するネズミやモグラを狙っていることは過去の観察から判っています。

今朝の散歩はいつもより少し早かったので、フクロウに出会えたのだと思います。写真の時刻は5:12となっています。

……………………………………………………………………
アクションカメラを装着していれば、上記光景を画像(動画)に撮れたと思います。

散歩の時にアクションカメラ(ウエアラブルカメラ)を使いたいと考えてから1年経ちます。(2014.05.20記事「初夏の花見川」参照)

しかし、頭部に筒状のカメラを装着して散歩する光景を想像すると、やはり「異常」な散歩になってしまいます。

行き交う散歩する人が気がつかない程度の、普通の散歩姿であることが可能なカメラ(で1時間程度の動画連続撮影可能カメラ)が見つかれば、導入したいと思います。

2015年4月19日日曜日

八千代市白幡前遺跡 馬2頭と人1人が捨てられた9世紀土坑

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.113 八千代市白幡前遺跡 馬2頭と人1人が捨てられた9世紀土坑

「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)に馬2頭と人1人が捨てられた土坑の情報が掲載されていますので、紹介するとともに、このブログなりに検討してみます。

1 出土遺物の概要と報告書における考察
土坑P-168からウマ2頭とヒト1体に関わる骨が出土しています。

土坑P-168の位置

土坑P-168は1Aゾーンの中央付近に存在します。台地面から1段低くなっている河岸段丘面に位置し、当初建設された兵站・輸送機能地区内に位置します。

土坑P168 ウマ遺存体の出土状況

この土坑出土ウマ骨とヒト骨(大腿骨左右)について報告書では次のような考察を行っています。
・「ウマの形質は在来小型馬に近いと考えられる。」

・「この土坑は、発掘時の所見によると、掘られてから比較的短時間で埋められたということであるので、死体の始末のために掘られ、埋め戻されたのであろう。」

・「この土坑は平安時代、9世紀のものである。少なくとも2頭の若いウマや、1人の人間がまとめて捨てられる(埋葬される)のは、事故または疾病と考えるよりも、なんらかの戦乱に伴う犠牲者と見てよいだろう。中・近世の戦乱の多かった時代ならいざしらず、この地方にも、なんらかの抗争が存在し、犠牲者はウマとともにこの大きな土坑に埋められたのであろう。供献と考えられる遺物は出土しておらず、死亡の後にすみやかに埋められたものと考えられる。」

2 考察
白幡前遺跡は9ゾーンに分けて考えることが出来、それはさらに8世紀代に活動が活発なゾーンと9世紀代に活動が活発なゾーンに分けて考えることができます。

8世紀代に活動が活発であった2Aゾーンには周溝を巡らした寺院が出土していますが、9世紀代になると寺院は廃絶し、周溝は新たな道路のよって切られてしまいます。

寺院の廃絶は寺院のスポンサーであった地元支配者の力が凋落したことによる可能性を感じます。2015.04.17記事「八千代市白幡前遺跡 竪穴住居消長を指標とした活動活発時期イメージ」の追記参照

このように8世紀代と9世紀代で集落内活動活発場所が異なることや8世紀寺院が9世紀に廃絶すことから、集落統治政策が抜本的に変更になったことは確実です。そしてその背後に、集落支配の権力者が交替した可能性を感じます。

集落支配の権力者交替があったとすれば、そしてその際に武力が用いられたとすれば、土坑P-168からウマ・ヒト骨が出土することと整合します。

集落内権力闘争、つまり蝦夷戦争のための軍事兵站・輸送基地内権力闘争があったとすれば、それは単にこの集落独自の出来事というよりも、律令国家中央の権力闘争の下総国版、あるいは花見川-平戸川筋版といっていいようなものである可能性が濃厚になります。

8世紀代と9世紀代の遺構・遺物の変化をより詳しく把握し、上記のような見立ての確からしさをさらに検討したいと思います。

2015年4月18日土曜日

八千代市萱田地区遺跡 軍事兵站・輸送基地発展の様子(想定)

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.112 八千代市萱田地区遺跡 軍事兵站・輸送基地発展の様子(想定)

1 萱田地区の「竪穴住居消長から見たゾーンの活動活発時期区分」図の作成
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)に萱田地区遺跡の竪穴住居消長図が掲載されています。
その情報は2015.04.17記事「八千代市白幡前遺跡 竪穴住居消長を指標とした活動活発時期イメージ」で紹介し、遺跡ゾーンについてその活動が活発であった時期を前半期(主に8世紀代をイメージ)と後半期(主に9世紀代をイメージ)のものに2分して捉えました。

その情報情報に基づいて萱田地区の「竪穴住居消長から見たゾーンの活動活発時期区分」図を作成しました。

竪穴住居消長から見たゾーンの活動活発時期区分

この図を見ると発掘調査行政における区分はともあれ、白幡前遺跡と井戸向遺跡が寺谷津を取り囲む一体の遺跡(集落)であることに気がつきました。また権現後遺跡と北海道遺跡やヲサル遺跡も同じように須久茂谷津を取り囲む一体の遺跡(集落)であると考えることができます。

2 萱田地区奈良・平安時代遺跡と地形との関係
この付近の地形段彩図とその特徴を次に示します。

標高8~15mの河岸段丘と谷津出口

この図で谷津出口とは平戸川(新川)谷底(海かそれに近い流れのある低湿地)において流れの影になる場所であり、船着場として最適な場所になります。

また、標高8~15mの河岸段丘はその船着場に面していて、谷底からの比高が少ない平坦地です。ですから、水運と関係する活動を行う場所としては最適な場所です。

この図と1で作成した「竪穴住居消長から見たゾーンの活動活発時期区分」図をオーバーレイして次の図を作成しました。

萱田地区奈良・平安時代遺跡と地形との関係

遺跡ゾーンの発展時期と地形との関係が浮き彫りになります。
この図を検討基礎図として使い、次の考察をしました。

3 白幡前遺跡-井戸向遺跡地区の軍事兵站・輸送基地発展の様子(想定)
白幡前遺跡と井戸向遺跡を一体の地区として捉えることと、遺跡ゾーンの活動活発時期と地形との関係を考慮して、次に白幡前遺跡-井戸向遺跡地区の軍事兵站・輸送基地発展の様子を想定してみました。

白幡前遺跡-井戸向遺跡地区の軍事兵站・輸送基地発展の様子(想定)

白幡前遺跡(集落)の様子(イメージ)がさらに具体的になりました。

イメージが具体的になればなるほど発掘調査報告書の個別情報や「千葉県の歴史」各巻記載事項との整合をチェックせざるを得なくなります。

そのチェックの中で、自分のつくったイメージを修正発展させていきます。

場合によっては専門家の思考の不備に気がつくこともあります。(例 白幡前遺跡を一般農業集落としてイメージすることなど)

2015年4月17日金曜日

八千代市白幡前遺跡 竪穴住居消長を指標とした活動活発時期イメージ

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.111 八千代市白幡前遺跡 竪穴住居消長を指標とした活動活発時期イメージ

「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)に竪穴住居消長図が掲載されています。

その図を使って、白幡前遺跡の各ゾーンの活動年代を検討してみます。

1 白幡前遺跡及び近隣遺跡の竪穴住居消長
報告書掲載竪穴住居消長図に、活動が活発であった時期を前半期(主に8世紀代頃をイメージ)のものと、後半期(主に9世紀代頃をイメージ)のものに2分して色分けしてみました。

白幡前遺跡及び近隣遺跡の竪穴住居消長

報告書ではゾーン別に詳細な記述を行っていますが、このブログではまず大局的に情報を知ることが必要だとおもいますので、このような情報咀嚼を行いました。

白幡前遺跡では白幡前1B、2A、2Bが0期あるいは1期に集落がスタートしていて、明瞭に前半期に活動活発であったことがわかります。

白幡前1Aは1期(8世紀中葉)に集落がスタートしていることから前半期のグループに入れました。

白幡前2C、2D、2E、2F、3はスタートが遅く、9世紀代に活動が活発です。

2 竪穴住居消長からみたゾーンの活動活発時期区分

1で得たざっくりした時代区分情報を地図上にプロットしてみました。

竪穴住居消長からみたゾーンの活動活発時期区分

ゾーン1A、1Bは台地面より1段低い河岸段丘上にあり、2A、2Bはそれに隣接する位置にあります。
ですから、最初に河岸段丘にメインの集落が形成され、その最初のメイン集落に隣接する台地上にも集落が拡がったと推定できます。

最初に形成された河岸段丘上の集落1A、1Bのメインの機能は軍事兵站・輸送業務機能に特化していたと想像します。

その理由は、寺谷津をターゲットにして水田耕作を目指した開発が行われたとすると、その開発場所は最初は谷津田の源頭部になり、順次手間がかかるようになる(治水や利水施設をつくる必要性が増すようになる)下流部は後回しになると考えるからです。

また、奈良時代では平戸川(現在の新川)谷底は海かそれに近い湿地であり水田耕作対象になる土地ではありえなかったと考えられます。

ゾーン1Aの近くには恐らく船着場が存在していたと想像します。

9世紀代になるとゾーン2C、2D、2E、2F、3の活動が活発化するのですが、その時代では、これらのゾーンが新地(新開発地)、ゾーン1A、1B、2A、2Bが旧地(旧開発地)みたいなイメージで存在していたのだと想像します。

蝦夷戦争の風雲が急を告げ、律令国家が要請する高度な兵站基地業務を遂行するために旧来ゾーンの機能では足りなくなり、隣接する空間に高度な機能を張付けたものと想像します。

前半期に活動が活発であった2Aゾーンからは周溝を配置した集落内寺院が検出されていますが、後半期になると寺院は廃絶し、その周溝を切って集落内(基地内)道路が建設されていています。

前半期には寺院で古墳時代に行われていたような兵士の魂(タマ)を揺さぶり恐れを知らぬ戦士にするという祈祷が行われていたと想像します。

しかし後半期になると、そうした前時代的行為では戦争に対応できなくなり、(※)当時としては最先端の軍事兵站基地に衣替えがあったものと想像します。

※間違いかもしれないと感じ始めましたので打消し線を引きました。
寺院の効力が減じたのではなく、その寺院のスポンサーである地域支配者(丈部一族筋????)の力が減じ、別の新興勢力のイニシャチブが確立して、寺院は廃寺となったのかもしれません。今後、寺院が廃寺となった理由を興味深い検討対象としていきます。(2015.04.18追記)

次に、近隣遺跡を含めて萱田地区全体の活動活発時期について検討します。 つづく

2015年4月16日木曜日

2015.04.16 今朝の花見川

細い三日月が東の空に残っていました。

日の出前

新緑の淡い色が新鮮です。朝霧が少し出ていました。

横戸緑地下付近

横戸緑地下付近

南の遠くの空には雲がありますが、ほとんど快晴です。

弁天橋から下流方向

北の空は雲は全くありません。

弁天橋から上流方向

弁天橋の早朝の影

2015年4月15日水曜日

八千代市白幡前遺跡 掘立柱建物を指標とした集落イメージの検討

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.110 八千代市白幡前遺跡 掘立柱建物を指標とした集落イメージの検討

「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)掲載情報を基に、八千代市白幡前遺跡の集落イメージについて、掘立柱建物を指標として検討します。

1 竪穴住居跡と掘立柱建物跡の比
ゾーン毎に 竪穴住居跡/掘立柱建物跡 の数値を求めてみました。

数値はゾーン内で、掘立柱建物跡1棟に対して竪穴住居跡何軒が対応しているかという意味になります。

この検討では検出した遺構全部の数で比を求め、ゾーンの比較をしてみます。

建替え等を考慮したある時点の実際の比を問題にしていません。

あくまで大局観を得るための検討です。

表 竪穴住居跡と掘立柱建物跡の比
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)に基づく

この表を図化すると次のようになります。

図 竪穴住居跡と掘立柱建物跡の比
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)に基づく

【検討】

ゾーンの数値を見ると、相対的な意味で次の3つの集団に分類することができます。
●数値1以下のゾーン 3ゾーン
●数値2前後のゾーン 1Aゾーン、1Bゾーン、2Aゾーン、2Dゾーン、2Eゾーン、2Fゾーン
●数値4前後のゾーン 2Bゾーン、2Cゾーン

●数値1以下のゾーンの検討
3ゾーンは枢戸(くるるど)の鍵が出土していて、掘立柱建物は重要な物資等を保管する倉庫群であったと考えられています。
竪穴住居より掘立柱建物の方が数が多く、竪穴住居の住人は倉庫群の管理や警備にあたった集団であると考えられます。

●数値2前後のゾーンの検討
1Bゾーンでは竪穴住居跡に捨てられた遺物(出土した遺物)が近隣竪穴住居からのものと考えることが出来ないほど膨大であり、掘立柱建物が住居としてつかわれていたことが考えられています。
竪穴住居が住居の一般様式であった時代に、掘立柱建物に住む住人はとりわけて社会的地位の高かった人であると考えられます。またその近隣の竪穴住居の住人はその社会的地位の高い人に仕える集団であったと考えることができます。

2Aゾーンでは集落内寺院が出土しています。掘立柱建物は寺院施設であったものが多く、また竪穴住居は寺院関係者の住居であったものも含まれていると考えられます。このゾーンから病気治癒を願う「丈部人足召代」と書かれた人面墨書土器が出土しています。

1Aゾーン、2Dゾーン、2Eゾーン、2Fゾーンはそれぞれ掘立柱建物と竪穴住居がセットとなってそれぞれコンパクトな独立集団として存在しています。
掘立柱建物1に対して竪穴住居2という比率から、物資(道具・材料・食料・武器)や牛馬等を沢山所持している可能性が高く、特定の目的を共有する集団であると考えることができます。

●数値4前後のゾーンの検討
2Bゾーンと2Cゾーンは掘立柱建物の比率が低く、相対的な意味で、物資(道具・材料・食料・武器)や牛馬等の所持をあまり必要としない集団であると考えることができます。

2 蝦夷戦争軍事兵站・輸送基地に想定される機能
蝦夷戦争軍事兵站・輸送基地に想定される機能を一般論として整理してみました。

ア 陸奥国へ向かう戦闘部隊(及び帰還部隊)への補給・輸送支援・鼓舞機能
・休息宿泊(指揮官用、兵用)機能
・食事提供(指揮官用、兵用)機能
・衣服・武器・馬牛補給機能
・物品修理整備機能
・移動支援(輸送)
・戦勝祈願、士気鼓舞(陸奥国に赴く兵士の魂[霊](タマ)を生き返らせる)
・病院機能

イ 移動部隊支援のための準備
・提供宿舎の用意
・提供用食料の生産・調達・備蓄
・提供用衣服・武器・馬牛の生産・調達・備蓄
・衣服・武器の修理工房機能
・移動用船の保有・維持修繕
・移動連絡用馬、運搬用牛の保有

ウ インフラ整備
・港湾機能維持(船停泊場所確保、桟橋確保)
・航路維持

エ 基地機能維持
・基地運営指揮機能(司令部、通信機能)
・基地運営部隊用食料の生産・調達・備蓄
・基地の警備・警察業務

3 竪穴住居跡と掘立柱建物跡の比から見たゾーンの特性推定
1の結果について、2を参考にして、ゾーンの特性を推定してみました。
次の図は最初の特性推定であり、今後情報分析を進める中でより的確な推定に変化していくものと考えます。

竪穴住居跡と掘立柱建物跡の比から見たゾーンの特性推定

●タスクフォースA
1Aゾーン、2Dゾーン、2Eゾーン、2Fゾーンは特定のミッション(使命)を帯びた集団が居住する場所であると考えます。特に2Dゾーン、2Eゾーン、2Fゾーンは竪穴住居や掘立柱建物の向きや配置から計画的に設置された集団居住地であると考えられます。1Aを除いた、これらの集団はそのミッションを実現するための活動場所は居住地以外の場所にあると考えます。
各集団の具体的ミッションは今のところ不明です。農業生産活動ではないと思います。

●司令部機能又は高級将官逗留施設
1Bゾーンは掘立柱建物が住居として利用されており、この場所が司令部機能あるいは移動部隊の高級将官逗留施設があった場所として推定できます。

●寺院(戦勝祈願)
2Aゾーンには周溝を巡らした寺院が出土していて、この軍事兵站・輸送基地を通過する将兵を精神的に鼓舞する施設として活用されたものと考えます。

●タスクフォースB
2Bゾーン、2Cゾーンは物品の備蓄が少なく、また2Bゾーンは墨書土器の出土が少ないなどの情報から、一般農業集落的性格の強い集団の居住地だったような印象を受けます。近くの谷津における水田耕作や台地における麻栽培などに従事していたのかもしれません。

●備蓄倉庫管理警備
3ゾーンはこの軍事兵站・輸送基地の根幹にかかわる軍需物資備蓄倉庫が存在し、その管理警備集団が居住していたものと考えます。

自分にとっての八千代市白幡前遺跡イメージの最初版ができました。

2015年4月14日火曜日

ささやかな野望

小字地名データベース作成活用プロジェクト 6

1 ささやかな野望
このブログでは、地形・考古歴史・地名等の興味を自分が居住する花見川流域や下総地域に投影して、情報操作を楽しむ趣味活動を展開しています。

最近その活動の中で、ささやかな野望が生れつつあります。

野望ですから「 分不相応な大きな望み。身の程を知らない大それた望み。野心。」(『精選版 日本語国語大辞典』 小学館)ということになります。

しかし世界制覇を目指そうというほどの大きな野望ではありません。おそらく誰にも迷惑をかけないささやかな望みです。

しかし身の程を知らない大それた望みでもあります。

私のささやかな野望とは、

千葉県全域の小字地名データベースを自前で完成させることです。

小字情報は地域の歴史を伝える貴重な文化資産であると考えます。しかし電子化されていないため、本来そこからくみ取るべき貴重な情報がほとんど汲み取られてこなかったと考えます。

歴史考古分野や地域・都市分野を含めて、社会全体が小字地名のあるべき活用を行っていないことは、社会的損失であると考えてきています。

これまでは、約93000ある千葉県全域小字リストの電子化がされているとどんなに便利だろうと、溜息まじりで何度となく考えてきました。

個人で作業するのは到底できない分量の作業と考えましたから、文化行政に電子化作業をお願いすることを考えてみたりもしました。

あるいは、何かの研究助成金を受けてアルバイトを使って作業するということも考えて見ました。

しかし、自分の個人的興味始発事項を行政にお願いして、それがいくら社会的意義が大きいといっても、行政の仕事になることは現実的には可能性ゼロのように感じます。

また、研究助成金を受けるようなことは不可能なことではないと考えますが、助成を受けると、その活動自体が趣味から仕事化してしまいます。楽しいはずの趣味活動がいつの間にか縛りの多い苦労になってしまうこと必定のように感じます。

このように、「ああだ、こうだ」といつまで考えていても埒があきません。

そうした袋小路にいた時、突然まず千葉市分だけも自分で作業してみようという気分がおこりました。そして、実行してみました。

千葉市分小字地名データベースをつくってみて、電子化作業の効率化を意外と進めることができました。

勢いに乗り、八千代市分小字地名データベースをつくると、作業効率化をさらに進めることができました。作業が楽になり、より一層作業効率化を進める余地がまだあることに気がつきました。

当初93000件(ルビ付きですから作業単位としてのワード数は186000件)の電子化を個人が行うのは「到底無理」と考えていた心理が「できるかも」に変わりました。

この心理変化により、「千葉県全域の小字地名データベースの自前完成」がささやかな野望として自分の中に成立しました。

次のマップが真っ赤に塗られるまでの作業を自前でやってみたいと思います。

小字地名データベース作成市町村(2015.04.12)

丸1年間くらいの時間以内に千葉県下全域の小字地名データベースを作成したいと思います。

恐らく、古代社会のいろいろなテーマを考える時、質の高いヒントを継続的に汲み出すことができる泉になると思います。

2 参考 千葉県小字データベース作成と一緒に進めたい検討事項
ア 房総地域における指標性のある古代地名抽出
古代社会の様子の指標となる地名の抽出を行う。例 カナクソ→鍛冶遺跡など

このブログ記事を書く中で小字地名を検討し、そのなかで今伝わる小字地名のかなりの割合が古墳時代、奈良平安時代に使われていた、あるいは命名された地名であることを実感しています。

古代に使われていた、あるいは命名された地名は特段に珍しいものではなく、どこにでも見られるありふれた地名でもあります。

ただ残念ながら、沢山ある古代地名がだれからも注目されていないため、その文化財的意義はほとんど社会に知られていません。

なお、古代に使われていた地名の一部は原始時代由来の地名です。

イ 「千葉県の歴史 通史編 古代2」附録「古代房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」の情報の内、下総国分をGIS上で地図化する。
古代地名と対応する現代地名を収集する。

ウ 遺跡分布や発掘情報と対応する地名を収集する。
例 別記事で検討しますが、八千代市白幡前遺跡出土の集落内寺院(2群Aゾーン内)に由来して、遺跡西にある谷津に付けられた小字地名「寺谷津」が生まれたと考えます。つまり八千代市小字「寺谷津」は奈良時代に命名された地名です。

3 参考 小字データベース作成プロセス
ア 千葉県地名大辞典(角川書店)附録小字一覧のスキャン
イ OCR用画像作成
ウ OCRによるテキスト作成
エ テキスト調整
・ルビの認識間違い訂正(認識間違いはパターン化している)
・漢字の認識間違い訂正(ほとんどない)
・単位地名を区分するための句読点入力等
・ルビの追加(漢字に混じるひらがら、カタカナにルビを付けてルビをカタカナ表記情報にする)
・その他
オ 完成テキストのExcel流し込み

作業時間のほとんどは「エ テキスト調整」にかかっています。その一層の効率化を進め、作業時間の飽くなき短縮に挑みたいと思います。

八千代市白幡前遺跡は一般農業集落か?

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.109 八千代市白幡前遺跡は一般農業集落か?

「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)[以下報告書と略称します]の情報を素人なりに咀嚼して、自分の問題意識を投影しながら、この遺跡から新たなインタレストを生み出す行為をしばらくします。

複数の記事を通じて良い結論が予定調和的に生まれる保証はどこにもありませんが、興味深い材料満載の遺跡ですので、先ずは第1歩を踏み出してみます。

1 八千代市白幡前遺跡の集落内ゾーン
報告書では建物群の平面図上の分布特性に着目して1~3群に分け、1群は2小グループに、2群は6小グループに細区分し、結局全部で9つにグループ分けしています。
各グループは「群内においても建物の構築等に独自性が、認められ、何らかの意味を含んだ単位であったようだ。」としています。

このブログではこの建物グループの範囲が分布上意味を有しているので、地域的ゾーンと捉え直して考察することにします。

八千代市白幡前遺跡の集落内ゾーン区分
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)の建物群グループを括った図

参考までに、このゾーン区分図を地形段彩図とオーバーレイしてゾーン毎の地形を見てみます。

参考 集落内ゾーン区分と地形段彩(現在地形)

地形段彩図が現在地形ですから正確ではありませんが、大局的にゾーン1Aと1Bは標高15~17mの河岸段丘上に、それ以外のゾーンは標高20m程度の台地(下総下位面)に立地していることがわかります。

参考 八千代市白幡前遺跡の現在地図の対応
参考までに、集落内ゾーン区分図を現在地図にプロットしてみました。現地では古代遺跡の状況を感じることは全くできません。

ゾーン別にみた竪穴住居跡数と掘立柱建物跡数は次のようになります。

竪穴住居跡数と掘立柱建物跡数
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)から作成

各ゾーンの建物は、それぞれが竪穴住居と掘立柱建物の双方から構成されていて、ゾーン毎にそれぞれをある単位活動やある単位集団と対応させて考えることが可能です。

ゾーンとゾーンの間には数十mの住居や建物が存在しない緩衝帯があります。この緩衝帯が耕作されていた可能性はありますが、それが各ゾーンのメインの生業であったとは到底考えることができません。

ですから、各ゾーン集団の生業(メイン活動)は何か、その生業(活動)の場はどこであるかということが重要な検討テーマとなります。

2 八千代市白幡前遺跡は一般農業集落か?
報告書では「集団の構成要素は水利・耕地・山野等を共有する一農業共同体として存在していたと考えられる。」としています。

また別の場所で「一般集落」としています。(「墨書土器の点数としては非常に多いもので、一般の集落遺跡としてはこの数は膨大と言っても過言ではない。」)

しかし、墨書土器の件も含めて、報告書を仔細に読むと次のような項目で、この集落を一般農業集落とは捉えがたく感じます。

1 密集集落が連担する。(権現後遺跡、北海道遺跡、井戸向遺跡、白幡前遺跡)
2 竪穴住居跡数(合計279)に対して掘立柱建物跡数(合計150)が多い、
3 官人の服制品である銙帯が各ゾーンから出土する
4 分水界を越えて東京湾から生鮮食料品であるハマグリが運ばれてきている
5 膨大な墨書土器が出土する
6 建物方向等を規制して計画的に建物を配置したゾーンがある
7 丈部姓の人面墨書土器が出土している
8 区画施設を伴う集落内寺院が出土し関連遺物(瓦塔等)が検出されている(2015.04.14追記)

発掘調査で判明した上記事項は、この集落が一般農業集落ではなく、蝦夷戦争下に形成された花見川-平戸川筋軍事兵站基地ゾーンに位置する特殊集落(軍事兵站・輸送基地機能を有する集落)であるということを証明する材料になると思います。

次以降の記事でこれらの項目を順次具体的に検討します。