2018年5月31日木曜日

大膳野南貝塚 報告書通読学習をふりかえる

大膳野南貝塚の発掘調査報告書通読学習をこの記事で一度収斂させます。
6月から新たな視点、新たな学習意欲で縄文時代学習、大膳野南貝塚学習を始めたいと考えています。

1 大膳野南貝塚学習の経緯
いつか縄文時代学習をある程度本腰をいれて始めたいと考えていたのですが、その時期が2016年12月になりました。
学習を始めるにあたって、千葉市埋蔵文化財調査センター所長西野雅人先生に学習対象遺跡についてアドバイスを求めました。そうしたところ西野先生からいくつかの遺跡を紹介していただき、その中から最新発掘成果がまとまっている大膳野南貝塚を選ぶことができました。また資料に関してサポートしていただきました。
西野雅人先生のアドバイスとサポートにあらためて感謝申し上げます。
2016.12.23記事「縄文時代遺跡 大膳野南貝塚の学習を開始」参照

発掘調査報告書の通読学習を始めてこれまでに関連記事が昨日までで226となりました。

大膳野南貝塚 学習記事数

旧石器時代の出土物、早期の陥し穴や炉穴、前期集落の竪穴住居や土坑、後期集落の竪穴住居や土坑などについて発掘調査報告書を通読するような順番で学習してきました。
2018年2月末には無限に続く興味の連続を一旦区切る必要性を感じ、2018.03.01記事「大膳野南貝塚 学習収斂に向けた興味まとめと今後の予定」を書き、3月一杯で通読学習を収斂させることとしました。
しかしその後、土坑データベース作成やQGIS操作技術の飛躍的向上などがあり、学習が特段に深まったため収斂時期を4月末に、さらに5月末に延長してようやくこの記事に至ったという次第です。

2 発掘調査報告書情報の空間分析という学習スタイルの意識
考古学に関する最も重要な情報は、発掘現場における発掘作業に伴う現場観察情報であると考えます。
ところが、私の大膳野南貝塚学習は発掘調査報告書を対象にした文献学習であり、私自身発掘現場体験がないので学習に現場感覚的な虚弱さが伴うのは避けられません。門外漢の趣味の学習ですから、その点はある意味当然です。
一方、文献学習と割り切れば、つまり発掘調査報告書に掲載されている情報をいかに汲みだし、いかに分析して有用な情報を生み出すかという点に立脚すれば、私の学習は意義があるのではないかと自覚します。
特に発掘調査報告書の詳細情報をGISに展開し、空間分析するという行為は身の回りではほとんどみかけません。
発掘調査報告書の生の詳細情報をGISで空間分析して有用情報を生みだすという活動は一つの学習スタイルとして特筆して良いのではないかと自覚します。
大膳野南貝塚学習では発掘調査報告書の生の詳細情報をデータベースソフトやGISソフトを使って、これまで実現しなかった(実現できなかった)分析を行ってきており、それを新たな学習スタイルとして意識しつつあります。

3 学習問題意識について
3-1 当初学習問題意識
2016年12月の問題意識は次の2点でした。
……………………………………………………………………
1 遺跡と地形との関係
生活において地形をどのように利用していたのか、興味が深まります。(海はどこにあり、どのように出たか。狩と地形との関係、住居と水場の関係…)
2 集落の空間構造
遺構・遺物の空間情報をGISを使って分析して、発掘調査報告書からどのような有用情報(価値ある情報)を引き出せるか、興味が湧きます。
……………………………………………………………………
この時は右も左も判らなかったのですが、その後の1年半の活動のなかでこの時意識していた「知りたいこと」や「知識が増えた状況」のイメージを思い出すと、それらはほぼ実現できたと考えます。GIS空間(電子空間)に存在する大膳野南貝塚の状況についての知識は増えました。

3-2 現在の学習問題意識
2018年3月の問題意識は次の5点です。
……………………………………………………………………
1 後期集落が始まり急成長した要因は何か?
2 後期集落が急減退・衰退消滅した要因は何か?
3 後期集落で共伴する漆喰貝層有竪穴住居グループと漆喰貝層無竪穴住居グループの関係はどのようなものか?
4 前期集落の浮島式土器優勢竪穴住居家族と諸磯式土器優勢竪穴住居家族の関係はどのようなものか?
5 3と4の問題意識を関連させることは有意義であるか?
……………………………………………………………………
いずれの問題意識も割り切れるようなイメージで解決したものはありません。
しかしいずれの問題意識も「重要で興味深い解答」がすぐそこにあるような感覚を持ちます。そこまで学習がすすんでいます。
心機一転して始める6月からの大膳野南貝塚学習総とりまとめで上記5つの問題意識に肉薄したいと思います。
なお、上記問題意識はすべて千葉県域などの広域の遺跡情報の中で検討すべき側面があります。
従って大膳野南貝塚だけの情報で得られる結論はあるべき一般結論のための一つの材料に過ぎないことは言うまでもありません。

4 総とりまとめの最初の活動
6月からこれまでの大膳野南貝塚学習を総とりまとめします。
「学習の総とりまとめは判ったことと派生した問題意識等をデータとともに簡潔に表現し、今後の縄文時代学習のよすがとします。」
総とりまとめの最初の活動は自分が書いた過去記事226を読み直し、分析内容や問題意識を整理することとします。
分析内容や問題意識の整理活動の中で総とりまとめの方法等を決めることにします。

過去記事を日付逆順に閲覧する画面
Bloggerブログでは記事を日付逆順に並べなおすことができません。しかしダイナミックビューsidebar表示にすると日付逆順閲覧を快適に行うことができます。

2018年5月30日水曜日

土坑学習をふりかえる

「大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討」と題してその1を2018.03.02記事「土坑の再検討 予察」として書き、最終その50を2018.05.29記事「植物・灰の送り場土坑、トイレ、柱穴」として書きました。思いがけない長期連載となりましたが、その背景に学習技術の飛躍があります。その技術飛躍により手ごたえのあるデータ分析ができるようになり、その結果学習を大幅に深めることができました。いくら検討しても興味が深まり限界がありません。
このような状況の中で縄文集落の現場状況が自分なりに詳しく感得できるようになりました。しかし、縄文時代の現場状況のイメージが湧きつつあるにも関わらず、自分に生じた根本的な疑問(集落消長の理由、漆喰貝層有無の意義など)が根本的に晴れることが無かったことも現実です。逆に疑問は深まったといっても過言ではありません。
この記事ではこのような状況をふりかえってみます。

1 学習技術の飛躍
1-1 2月までの土坑学習のデータ

2月までの土坑学習のデータ 発掘調査報告書掲載表の一部
2月までの土坑学習は発掘調査報告書に掲載されている土坑一覧表を電子化してExcelで統計分析したり、QGISにプロットして分布図を作成したりしました。
しかし、以下の理由から土坑平面図・断面図や覆土の状況、出土物がわからないため、上記データの分析は強い不全完を伴うものとなりました。

発掘調査報告書における土坑記載は全土坑の記述(テキスト)のページ、全土坑の層位記述のページ、全土坑の平面・断面図のページ、全土坑の出土物(土器)のページ、全土坑の出土物(石器)のページ、全土坑の出土物(骨角器)のページ、全土坑の出土物(貝製品)のページに分かれています。つまり1つの土坑の全記述を知るためには7つのセクションを読まなければならないのです。7つのページを探して読みそこからその土坑のイメージを知ることは苦痛を伴います。複数の土坑の比較をすることは事実上できません。
このようにデータは掲載されているけれど、そのままでは解読を事実上拒否するような編集であったため、2月までの土坑学習は統計分析やQGIS分析をしたにも関わらず充実感の少ない学習となりました。

1-2 3月から始めたデータ整備
発掘調査報告書には未整理ですが貴重なデータはあるので、それを土坑別に切り取り、データベースを作成しました。

電子的に土坑別に切り取った記述

電子的に土坑別に切り取った層位記述

電子的に土坑別に切り取った平面・断面図

電子的に土坑別に切り取った出土物

電子的に切り取った土坑別情報から作成した電子データベース(File Maker)
この土坑データベース作成により土坑学習が抜本的に改善できました。どのような視点からでも瞬時に検索でき、その結果を必要な部分だけExcelに出力できます。2月までの不全完は解消されました。なおデータベースには検索に必要な項目(例 人骨出土の有無等)、自分が検討した結果(各種分類、推定結果、メモ)や位置情報などの項目も随時追加しています。

1-3 土坑平面図・断面図を素材としたkj法分析
土坑平面図・断面図を素材にして土坑分類のためのkj法分析を行いました。(利用ソフトIllustrator)

kj法分析の様子
kj法分析を行うことにより全土坑の平面図・断面図を詳しく何回も眺め、相互に比較し、必要に応じて位置や出土物などの情報も知り、おのずとあるべき分類が可能となりました。土坑の機能(土坑が作られた目的)についてある程度の想定ができたので、それが学習を進める上での推進力の一つになりました。

kj法分析が可能になった背景には、物理的に平面図・断面図が出来たことと、知識背景的にデータベースが存在していて土坑の記述や出土物などが即わかる体制があったことによるものです。

1-4 QGIS分析技術の飛躍
3月になりQGIS分析技術を自分レベルでは飛躍させました。具体的にはデータベースで検索した結果をそのまま分布図にできるようになりました。レイヤのフィルターに演算の式を書き込む方法を活用できるようになったのです。

検索した結果を表示して他の情報と一緒に出力したQGIS画面例

2 感想
2-1 土坑学習の意義は大きい
大膳野南貝塚後期集落の土坑情報は発掘調査報告書を単純に利用する人は事実上立ち入って利用できません。しかし自分の場合はデータベースを作成して情報を利用したので、私の学習は数少ない(あるいは他に例がない)土坑情報利用例となります。我田引水になりますが、発掘調査報告書から土坑情報をはじめて汲みだしたという点での意義は大きいと思います。

2-2 専門的知識不足を実感
データ分析技術を飛躍させたため、発掘調査報告書から縄文社会具体状況を抽出できるようになりました。しかし抽出した縄文社会具体状況を解釈していく上で、専門的知識不足を実感します。いままで具体的縄文データを知りもしないのに高度な専門知識を知ってもあまり意味がないと考えていましたが、そろそろ高度な専門知識が必要になる状況が生まれているのかもしれません。

2-3 竪穴住居のデータベース化が必要
土坑学習は発掘調査報告書では事実上できなのでしかたなくデータベース化し、その結果予期せぬ形で学習を深めることができました。
一方竪穴住居は遺構別に情報が整理されているのでFile Makerを使ったデータベースは作っていません。しかし土坑データベースから生れる新たな情報やアイディア・ヒントの多さを考慮すると、竪穴住居データベースも作成することが大切であると考えます。
今後の学習活動において竪穴住居データベース作成の労力と得られる利点を天秤で図りながらデータベース作成について決めたいと思います。


2018年5月29日火曜日

植物・灰の送り場土坑、トイレ、柱穴

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 50

大膳野南貝塚後期集落の土坑一次用途を次のように分類して考察を進めてきています。
・貯蔵土坑…考察済
・特殊用途土坑(屋根付き土坑)…考察済
・動物食関連送り場土坑…考察済
・植物食関連送り場土坑
・トイレあるいは植物食関連送り場土坑
・土坑墓…考察済
・柱穴

この記事では植物食関連送り場土坑、トイレあるいは植物食関連送り場土坑、柱穴について考察します。

1 植物食関連送り場土坑
植物食関連送り場土坑とは貯蔵土坑あるいは他の目的が明白な土坑を除いた土坑で貝や獣骨が出土しない土坑です。
植物食関連送り場土坑の時期別分布は次のようになります。

植物食関連送り場土坑
堀之内1式期以外の時期が明白な土坑が少なく、逆に堀之内式期、後期、不明(縄文時代)が多いので時期別考察は出来ないことがわかります。
そこで全期を一括して扱い考察します。

植物食関連送り場土坑 全期
貝層と竪穴住居が形作る環状構造の外にも内にも分布していることが特徴です。
植物食関連送り場土坑には次の異なる機能の土坑が混在している可能性があります。
1 植物や灰などを送った土坑
2 人の最終埋葬土坑(集骨葬)
3 人の一次埋葬土坑(遺体を腐らせて骨だけになるようにすることを目的とした施設)
現状のデータだけでもさらに詳しく分析すれば1、2、3の目星をある程度つけることは可能であると考えますが、その分析は今後の課題とします。

2 トイレあるいは植物食関連送り場土坑
トイレあるいは植物食関連送り場土坑とは形状や出土物からトイレであると推定した土坑です。
縄文時代といえども住居近くに施設としてのトイレを設けて人糞を特定場所に溜めたと考えます。それにより生活環境の悪化を防いだにちいがありません。
トイレは土坑の形状であったと考えられます。
また住居、トイレ、墓、貯蔵庫、送り場(祭祀の場や廃物置き場)などはミクロなゾーニングはあるにしても長年月の総合投影図である発掘図として把握するならば混在していることは当然です。
従って、トイレが土坑の中に存在していることは確実です。
同時に、トイレと推定はしましたが植物食関連送り場土坑との主要な差異は形状だけであり、根拠としては薄弱です。そのため、そのような自信の無さを「トイレあるいは植物食関連送り場土坑」という名前に反映させました。
トイレあるいは植物食関連送り場土坑で時期が判明しているのは堀之内1式期の3基だけであり、他は詳細時期が不明のため全期を一括して考察しました。

トイレあるいは植物食関連送り場土坑 全期
トイレあるいは植物食関連送り場土坑は集落縁辺と中央部に分布しているように観察できます。

3 柱穴

柱穴
柱穴として掘られた土坑(10号土坑)と貯蔵土坑の二次用途が柱穴であるもの(320号土坑)の2基が観察できます。
10号土坑は集落北側に建設された祭祀柱(トーテムポール)、397号土坑は集落南側に建設された祭祀柱かもしれません。

……………………………………………………………………
植物食関連送り場土坑、トイレあるいは植物食関連送り場土坑、柱穴の詳細検討は学習区切りの予定上ほとんどできませんでしたので今後の課題として後日取り組むことにします。
土坑学習のふりかえりと大膳野南貝塚学習全体のふりかえりを行い大膳野南貝塚発掘調査報告書の通読学習を5月一杯で一旦区切ります。
6月から学習視点をリセットして、縄文時代学習および大膳野南貝塚学習のとりまとめ活動をはじめます。

2018年5月28日月曜日

埋葬土坑と貯蔵土坑 2

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 49

動物食関連送り場土坑(貯蔵庫ではない土坑で貝や獣骨が出土する土坑)のうち獣骨数がとりわけ多い土坑付近の様子を観察しています。
この記事では西貝層近くですが、西貝層から少し離れた独立埋甕が集中する付近を観察します。

1 詳細検討域4

詳細検討域4

2 称名寺式期から堀之内2式期頃までの様子

称名寺式期から堀之内2式期頃までの様子
この付近は開発行為による削平のため出土物が少なく時期の特定が困難な地域です。遺構の時期は称名寺式期(称)、堀之内1式期(堀1)、堀之内2式期(堀2)が1つづつで、他は堀(堀之内式期)、後(後期)、不(縄文時代)になっており時期別検討ができないので、称名寺式期から堀之内2式期頃の様子として一括して扱います。
独立埋甕1~3から人骨出土はありませんが、人骨出土が確認できる独立埋甕が他の場所にあるので、独立埋甕は小児土器棺であると考えます。この付近に動物食関連送り場土坑164、168が存在していて、164土坑からは獣骨が35と多く出土します。
164、168は埋葬施設と把握することが合理的な思考であると考えます。
165、158土坑もその形状から埋葬に関連していると想像できます。
一方161、160、159土坑は貯蔵土坑であり、159土坑は165土坑と2m程しか離れていませんから隣接しているといえます。しかし貯蔵土坑、埋葬土坑ともにグループで存在していて、そのグループが混在していないのが特徴です。
集落主要部(北貝層付近、南貝層付近)から離れていて、土地利用をする上で空間的余裕があるので、なかば自動的にゾーニンされたのだと想像します。

2018年5月25日金曜日

埋葬土坑と貯蔵土坑が隣接する事例

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 48

動物食関連送り場土坑(貯蔵庫ではない土坑で貝や獣骨が出土する土坑)のうち獣骨数がとりわけ多い土坑付近の様子を観察しています。
この記事では北貝層近くですが、北貝層と他の竪穴住居から少し離れた独立的竪穴住居(J16)付近を観察します。

1 詳細検討域3

詳細検討域3

2 称名寺式期

称名寺式期
土坑4基が存在します。
253と51は送り場土坑で、ともに人骨出土はありませんが、51はこれまでの学習から埋葬土坑そのもののように感得します。
90、89は貯蔵土坑ですが隣接しているので1つの土坑が建て替えられた結果を示していると考えられます。

3 堀之内1式期

堀之内1式期
竪穴住居2軒と多数の土坑存在が確認できます。
J16竪穴住居の廃絶祭祀は濃厚に行われていますから、その住人の生活も活発であったと推察できます。
そして、J16竪穴住居から数m以内の至近域に多くの土坑が配置されているように観察できますから、J16と土坑との間に関連性があると考えることが自然の成り行きだと考えます。
J15竪穴住居からの出土物はほとんどありませんが、J15と34、33土坑との関係があるかもしれません。34土坑からは獣骨が57出土しています。
J16竪穴住居を取り巻くように至近距離にある土坑に貯蔵土坑88、82が存在するとともに人骨出土土坑墓(墓1、集骨葬)、形態から埋葬施設であると想定できる73土坑が「一緒に」存在していることに着目します。
特に土坑墓(墓1)は貯蔵土坑82に「切られて」います。土坑墓(墓1)(古)→貯蔵土坑82(新)の関係にあります。
J16竪穴住居の住民が土坑墓(墓1)を建設し、その後それに隣接して貯蔵土坑82を建設したことがわかります。
J16竪穴住居住民は家族が死んでその墓を住宅から3m程のところにつくり、その後その墓の存在を十分に認識した上で、墓となりに貯蔵土坑をつくり生活に利用したことになります。
縄文人は生活空間の中に墓をつくっていたことがわかります。

4 堀之内2式期

堀之内2式期
141土坑から獣骨が125点出土しています。141土坑は埋葬施設の可能性があります。

5 加曽利B2式期

加曽利B2式期
141土坑を切って32土坑が建設されています。その出土遺物に装身具が含まれることなどから32土坑は埋葬施設であると想定できます。
141土坑の建設時期(堀之内2式期)と32土坑の建設時期(加曽利B2式期)の間には長い時間がありますが、32土坑建設時にその場所が先祖の送り場(貝層や獣骨がある場所…たぶん埋葬地)であることは事前にわかっていたに違いありません。
おそらく、先祖の墓や送り場、祭祀の場所の一部を壊して新たな墓・送り場・祭祀場をつくることは縄文時代では許容される、あるいは逆に推奨されることであったと考えられます。先祖の祀りの場(空間)を踏襲することは縄文人にとって当然であり、むしろ美徳であったに違いありません。
廃絶祭祀が濃密に行われた竪穴住居が少しだけ残されて次代の住居となっている例が沢山あり、送り場土坑も同じように扱われたと考えます。

2018年5月23日水曜日

埋葬ゾーンを連想させる送り場土坑集中域

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 47

動物食関連送り場土坑(貯蔵庫ではない土坑で貝や獣骨が出土する土坑)のうち獣骨数がとりわけ多い土坑付近の様子を観察しています。
この記事では北貝層付近を観察します。

1 詳細検討域2

詳細検討域2

2 加曽利E4式期

加曽利E4式期
J116竪穴住居のみ存在します。この時期の竪穴住居からは貝層や漆喰は出土していませんから住民は漁業にほとんど関わっていなかったと考えます。

3 称名寺式期

称名寺式期
貝層が出土するJ34竪穴住居が存在します。J34竪穴住居から大型石棒、ミニチュア土器が出土するとともに土器・石器の出土も多く、また漆喰貼床、環状焼土がみられ、覆土層には破砕ハマグリとイボキサゴの混貝土層が堆積していて、濃厚な廃絶祭祀が行われたと考えることができます。J34竪穴住居祉は北貝層始祖家族の住居です。
この時期には送り場土坑はありません。

4 堀之内1式期

堀之内1式期
この時期は集落最盛期になります。J34竪穴住居の近くに屋外漆喰炉が設けられます。屋外漆喰炉は祭祀にも使う漆喰製造機能を備えていて、祭祀性の強い施設であると考えます。
J63竪穴住居から人骨が出土します。
この近くに多数の動物食関連送り場土坑が存在します。このうち404土坑からは人骨が出土しています。少し離れますが貯蔵土坑の382土坑からも人骨が出土します。
単独埋甕が存在し、人骨は出土しませんが埋葬施設であると考えられます。
正確な時期は不明ですが施設ではない地面から単独人骨が3体出土しています。
218土坑からは略完形浅鉢土器が逆位で出土し、人骨出土はありませんが甕被り葬のイメージを連想しました。
送り場土坑のうち179と319には2つのピットがあり柱穴と考えられます。土坑に柱を2本建て、その土坑に埋まっているモノを表示する標識であったと空想することもできます。

集落形成期の称名寺式期に北貝層始祖家族の竪穴住居J34が営まれ、集落発展期の堀之内1式期になるとその場所付近が居住の場であるとともに祭祀活動の場(屋外漆喰炉の存在)、埋葬の場(各遺構からの人骨出土)になったことも観察できます。
人骨出土のない動物食関連送り場土坑は単に祭祀(なにかの送り)を行った結果を表示しているのではなく、その土坑が人の埋葬施設あるいはその関連施設であったと想像します。
この図だけでも埋葬の場は竪穴住居、廃絶貯蔵土坑、埋葬専用土坑(404など)、埋甕、施設の無い地面と多様性に富んでいます。
またこれまでの学習で体部をそのまま伸展でミイラ化して行う埋葬と集骨葬があります。
集骨葬は一度どこかの場所で肉を腐らせ骨だけにする必要があります。その一次埋葬施設(肉・皮を腐らせる施設)は浅い土坑であると考えられます。例えば404土坑が一次埋葬施設であり、骨を集めて別の土坑に集骨葬した時、骨の取り残しがあり、それが404土坑から出土したのかもしれません。

動物食関連送り場土坑の多くは人の埋葬に関連した施設ではないだろうかと最近は考えるようになりました。縄文集落では遺体存在と埋葬施設が生活空間と一体化しています。

5 堀之内2式期

堀之内2式期
屋外漆喰炉と送り場土坑2基が存在しています。

6 加曽利B1式期

加曽利B1式期
送り場土坑184は獣骨出土数が139で特段に大きい直になっています。この土坑にもピットがあります。恐らく柱穴であり、何らかの祭祀機能を有する柱が土坑から直立していたのではないかと空想します。埋葬関連施設であると想像します。

称名寺式期にはじめて北貝層始祖家族(漁民)がこの場所に居所を定め、それがキッカケでその場所が祭祀の場、埋葬の場、居住の場になり、その空間特性は加曽利B1式期まで継続したことが判ります。

2018年5月22日火曜日

別解釈 小児土器棺と送り場土坑が集中する例

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 46

1 2018.05.19記事に関する疑念
20180520記事「重要学習課題 貝殻・漆喰、獣骨・焼骨、土器破片」は後から読み直してみると自分が書いたとは思えないような的確性・合理性を感じます。自画自賛とはこのことです。
さて、この記事を書いてから2018.05.19記事「小児土器棺と送り場土坑が集中する例」を読み直すと、記事内容が「少し違うぞ!」という感想を持ちます。
上記記事について次のような疑念をもちました。
1 最初に送り場土坑が存在していて、その場所を選んでその土坑を潰して南貝層始祖家族が竪穴住居を建設するという流れは大変不自然です。
すでに土坑のある場所に竪穴住居を建設する例は大膳野南貝塚後期集落では稀です。
2 J77竪穴住居の漆喰貼床の下の墓坑は床下墓坑として扱うのに、同じく漆喰貼床下の土坑413号(破砕貝出土)と土坑415号(漆喰ブロック出土)を無視するのは円満な思考とは到底言えません。
発掘調査報告書のJ77竪穴住居の記述では土坑413号、土坑415号は文章でも図面でも全く出てきません。
層位的関係は床下墓坑も土坑413号、415号も全く同じです。ですから同じに扱うことがスタートであり、最初から無視する理由はありません。
3 発掘調査報告書では漆喰貼床について生活空間における実用施設と考えているフシが感じられます。しかし、漆喰貼床は焼けて硬くなっていますが、生活空間の床であったと考えるのは無理があります。漆喰が床全面を満遍なく覆っているわけでもありません。他に3軒の漆喰貼床竪穴住居がありますが、J43竪穴住居では床に埋甕があり、J104竪穴住居では同じく床に土坑がありそれらとの関連で廃絶時に漆喰が貼られたと観察できます。J34竪穴住居は柱穴が無くなってから漆喰が貼られています。
漆喰貼床は廃絶祭祀においてつくられたものであると考えることが合理的です。

このような疑念から次のような別解釈をしてみました。

2 J77竪穴住居付近の別解釈

ステージ1
最初に南貝層始祖家族の入植があったと考えます。(J77竪穴住居)

ステージ2
J77竪穴住居が廃絶してから、その場所に墓坑(発掘調査報告書で床下墓坑とされているもの)、土坑413号、415号が建設されたと考えます。出土物に人骨はありませんが、2つの土坑ともに土坑墓であると空想します。
墓坑と土坑あわせて3つが営まれたあと、その上を漆喰貼床し、住居を燃やし、貝層で覆うという祭祀があったと想定します。

ステージ3
その後J77竪穴住居付近は小児埋葬関連祭祀ゾーンとして活用されたと考えます。

3 別解釈の要点
この記事で喋りたい事柄は、漆喰貼床とは実用の床ではなく、廃絶時祭祀活動で作られた見かけの床、一時的床であるということです。
またJ77竪穴住居の床下墓坑とは廃絶住居の床面に掘られた墓坑であり、人がその上で生活していたものではないということです。
土坑413号、土坑415号から人骨は出土していませんが、墓坑である可能性があります。

4 参考

2018.05.19記事「小児土器棺と送り場土坑が集中する例」の思考




2018年5月20日日曜日

重要学習課題 貝殻・漆喰、獣骨・焼骨、土器破片

貝殻・漆喰、獣骨・焼骨、土器破片の意義の学習が大膳野南貝塚学習、縄文貝塚学習、縄文遺跡学習で特別重要であることにやっと気が付きましたので、忘れないうちにメモしておきます。

1 貝殻・漆喰
貝は毎年採っても翌年にはまた必ず採れる自然の恵みであり、その殻は自然再生の象徴として特別大切なモノ、粗末にできないモノであり、さらに再生の象徴、再生の場にふさわしモノであったのではないかと考えます。
貝殻自体に縄文人は祭祀性を感じていたのだと考えます。

貝殻・漆喰は特別な空間(遺構覆土層や地点貝層、貝層)に残されています。
また純貝層は少なく、多くは加工されています。破砕貝が多く、土と混合され貝の割合が多い場合や少ない場合があります。わざわざ貝殻を破砕して土と捏ね合わせ、その「製品」を使って遺構覆土層や地点貝層、貝層を「建設」しています。漆喰は現代世界からみても正に「製品」で、それで炉や床を「築造」しています。
これらの縄文人の行為はすべて貝殻の持つ再生呪力を期待して行ったのではないかと考えます。
純貝層・混土貝層・混貝土層で遺構を覆土するのは、その底に眠る遺体の再生を願い、あるいはその遺構廃絶(遺構の死)に伴う代替遺構の再生・機能発揮を願っていたのではないかと考えます。
漆喰炉や漆喰貼床は実用的な意味での高機能装置として築造したのではなく、死と再生祭祀の場に相応しい装置として建設・築造されたと考えます。
屋外漆喰炉、屋内漆喰炉、漆喰貼床は実用機能として見るのではなく、そこが祭祀活動の場であったとして見るのが本筋であると考えます。
地点貝層・貝層は廃絶遺構付近空間全体(生活空間全体)を覆うのもですが、それは人々の死と竪穴住居や土坑などの廃絶(死)に対して、それらの再生を願う気持ちから縄文人が行ったものと考えます。

2 獣骨・焼骨
獣も毎年獲っても翌年にはまた必ず獲れる自然の恵みであり、その骨は自然再生の象徴として特別大切なモノ、粗末にできないモノであり、さらに再生の象徴、再生の場にふさわしモノであったのではないかと考えます。
獣骨自体に縄文人は祭祀性を感じていたのだと考えます。
獣骨も貝と同じように特別な空間(遺構覆土層や地点貝層、貝層)に残されています。
これらの獣骨も人や遺構の死と再生に関わる祭祀の重要なアイテムとして活用されたと考えます。
獣骨も砕かれているものがほとんどです。
大膳野南貝塚では鹿頭骨列を除いて動物の骨を儀礼的に扱ったかもしれない事例はありません。砕かれた獣骨は動物自体を対象とした祭祀ではなく、人に関する祭祀に関連した遺物であると考えます。
大膳野南貝塚にはみられませんが、縄文遺跡で一般的にみられる獣骨を焼いて砕いてつくった焼骨は再生呪力が一段と強化されたモノであったと考えます。

3 土器破片
土器は硬く渋く食用に適さない堅果類を美味しい食べ物に変える呪術性を備えた道具です。そのままでは食べられないものを食べられるようにしてくれるという意味で、自然の恵みを享受するために不可欠な道具、生存に不可欠な道具です。
しかし土器はいつかは必ず壊れますから、その時に新しい土器を必ず作ります。
土器は壊れても必ず新しい土器をつくることができます。
つまり土器も貝や獣と同じく、自然の恵みを永続して享受できる象徴であり、再生の象徴でもあったと考えます。
縄文人は不用土器片を貝や獣骨と同じように再生の場の祭祀アイテムにしたと考えます。
用意した不用土器片を祭祀の場でさらに破壊して(細かく割って)、それを死に見立て、その死の裏(反対)にある再生を象徴したのではないかと想像します。
竪穴住居祉でも土坑でも幾つかの破片となった土器片が出土します。これは土器片をその場で割ってそこに撒いたことを示しています。土器片破壊と撒きが送り祭祀(死と再生の祭祀)では重要な活動であったと考えます。

4 学習課題の検討方向
貝、獣骨、土器破片が祭祀の基本アイテムとして使われていたことが判りました。
いずれもそのアイテムを加工する活動が祭祀活動そのものの一部であったと考えられます。
●貝…砕き土と混ぜて撒く、漆喰をつくり撒く・炉や床をつくる
●獣骨…撒く、焼いて砕いて撒く
●土器破片…割って撒く
アイテムを砕き土に返す活動が縄文人の祭祀活動の重要構成要素であり、その最大規模活動が貝塚築造ということになります。

アイテムを加工する活動(砕き土に返す活動)の分類や意味を究明することが今後の学習課題として重要であると考えます。

●貝…純貝層・混土貝層・混貝土層の違いの分類とその意味など。発掘調査報告書にくわしい情報があり、分析すれば興味ある結果が得られると感じられます。
●獣骨加工…そもそも出土する獣骨は全て破砕されたものであり、獣食してその結果生まれた生の骨を捨てた(投げた、置いた)ものではないという仮説を立証する必要があります。
獣骨出土は、その遺構の回りで獣食した結果生まれた骨ではなく、過去の獣食で生じた骨を砕いて(加工して)保存しておき、祭祀の際にその空間に撒いたように観察できるように感じられます。そのような観察(発掘調査報告書解読)が正しいか検証する必要があります。
発掘調査報告書の獣骨情報は詳細であり、かつ遺跡全体を悉皆的に調査しているので、詳しく分析すると獣骨加工状況の興味深い状況が浮かび上がる可能性が濃厚です。
●土器破片…発掘調査報告書のスケッチ情報や発掘状況写真から土器片の破壊の仕方が判れば、割って撒く活動の何らかの分類ができ、ひいては祭祀にかかわる有用情報が引き出せるかもしれません。(土器片破壊の方法…投げ込まれてその結果割れた(その後割った)のか、既に割った土器片をバラバラ投げ込んだのか。その違いが判る場合があり、その違いにより祭祀の性格が浮かび上がるかもしれません。)

今朝の花見川風景
この風景空間を散歩しているとき、この記事内容の思考が丸ごと生まれました。

2018年5月19日土曜日

小児土器棺と送り場土坑が集中する例

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 45

1 詳細検討域1
2018.05.17記事「着目すべき貝・獣骨送り場土坑の抽出」で獣骨数出土が多い動物食関連送り場土坑を抽出し、祭祀性が強い場所として着目できることを検討しましたが、そのうち獣骨出土数最大の土坑がある南貝層について詳細検討します。

詳細検討域1

次に詳細検討域1の主な遺構を時期別に観察します。

2 称名寺式期

称名寺式期に存在した遺構
貝層・破砕貝・漆喰ブロックが出土する土坑3基が最初の称名寺式期に存在していたと観察できます。
413号土坑と415号土坑は称名寺式期末~堀之内1古式期に存在したJ77号竪穴住居祉の漆喰貼床の下から出土しています。
3つの送り場土坑が集中して存在するのですから、この付近は祭祀性の強い空間だったことは間違いありません。

3 称名寺式期末~堀之内1古式期

称名寺式期末~堀之内1古式期に存在した遺構
竪穴住居祉2軒が存在します。
J77号竪穴住居祉は漆喰貼床の下に床下墓坑が存在していて3歳前後幼児の骨が出土しています。また漆喰貼床の下から送り場土坑の413号と415号が出土しています。
J77号竪穴住居祉は南貝層を形成した集団の始祖家族の住居と考えられますが、その住居がすでに送り場土坑が存在する空間の上に建設されたことは住居建設場所の選定自体が祭祀性を帯びていて、始祖にふさわしい場所取りが行われたと考えます。
J77号竪穴住居祉家族(南貝層始祖家族)の子供が死にその遺骸を床下に埋葬したことは、J77号竪穴住居祉付近が子供の埋葬場所にふさわしい環境を形成したと考えられます。

4 堀之内1式期

堀之内1式期に存在した遺構
堀之内1式期には小児土器棺(周産期人骨出土)1、単独埋甕1、送り場土坑4が存在します。
単独埋甕は人骨が確認できなかったのでそのような名称になっていますが遺構の様子から小児土器棺と考えて間違いないと思われます。つまりJ77号竪穴住居の廃絶祭祀が行われた後、その住居床下墓坑から2m程の場所に小児が埋葬されたのです。恐らく南貝層家族集団にとってJ77号竪穴住居付近が子供埋葬ゾーンとして共通認識が形成されたのだと考えます。子供の埋葬は同じ場所にして「死んだ子供同士が仲良くできる」といった観念があったにちがいありません。(関連 子供と動物がともに埋葬されることもあります。2017.12.18記事「犬用廃屋墓」参照)

動物食関連送り場土坑254号は獣骨が277点出土し、それ以外にも土器、ハマグリ製貝刃、鹿骨製玉(装身具)が出土します。
この土坑は土坑墓であると想像します。人骨が出土しないので最後の決め手はありませんが、土坑形状が人骨出土1号土坑墓と似ていることと、装身具が出土することがそのような思考発生に関わっています。貝刃が出土することから子どもではなく成人が埋葬されたと考えます。埋葬形式は集骨であり、別の場所で人骨だけ残るように処理され、骨だけ持ち込まれ、その場所に破砕貝が被せられさらに何回かの祭祀活動で獣骨も置かれたと想像します。

動物食関連送り場土坑392号は獣骨が78点出土するほか、ハマグリ製貝刃が出土します。
この土坑も人骨は出土しませんが成人が埋葬された土坑墓であると想像します。

5 まとめ
詳細検討域1付近に子供が3人、大人が2人埋葬されていると想像しました。動物食関連送り場土坑はさらに存在しますから埋葬人数はもっと増えるかもしれません。これらの埋葬は偶然の所産ではなく南貝層家族集団の空間ゾーニング思考の所産です。
小児土器棺、土坑墓と想定した土坑、床下墓坑付竪穴住居全てが南貝層に覆われていますが、その事象から貝層(貝塚)の本義とは即ち人の送り場(埋葬施設)であると考えます。


2018年5月18日金曜日

学習課題 貝刃

前後の記事と直接関係しませんが、貝刃についての学習課題に気が付きましたので忘れないうちにメモしておきます。

1 1号屋外漆喰炉から出土したアワビ製貝刃について

1号屋外漆喰炉のアワビ製貝刃出土状況
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

1号屋外漆喰炉のアワビ製貝刃
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

1号屋外漆喰炉のアワビ製貝刃 写真
大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

学習課題
1 大膳野南貝塚後期集落の漁場(村田川河口干潟)ではアワビは採れません。房総南端産のアワビ(製貝刃)が持ち込まれたと想像できます。
このアワビの産地がどこで、どの集落を経由して大膳野南貝塚に持ち込まれたのか?
(市原市西広遺跡などの学習)
2 アワビ製貝刃は刃が摩耗しているので実用品として使われたと考えられます。アワビ製貝刃でさばいた(切った)魚(海産物)は何であるか?
(発掘調査報告書貝層中魚類調査結果の学習)
3 多数出土しているハマグリ製等の貝刃と用途の違いは何であるか?
(大型魚漁獲の推移、威信財としての効用)
4 アワビ製貝刃が1号屋外漆喰炉に置かれた理由は何であるか?
(1号屋外漆喰炉廃絶祭祀のお供え物=替わって新設された屋外漆喰炉を使った漁獲物加工効率化の祈願)
5 アワビ製貝刃が置かれた1号屋外漆喰炉と周辺遺構が全て貝層に覆われた理由
(貝層=貝塚を建設した理由、携わったのは誰か?果たして集落全員か?)

2 ハマグリ製等の貝刃について
学習課題
1 遺跡から多数出土するハマグリ製等の貝刃は漁獲した魚(海産物)をさばく(切る)ために用いられたと考えられます。この貝刃の出土状況は漆喰貝層有竪穴住居に限られ、漆喰貝層無竪穴住居からは出土していません。この結果を再度正確に精査確認します。
その結果に基づいて貝刃が漆喰貝層無竪穴住居から出土しない理由について検討します。

2018年5月17日木曜日

着目すべき貝・獣骨送り場土坑の抽出

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 44

動物食関連送り場土坑という名称は生硬な表現ですから、記事表題は「貝・獣骨送り場土坑」としました。

1 着目すべき動物食関連送り場土坑の抽出
動物食関連送り場土坑のうち獣骨出土数が多い土坑に着目します。その土坑付近で獣食を伴う祭祀が盛んに行われた結果であると考えます。
動物食関連送り場土坑の獣骨出土数を棒グラフにして立体的に表現してみました。

動物食関連送り場土坑 獣骨数棒グラフ 1
数字は出土獣骨数(上位のみ記入)

動物食関連送り場土坑 獣骨数棒グラフ 2

獣骨数を記入した上位6位までの動物食関連送り場土坑に着目して、その様子を次の記事で検討することにします。

参考 獣骨数棒グラフの平面図

全期集成 動物食関連送り場土坑

2 考察
動物食関連送り場土坑のうち獣骨多数出土土坑の分布から人送りの集落におけるメイン空間の概略が判るような気がします。
獣骨数277と78の2つの土坑のある付近が南貝層の人送り祭祀メイン空間であることは確実ですが、南貝層全体が廃屋墓に覆われています。
獣骨数139の土坑は北貝層付近にありますが、この付近には土坑墓・廃土坑墓があります。この付近が人送りの一つの中心地であることは間違いないと考えます。
獣骨数125と57の土坑のある付近には廃屋墓はなく、土坑墓が2基存在しています。獣骨数の多い土坑は人骨こそ出土していませんが土坑墓そのものである可能性があります。
西貝層に近い獣骨35が出土した土坑の近くには単独埋甕があります。単独埋甕から人骨は見つかっていませんが単独埋甕だけでなく獣骨数の多い土坑も人送り(埋葬)の施設である可能性があります。
人骨こそ出土しません獣骨数の出土多い動物食関連送り場土坑は土坑墓ではないかと疑って次の記事で検討してみます。

獣骨数の多い動物食関連送り場土坑が土坑墓かもしれないという仮の推論を念頭に上記立体地図をみると、廃屋墓群の内側に土坑墓群が分布する構造が観察できます。

2018年5月16日水曜日

貝・獣骨送り場土坑の意義

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 43

大膳野南貝塚後期集落の土坑一次用途を次のように分類して考察を進めています。
・貯蔵土坑
・特殊用途土坑(屋根付き土坑)
・動物食関連送り場土坑
・植物食関連送り場土坑
・トイレあるいは植物食関連土坑
・土坑墓
・柱穴

この記事では動物食関連送り場土坑の意義を人の埋葬関連遺構との空間関係に基づいて検討します。

1 動物食関連送り場土坑について
動物食関連送り場土坑という名称は生硬な表現ですから、記事表題は「貝・獣骨送り場土坑」としました。
動物食関連送り場土坑とは規模(深さ、平面積等)が小さく、貯蔵土坑として建設されたとは考えられない土坑で、かつ貝が出土する土坑です。多くは獣骨が出土します。また土器はほとんどの土坑から出土し、石器や骨角器・貝製品を伴うものもあります。
出土物から貝食や獣肉食が行われその貝殻や骨が投げ込まれていて、また石器等も出土することから何らかの祭祀に関連した遺構であると想定しました。
祭祀の内容(送りの内容)は当初次の2点を想定しましたが、この記事で明らかになったように「人の送り」の跡であることが明らかになりました。

●動物食関連送り場土坑の当初想定
1 「貝や獣の送り」
2 「人の送り」

2 動物食送り場土坑の時期変遷
2-1 加曽利E4~称名寺古式期

加曽利E4~称名寺古式期
動物食関連送り場土坑は1基観察され、廃屋墓(集骨葬)から1.5mの直近にあります。

2-2 称名寺~堀之内1古式期

称名寺~堀之内1古式期
動物食関連送り場土坑は4基観察され、うち1基は床下墓坑のある竪穴住居に接して存在しています。

2-3 堀之内1式期

堀之内1式期
堀之内1式期と特定できる情報だけから作成した情報図ですが、堀之内1式期は集落急成長期であり、遺構の時代判定が「堀之内式期」「後期」「詳細時期不明」とされたもののほとんどが堀之内1式期であると想定できます。
そこで厳密性は減じますが、情報の豊かさが格段に向上し堀之内1式期の実態により迫ることができると考えますので、「堀之内1式期」と「堀之内式期」「後期」「詳細時期不明」を合わせた情報図(堀之内1式期(総合推定))を作成して堀之内1式期の検討を行うことにします。

2-4 堀之内1式期(総合推定)

堀之内1式期(総合推定)
39基の動物食関連送り場土坑が観察できますが、10m以内に埋葬関連遺構がない土坑は一番北の1土坑、西貝層付近3土坑、集落中央部1土坑の5基だけです。他の34基はすべて廃屋墓、土坑墓・廃土坑墓、単独埋甕等の近く(10m以内)に存在します。動物食関連送り場土坑が人の埋葬に関連した遺構であることが推察できます。
具体的には埋葬遺構(廃屋墓、土坑墓・廃土坑墓)が祭祀の結果埋まってしまった後、その周辺に動物食関連送り場土坑を建設して引き続き祭祀を継続できるようにしたのではないだろうかと想像します。

2-5 堀之内2式期

堀之内2式期
7基の動物食関連送り場土坑が観察できます。4基は北貝層近区の廃屋墓近くに存在していてその廃屋墓との関係に着目することができます。
集落の北→西→南に離れて存在する3基の動物食関連送り場土坑は前の時期である堀之内1式期の埋葬関連遺構に関連するのではないだろうかと想像します。
堀之内1式期の廃屋墓、単独埋甕、土坑墓に関連する祭祀(特定故人の冥福を祈る祀り)が堀之内2式期にも継続してこのような動物食関連送り場土坑分布図になったと考えます。
そのように考えると最初の南貝層付近の4基も堀之内1式期の廃屋墓との関係を否定することはできません。

2-6 堀之内2~加曽利B1式期

堀之内2~加曽利B1式期
情報が少なくて意味を汲み取ることが困難です。

2-7 加曽利B1~B2式期

加曽利B1~B2式期
情報が少なくて意味を汲み取ることが困難です。

2-8 全期集成

全期集成
全期の情報を集成しました。
動物食関連送り場土坑53基のうち47基が人の埋葬遺構近くに存在します。動物食関連送り場土坑は人の埋葬と関わる祭祀遺構であることが強く想定できます。
逆の見方をすると人の埋葬遺構には動物食関連送り場土坑が伴うといえます。
北貝層と南貝層の分布域が動物食関連送り場土坑の密集域と略一致します。また西貝層にも動物食関連送り場土坑が存在します。この分布事象から貝層形成(貝塚形成)と動物食関連送り場土坑建設が関連している可能性を感得することができます。
埋葬施設とそれに関連する動物食関連送り場土坑が核になって貝層が形成された(貝塚が形成された)という仮説が浮かび上がらざるを得ません。
貝塚とは人の送り場の集合風景であるという仮説になります。

2-9 参考 全期集成 獣骨出土情報付

参考 全期集成 獣骨出土情報付
全期集成情報図の中の動物食関連送り場土坑に獣骨出土があるものに〇を付けて表示しました。
獣骨出土のある動物食関連送り場土坑はより活発な祭祀活動が存在していたと考えることができます。
獣骨出土のある動物食関連送り場土坑と埋葬関連遺構、貝層の全体分布はきれいな環状となり縄文人の描いていた送り場ゾーンつまり貝塚ゾーンを把握できたと考えます。

3 まとめ
・動物食関連送り場土坑は人埋葬遺構に関連する祭祀の場であったと想定できます。
・動物食関連送り場土坑は人埋葬遺構における祭祀が終了した後、その故人に関連した祭祀を行う場であったと推察できます。
・人埋葬遺構と動物食関連送り場土坑が核になって貝層(貝塚)が形成されたと想定できます。つまり貝層(貝塚)は人送り場の蓄積集合体であると考えることができます。