2016年5月31日火曜日

学習メモ 房総の部民

鏡味完二の地名型「ベ(部)」地名の検討をしてきましたが、房総では語尾「ベ(部)」をわざわざ指標とするような回りくどい方法をとる必要がないほど部民の研究が進んでいるようです。

そこで、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載「表3 房総の部民」をもとに部民と古代地名(郷名)の関係について学習してみました。

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載「表3 房総の部民」には78の部民について、その区分、所在、所有者等が詳しく整理されています。

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)掲載「表3 房総の部民」の一部
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から引用

このデータを使って、部民と和名抄にみえる同名の郷との関係について把握することにより、部民の学習をしました。

房総の部民を一覧にすると次のようになります。

房総の部民一覧

これらの部民の多くは複数の郡・郷でその存在が確認されています。

これらの部民のうち部民名と同名の郷にその所在が確認されているものだけを抜き出してみました。

房総の部民(和名抄に同名郷名が見えるもののみの抽出)

全部で22部民、23郷が抽出できました。

この分布図を作成するとつぎのようになります。

房総三国の部民名と同名の古代郷名
なお、上総国海上郡倉椅郷は位置不詳のためプロットしてありません。

部民名がそのまま郷名になるほどですから、この分布図に示した古代郷は、部民による開発が活発に行われていた土地であるといって間違いないと思います。

この分布図は5~6世紀頃の主要な中央直轄地域開発地を表現していると考えます。

これらの部民開発地一つ一つの特徴を考察していけば、大化改新前の房総社会の様子が浮き彫りになると考えます。

現段階では個別部民開発地の検討は行いませんが、強烈に興味を引く郷名が目に入りましたので、1つだけ、次の記事でメモします。

強烈に興味を引く郷名(部民名)とは上総国長柄郡車持郷(車持部(クルマモチベ))です。









2016年5月29日日曜日

房総における和名抄にみえる郷名「ベ(部)」の分布

2016.05.27記事「古代地名「~ベ(部)」の千葉県検索結果」で和名抄にみえる郷名「ベ(部)」の分布図作成を宿題としました。

その宿題分布図を次に示します。

和名抄にみえる郷名「ベ(部)」の分布

郷名のプロット「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)付録「房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」に記述されている情報に基づきました。

ただし、上総国周淮郡勝部については比定地未詳のためプロットできませんでした。

ベ(部)郷名は11プロットでき、水系別にみると、東京湾水系2、太平洋水系7、香取の海水系2となります。

4~6世紀頃の部民による中央直轄型地域開発は太平洋岸地域が中心であたったことが判ります。

東京湾水系の土地が既に開発されつくされていて、残った未開の主な土地が太平洋岸であったということだと思います。

現在伝わっているベ(部)地名も、最も多いのは太平洋水系です。

参考 小字・大字「ベ(地名)」の分布

現在の「ベ(部)」地名では東京湾水系10、太平洋水系11、香取の海水系5となります。

「ベ(部)」地名は鏡味完二が部民を使った地域開発の指標となるという意味で取り上げているので、検討してきました。

しかし、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)には部民の詳しいデータが掲載されていて、和名抄にみえる郷名と部民の関係が詳細に判るようになっています。

そのデータを使えば、地名の語尾を「ベ(部)」に限って、情報を限定して検討する必要はまったくありません。

従って、学習ついでに部民と古代郷名の関係をさらに次の記事で検討します。

2016年5月27日金曜日

古代地名「~ベ(部)」の千葉県検索結果

鏡味完二の地名層序年表に出てくる古代地名「~ベ(部)」について検討します。

1 鏡味完二による「~ベ(部)」の検討

鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957)では「~ベ(部)」について次のように記述しています。

……………………………………………………………………
品部,部民,名代,子代の地名の中で最も個数の多いのは,Hase・Hazi・Hizi・Haso(土師・安師・埴師)の類で39例,それについで服部が25例・日置(部)が25例,Inbe・Nibe・Ibe(忌部・行部・丹部・印部・伊野部・一部・二部・仁(ニン)部・新(ニン)部・猪之部・伊部)が,22例・Osakabe(刑部・押部・坂部・長部)が21例などが多いものである。

下図はこれらの部民,品部,名代,子代の地名のうち,"~部"というもののみを,「5万分の1地形図」からとり出して作ったものである。

この図上でその分布の密度から,3つの部類の地域に分けられる。

最密地域は出雲から讃岐,阿波への線以東,敦賀,伊勢両湾頭を結んだ線以西,和歌山から松坂への線以北の地域である。

そして近畿の中央低地と等しく,丹波高原や中国山地地方にも多数分布することは,これらの地域の間には,当時にあっては今日みる程の文化的地域差がなく,殆んど一様な文化地域であったことを示しているものである。

次の分布の不連続は越後を含めた奥羽南境地方と,平戸,熊本,延岡を結ぶ線とにみられる。

以上のような3つの分布の段階によって示される様相は,ほぼ5世紀中葉における日本列島の文化の地域的配列の模様であるといえよう。

この地域区分は倭名鈔の郷名,"~部(ベ)"の地名の分布〔地図篇,Fig.51〕においても同様にいえる。

ベ(部)分布図

参考 ベ(部)分布図に引用者が説明情報追記

ベ(部)の分布(倭名鈔)
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2 ベ(部)の千葉県小字データベース検索結果

~ベ(部)について、古代部民に関わると考えられるものを小字及び大字について抽出しました。

古代部民関連地名(予察)

見かけ上「~ベ(部)」に該当するものは約140抽出できますが、それが古代部民に関わる地名であるかどうかの判定は次の参考資料で部民に関わることが掲載されているものに限りました。

●~ベ(部)抽出の判定に使った資料
・「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)「表3房総の部民」及び付録「古代房総三国の郡・郷・里の変遷と比定地一覧」
・「千葉県の歴史 資料編 古代」(千葉県発行)
・角川千葉県地名大辞典(1984)

小字は21件、大字は7件抽出できました。

その分布は次の通りです。

小字・大字「ベ(部)」の分布

このうち和名抄で確認できる郷名の~ベ(部)地名と5個所で対応を見ることができました。

●ベ(部)地名で古代と現代の対応関係があるもの

【古代郷名】下総国香取郡磯々(イソベ)---【現代地名】 成田市磯部(イソベ)、栄町矢口字磯部(イソベ)

【古代郷名】下総国匝瑳郡日部(クサカベ)---【現代地名】 香取市府馬字日下部(クサカベ)

【古代郷名】下総国匝瑳郡田部(タベ)---【現代地名】 香取市田部(タベ)、香取市西田部(ニシタベ)、香取市田部字遠田部(トウタベ)、香取市竹之内東田部(トウタベ)

【古代郷名】下総国千葉郡三枝(サイクサ)---【現代地名】 千葉市稲毛区作草部町(サクサベチョウ)

【古代郡名】上総国長柄郡刑部(オサカベ)---【現代地名】長柄町刑部(オサカベ)

現代まで伝わった地名からみた、古代における品部、部民、名代、子代の地域開発分布が上記分布図ということになります。

なお、次の資料では、和名抄の郷名に「~ベ(部)」が全部で11確認できます。

参考

和名抄に見えるベ(部)地名の抜き書き

参考 和名類聚抄に見える「~部」地名 1

参考 和名類聚抄に見える「~部」地名 2
(この史料では下総国香取郡が欠落している)

余部(アマルベ)はこの検討における「~ベ(部)」地名には入らないと考えます。

意部(オフ)は字は部ですが、やはり「~べ(部)」地名には入らないと考えます。

上記史料で、郷名では房総3国に11の「~ベ(部)」地名が見えますから、それらの分布図を作成すれば、古代における品部、部民、名代、子代の地域開発状況を概観する貴重な情報になると考えます。

それが可能かどうか、次の記事で検討します。


2016年5月26日木曜日

千葉県の谷地形関連小字の種類と出現数

2016.05.25記事「台地開析谷を表現する地名サクの語源」で地名サクが縄文人が使った地名であることを述べました。

この記事の中で柳田國男が谷地形の地名について論じている著作物を引用しましたが、それに関連して、千葉県の谷地形関連小字の種類と出現数を整理してみましたので、参考までに記事にします。

次の表と図は千葉県小字データベースから予察的にカウントしたデータを整理したものです。

千葉県の谷地形関連小字の出現数(表)

千葉県の谷地形関連小字の出現数(グラフ)

この表は千葉県小字データベースで読みデータのあるもの、つまり原典(角川千葉県地名大辞典)でルビのあるものだけを対象としています。(残念ながら船橋市と習志野市のデータはルビがなく、全て抜けています。)

純粋小字とはこの表で取り上げた9つの小字名称としました。
関連小字とは純粋小字に別の言葉が付いたものを全て含みました。

ヤツが最も多く出現します。

ヤツの分布は次の通りです。

小字「ヤツ」の分布

ヤツは次の辞書情報にあるように狩猟民起源ではなく、農耕民起源の言葉であると考えています。

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やつ【谷】

〖名〗 たに。たにあいの地。特に鎌倉・下総(千葉県・茨城県)地方で用いる。やち。やと。⇨「やち(谷地)」の語誌。〔名語記(1275)〕

*十六夜日記(1279‐82頃)「忍びねはひきのやつなる郭公雲ゐに高くいつかなのらん」

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用

……………………………………………………………………
やち【谷地・谷・野地】

〖名〗
① 湿地帯。低湿地。やと。やつ。
*俳諧・続猿蓑(1698)旅「そのかみは谷(ヤ)地なりけらし小夜碪〈公羽〉」

⑴東北方言では、普通名詞として、湿地帯を意味する。関東地方の「やと」「やつ」は、現在では「たに」と同義か。しかし、「や」は「四谷」「渋谷」など、固有名詞を構成する形態素としては存在するが、普通名詞としては使われない。

⑵アイヌ語に沼または泥を意味するヤチという語があるところから、地名に多く見られる「やち」「やと」「やつ」「や」がアイヌ語起源であるとの説(柳田国男)があった。

しかし、北海道の地名にこれらの語が使用されていないところから、むしろアイヌ語のヤチの方が日本語からの借用語ではないかと考えられている。

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用

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ヤツは次のように言葉を分解できると考えています。

ヤツの分解
……………………………………………………………………
や【谷】

低湿地。また、谷あいになった地形。地名に残る。「雑司ヶ谷(ぞうしがや)」→やつ

『広辞苑 第六版』 岩波書店 から引用

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つ【津】

 〖名〗
② 泉など、水の湧き出るところ。
*万葉(8C後)九・一七五九「鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津(つ)の上に 率(あども)ひて 未通女壮士(をとめをとこ)の 行き集ひ」

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用
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つまり、ヤツとは水の豊かな湿地を意味していて、水田耕作適地を示している古代農耕技術用語であると考えます。

ヤツから派生した、あるいはヤツと兄弟関係にあると考えるヤト、ヤチは千葉県ではごく少数の出現にとどまります。

小字「ヤト」の分布

小字「ヤチ」の分布

サクは縄文人から弥生人が引き継いだ地名で、ヤツに次いで多数出現します。

小字「サク」の分布

柳田國男の文章に出てくるサコは千葉県では見つかりませんでした。

ヤツ、サクについで多いのはサワです。

小字「サワ」の分布

ヤツは水田耕作との関連で、サクは狩猟活動との関連で捉えることができますが、サワの語源がどこにあるのか、現状では未検討です。

なお、サワとタニは河川として空間を捉えている言葉かもしれないと予想しています。

ヤツやサクは空間を自分に引き寄せて、生産活動空間として表現している言葉、サワとタニは自然現象としての河川空間を表現している言葉という違いを予想します。

参考までに、河川名でその語尾に沢が付くものの分布図を鏡味完二が作成していて、その分布は東日本に偏っていると情報がありますので、参考に掲載します。

河川名の語尾 ~沢

クボも千葉県全域に出現します。

クボの検討も今後の課題ですが、ヤツ、サクなどと同じで、生産活動空間としての特性を表現している名称であると考えます。

小字「クボ」の分布

タニはサワとともに河川空間を表現しているものと予想します。

小字「タニ」の分布

参考までに、河川名でその語尾に谷が付くものの分布図を鏡味完二が作成していて、その分布は西日本に偏っていると情報がありますので、参考に掲載します。

河川名の語尾 ~谷

ハザマ・ハサマが数は少なくなりますが、千葉県に出現します。

柳田國男は「ハザマは關東などでは全然耳にせぬ地名だが」と書いていますが、小字では千葉県に出現するということになります。

小字「ハザマ」の分布

ハザマも生産活動空間の特徴を表現したものと考えます。それが何であるか、今後の検討課題です。




2016年5月25日水曜日

台地開析谷を表現する地名サクの語源

谷地形を表現する地名「サク」について、気づいたことがありますので、急遽記事にします。

2016.05.05記事「千葉県最多小字名「大谷」の5系統(オオヤツ、オオサク、オオタニ、オオザワ、ダイサク)」から2016.05.11記事「小字ヤツ・サク群の検討でわかったこと」までの7編の記事でヤツ・サクの検討を行いました。

検討結果の趣旨は次の通りです。

ヤツ…農耕民が水田適地を表現した水田耕作技術用語である。千葉県全域に分布する。ヤツの当て字はほとんど「谷」「谷津」となった。

ヤツの分布





サク…狩猟民が狩猟適地を表現した狩猟技術用語である。千葉県全域に分布する。サクに当て字をする時点で、大かたの地域はその意味が判らなくなっていたので、「作」の当て字をする。狩猟民末裔が残っていた地域ではその意味が判っていたので「谷」の当て字をする。

サクの分布

ヤツは弥生時代以降に外来弥生人によって命名された地名、サクは縄文時代から存在していた地名で、先住縄文人から外来弥生人が引き継いだ地名であると考えました。

ヤツとサクがイメージしている谷地形の部位も、オオヤツ・オオサクを例にして次のポンチ絵に示したように、異なると考えました。

オオヤツがイメージしている場所

オオサクがイメージしている場所

ここまでの検討は大局的にみて間違いないところだと自信を深めています。




しかし、サクの語源についてこれまで「裂く」と説明していたのですが、その考えを訂正しますので、この記事で説明します。

サクを「裂く」とすると、動詞が技術用語になっていて、さらに地名になったように見えますので不自然です。この不自然さは以前からうすうす感じていました。

思考上の本当の転機となったのは、柳田國男(1934):地名と歴史、定本柳田國男集 第20巻に次のような文章が出ていて、サクとサコの類縁性が指摘されていて、早速サコの情報を調べたことによります。

参考 柳田國男のサクとサコに関する記述
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ホラといふ語の盛んに使はれて居るのは、東美濃から飛騨の益田川流域にかけてゞあり信州も南部には少しあるから、三河とは地域が繋がつて居る。

それが大分の間隔を置いて伊豆半島の南半部に、ごく普通に行はれて居るのを私は實験した。

クボといふ語は西國にも丸で無いとは言はれぬけれども、多いのはやはり此國以東の太平洋岸で、殊に東京の四周の僅かな土地が最も目につき、東へ進むと又無くなつてしまふのである。

東京近くでクボといふ地形は、其外側へ出ると多くはヤツ又はヤト、上總下總等ではサクといふ語が代りになつて居て、是は愛知縣には共に無いやうである。

サクは九州南部のサコと一つの語であらうと思ふが他の地方では是をハザマと謂ひ、現に大迫と書いて鹿兒島地方はオホサコ又はウーザコ、岩手縣では之をオハザマと謂つて居る。

ハザマは關東などでは全然耳にせぬ地名だが、其分布は存外に廣く、西は山口縣でも盛んに地名になつて居り、東北にも亦僅かだが大迫の如き例がある。

無論東北などのものはこちらが元でもあらうが、何にもせよ甲にあつて乙丙の地には無いといふ地名の幾つかゞ、こゝで又新しい組合せを見せて居るといふことは、所謂國内移民の動向を察する上に於て、獨りこの土地限りの史料とも言はれぬ位に大切な事實である。

柳田國男(1934):地名と歴史、定本柳田國男集 第20巻 から引用
太字は引用者

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柳田國男がサクとサコは同じ言葉であると論じているのですから、早速サコを調べてみました。

次のような情報を入手できました。

参考 サコに関する既存情報
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さこ【谷・迫】

〖名〗 山の尾根と尾根の間をいう。小さな谷。はざま。〔名語記(1275)〕

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用

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さこ 【迫】

山あいの小さな谷をいう。

岡山県以西の中国地方と九州地方に多い。

同様の語として千葉県などでは〈さく〉がある。

また〈狭間〘はざま〙〉も同様の意味の語である。

このような小さな谷に開かれた田が迫田であり,《俚言集覧》に〈美作〘みまさか〙にて山の尾と尾との間をさこと云ふ。其処に小水ありて田有をさこ田と云ふ〉とある。

迫田は,谷田,棚田と同様に,1枚1枚の耕地は零細であり,労働力の投下に比して収穫量はけっして多いものではなかった。

しかし,小さな谷々の湧水によって用水が確保でき,河川のはんらんなどの影響をうけることが少ないので,古代,中世では安定的な水田であった。

とくに中世では,小さな谷池が築かれるなどして,より安定した水田とされ,中世農民の経営と開発能力に適合的な耕地形態の一つであった。

なお,鹿児島県地方の迫はシラス台地に刻みこまれているため水もちが悪く,しかも降雨があると沃土が泥津波によって流されてしまいがちなので,同地方の迫田における生産力の上昇はとくに困難であった。

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用

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サコは小さな谷という意味ですから、サコを分解すれば次のようなサとコになります。

既存情報に基づくサコの分解
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さ【狭】

〖語素〗 (名詞に付いて接頭語的に) そのものの幅が狭いことを表わす。「狭物(さもの)」「狭織(さおり)」など

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用

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こ【処】

〖語素〗 名詞、代名詞に付いて、その場所を表わす。「ここ」「そこ」など。

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用

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サコと同じ考え方でサクを分解すると次のようになります。

既存情報によるサコ分解に基づくサクの分解
……………………………………………………………………
さ【狭】

〖語素〗 (名詞に付いて接頭語的に) そのものの幅が狭いことを表わす。「狭物(さもの)」「狭織(さおり)」など。

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用

……………………………………………………………………
く【処・所】

〖語素〗 名詞または、それに準ずるもの、動詞の連用形に付いて場所の意味を示す。「いづく」「こもりく」など。「みやこ」「いづこ」「そこ」などの「こ」、「おくか」「くぬか」「ありか」「すみか」などの「か」と同語源の語。

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用

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結局、サコの辞書や百科事典の説明を踏襲すると、サクも小さな谷という意味になります。

ここで次のような疑問が生じます。

サコ・サクが小さな谷の意味とすると、その小ささに着目した谷の最初の利用が何であったのか、わからなくなってしまうという疑問です。

現代でこそ、台地開析谷は狭くて、水田耕作にとっては不利な場所ですが、古代水田耕作にあっては、まったく正反対であり、当時の技術力における最適の場所です。

古代では、狭いが故に最適の水田開発地であったのです。

台地開析谷を小さい谷と命名したと考えるのは、技術力が高度化して広大な面積の水田開発を現実のものとした近世・近代・現代の人々だからであると思います。

古代の水田開発者が台地開析谷の特徴をその小ささに焦点を当てて表現することはあり得ないと考えます。

サコの辞書説明、百科事典説明は現代人がその意味をそのように理解しているという情報にすぎません。

サコの語源を説明しているとは到底考えられません。

従って、サコ・サクの語源は別のところに求めるべきであると考えます。


サコ・サクの語源をつぎのように考えます。

サコ・サクはサとコ、サとクに分解して次のように考えます。

サコの語源
……………………………………………………………………
さ【矢・箭】

〖名〗 矢の古称か。

*万葉(8C後)一三・三三三〇「鮎を惜しみ 投ぐる左(サ)の 遠離り居て」

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用

……………………………………………………………………
こ【処】

〖語素〗 名詞、代名詞に付いて、その場所を表わす。「ここ」「そこ」など。

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用

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サクの語源
……………………………………………………………………
さ【矢・箭】

〖名〗 矢の古称か。

*万葉(8C後)一三・三三三〇「鮎を惜しみ 投ぐる左(サ)の 遠離り居て」

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用

……………………………………………………………………

く【処・所】

〖語素〗 名詞または、それに準ずるもの、動詞の連用形に付いて場所の意味を示す。「いづく」「こもりく」など。「みやこ」「いづこ」「そこ」などの「こ」、「おくか」「くぬか」「ありか」「すみか」などの「か」と同語源の語。

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用

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サコ・サクとも同じ意味で、サ(矢)を射る場所という意味です。崖を利用した獣追い落とし猟で、狩猟民がとどめの矢を射る場所、つまり崖を意味すると考えます。

サ(矢)はサチ(幸)のサです。

サチ(幸)とは狩猟社会の根源的な生活能力を表したことばです。

そのサチ(幸)が生起する場所がサコ・サク(矢処)です。

サコ・サクは狩猟民(直接的には縄文人)の言葉であり、今後その意味をさらに深めて把握する必要がある、重要な言葉です。

地名サコ・サクからサチ(幸)概念を手づるにして、縄文社会の様子に切り込むことができると考えます。

参考 サチ
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さち【幸】

〖名〗
① 獲物をとるための道具。また、その道具のもつ霊力。
*古事記(712)上「火遠理命、其の兄火照命に、各佐知(サチ)を相易へて用ゐむと謂ひて」

② 漁や狩りの獲物の多いこと。また、その獲物。
*書紀(720)神代下(鴨脚本訓)「各、其の利(サチ)を得ず」

③ (形動) 都合のよいこと。さいわいであること。また、そのさま。しあわせ。幸福。
*続日本紀‐天応元年(781)四月一五日・宣命「凡人の子の福(さち)を蒙らまく欲りする事は、おやのためにとなも聞しめす」
*名語記(1275)六「人の身に、さち・さいわいといへるさち」

*元来①や②の意味で用いられ、情態性を表わす「さき(幸)」とは、関係ない語であった。しかし、「さち」を得られることが「さき」という情態につながることと、音声学上、第二音節の無声子音の調音点のわずかな違いをのぞけば、ほぼ同じ発音であることなどから、「さち」に③の意味が与えられるようになったと推定される。上代の文献には、狩りや漁に関係しない、純然たる③の意味の確例は見られない。

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用

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参考 サチの分解
……………………………………………………………………
さ【矢・箭】

〖名〗 矢の古称か。

*万葉(8C後)一三・三三三〇「鮎を惜しみ 投ぐる左(サ)の 遠離り居て」

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用

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ち【霊】

〖語素〗 神や自然の霊の意で、神秘的な力を表わす。「みずち(水霊)」「のつち(野霊)」「いかずち(雷)」「おろち(大蛇)」。「わたつみ」「やまつみ」「ほほでみ」の「み」と同じ。

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用

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参考 サチと狩猟に関する折口信夫の記述
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未開野蛮の時代に於て、最幸福な、或は、或種の君たるべき資格ともなる筈の、祝福せられた威力の根元は、狩猟の能力であると考へられて居た。

私は、此威力の源になって居る外来魂は、さちと言ふ名であった事を主張して居るものである。

即、古くから用ゐられた語に、さつ矢・さつ弓・さち夫など言ふのがある。

此さちは、只今も残って居る方言、又は其背景をなして居る信仰に於ては、明らかに抽象的な能力、或はその能力の出所となるものを意味して居る様である。

普通、山ノ幸・海ノ幸といふ事は、山の猟・海の猟、或はそれに、祝福せられた、といふ形容がついた位に説かれて居るが、実は、山海の漁猟の、能力を意味する威力を表すのが、此語の古義であったと思ふ。

だから、その威力を享けた人が、山幸彦・海幸彦であったのだ。

折口信夫:原始信仰、折口信夫全集 第19巻 から引用

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2016年5月24日火曜日

古代房総の海人(あま)の活動

古代地名「イラ」の分布拡大と海人(あま)の活動が重なるものと考え、房総の「イラ」地名は海人(あま)がつけた地名であると考えました。

その考えに基づき、房総における海人(あま)の活動について、次のような想像図を作成しました。

2016.05.22記事「古代地名「イラ」の追考」参照

海人(あま)の活動領域(想像)

説明


海人(あま)の列島展開を調べると次のような記述が見つかりました。

……………………………………………………………………
あま 【海人】

古文献に海人,海部,蜑,白水郎などと記す。

海を主なる生業の舞台とし,河川,湖沼で素潜〘すもぐ〙りする漁民をはじめ,釣漁,網漁,塩焼き,水上輸送・航海にたずさわる人々を,今日いう男あま(海士),女あま(海女)の区別なく〈あま〉と総称する。

【系統と分布】
日本民族の形成過程のなかで,かなり明瞭にあとづけられるのは南方系であり,インド・チャイニーズ系とインドネシア系に大別されよう。

前者は,古典にみえる阿曇〘あずみ〙系およびその傍系である住吉系漁労民で,中国南部の閩越〘びんえつ〙地方の漂海民の系統をひき,東シナ海を北上し,山東半島から遼東半島,さらに朝鮮半島西海岸を南下し,多島海,済州島方面を経て玄界灘に達する経路をたどったと推定される。

後者は,宗像〘むなかた〙系海人と呼ばれ,フィリピン付近海域から黒潮の流れに沿ってバシー海峡,台湾,沖縄,奄美諸島などサンゴ礁の発達した島嶼〘とうしよ〙を伝って南九州に達したと考えられ,古典にいう隼人〘はやと〙系に属する。

両系の種族が日本へ達した前後関係は明らかでないが,玄界灘で交差し,混血も行われたであろう。

阿曇・住吉系はしばらく北九州海域を根拠地とし,のち,瀬戸内海中心にその沿岸と島々,さらに鳴門海峡を出て紀州沿岸を回り,深く伊勢湾に入り込み伊勢海人として一大中心点を構成し,さらに外洋に出て東海道沿岸から伊豆半島ならびに七島の島々に拠点をつくった。

それより房総半島から常陸沿岸にかけて分布した。

彼らは航海に長じ,漁労をも兼ねる海人集団とみられる。

これに対し,宗像系海人は,もっぱら手づかみ漁,弓射漁,刺突漁など潜水漁を得意とした。

本拠を筑前宗像郡鐘ヶ崎に置き,筑後,肥前,壱岐,対馬,豊後の沿岸に進出,さらに日本海側では向津具半島の大浦,出雲半島と東進,但馬,丹波,丹後から若狭湾に入り,なお能登半島,越中,越後,佐渡に渡り,羽後の男鹿半島に及んだ。

両系統とも,なかには河川を遡上し内陸部へ進み陸化したものもあった。

彼らの定住地の跡には,その記念碑ともいうべき関連地名が残されている。

海部そのままの名や,4~5世紀のころ,朝廷から海人族を宰領する役割を担った▶阿曇氏に関係あるものが目だつ。

また,その奉斎する祭神から移動,分布が推定される。

三島神社の祭神大山祇〘おおやまつみ〙神は,《古事記》によれば,薩摩半島笠佐岬付近にまつられたが,早く摂津淀川の中流の三島,伊予の大三島,さらに伊豆の白浜のち三島に移された。

宗像系による宗像神社の分布も津々浦々に及び,住吉の神は長門,摂津,播磨などのほか全国的に広く勧請された。

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用

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海人(あま)は航海に長じ,漁労をも兼ねる海人集団であり、なかには河川を遡上し内陸部へ進み陸化したものもあったとあります。

またその奉斎する祭神から移動,分布が推定されるとして、宗像神社の分布にも触れています。

そこで、「海人(あま)の活動領域(想像)」図とこれらの記述から展開導出された、海人(あま)活動に関する思考(想像)を次にメモしておきます。

● 房総における海人(あま)の活動

その1 アワビ生産と西日本出荷

海人(あま)の主な漁撈域は岩場であり、アワビ生産ができる場所です。

海人(あま)は漁業生産一般の増大をもとめて房総にまでやってきたのではなく、アワビをもとめて房総にやってきたと考えます。

古代ではアワビは特別な海産品で、房総の特産物であったと考えます。大和政権に対する献上品として価値が特段に大きなものであったと考えます。

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アワビ【鮑】 
abalone

【民俗】
《延喜式》にアワビの加工品の名が多く見え,多くの料理に利用されていた。

アワビは乾燥して中国にも輸出され,貝殻は細工用となるほか眼病の薬ともなり,真珠も採取されるなど古来海人〘あま〙と呼ばれた漁民の生活の対象であった。

加工品の中でも〈熨斗鮑〉は貴人や神祭の食物として供された。

また,武士の出陣,帰陣にも吉例としてこれを出した。

アワビは海産の食物として代表的であり,また常時準備しておくことが可能なものだったからであろう。

このことから他の人への贈物としてもアワビは貴重であり,品物に添えて形ばかりでもこれを供したのが,現今の熨斗紙の起りである。

また,各地にアワビを祭る神社のあることが知られているが,南方熊楠は,アワビが一枚貝で内面の真珠質の部分に光線のぐあいで神仏の像に似た模様が浮き出るのを神秘と見た結果ではないかと論じた。

千葉 徳爾

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用

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その2 西日本から房総へ向かう移住者の東海道運搬

弥生時代中期後葉以降西日本から房総への人の移動が急増します。

この人の移動は、海人(あま)が構築整備した列島規模の水運ルートを活用して実施されたと考えます。

この列島規模の水運ルートが古代東海道ということになります。

参考 西日本から房総への人移動が最初に急増した頃の拠点集落

弥生時代中期後葉における拠点集落の分布
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

弥生時代中期後葉における拠点集落は環濠集落のものが多く、西日本社会の影響を強く受けており、その住民の多くは西日本からの移住者であった可能性が指摘されています。(「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行))

それ以前の房総弥生時代社会は在地の縄文人が弥生文化に染まっていった社会であると考えます。

西日本から房総に移住した集団と、その集団の出身地域との交流も存在していたと考えます。(移住集団の先遣隊と出身地域との連絡等)

その3 西日本から到着した移住者の現場ガイド

海人(あま)は房総内の水運ルート網を構築整備して、西日本から到着した移住者集団の定着場所探しをガイドしていたと考えます。

次の図は印旛古代4氏族の入植ルート及び順番を想像した図です。

印旛古代4氏族の入植順番(想像)

2015.10.29記事「参考メモ 房総古代の開拓に関する空間大局観」参照

一族郎党を引き連れて西日本から房総に到着できても、現場ガイドなしでは適切な場所に入植できる保証はありません。

移住者集団は必ず現場ガイドの助力を必要としたと考えます。

その現場ガイドが海人(あま)です。

移住者集団は海人(あま)から入植可能地がどこにあるか、そこまでの移動ルート、先着している移住者集団の様子、先住民(縄文人)の様子などの情報を得ていたと考えます。

海人(あま)も現場ガイドを生業の一つにしていたと考えます。

その4 入植地定着と入植地における水運活動

その3掲載図中の「宗像神社を祀る古代氏族」とは海人(あま)族である宗像一族です。

九州からやってきました。

海人(あま)みずからが印旛沼に定着して、印旛沼-香取の海の水運に関わって、印旛沼開発の一翼を担っています。

その5 先住民との交易活動について

その1~その4以外に、海人(あま)が先住民と交易していたことも考えられます。

しかし、房総の先住民が生産する品物で海人(あま)が全国に供給するような価値のあるものがあったのかどうか、情報がありません。

先住民が生産する品物で価値のあるものがなければ、房総では海人(あま)は先住民と交易をしていなかったかもしれません。

この項目は今後の検討課題とします。


2016年5月22日日曜日

古代地名「イラ」の追考

2016.05.15記事「鏡味完二の地名層序年表による地名型Ira Eraの千葉県検索結果」でイラ・エラの検討を行いました。

また、2016.05.19記事「小字「ハニ」「ハネ」に関する補足考察と訂正」でイラ・エラの分布について触れました。

しかし、イラ・エラの意味は「洞穴」ということであり、それが地域開発に具体的にどのようにかかわるのか、十分な理解が欠如したまま、これまで来てしまいました。

イラ・エラの全国分布図(鏡味完二による)

ところが、このためではない次の読書で、疑問が解けたように感じることができ、さらに自分の最重要テーマである花見川に関する東海道水運支路仮説との関わりまで思考をつなげることができました。

その思考(想像)をメモしておきます。

1 地名イラ・エラの分布と関わりがあると感じた記述(瀬川拓郎(2016):「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史-」(ちくま新書))
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北海道で出土したト骨

ところで、南島産の貝製品が北海道でも多数出土している事実については、弥生時代中期に日本列島を南北にむすぶ物流が成立しており、そこに専業的な海運集団がかかわっていたとする指摘もあります(加藤同前)。

これとかかわって興味深いのは、弥生時代の海民の問題にとりくんでいる山浦清の説です。

山浦は、弥生時代になると九州北部の海民が各地に進出していったとのべ、続縄文時代前期の道南の遺跡では、鈷頭などの骨角器にこの九州北部の海民の影響がうかがえるとしています(山浦1999)。

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道南の続縄文文化の成立にあたって、縄文人の特徴をとどめていた九州北部など西日本日本海沿岸の海民がかかわっていたのはまちがいなさそうです。

弥生時代中期には日本列島を南北にむすぶ物流が成立し、そこには専業的な海運集団がかかわっていたとする説を紹介しましたが、この流通を担った海民は、各地で潜水漁などの漁撈や海獣狩猟もおこなっていました。

縄文人的特徴をもつ海民が列島規模で活動を繰り広げていた事実は、水稲耕作をめぐって語られる弥生文化とは異質な、もうひとつの弥生文化があったことを物語っているのです。

瀬川拓郎(2016):「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史-」(ちくま新書)から引用

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この図書では北海道や東北北部を視野にいれて縄文人、アイヌ人、弥生人等の関係が織りなす歴史を最新情報に基づいて解説しています。

その中で、弥生時代の九州北部の海民が全国規模で展開して、北海道を含む全国の流通に関わり、同時に各地の潜水漁などの漁撈や海獣狩猟を広めていったことが記述されます。

その弥生時代海民と地名イラ・エラが関わると直観します。

同時に、その弥生時代海民とは、房総で海人(あま)と呼ばれる人々で、私が潜水漁などの漁撈専業者としてだけのイメージで捉えてきた人々です。

私の海人(あま)イメージは半分欠けていたようです。

海人(あま)は漁撈専業者の側面とともに、流通専業者(交易専業者)の側面もあったようです。

なにしろ、弥生時代に海人(あま)が九州から北海道(!)までの水運網を築いていたのです。

海人(あま)については次の記述があります。

2 地名イラ・エラの分布とかかわりがあると感じた記述(「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行))

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「海人」(あま)は古来、漁業と航海に習熟した海辺の民の総称として用いられている。

古代の文献では、「日本書紀」応神三年十一月の条に、各地の「海人」が命に従わないため阿曇連の祖大浜宿禰を派遣して平定させ、海人の宰(みこともち)としたことが記されているのを始め、王権に海産物を貢納し、あるいは水先案内をつとめる海人の記事が散見される。

応神五年八月の条には諸国に令して海人と山守部を定めた記事があり、山林を管理して山の幸を貢納する山守部とともに王権の下に統制されたことがうかがえる。

王権の各種行事、神マツリに海産物が不可欠であり、その安定した供給が必要であったことを反映しているといえよう。

王権の下に編成された海人は、やがて海部・阿曇部などの品部として史料に現れ、「和名類聚抄」に見える海部郷・海部郡は律令制に組み込まれた海人の存在を裏付ける。

古代史料に海人・海部・大海・凡海部などと表記される海洋民集団は、列島各地に分布し、畿内から東では伊勢・尾張・三河・遠江・上総・信濃・若狭・越前・能登・越中に見られる。

日本海沿岸の海蝕洞穴墓が海上交通を掌握した海人たちの墓であったように、房総・三浦半島の洞穴墓も古東海道を支配した海人の墓であったと考えられる。

伊豆・房総半島の海岸の狭い低地帯には、紀伊半島と同じ地名が散在し、海運による広域な交流がうかがえる。

一方、伊豆半島・伊豆七島・房総半島の南端には「海の祭祀」跡が集中し、古墳時代から奈良時代にわたって青銅鏡や多量の石製・土製祭祀具を用いたマツリが行われており、航海の安全や大漁を祈願した海人の足跡をたどることができる。

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から引用
太字は引用者

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この図書でも海人(あま)が古東海道を支配していたと明確に記述してます。

以前同じ文章を読んだときは、海人(あま)=漁撈専業者の固定観念が強く、「古東海道を支配していた」という文章に注意を払うことはありませんでした。

2つの図書を読んで、古代地名イラ・エラが海人(あま)の活動拠点を表現していて、それが、漁撈の拠点あるいは流通(交易)の拠点(つまり古代のミナト)、あるいはその双方を表現しているということが、あらためて理解できました。

目から鱗が落ちるという感覚を味わいます。

房総における小字「イラ」の分布について、よりストーリー性のある解釈ができます。

3 小字「イラ」の分布に関する説得力ある解釈

次に、房総における小字「イラ」の分布図と洞穴遺跡分布図を示します。

小字読み「イラ」系統の分布

洞穴遺跡分布図
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用

2枚の分布図を重ねると、鴨川市の小字「伊良田」と館山市の小字「以良世」は洞穴遺跡地帯に存在しています。

実際に詳しくみると鴨川市の小字「伊良田」と館山市の小字「以良世」ともにすぐ近くに洞穴遺跡があります。

ですから鴨川市の小字「伊良田」と館山市の小字「以良世」ともに海人(あま)の漁撈や流通拠点と対応している事象であると直観できます。

一方、袖ヶ浦市の「以良籠」は洞穴遺跡地帯にはありません。

「以良籠」付近には海蝕崖がありますから、その場所に洞穴があった可能性はありますが、海蝕崖前の海は遠浅の干潟になっています。潜水漁を行うような場所ではありません。

ですから、袖ヶ浦市の「以良籠」は潜水漁などを得意とする漁撈専業者の拠点であると解釈するには無理があります。

しかし、九州から北海道までの水運ルートを構築した活動力・実践力のある流通交易集団の拠点であるということから考えると、袖ヶ浦市の「以良籠」を東京湾全体の流通ハブ拠点として捉えることが可能になります。

これまで、このブログでは東京湾と香取の海、東京湾と太平洋を結ぶ古代水運ルート(船越[短区間陸路]を経由する水運ルート)を幾度となく検討してきています。

同時に、海人(あま)に関係すると考えられる地名として市原市の小字「海士(あま)」(大字は海士有木)、千葉市花見川区の「天戸(あまど)」(大字)が知られています。

これらの水運ルートの想定、海人(あま)関連地名を袖ヶ浦市の「以良籠」とともに考察すると、次のような海人(あま)の活動領域を、多様な根拠を伴いながら想像することができます。

海人(あま)の活動領域(想像)

イラ・エラが古代開発とどのように関係するのか、最初はわからなかったのですが、だんだんと判ってきました。

瀬川拓郎(2016):「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史-」(ちくま新書)は、私の思考に強い刺激を与えた、とても素晴らしい最新情報図書です。

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2016.05.23追記

画像「海人(あま)の活動領域(想像)」の「海人の主な漁撈域」について、銚子付近を追記しました。

海人(あま)族が房総のアワビ等の潜水漁と一般流通ルート(一般交易ルート)を完全に手中に収めていたことを想像します。

2016年5月20日金曜日

古代開発地名アガタの千葉県検索結果

鏡味完二の地名層序年表による地名型21について、順次千葉県小字を対象にして検索して検討しています。

この記事ではアガタについて、千葉県小字データベースを検索しましたのでその結果を記録します。

1 鏡味完二によるアガタの検討

鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957)ではアガタについて次のように記述しています。

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アガタの分布

(4) A・ngata

太古の住民は山地農民であったから,最初の水田はA・ngata,すなわち山腹の高所の水田であって,それが上田(アガタ)であるという名義説や,「吾が田」をA・ngataといったという説もあるが,その何れにせよ間もなく「領地」の意味で用いられたものであったらしい。

上古においては土地は皇領を除き,他は凡て諸氏族に分属していて,後日の県主という名やA・ngataという地名として伝承されてきたのである。

この地名の分布はTadokoroやSue・Haziよりは,余ほどその重心が東に移り,殆んど近畿中心に近くなっている。

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2 アガタの千葉県小字データベース検索結果

小字「アガタ」は次の3件抽出されました。

東金市下武射田 県(アガタ)
大網白里市金谷郷 県台(アガタダイ)
同           県森(アカタモリ)

大網白里市分は同じ大字にあり、県(アガタ)から派生した関連小字ですから、もともとの県(アガタ)開発は1カ所であると考えられます。

つまり、千葉県には県(アガタ)という地名型が2カ所残っていることが判明しました。

小字「アガタ」の分布


アガタ2カ所が太平洋岸に存在することに大いに注目します。

タドコロ、ミヤケでもタドコロは船橋市と睦沢町、ミヤケは茂原市で、合計3カ所のうち2カ所が太平洋岸でした。

歴史を大局的に観察したとき、東京湾側が最初に開拓され、その後太平洋岸が開拓されたことは間違いないと思います。

従って、「ミヤケ」開発、「タドコロ」開発、「アガタ」開発は東京湾側の土地がほぼ開発されてしまった後、新天地の太平洋岸に大和政権が国策のような形で、あるいは大和政権直結勢力が直営で実施した地域開発であると想像します。

ミヤケ・タドコロ・アガタはある時代の開発最前線の場所を記録している地名でもあると考えます。

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参考 「タドコロ」「ミヤケ」の分布

「タドコロ」「ミヤケ」の分布

2016年5月19日木曜日

小字「ハニ」「ハネ」に関する補足考察と訂正

2016.05.18記事「古代窯業地名スエ・ハジ及びハニ・ハネの千葉県検索結果」の補足考察と一部訂正を行います。

1 補足考察

ハニ・ハネの全国分布について、自分なりに次のように解釈します。

ハニ・ハネの全国分布図

ハニは近畿に濃密に分布し、ハネは近畿に薄くしか分布していないように見えます。

近畿以外では、全国的に見て、ハニもハネも分布します。

ハニという言葉は、当時の先端産業である窯業における陶土産地というテクニカルタームであると考えます。

その先端産業は大和政権の中心地(近畿)で、発展し開発が進み、そのためその言葉が多く使われ、地名として沢山残ったと考えます。

同時に、その産業開発が全国展開して、ハニという言葉多く使われ、地名として各地に残ったと考えます。

その後、年代の経過とともに、音韻変化によりハニがハネと発音されるようになったと考えます。

その頃、近畿の窯業開発はすでに飽和状態であり、主な窯業開発地は近畿以外であり、近畿以外の全国にハネ地名が増えたと考えます。

こうしたイメージを柳田國男の方言周圏論と対比させてポンチ絵にすると次のようになります。

柳田國男の方言周圏論と分布から見た地名の新旧(仮説)

地名は一度つけられると、大変強力な自己保存能力(保守性)をもっていますから、言葉の変化に影響を受けないでいつまでも残ります。

空間分布を列島規模でみると、方言と地名は全く逆の分布様式になると考えます。

次のエラとイラの分布図は、大和政権が成立する以前の、弥生人が朝鮮から九州や山口にわたってきていて、まだ列島を東進する前の頃の様子をエラが表現しています。

そして、そのエラが音韻変化でイラになったころ、弥生人集団が全国にその勢力を展開していった様子を表していると考えます。

エラとイラの分布


2 訂正

ハネの抽出結果のうち、次の1件が不適切でしたので削除し、記事内容を地図を含めて訂正しました。

不適切な抽出

我孫子市江蔵地は現在の利根川沿いにあります。刎出(ハネダシ)とは土木工作物の水制を意味します。この小字は利根川治水に関わるもので、近世以降に生まれたものと考えます。

なお、大字の江蔵地(エゾチ)はこの地を開発した古代頃には、まだ狩猟民の末裔が住んでいたことを伝えていると考えます。

2016年5月18日水曜日

古代窯業地名スエ・ハジ及びハニ・ハネの千葉県検索結果

鏡味完二の地名層序年表による地名型スエ・ハジと関連する地名型ハニ・ハネについて、千葉県小字データベースを検索しましたのでその結果を記録します。

1 鏡味完二によるスエ・ハジの検討

鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年)ではスエ・ハジについて次のように検討しています。

その検討結果を次に引用します。

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スエ・ハジの分布

陶・須恵,土師

Sueには「末」の字も用いられるが,中には陶業とは関係のない末宗・末信の如き武士の名をとった平安未期以後の名田の開墾地名が多数あり,また"大末"や"末野"などの地名のように,地図上ですぐそれが行詰りの地形語であることが想定されるものや,"末永"のように山麓地方の山脚や,自然堤防上にあるものなどは,この地名型からは除外されねばならない。

土師(ハセ)・土師(ハゼ)はこの地名型に入れて考えることにしたが,"長谷"は除くことにした。

このようにして著者は陶業地名として割合安全と思われる地名だけをとってみた。

井上教授によれば,土師部は陵戸を管して凶礼を司るのが初期の職能であったが,後には土師器を奉るようになったという。

この職業は雄略紀あたりには,既に幾多の職域に分れ,土師部・贄(ニエノ)土師部・玉手(タマテ)土師・坏(ツキ)手土師・陶部などの名があげられている。

これらの地名は瀬戸内から瀬戸市に至る地域に多く,地質的にいえぱ花崗岩山地の多い地方である。

太田博士は古代に土師部・陶部のいた地方は,現在製陶業が盛んな地方であると述べている。

陶部は最も新らしく,陶器の製法が大陸から伝来するに及んでからのものである。

鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年)から引用

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2 スエ・ハジの千葉県小字データベース検索結果

予察的な検索ではスエが28件、ハジが0件抽出されたのですが、スエについて精査したところ、全て「末広」などであり、陶や須恵に関連すると考えられるものは見つかりませんでした。

従って、千葉県小字ではスエ・ハジは見つかりませんでした。


3 鏡味完二によるハニ・ハネの検討

窯業関連の古代地名として、ハニ・ハネについて鏡味完二が重視して検討していますので、紹介します。

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Haneの分布

Haniの分布

Hani>Haneの分布
Haniは千葉方言で「赤土」、Haneは奈良方言で「粘土」である。古語としてはHaniが用いられ、埴輪・土物(ハニモノ)・埴生などと記されている。分布はHaniが内圏、Haneが外圏をなすが、西は広島、東は仙台の北方までの間で、両者は重なっている。(地図編、Fig.92とFig.93)

鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年)から引用

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4 ハニ・ハネの千葉県小字データベース検索結果

ハニ・ハネの千葉県検索結果を次に示します。

小字「ハニ」抽出結果

9件の小字「ハニ」が抽出されました。

その分布は次の通りです。

小字「ハニ」抽出結果


小字「ハネ」は次の通りです。

小字「ハネ」抽出結果


25件の小字「ハネ」が抽出されました。

その分布は次の通りです。

小字「ハネ」の分布

ハニ・ハネが本当に古代窯業関連の小字であるかどうかは、この抽出結果と分布図作成だけではわかりません。

そこで、「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)に掲載されている次の「須恵器窯・土師器窯」と「瓦窯」(いずれも奈良時代・平安時代)の分布図との対応を見てみました。

参考 「須恵器窯・土師器窯」分布図
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用

参考 「瓦窯」分布図
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用


小字「ハニ」・「ハネ」と須恵器窯・土師釜・瓦窯のオーバーレイ図を次に示します。

小字「ハニ」と須恵器窯・土師釜・瓦窯の分布

小字と窯が隣接(概ね2~3㎞以内)する組み合わせに丸を書き込んだのですが、3カ所で小字と窯(須恵器窯、瓦窯)が隣接しました。

窯とその陶土産地の関係である可能性が濃厚です。

小字「ハニ」が窯業と関係するという鏡味完二の説は伊達ではなく、歴史的事実と対応するという実感を持つことができました。

小字「ハネ」と須恵器窯・土師釜・瓦窯の分布

小字と窯が隣接(概ね2~3㎞以内)する組み合わせは9カ所に及びます。

窯(須恵器窯、土師器窯、瓦窯)とその陶土産地の関係である可能性が濃厚というより、ほぼ確実であるという直観をもつことができます。

「羽根」という言葉が陶土を意味することが、この図からはっきりしました。

また、逆に、小字「ハネ」だけが存在する場所には、まだ見つかっていない窯が存在していた可能性があります。

小字「ハニ」と小字「ハネ」が窯と隣接する全12ケースについて、詳細検討すれば、窯に原料を供給していた陶土産地を具体的に特定する作業が容易であり、これまで気が付かなかった情報を得ることができる可能性が浮かび上がります。

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2016.05.19追記

小字「ハネ」抽出結果のうち1件が不適切(近世の水防関連地名「刎出」[ハネダシ])でしたので、表と地図2枚を訂正しました。)