2012年9月30日日曜日

参考 2種の数値地図5mメッシュ(標高)による土木遺構認識の違い

天保期印旛沼堀割普請の土木遺構の詳細検討 その12

15 参考 2種の数値地図5mメッシュ(標高)による土木遺構認識の違い
次の2つの地形段彩図は航空レーザ測量による数値地図5mメッシュ(標高)に基づいたものと、航空写真測量による数値地図5mメッシュ(標高)に基づいたものです。

航空レーザ測量による数値地図5mメッシュ(標高)に基づいた地形段彩図
地図太郎PLUSにより作成

航空写真測量による数値地図5mメッシュ(標高)に基づいた地形段彩図
地図太郎PLUSにより作成

航空レーザ測量による地形は現場でその正確さを確認することができます。
航空写真測量による地形は、DMデータなどと比べると、一般には極めて精細で有用ですが、こと土木遺構(捨土土手)認識に限っていうと、「不正確」の域をはるかに凌駕して、「極端な誤謬」の域に達しています。

このブログで既に何回も(おそらく5~6回)記事にしていますが、横戸付近の雑木林はその下の天保期印旛沼堀割普請土木遺構(の捨土土手部分)とそれが立地する地形を覆い、写真測量技師は航空写真から雑木林下の地物を十分に認識できません。

次の図は地形断面の比較です。

57番断面の比較
地図太郎PLUSで断面地形の標高csvデータ(10㎝単位)を取得しエクセルで作図

64番断面の比較
地図太郎PLUSで断面地形の標高csvデータ(10㎝単位)を取得しエクセルで作図

現場で観察できる天保期印旛沼堀割普請の土木遺構としての捨土土手とそれが立地している地形(古柏井川谷底と谷壁斜面)の関係を航空レーザ測量による地形断面図から確認できます。
航空写真測量による地形断面図からは、土木遺構の姿とそれが立地する地形の正しい認識を得ることはできません。

このブログを開始した当初は航空写真測量に基づくによる数値地図5mメッシュ(標高)しか利用できませんでした。そのため、そのデータが肝心の部分で誤っていることから、自分の思考を平面図や断面図で正確に表現することが出来ず、苦しい感情を持った時がありました。

このブログで扱っている土木遺構や地形(谷津や台地の地形)を対象とするならば、航空レーザ測量による数値地図5mメッシュ(標高)を利用できるようになったことは、地図太郎PLUSなどのソフトを使うことによって、自分の書斎で居ながらにして自由に地形測量ができるようになったことであり、大変ありがたいことです。

こうした世の中の進歩を活用して、適切な地理情報を得て自分の思考を深めていきたいと思います。
私にとって、地図太郎PLUSver3に地形断面図作成機能が付加されたことは大きな出来事です。

つづく

2012年9月28日金曜日

住宅団地造成による捨土土手の改変

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その11

14 住宅団地造成による捨土土手の改変
20120920記事「柏井高校及び横戸台団地付近の捨土土手」で、地形断面図から捨土土手(土台部)を検出しました。
次にその記事の平面図と断面図説明を再掲します。

捨土土手の分布

39番断面

この記事で自分にとって新発見であった捨土土手(土台部)の素性について考えてみました。
当初、次のような可能性について検討項目をピックアップしました。
1 最初に土台部分を作って、その上に土手を作った。
2 団地開発で土手の中腹が削られ、土台があるような形状になった。
3 雨水の浸食でこのような形状になった。
4 天明期の普請で土台部分が作られ、天保期普請でその上に土手が乗った。

また、20120925記事「捨土を担ぐイラスト(続保定記絵図)」から次のような可能性も考えられなくはありません。
5 庄内藩郷人夫の捨土の仕方が人足引受人の捨土の仕方と違っていた。

4番などの結論になるととても面白いので、密かに期待したのですが、結論は2番に落ち着きました。(内心少しがっかりです。)

まず、住宅団地開発主体である千葉県住宅供給公社に問い合わせた、工事前の測量成果や土工事の計画図などの資料の閲覧を申し込んだのですが、結果それらの資料は10年間保存し、その後すべて焼却処分しているとのことで、団地開発の資料は得られませんでした。

しかし次のようなことが判ります。

1 断面図における捨土土手(グレー塗色部)形状が東西非対称性であり、東側〔左側〕が削られているように見えること。
2 捨土土手の東裾の境が石積擁壁を伴う直線道路であること。
3 捨土土手(土台部)(グリーン塗色部)の東端の平面分布線が住宅団地街区線をなぞるような関係にあること。
4 捨土土手(土台部)の分布が横戸台団地の区域と一致すること。

これらの条件に加え、なによりも現場で得られる観察から、捨土土手(土台部)の素性は、本来あった規模の大きな捨土土手が、団地開発でその中腹が削られ、その土が付近に運ばれ盛土となり、現在の土台のような形状に見かけ上出来あがったと、考えました。

この説明を絵にして次に掲載します。

横戸台団地造成工事における捨土土手改変の様子(想定)

現場写真で示すと次のよになります。

断面写真

正面写真

今後歴史的土木遺構としての捨土土手平面分布は、人工改変により強い影響を受けた土台部分は含めないことにします。
しかし、捨土土手の土量を考えるときには土台部分を捨土土手に含めて考えることにします。

つづく

2012年9月25日火曜日

捨土を担ぐイラスト(続保定記絵図)


天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その10

13 捨土を担ぐイラスト(続保定記絵図)
ここまで捨土土手の分布や形状について詳細な多数の地形断面図に基づいて検討してきました。
この検討はこれから、土木遺構としての印旛沼堀割普請遺構の平面範囲の確定や、捨土土手の推計土量を用いて普請前の自然地形復元検討などに発展させるつもりです。

この記事では、捨土土手を担ぐイラストが続保定記(※)に掲載されていて、当時の捨土の人力運搬の姿をリアルにイメージできるので、参考までに紹介します。

※ 続保定記
庄内藩大庄屋(添川組)の久松宗作が作成したもので、天保14年に幕府の命で庄内藩があたった印旛沼堀割普請の状況を多数の絵図を用いて詳細にまとめています。久松宗作自身が庄内人足と行を共にして現場に赴き、普請の有様をつぶさに観察して、それを基にまとめたものです。
原本は手書き1冊で、絵図を含めて久松宗作が直接筆を執ったと考えられています。(山形県教育委員会ヒアリングによる)
船橋市図書館、成田市図書館、東京大学などに筆写本が存在します。
山形県指定有形文化財(典籍)に指定されています。

江戸働黒鍬之者、大もっこうにて堀捨土かつく図
但し、土の重サ三、四十貫目ゟ、水つき候土ハ七十貫目位迄もかつき候由
久松宗作著続保定記掲載絵図
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行、平成10年3月)より絵図と文章転載
(ゟは「より」)

黒鍬者は岩波日本史辞典(岩波書店)によれば「各地の新田開発や川普請に従事した日雇人夫。尾張国などからの出稼ぎ人が多かったという」と説明されています。
土の重さ三、四十貫(水がつけば七十貫)目も担ぐとありますから、1貫=3.75キログラムですから、110~150㎏、水がつけば260㎏ということになります。

 「ハアドッコトショ」「アアヨイショ」という掛け声が書かれています。(「ハアドッコトショ」は誤字で「ハアドッコイショ」と著者は表現しようとしたものと、私は推察します。「イ」と「ト」は筆で書く時似ています。パソコン入力で「に」と「の」をよく間違うのと似ています。)

黒鍬者かつき替之所
鬼つきい云て、申サハ六丁有之所を三丁行、先ノ者江渡こと也
久松宗作著続保定記掲載絵図
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行、平成10年3月)より絵図と文章転載

土方雇之者
是ハ古堀近郷又江戸辺之者にても、其土地之頭ニ随ひやとわれ出たるを云、重キをかつぐこと不叶、乍去無怠慢、図のことき両かつきかこに入、入レ候よりかつきあるくこと少しも弛ることなき故、思ひ之外果敢取候者也
久松宗作著続保定記掲載絵図
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行、平成10年3月)より絵図と文章転載

土方 雇頭黒鍬
土方共ニ如此江戸者多く、黒鍬の元方惣頭ハ新兵衛 七九郎トテ結城近在之者也、右の者の手ニ付小頭相勤候者ハ、何レも如図
久松宗作著続保定記掲載絵図
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行、平成10年3月)より絵図と文章転載

庄内役人
庄内夫 かつぐことをなれぬ故、背負ことを専らとす
久松宗作著続保定記掲載絵図
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行、平成10年3月)より絵図と文章転載

大もっこうを担ぐ黒鍬者、両担ぎ籠を担ぐ土方、籠に土を入れて背に担ぐ庄内夫(郷人足)の3様の捨土運搬の技術が見て取れます。
異国に来て土を運ぶ庄内夫の姿がなんとも華奢に見えます。
久松宗作は庄内夫を土方としてではなく本来の勤労農民として意識して描こうとしたのだと思います。庄内藩の農民は「土方をするために生きてきたんじゃない」といいたげな絵です。

次の図は庄内藩内部の丁場(持ち場)区分図です。

庄内藩の丁場区分と捨土土手

庄内藩からはるばる歩いて1463人の人足(農民)と村役人がこの現場にきましたが、その集団が労働に従事したのが現在の横戸台団地付近です。
高台という地名があり、もともと東京湾水系の谷津(花見川)と印旛沼水系の谷津(古柏井川)の谷中分水界があった場所です。
最も深く掘らなければならない場所です。

郷人足の丁場の両側は人足引受人(現代風に言えばゼネコン)に工事を投げた場所で、北は百川屋、南は新兵衛と七九郎が工事を受注したわけです。

この丁場で働いたのが、黒鍬者や土方です。 最盛期には庄内藩の丁場全体で1日に6000~7000人が働きました。

つづく

2012年9月24日月曜日

勝田川合流部付近の捨土土手

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その9

12 勝田川合流部付近の捨土土手
私が第4区間と作業区分した区域(弁天橋から旧勝田川合流部付近)の捨土土手を地形断面図から検出しました。

捨土土手の分布
〔水部は青で塗っていますが、情報(数値地図2500(空間データ基盤))が古いので現在の勝田川合流部がまだ工事中になっています。あしからずご了承ください。〕

この付近は戦後印旛沼開発工事で、水路のカーブを変更したため西岸台地の一部を削る大規模な地形改変が行われました。
そのためはっきりした捨土土手は横戸元池弁天付近の東岸の一部に残っているだけです。

この捨土土手の分布を地形段彩図の上で見ると次のようになります。

捨土土手と地形との関係

DM図に旧版1万分の1地形図(大和田図幅、大正6年測量)を重ねて表示すると次のような図になります。

DM図と旧版1万分の1地形図のオーバーレイ

花見川の水路のカーブが戦後印旛沼開発工事で西よりに変更になり、西岸台地の一部が削られたことを確認できます。

代表断面として87番断面を示します。

87番断面

これでようやく検討対象区域の捨土土手の分布を25mピッチ地形断面図で確認しながら把握することができました。
基礎情報が出来上がりました。

次の記事から、この情報に基づいて、捨土土手に係る様々な興味をより一層深めていきます。

つづく

2012年9月22日土曜日

鷹之台カンツリー倶楽部付近の捨土土手

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その8

11 鷹之台カンツリー倶楽部付近の捨土土手
私が第3区間と作業区分した区域(鉄道連隊架橋跡から弁天橋までの区間、西岸に鷹之台カンツリー倶楽部が拡がる)の捨土土手を25mおき地形断面図から抽出しました。

捨土土手の分布

東岸は弁天橋付近が人工改変のため捨土土手が撤去され、一部はその後盛土により畑がつくられています。(過去の空中写真等からその経緯確認済み)
西岸は64番断面付近を除き捨土土手が連続して分布します。64番断面付近は大正6年測量旧版1万分の1地形図では土手が連続しているので、戦後の印旛沼開発工事等で通路等を確保するために、土手が一部撤去されたのではないかと考えます。

捨土土手分布と地形との関係を見るために、捨土土手分布を地形段彩図にプロットしてみました。

捨土土手と地形との関係

東岸の捨土土手の背後(東側)に窪地(谷地形)があることがわかります。
(DMデータの等高線表現では必ずしもこの窪地は十分に表現されていません。)
実はこの窪地(谷地形)は見かけ上そうなっているだけで、台地を刻む谷津谷底の上に捨土土手がつくられたために形成されたものです。

57番断面で説明すると次のようになります。

57番断面

古柏井川谷底に捨土土手をつくり、捨土土手は古柏井川の谷津を全部埋め尽くすことが無かったので、見かけ上の窪地(谷状地形)が形成されたのです。

……………………………………………………………………
この窪地(谷地形)の部分は殆どが雑木林に覆われています。そして、戦後抜開されたことがなく、そのため1回として地表面がそのまま空中写真に撮られたことがありません。
そのため、地図作成(人による空中写真判読による地図作成)では測量技術者が樹林下の地形を想像して等高線を引くしかなく、これまでこの部分では不正確な等高線しか描かれてきませんでした。
このような事情から、現場を見ない限り、古柏井川谷津の存在とか、その谷底に捨土土手がつくられたなどの事実は誰も気がつくことがありませんでした。
私は、現場でわかった事実をこのブログで、平面図や断面図で表現しようとしたのですが、それが出来ない日々が続きました。
同じ5mメッシュでも人が空中写真判読した結果によるデータでは、不正確な情報で、現場の事実を表現することが出来なかったからです。
ところが、最近、航空レーザ測量による5mメッシュが公開され、上記のような人の要素による誤謬(測量技術者が空中写真判読を行う際の判断ミス)が入る余地がなくなり、GISを活用することにより、上記のように平面図や断面図で正しい地形の姿を知ることができるようになりました。
……………………………………………………………………

64番断面

東岸の捨土土手は古柏井川谷底上に積上げられ、その高さは少なくとも6.5mになります。西岸は、この付近では戦後通路確保のために、土手が削られたようです。

73番断面

東岸は人工改変で捨土土手は失われています。 西岸では台地上に捨土土手が積み上げられていて、土手の巾が110m以上になり、全区間を通じて最も巾のある土手となっています。

つづく

2012年9月20日木曜日

柏井高校及び横戸台団地付近の捨土土手

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その7

10 柏井高校及び横戸台団地付近の捨土土手
私が第2区間とした区域で、25mおきに25番断面図~50番断面図を作成し、断面形状から捨土土手を検出しました。
予察作業で見つけたように、横戸緑地として指定されている土手だけでなく、その下に土台を形成する部分があることを発見しました。
分布図で示すと次のようになります。

捨土土手の分布

捨土土手は西岸では柏井高校付近でグラウンド造成のために若干削られています。
また東岸では鉄道連隊架橋付近で局所的に削られています。
しかし、両岸ともに連続して分布していることを確認することができました。

東岸横戸台団地の住宅となっている部分に存在する捨土土手の土台部分は私にとって新発見です。(世の中にこの捨土土手に興味を持っている人は殆ど皆無だと思いますので、おそらく、世の中的にも新発見になると思います。)

横戸台団地造成以前の地形図にすでにこの土台部分が表現されているので、団地造成の際に人工的にわざとつくられた可能性は無いとおもいます。
この団地は、団地造成の際には当時の地形をほとんどそのまま利用して土工事の量を最小化しているように感じる団地です。
確認のために、団地造成工事の図面資料を関係機関にお願いして閲覧して確かめる予定です。

この捨土土手土台部分が自然地形ではないことを確認するために、捨土土手分布を地形段彩図にプロットして、地形との関係を見てみました。

捨土土手の分布と地形との関係

この地形段彩図で赤っぽいところが下総上位面(下末吉面相当)、青っぽいところが下総下位面(小原台面相当?)であり、下総上位面が現在の花見川筋のところで下総下位面の浅い谷で分断されている様子を示しています。
捨土土手(土台部)分布は捨土土手分布と対応して存在しており、自然地形的な成因の可能性を見つけることはできないと考えました。
ボーリング資料があれば捨土土手であることが判ることですが、住宅地なのでありません。


26番断面

西岸の捨土土手は古柏井川谷底から積上げている可能性が濃厚と考えますが、証拠だてる材料は見つけていません。

39番断面

東岸の黒色部分(「横戸緑地」として指定されている園地部分)が、私がこれまで考えていた捨土土手です。しかし、東岸にはその土台となる部分があります。また、西岸の捨土土手は古柏井川谷底から積上げている可能性があります。
これまで普請の掘削土量をイメージすると、「それにしても少なすぎる」という感情に支配されることが多かったのですが、そうした疑問を解決できる可能性が出てきました。

46番断面

周辺の地形から、西岸の捨土土手は古柏井川谷底から積上げていることは確実です。

つづく

2012年9月17日月曜日

柏井橋~柏井高校間左岸(東岸)の捨土土手

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その6

8 第1区間左岸(東岸)の捨土土手分布把握
2012.9.7記事「柏井橋~柏井高校間右岸(西岸)の捨土土手」のつづきで、同区間東岸の捨土土手の分布、形状を把握しました。

次に地形断面図を3例示します。

11番断面
断面線から東岸に捨土土手の顕著な形状を指摘できません。

16番断面
ここも、断面線から東岸に捨土土手の顕著な形状を指摘できません。

21番断面
断面線形状から捨土土手の形状を指摘できます。

このような断面図の検討から、第1区間東岸の捨土土手の分布を平面図に追記してみました。

第1区間(柏井橋~柏井高校間)の捨土土手分布図

9 11番断面や16番断面に捨土がなかった証拠はない
ここまで作業を進めてきて、自分の作業が多少無邪気であることに気がつきました。
11番断面や16番断面の東岸では、捨土の量が少なかったり、土手をつくらないで、層状に土を置いた場所であることも否定できないからです。

以前から次の図が気がかりでした。
この図は「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)に収録されている資料ですが、同書の説明によれば、横戸村と花島村間の台地は「土置場」として設定されているとなっています。

天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図(千葉市 川口和夫家文書T1-36)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)収録
読みも「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)による。

私は、この本の説明から、11番断面や16番断面の東岸は、顕著な土手形状こそありませんが、「土置場」として設定された場所に位置していたと捉えました。

しかしよくこの図を検討すると、この本の説明が全く間違っていることに気がつきました。

この図のAは21断面付近の台地上の捨土土手を表しているように思います。
しかしBは花見川谷底における土置場であり、台地ではないことがわかりました。
なぜ、この本の説明が間違っているのか、別記事で説明します。

結論から言うと、私にとって以前から既知であったこの古文書からは11番断面や16番断面における捨土土手に関する情報は得られませんでした。
別の資料(別の古文書、米軍空中写真等)での検討を追ってしたいと思っています。
そうすることによって、11番断面や16番断面の東岸台地と天保期印旛沼堀割普請との関わりに関する何らかの情報は得たいとおもいます。

つづく

2012年9月12日水曜日

私の色つき立体地図作成法

2012.9.4記事「河川断面図作成方向」に海老川乱歩さんよりコメントがあり、色つき立体地図の作成方法について質問がありました。
コメントの返答で、私から作成方法の概要について説明しました。
このような経緯があり、私の色つき立体地図作成方法がこのブログをみていただいている方に何かの参考になるかもしれませんので、記事にしてみました。
あくまでGIS初心者としての私の方法であり、もっと効率的、効果的手順・方法があるかとは思いますが、一つの参考にしてください。

1 使うソフト
カシミール3D(DAN杉本氏著作によるフリーソフト)
地図太郎PLUS(東京カートグラフィック(株)発売)
画像整形ソフト(私の場合アドビのフォトショップcs5)

2 使うデータ
主データ
5mメッシュ(国土地理院ホームページから無償ダウンロード)
DMデータ(千葉市等関係する自治体都市計画部局から提供していただきました。)
補助データ
数値地図2500(空間データ基盤)(日本地図センターから購入)

3 手順の概念
手順をざっくり捉えるとつぎの2ステップです。
1) 立体表示させたい色つき地図を地図太郎PLUSで作成する。
2) カシミール3Dに5mメッシュと色つき地図を読み込みその二つを重ね合わせ、立体表示させる。

4 手順の詳細説明
4-1 ソフトの入手とインストール
省略します。
画像整形ソフトはjpgファイルを切抜するために使います。

4-2 データの入手
ア 5mメッシュ
地理院が提供している基盤地図情報5mメッシュ(標高)は写真測量を基に作成したものと、航空レーザ測量を基に作成したものがあります。
精度という面では明らかに航空レーザ測量を基にしたものが優れており、お勧めします。

このブログでは当初写真測量を基に作成したものを使用していましたが、終戦直後から現在まで抜開されたことのない林地の地形は不正確な部分が存在することを実感して、何度か記事にしきたところです。

国土地理院以外に、地方整備局が整備した航空レーザ測量を基にした5mメッシュ(標高)もあります。

イ DMデータ
ここでいうDM(デジタルマッピング)データとは都市計画用の基本図を自治体が電子地図として整備したものです。
GIS上では項目(例、等高線、道路、建物、植生、基準点、注記、…)毎に情報を表示できるので便利です。
表示の色や線の太さ等も自由にカスタマイズできます。
DMデータは自治体都市計画部局が管理しています。市販はされていないようです。
私は、このブログの記事作成目的(個人レベルの調査研究)により利用申請(書類提出)して千葉市、八千代市、四街道市、佐倉市、習志野市、船橋市よりDMデータを提供していただきました。

ウ 数値地図2500(空間データ基盤)
私は水部の水色と町丁目界線を強調して表示するために、市販の数値地図2500(空間データ基盤)の情報を補助的に利用しています。

4-3 カシミール3Dに5mメッシュを読み込む
「数値地図5mメッシュプラグイン」をカシミール3Dにインストールした後、カシミール3Dに5mメッシュを読み込みます。
これで地形の立体表示ができます。

4-4 地図太郎PLUSによる色つき地図の作成
ア 地図太郎に5mメッシュを読み込みます。

イ 5mメッシュにより段彩図をつくります。
・段彩は最大20区分までできます。また、区分の起終点や途中に色を指定して、指定していない区間を指定した色のグラデーションで変化させることができますので、「きれいな」段彩図を作成することができます。
・また陰影(高さ調整可能)を付けることもできます。

地図太郎PLUSの段彩設定画面

ウ 段彩図に必要な情報をオーバーレイ表示します。
・DMデータから等高線と道路等を標示すると位置が直感的にわかるようになります。
・経緯度線を表示すると、後で立体表示したとき、立体感を増幅させる効果があります。

4-5 地図太郎で作った地図(の画面)の保存(jpgファイル)
ファイル→印刷イメージを保存→緑の地図太郎の印刷と同じイメージスケールバー、図郭線、四隅経緯度あり
この時、jpgファイルの四偶に経度・緯度のデータが書き込まれています。

印刷イメージの保存(四隅経緯度あり)結果(jpgファイル)
上下に余白がありスケールバーと四隅経緯度がある

4-6 jpgファイルのコピーをつくりその余白部分の除去(単純な切抜)
私はフォトショップを使って作業しています。

5 カシミール3Dによる立体表示
5-1 余白を除去したjpgファイル(色つき地図)のカシミール3D取り込み
ファイル→地図を開く→新しい地図を開く
新しい地図を開くの操作の中で、左上と右下の経度・緯度をカシミールの画面にしたがって入力します。

なお、カシミール3Dでは標高データと重ねる地図はビットマップが指定されていますが、jpgファイルで可能です。(私は全てjpgファイルで取り込んでいます。)

5-2 カシミール3Dに取り込んだjpgファイル(色つき地図)と標高データ(5mメッシュデータ)の重ね合せ
編集→標高データを重ねる(matの作成)

5-3 カシミールにおけるカシバード起動による立体地図の表示
カシバードを起動後、撮影位置、撮影方向、撮影高度、高さ強調レベル等を工夫して、納得のいくまで撮影を繰り返します。

ディスプレイを2枚使った場合のカシミール3Dとカシバードの画面見本

左画面がカシミール3Dの画面です。
画面左下にカメラ位置と撮影方向を示すピンクのカーソルがあります。
右画面がカシバードの画面で撮影結果を示しています。

5-4 カシバードの立体地図表示画面の保存(bmpファイル)
カシバードの撮影結果はbmpファイルで保存できます。

6 bmpファイルの活用
bmpファイルに説明文字等を書き込みjpgファイルとして書き出して活用します。(私はイラストレーターcs6を使っています。)

以上

2012年9月9日日曜日

捨土土手の下にある宮附遺跡

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その5

7 第1区間右岸(東岸)の捨土土手の下にある宮附遺跡
宮附遺跡(みやづけいせき)については何度か記事にしました。(2012.5.13記事「下総下位面(浅い谷)にある宮附遺跡」など)
この宮附遺跡が天保期印旛沼堀割普請の捨土土手下にあり、遺跡発掘調査時の土層観察記録がありますので紹介します。

7-1 宮附遺跡の位置

宮附遺跡の位置
「宮附遺跡発掘調査報告」(1985年、東京電力千葉支店 千葉市遺跡調査会)(以下報告書と呼びます)による

この位置を、このブログで作成した捨土土手分布図にプロットすると、次の図になります。
宮附遺跡は捨土土手の東の端に位置し、19番断面線の近くです。

捨土土手分布図における宮附遺跡の位置

7-2 宮附遺跡現場の状況
次の写真は報告書に掲載されている発掘調査時点の写真です。

宮附遺跡発掘現場
「宮附遺跡発掘調査報告」より引用
引用者注・・・下写真「北から」は誤記、「南から」が正しい。

この遺跡付近の状況は現在でもあまり変化していません。

宮附遺跡付近の現在の状況(東から)

鉄塔の下が宮附遺跡、背後は花見川東岸の崖の林

7-3 宮附遺跡の土層観察結果
報告書に掲載されている発掘調査時(昭和59年11月)の土層観察結果を掲載します。

宮附遺跡土層観察図
「宮附遺跡発掘調査報告」(1985年、東京電力千葉支店 千葉市遺跡調査会)掲載図に引用者が着色
灰色…砂層
褐色…ローム漸移層

報告書には観察結果が次のように記載されています。
調査時川砂等を盛土してあったが標高はおおよそ23.00mである。川砂による盛土は、 西から東にかけて30㎝~50㎝の巾でなされその下層に粘性の少ない暗褐色土層(ソフトローム漸移層)が、20㎝~30㎝巾で堆積している。」(引用者注…巾は層厚の意味で使ってる。)

ここで川砂と記載された層が天保期印旛沼堀割普請の捨土土手であり、その層が西に厚く、東に薄いという観察が、この遺跡ポイントが捨土土手の西端付近に位置している状況とよく一致しています。

また、逆に、この土層観察結果から、19番断面における捨土土手断面を推定することができます。

19番断面における捨土土手断面の推定

7-4 まとめ
宮附遺跡発掘時の土層観察結果から、花見川の横断面図により検討している捨土土手形状把握作業の的確性(正確性)を自分なりに確認することができました。

つづく

2012年9月7日金曜日

柏井橋~柏井高校間右岸(西岸)の捨土土手

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その4

6 第1区間右岸(西岸)の捨土土手分布把握
6-1 第1区間の断面線の設定
次の図は第1区間の断面線の設定状況を示したものです。

第1区間の断面線の設定状況

6-2 第1区間右岸(西岸)の捨土土手形状
この図に示した断面線のうち、11番断面線、16番断面線、21番断面線について右岸(西岸)を検討対象として、断面形状から捨土土手の範囲を抽出しました。

第11番断面
高さ強調約27.5倍

下総上位面(標高29m程度)を刻む浅い谷(下総下位面相当)の底(標高24m程度)の上に1m強の厚さで捨土土手が作られていると判断しました。


第16番断面
高さ強調約27.5倍

下総上位面(標高29m程度)を刻む浅い谷(下総下位面相当)の底(標高24m程度)の上に1m強の厚さで捨土土手が作られていると判断しました。

第21番断面
高さ強調約27.5倍

浅い谷(下総下位面相当)を刻む古柏井川谷底(武蔵野面相当)(標高18m程度)の上に3m強の厚さで捨土土手が作られ、古柏井川谷底が凹地の底のような形状になっています。

6-3 第1区間右岸(西岸)の捨土土手分布
25mピッチの断面図から捨土土手の分布図を作成しました。

第1区間右岸(西岸)の捨土土手の分布

詳細な地形断面図情報から捨土土手の分布を押さえることができました。
捨土土手は幅50m~70m程度の帯状分布をしています。

すぐ近くの住民からこの付近は印旛沼堀割普請の捨土があり、その付近は農作物の収量がよいと祖先から伝わっているというヒアリングをしたことがありますが、そうした捨土土手存在情報と整合する結果を得ることができました。

つづく

2012年9月4日火曜日

河川断面図作成方向

2012.9.2記事「断面線の設定及び区間毎の捨土土手の様子」に海老川乱歩さんからコメントをいただき、平面図と断面図が左右逆になっているので、断面図を描き直してほしいとのお話をいただきました。

当方から同じくコメントで、見づらいことは承知しているが、河川断面図の作成方向は上流から下流方向を見て作成することになっているので、そうした社会通念に従った旨の説明をしました。

言葉だけでは理解しづらいので、次に河川断面図作成の方向を示しました。

河川断面図作成の方向

勝田川は北に向かって(図で上に向かって)流れていますので、その方向に向かって河川断面図を作成します。
この場合、平面図の左岸・右岸と河川断面図の左岸・右岸は図面の左、右と一致します。

ところが、花見川は南に向かって(図で下に向かって)流れていますので、その方向に向かって河川断面図を作成します。
この場合、平面図の左岸・右岸は図面の左、右と逆転しています。
しかし、河川断面図の左岸・右岸は図面の左・右と一致するように描きます。

2012年9月2日日曜日

断面線の設定及び区間毎の捨土土手の様子

天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の詳細検討 その3

3 検討区間
検討区間は柏井橋から旧勝田川合流部までとしました。
また、検討区間を双子塚古墳付近、鉄道連隊架橋跡付近、弁天橋付近で区切り、4つの区間を設定してそれぞれ詳細検討することとしました。

4 断面線の設定
予察作業で、これまで「土手」の一部とは認識していなかった地形が捨土土手を構成している可能性が濃厚になりました。
そこで断面線の延長は余裕を見て延長1200m程度とすることにしました。
また断面線の間隔は25m間隔としました。
柏井橋を通る断面線を0番とし、最上流部は96番となります。

断面線は次のような手順でGIS上に引きました。
ア 花見川の水面中央部を通る縦断線を引く
イ 縦断線上に25m間隔で印を打つ
ウ 印を中央点とし、縦断線と直交する延長1200mの直線を引く

この直線を持って断面線としました。

GIS上でこのような約束事を設けて作業するのは初めてで、効率的作業方法がなかなか見つからなかったのですが、同心円を引く機能を利用して作業を進めました。

断面線を引く作業の一コマ

5 区間毎の捨土土手の様子
キリの良い番号の断面図から区間毎の捨土土手の様子を概観してみました。

区間区分と断面位置

5-1 第1区間(柏井橋~双子塚古墳付近)

第1区間の様子
縦軸の1メモリは5m、横軸の1メモリは5m

0番、10番断面には捨土土手はほとんどないものと考えています。
20番断面には西岸で、古柏井川谷底上に捨土土手があります。もともと複雑な地形をしているところであり、自然地形と捨土土手をどのように分離認識できるか、詳細検討するつもりです。

5-2 第2区間(双子塚古墳付近~鉄道連隊架橋跡付近)

第2区間の様子

捨土土手が最も発達しているところです。
その理由は、この区間付近が古柏井川の谷底分布地域となり、最も掘削土量が増える場所であるからです。
40番断面では土手の裾に土手の土台となる捨土が見られます。この土台の部分が自然地形ではないことの証明も詳細検討で行います。
西岸では県立柏井高校の敷地造成工事で捨土土手が大幅に縮減した部分があります。(残っている部分もあります。)
50番断面では古柏井川谷底上に捨土土手が残っています。

5-3 第3区間(鉄道連隊架橋跡付近~弁天橋)

第3区間の様子

この区間でも捨土土手が発達しています。
東岸は古柏井川の谷底上に捨土土手がつくられています。
断面60では古柏井川谷底は平坦面としては残っていませんが、完全に埋め尽くされてはいません。

5-4 第4区間(弁天橋~旧勝田川合流部付近)

第4区間の様子

西岸は戦後の印旛沼開発工事で台地開削があり、その結果捨土土手は消失しました。
東岸の河岸段丘上の捨土土手は戦後の農地造成で縮減したようです。米軍空中写真等と照合して調べたいと思っています。

次に、区間毎の詳細検討に入ります。

つづく