2012年4月30日月曜日

資料 東京湾水系源頭部の文化諸相

花見川源頭部付近にあった古墳 その3


5 近隣類似箇所事例-東京湾水系源頭部の文化諸相-
双子塚の事例とともに、これまでこのブログで記事としてきた東京湾水系源頭部の文化事象4例を加え、全5事例について、資料としてその分布図と内容一覧表を示しました。

東京湾水系源頭部の文化事象分布

東京湾水系源頭部の文化事象


名称
河川、住所
文化事象
●は実証事象 ※印は仮説事象
二宮神社の御手洗之泉
三田川源頭部(花見川隣接水系)
船橋市三山5丁目
●二宮神社の御手洗之泉に伝わる水田耕作の水源地としての重要性伝承、信仰
滝ノ清水
長作川源頭部(花見川水系)
千葉市花見川区長作町
●野馬の水呑み場
※台地開拓前からある春日神社の存在から想起される、下流低地に視点を置く滝ノ清水にまつわる信仰
芦太川の谷中分水界
長作川源頭部隣接(花見川水系)
千葉市花見川区天戸町他
●谷中分水界と地物の対照存在
(六差路、峠、野馬土手、村界)
子和清水
犢橋川源頭部(花見川水系)
千葉市花見川区三角町、稲毛区長沼原町
●子和清水源泉の民話
●古墳時代の祭祀の場の存在
双子塚
花見川源頭部(花見川水系)
千葉市花見川区横戸台
※古墳が花見川谷津水田の水源地に関わる祭祀の場であった。
●近世の村界から結論付けられる花見川源頭部の境界性(花見川水系と印旛沼水系の地形的境界と人文的境界の対照存在)


参考メモ及び主な関連ブログ記事

名称
参考メモ
主な関連ブログ記事
二宮神社の御手洗之泉
谷津及び御手洗之泉現存。

滝ノ清水
谷津、春日神社現存。野馬の水呑み場は失われている。
2011.12.22滝ノ清水
芦太川の谷中分水界
谷中分水界、六差路、行政界はほぼ現存。野馬土手は失われる。
子和清水
子和清水とそれがあった部分の谷津は失われる。言い伝えの碑が建てられている。
2011.7.28子和清水
双子塚
源頭部地形は完全に失われている。
双子塚も失われている。
双子塚を目印として利用した、近世の行政界(東京湾水系と印旛沼水系を分ける村界)が現存する。



双子塚付近の花見川源頭部地形は印旛沼堀割普請で完全に失われました。
さらに失われたこと自体も専門家を含めてほとんど全ての人の記憶から失われています。
そうし状態では双子塚に関して着目すべき真の文化意義について十分な思考をすることは困難です。
ところが、今回このブログで、初めて、失われた花見川源頭部地形の復元にほぼ成功したことで、双子塚に関わる文化事象について突っ込んで考えることができるようになりました。

そして上記資料で、近隣の4文化事例と双子塚の事例を並べたことで、双子塚の文化事象の見立てについて、その妥当性をより一層高めることが出来たと思っています。

本来、上記資料を詳細に説明すべきところですが、そうすると大論文になってしまいますので、ここでは避けます。

双子塚に関する次の2つの文化事象について、連載最終回の記事で検討します。

双子塚からイメージできること
その1…古墳が花見川谷津水田の水源地に関わる祭祀の場であった。
その2…近世の村界から結論付けられる花見川源頭部の境界性(花見川水系と印旛沼水系の地形的境界と人文的境界の対照存在)

つづく

2012年4月29日日曜日

花見川源頭部付近にあった古墳 その2

4 双子塚調査の概要
「千葉市双子塚 -横戸団地建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」(1983、千葉県住宅供給公社・財団法人千葉県文化財センター)(以下報告書と呼びます)の概要を紹介します。

ア 調査の趣旨
「千葉県住宅供給公社が、この地域に横戸団地の建設を計画するのに伴って、…本遺跡については、やむを得ず記録保存の措置を講ずることになりました。」との趣旨から、財団法人千葉県文化財センターが昭和57年7月1日から8月6日まで調査を実施し、報告書をまとめました。

イ 双子塚の位置
報告書に空中写真上に示した双子塚位置が示してあります。空中写真の森林と草地の境が、柏井と横戸の境になっていますので、現代図に正確にプロットできます。

双子塚の位置

双子塚は、現在の横戸台団地消防用地(未利用地)に位置しています。

ウ 調査の見立て
報告書では「調査は、古墳の可能性を含みながらも塚として設定されており、調査方法もこれに習ったものとなった。」としています。

双子塚の実測図、土層断面

エ 調査結果
直径約15m、見かけの高さ約2mの規模のほぼ円形の墳丘を検出し、周りに周溝が存在し、縄文時代土器片、古墳時代甕、近世の有田焼皿、鉄鍋、寛永通宝が出土しました。
報告書では、「調査の結果、周溝の存在、規模、積土の状態などからして古墳として築造され、江戸時代に塚として利用されたものと推測されるに至った。古墳としては、主体部も検出されず、遺物としても古墳に直接的に関係すると判断できる遺物はなく、その時期的な判定は困難である。」と結論付けています。

双子塚出土物

なお、この報告書では近世の塚としての利用に関して、「本双子塚については存在を知らない人も多く、わずかに旧横戸村と旧柏井村の村界にあたることと、「境神」ということを聞いた人がいたのみであった。・・・わずかに「境神」という言葉が記憶されていることからしても「境塚」としての役割を果たしていたものと考えられる。」と記述しています。

双子塚は古墳であることが忘れられ、いつの間にか領地を境する境界杭みたいな役割を担ったのですが、このことについては、上の図「双子塚の位置」からヒントを得て、大変興味深い事象を発見しましたので、いつか別記事にします。
(青字部分は2012.4.30追記)
つづく

次の記事を引き続き連載する予定です。
5 近隣類似箇所の事例 -東京湾水系源頭部の文化諸相-
6 双子塚からイメージできること

2012年4月28日土曜日

花見川源頭部付近にあった古墳 その1

1 はじめに
河川争奪に関わる地形発達の話題と離れますが、寄り道して、花見川源頭部付近に30年前まで存在していた古墳(埋蔵文化財名称「双子塚遺跡」)について話題とします。

この古墳は横戸台団地開発(千葉県住宅供給公社事業)により破壊(記録保存)され、現在は存在しません。
古墳が存在していた場所は30年経った現在でも未利用地として野ざらしになっており、今後も利用予定は無いとのことです。
開発と埋蔵文化財保全との関係について、これでよいのかと疑問が湧いてきます。 しかし、その疑問は別の機会に考えることとします。

このブログで情報発信したい事柄は、古墳の立地場所特性から、この古墳と花見川(現在の横戸台付近を源頭部として東京湾に注ぐ、印旛沼堀割普請前まで存在した、自然河川としての花見川)との間に、密接不可分の関係が存在すると、私が受けた示唆です。
この古墳が花見川源頭部(花見川の最源流部)に位置することを手がかりに、この古墳(以下、双子塚と呼びます)からイメージできる、人々と花見川との関係について思考したいと思います。

なお、双子塚は近世に塚として再利用されたため、古墳であるにも関わらず、埋蔵文化財の種別は「包蔵地、塚」となっています。

双子塚遺跡の場所
千葉県埋蔵文化財分布地図(3)№31習志野(千葉市域、部分) 平成11年3月千葉県教育委員会

破壊される前の双子塚
「千葉市双子塚 -横戸団地建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」(1983、千葉県住宅供給公社・財団法人千葉県文化財センター)より引用

2 双子塚検討の前に-双子塚周辺の古墳時代以前の埋蔵文化財と土地環境-
このブログでは印旛沼堀割前に存在していた花見川筋の河川自然地形を、初めて明らかにしましたが、その河川自然地形と縄文時代遺跡の分布がきれいに一致します。
水の流れていた花見川と勝田川等の近くの河岸段丘上には縄文遺跡があります。これは飲料水をすぐ近くで確保できる場所で、なおかつ平坦で水害の心配のない場所が縄文時代には人々の居住場所であったことを示しています。
双子塚からは縄文土器も出土していて、古墳築造の前から人が住んでいた場所ですが、この場所は花見川源頭部の直近に位置し、花見川筋で飲料水を確保できる北端の場所です。

飲料水確保場所に立地している縄文遺跡分布の様子

3 古墳の存在から受けた示唆
花見川の水を主に飲料水として利用していた時代から、水田耕作のための灌漑用水として利用する時代になると、社会を支配し、生産活動を組織する豪族が生まれました。
豪族の最大の仕事は水田開発による生産力増強にあったと考えます。
その豪族の権威を全ての住民に知らしめる象徴物の一つが古墳です。

その古墳(双子塚)が花見川源頭部の場所にあるのです。

この事実から、花見川の水(灌漑用水)を支配し、水田開発に邁進していた豪族(といっても小豪族だと思います)が、花見川の最初の一滴が流れ出す場所の近くに古墳を作ったに違いないと、私は、示唆を受けました。
花見川の水を支配しているものの存在を誰にでもわかるように、古墳築造で示したものと考えました。

この示唆を出発点にして、花見川についていろいろと思考していきます。

つづく

次の記事を連載する予定です。
4 双子塚調査の概要
5 近隣類似箇所の事例
6 双子塚からイメージできること

2012年4月27日金曜日

印旛沼堀割普請前の花見川と古柏井川の谷中分水界

前記事2012.4.26「発見した古河川河道のまとめ」で述べたように、花見川筋に発見した、勝田川と合流する古河川をこのブログでは古柏井川と呼んでいます。

花見川と古柏井川の分水界の位置について、次の記事ですでに詳述してあります。
2011.2.2 花見川上流紀行15堀割普請前の花見川谷頭その1
2011.2.3 花見川上流紀行16堀割普請前の花見川谷頭その2

この2つの記事で検討した要点を整理すると、次の通りになります。
1 印旛沼堀割普請前に作成された「小金牧周辺野絵図」(※)に花見川最上流部の水田、内野(※※)分布が表現されている。
2 水田と内野の地形はそれぞれ谷津谷底と斜面・台地に対比できる。
3 水田と内野分布形状と地番割図の地番割を対比することができる。
4 地番割図をGIS上にプロットできる。
5 従って水田と内野分布すなわち谷津谷底と斜面・台地の分布をGIS上にプロットできるので、実際に作業して、プロットした
6 その結果、花見川谷底、谷頭源頭部、谷中分水界の位置を把握した。

※「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」ではこの絵図について1676年成立の高津新田が見られないことからそれ以前の作成と推測し、「17世紀中葉か」とコメントしています。
※※柏井内野と書かれた柿色の部分は柏井村が囲った野(原野、入会地)という意味です。

小金牧周辺野絵図(部分)
千葉県立中央図書館所蔵
引用者によるメモ書き込み
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)より転載

印旛沼堀割普請前の地形分布

以上の検討結果をより理解しやすく表現し、引き続く検討の基礎資料とするために、谷中分水界付近の地形縦断図を作成してみました。
(5mメッシュとカシミール3Dを活用することにより、ワンタッチで正確な地形断面図が作成できるようになりました。)

地形縦断線位置図

地形縦断線A-Bは印旛沼堀割普請の捨土の土手を避けた台地西岸の地形縦断線です。
地形縦断線C-Dは現在の花見川河道中心線付近の地形縦断線です。

印旛沼堀割普請前の花見川源頭部付近谷底縦断イメージ

印旛沼堀割普請前の谷底の高さは、花見川サイドでは前谷津(A付近の花見川支流)の谷底の高さが参考になります。ここは堀割普請で掘削されていません。
古柏井川サイドでは鷹之台ゴルフ場河岸段丘の高さが参考になります。

この2つの高さを参考に印旛沼堀割普請前の花見川源頭部付近の谷底縦断を、類似の東京湾水系源頭部地形を参考にイメージしてみました。

古柏井川の横断地形はまだ検討していませんが、仮に古柏井川に谷底面(段丘面)を掘りこむ谷が発達していなかったと仮定すれば、大ざっぱな話ですが、次のような算数が成り立ちます。

現在の花見川西岸地形縦断の高さ-古柏井川谷底縦断の高さ=印旛沼堀割普請前の古柏井川谷津の深さ
古柏井川谷底縦断の高さ-現在の花見川谷底縦断の高さ=印旛沼堀割普請と戦後開発の総掘削深

この谷底縦断イメージ図は、古柏井川を南に追跡して、柏井付近から南に分布する河岸段丘の対比をする際の、検討の出発点になります。
また、印旛沼堀割普請の実際を把握する上でもその検討の出発点になります。

(このイメージ図が結果として正確でないにしても、この情報を使って思考を出発させることができます。それにより、これまで気がつかなかった事柄に気づき、検討を深めることができます。そして、巡り巡ってこのイメージ図の見直しも可能になると考えます。)

2012年4月26日木曜日

発見した古河川河道のまとめ

これまでの記事で、現在の花見川河道付近に古河川の河道を発見したことを説明してきました。
この古河川の河道の分布と地質をまとめてみました。

古河川河道の分布

河道幅(左右の谷壁上端線の間の幅)は230m~280m程度あります。
今後、武蔵野面形成時代の近隣各河川の河道幅を調べるつもりですが、おそらく、この古河川の河道幅は近隣河川と比較すると当時にあっては大きな部類に属すると予想します。
当時の勝田川と比べて遜色のない規模の河川であったと予想します。

印旛沼堀割普請前の自然地形としての谷中分水界の位置(次の記事で詳述予定)と古河川河道の関係を見ると、古河川の河道幅は分水界のすぐそこから河道幅が200m以上あり、截頭されたこと(もともとあった上流部の河道が奪われたこと)がよくわかります。

この古河川が東京湾水系によって争奪された、被争奪河川(截頭河川)であると見立てています。


古河川河道の地質

粘土層を段丘堆積物(0.5~1.5m)とし、その上に武蔵野ローム層を乗せています。
粘土層とその下の木下層の境の標高はAで約12m、B、Cで約13.5mです。

この古河川は花島付近から柏井を通り横戸まで、下総上位面形成直後から武蔵野面形成時まで、周辺の河川を併合しながら流れていた河川と見立てています。

この古河川をこのブログではこれまで、古柏井川と仮称しています。

2012年4月25日水曜日

ああでもない、こうでもない 河川争奪考

花見川河川争奪について、ああでもない、こうでもないと思考し、時間を消費し続けています。
「下手の考え休むに似たり」ですが、趣味とはこういうものだと思い、検討を楽しんでいます。
現時点では、次のような事柄を知りたいと思っていますので、メモとして記録しておきます。

花見川河川争奪の現場

1 河川争奪の時期
ア F付近からB付近まで下総上位面を刻む印旛沼水系の谷(図の上に向かう谷)があったと考えられます。(いくつかの証拠を用意できます。)
イ 印旛沼堀割普請前の自然地形を見ると、B地点が印旛沼水系と東京湾水系の谷中分水界になっていたことが確認できます。(古文書資料による)
ウ アとイの間のどこかの時期にアで述べた谷のうちF~B間が東京湾水系にそのまま奪取されたことになります。(河川争奪)
エ その河川争奪の時期を特定すべく、検討を深めたいと思います。

【現在の見立て】
オ A付近で下総下位面を刻む古河川の地形・地質を見つけ、それが武蔵野面相当であることがわかりました。
カ この古河川はもともとE付近まで追跡できるもので、その河川をその後の時代(立川面の時代?あるいはその前?)の東京湾水系が争奪したと見立てます。(その見立てに基づいて証拠データを集めています。)

2 河川争奪の成因
ア 河川争奪の成因についてF地域(大きな楕円で示した地域)の特異な地殻変動が関わっていることは確実です。(過去の多くの記事で詳述した通り、小崖1の南のこの地域は土地が南に傾斜した結果、下総上位面離水後の谷津が化石地形化し、博物館展示のように残存したり、湖沼「古長沼」が形成されました。)
イ F地域は谷津による浸食作用が停止してしまった営力上の無風地帯になってしまったと考えます。
ウ 東京湾水系がこのF地域を主要な浸食前線としているように、上図から、見えるのはこのような要因があるからだと考えます。
エ F地域のこのような特性のなかで、花見川筋でだけ河川争奪が生じた理由は、2011.11.20記事「地理的位置仮説」で説明できると考えます。

3 河川争奪という定義
ア 河川争奪という学術用語を専門書で調べると、4つのタイプが記述されていますが、花見川の現象はこれら4つのタイプと合致しません。
イ 花見川における現象(別河川が河道を上流から下流に向けて丸ごと奪取する現象)を河川争奪という用語で記述することがよいのか、それとも別の新たな概念として定義し、用語造成した方がよいのか、検討したいと思います。

2012年4月23日月曜日

鷹之台ゴルフ場河岸段丘 その地質

千葉県地質環境インフォメーションバンクの柱状図を参考に河岸段丘と周辺台地の地質について検討しました。

1 柱状図位置のGISへの取り込み
5mメッシュの測量精度を活かした検討をする上で、柱状図位置のGIS上への正確な取り込みが必須です。
今回は千葉県地質環境インフォメーションバンクの地質ボーリング調査位置図の画面をパソコンのプリントスクリーンキーを使ってダウンロードし、画像を切出し、GISの画像位置合わせ機能を使ってジオリファレンスしました。

地質ボーリング調査位置図のジオリファレンス

2 地質柱状図の位置
地質柱状図の位置とそれを結んだ地形断面線を次の図に示します。

地質柱状図の位置(3D表現)

3 地質柱状図の地形断面図への貼り込み
地質柱状図と地形断面図の高さ方向のスケールを合わせて、地質柱状図を地形断面図に貼り込みました。

地質柱状図の地形断面図貼り込み

鷹之台ゴルフ場河岸段丘の柱状図(整理番号12177)の色分けを見ると、上から盛土、 黄色(微細砂、細砂)、青色(粘土)、ピンク(粘土質ローム)、青色(粘土、砂質粘土)、黄色(微細砂、細砂等)となっています。
地形断面位置から、盛土の下の黄色(微細砂、細砂)、青色(粘土)は普請土手の人工堆積物です。
ピンク(粘土質ローム)から下が自然の地層です。
ピンク(粘土質ローム)の下の青色(粘土、砂質粘土)は段丘堆積物であると考えます。
その下の黄色(微細砂、細砂等)は木下層と考えます。

ピンク(粘土質ローム)の下の青色(粘土、砂質粘土)が段丘堆積物であると考える理由は、横戸河岸段丘の露頭及び勝田川河岸段丘地質柱状図(整理番号12180)でも木下層の上に粘土層が段丘堆積物として存在するからです。(2012.4.20記事「千葉第1段丘aのボーリングデータ」参照)

河岸段丘堆積物が粘土層である理由は、常総粘土層の台地を削って谷が出来た時、その谷を流れる物質は削り取られた常総粘土層であるからです。
当時の谷にオリジナルの粘土層が生成する環境が存在していたと考えません。
当時の谷に供給される主要な物質が粘土だから、谷底の堆積物(その後の段丘堆積物)が粘土層になったということです。

整理番号12177柱状図の解釈

4 地質断面の検討
地質柱状図をつなげることによって地質断面図を作成しました。

地質断面図
下総下位面の地層の解釈は既存文献によりました。

地形において、下総下位面を切る河岸段丘面があるのですが、その関係を地質でも確認することができます。
河岸段丘の存在、つまり古河川の存在が地形上のみならず地質上も証明されました。

2012年4月22日日曜日

鷹之台ゴルフ場河岸段丘 その地形

横戸河岸段丘の対岸(西岸)の鷹之台カンツリークラブ敷地内に河岸段丘があります。

鷹之台ゴルフ場の河岸段丘
5mメッシュ+地図太郎PLUS+カシミール3Dにより作成
高さ強調10倍

普請土手を除いてみると、西岸から東岸にかけて(北方向に向かった)河川が蛇行して作った谷津谷底が分布しているように見えます。

正確なデータ(航空レーザ測量による5mメッシュデータ)をカシミール3Dの機能を利用して断面図を作成し、説明を書き込むと次のようになります。

断面図位置図

断面図A-B

断面図C-D

断面図E-F

現場の状況は次の通りです。

鷹之台ゴルフ場河岸段丘の風景
花見川を背にして西方向を向いて撮影
段丘崖がゴルフコースのアンジュレーションとして利用されている。

昨年秋にoryzasan氏からいろいろ専門的なご指導をいただきましたが、その中で、花見川には普請土手の外側に広がる昔の河道はないとのご指摘をいただきました。
しかし、これらのデータから、oryzasan氏のそのご指摘は間違いであることが確認できると思います。

天保期印旛沼堀割普請(さらには天明期、享保期普請)の前に、普請の場所に河川の河道(谷津)があったことは地形上確実です。

現在の花見川河道内をいくら詳細に調査してみても、普請土手の外側に広がる昔の河道を観察することはできません。

なお、断面C-Dは普請前に存在していた昔の河川の河道(谷津)を横断した断面になります。その横断線は河道に対して直角ではありませんが、河道幅は約280mとなります。
この昔の河川の河道(谷津)形状を復元する際の重要な手がかりになります。

鷹之台ゴルフ場河岸段丘の地質を次の記事で見てみます。

ボートでバス釣

今朝の散歩中、花見川にボートを浮かべ釣りをしている人を見かけました。

珍しいので、許可をいただいて写真を撮りました。



3艘5人の方がバス釣りを楽しんでいました。

タケノコ掘りの人も連日数人の方が来て、斜面の竹林に入っています。

2012年4月20日金曜日

横戸河岸段丘の復元

1949年に米軍が撮影した空中写真を実体視すると横戸河岸段丘の南の部分が現在より広い範囲で確認できます。(※)

米軍撮影空中写真実体視で確認できる河岸段丘
1949年撮影

凹地平坦面が観察できます。東側の急斜面は段丘崖、西側の崖は天保期印旛沼堀割普請の捨土土手の崖です。

この空中写真を簡易幾何補正してGISに取り込み、地形段彩図、DMデータ(千葉市提供)、千葉第1段丘a分布と一緒に表示して、次に示しました。

米軍空中写真+地形段彩図+DMデータ+千葉第1段丘a分布

この図から、現在横戸台団地に隣接する京成バス駐車場となっている場所にまで、かつて河岸段丘面が分布していたことが確認できます。

その段丘面はその後埋め立てられ、現在京成バス駐車場として利用されています。

京成バス駐車場
横戸台団地端から北方向を撮影

バス左の樹林は普請捨土の土手、正面奥の電波塔付近は埋め立てられていないため、現在でも河岸段丘面が残存しています。

次に横戸河岸段丘が残存しているところと埋め立てられたところの断面図を掲載します。

断面図位置

A-B断面

C-D断面

この断面に埋め立てられる前の河岸段丘崖と段丘面の概形イメージを復元して記入しました。

C-D断面を見ると、西岸(Dのある岸)にもほぼ同じ高度の河岸段丘が存在します。次の記事からこの河岸段丘について検討します。

*    *    *

※ 空中写真を実体視したとき生じる自分の感覚(地表の凸凹の感覚)を、できるだけそのままパソコン上で3D図に表現したいのですが、その方法を見つけていません。そうしたことが個人のパソコン上で可能なソフトを探しています。

2012年4月19日木曜日

千葉第1段丘aのボーリングデータ

勝田川に面する河岸段丘(千葉第1段丘a)のボーリングデータ情報がありますので紹介します。

千葉県地質環境インフォメーションバンクで公表されている整理番号12180の情報です。

次に地形断面とその柱状図を示します。

地形断面位置とボーリングデータ位置

地形断面とボーリング情報

ボーリング情報拡大図(整理番号12180)
孔口標高TP17.16m
千葉県地質環境インフォメーションバンクより引用

細砂層の上に粘土層、ローム層の堆積があります。

粘土層の観察として次の記載があります。
粘土層:暗褐灰。上部粘土質ローム挟む。5.15~5.40m、砂混り粘土。

細砂層(木下層と考えます)の上に粘土層があり、その粘土層がローム層と漸移する様子が読み取れます。

この関係は横戸河岸段丘の露頭で観察した結果と同じです。
また、地層の境の標高も近似しています。

このことから、下の図のように横戸河岸段丘その露頭の地層と、勝田川河岸段丘(千葉第1段丘a)そのボーリングデータによる地層とは同じものとして対比できると考えます。

横戸河岸段丘露頭と勝田川河岸段丘の地層の対比

2012年4月18日水曜日

弁天橋の日の出

今朝も花見川は濃い霧が出ていた。

弁天橋から南方向

5時少し過ぎが日の出の時間だった。

弁天橋から北方向(勝田台方向)

次のような地形をイメージした。

勝田川河岸段丘のイメージ

2012年4月17日火曜日

横戸の河岸段丘 その5 北方向の分布図

前の記事までの情報に基づいて、横戸河岸段丘とそれが連続する勝田川河岸段丘の分布図を作成しました。

横戸河岸段丘と勝田川河岸段丘

この分布図を作成する作業の中で、横戸河岸段丘の対岸(弁天橋より南側)に狭い河岸段丘地形を発見しました。
また現在勝田川が花見川に合流する付近の西岸に勝田川のつくった河岸段丘が存在するので、それも図に書き込んあります。

この分布図を立体表示して幾つかの角度から見てみます

横戸河岸段丘と勝田川河岸段丘の3D表示 南上空から北方向

横戸河岸段丘と勝田川河岸段丘の3D表示 西岸上空から東岸方向

横戸河岸段丘と勝田川河岸段丘の3D表示 勝田台上空から花見川方向

これらの情報から横戸河岸段丘を作った川の流れは勝田川に合流する流れであることが判明しました。
その流れが存在した谷津の幅は、勝田川合流部付近で約230mであることもわかりました。

横戸河岸段丘と勝田川河岸段丘を作った流れ

台地を人工開削したと表現されている場所に、実は印旛沼方向に流れる川が作った谷津があったことが証明されました。
しかし、その谷津の形状(河岸段丘を切った小谷の存在の有無など)はこの付近の地形からは判明しません。

*     *     *

航空レーザ測量による正確な5mメッシュ(標高)データとGISソフト(地図太郎PLUS)、3D表現ソフト(カシミール3D)を使うことによって、現場で自分が体感した地形をそのまま表現できるようになりました。

2012年4月16日月曜日

横戸の河岸段丘 その4 分布(北方向)

次の3D図に表現したように、新たに発見した横戸河岸段丘と図の下側(北側)の勝田川河岸段丘との連続性について検討します。

横戸河岸段丘と勝田川の河岸段丘の位置

1 現代盛土の確認
横戸河岸段丘と勝田川の河岸段丘が連続すべき部分に丁度現代の盛土があります。
これが本当に現代の盛土であることを念のため確認しておきます。

次の図は最近、千葉市立郷土博物館より入手した1960年(昭和35年)測量の千葉市都市図です。

千葉市都市図と盛土位置
千葉市都市図(千葉27)部分(千葉市立郷土博物館蔵)
1960年(昭和35年)測量

この地図の等高線から、横戸河岸段丘と勝田川河岸段丘がもともとは地形面として連続していることが確認できます。
現在その間にある微高地は現代の盛土であることが確認できました。

2 地形断面図による検討
次の3本の地形断面線を引き、その断面図を検討してみました。

地形断面線位置図

A-E断面
航空レーザ測量による5mメッシュを利用してカシミール3Dで作成
高さの作図精度限界は1m

この断面から次の2点がわかりました。
1 横戸河岸段丘は勝田川方向に向かって緩やかに高度を下げ、勝田川の段丘と滑らかに連続すること。
2 勝田川の段丘は崖(段丘崖)から3段に区分することができること。

既往文献を踏まえ、上の2段が千葉第1段丘に下の1段が千葉第2段丘に対比できると仮に考えておくことにしました。
名称を上から千葉第1段丘a、千葉第1段丘b、千葉第2段丘としました。

F-G断面
航空レーザ測量による5mメッシュを利用してカシミール3Dで作成
高さの作図精度限界は1m

H-G断面
航空レーザ測量による5mメッシュを利用してカシミール3Dで作成
高さの作図精度限界は1m

2つの断面ともに、勝田川の段丘を見る断面です。2つの断面ともに、3つの段丘に区分できました。
しかし、全体が緩斜面状の地形になっていて3つの段丘の境は必ずしも明瞭でありません。
段丘崖、段丘面が不明瞭な地形という事実が、この場所の地形のでき方を考える際のキーになるという予感がします。

なお、千葉第1段丘aより上の断面も緩斜面になっています。この理由もおいおい考えていきたいと思います。

次の記事では、断面図で検討したことを、平面図にプロットしてみます。