2011年1月31日月曜日

花見川上流紀行 14土置場跡

横戸緑地は天保堀割普請の土置場(土捨場)の跡をそのまま利用した公園です。堀割の斜面すぐ上の細長い凸状の地形をうまく公園として活用しています。横戸団地造成のために堀割から離れた脚部が一部カットされていますが、ほとんど往時の姿を残しているものと考えられます。土木遺産としての堀割に興味を持てば、サイクリング道路からの斜面の眺望だけでなく、土置場も見ておくことが有益です。その点で、横戸緑地訪問が打って付です。なお、横戸緑地には堀割普請や土置場跡の説明は一切ありません。(なお、サイクリング道路の全区間にも堀割普請や歴史の説明は一切ありません。花島公園にのみ堀割普請の説明板があります。)
上図は「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)に収録されている「北柏井村の堀割筋潰れ地絵図の部分」(千葉市 川口和夫家文書)のトレース図です。この図の地点は横戸緑地より下流にあたると考えられますが、この絵図から堀割の斜面(堤敷)のすぐ外側を土置場(土捨場)にしたことが確認できます。
この地図は旧版1万分の1地形図「三角原(さんかくはら)」(大正6年測量)を青色で示し、その上に数値地図1/2500(空間データ基盤)(平成18年発行)の水部(空色)、街区・道路(墨色)、横戸緑地(赤色網)をオーバーレイしたものです。GISを用いて作成しました。
等高線から判読できる細長い凸部地形(土置場跡)と横戸緑地が見事に重なっています。「高台」は地名(小字)で、堀割普請以前の原地形の分水点付近を示していると考えられます。

2011年1月30日日曜日

花見川上流紀行 13砂利道

花島橋から上流のサイクリング道路は舗装されていません。とても良いことです。砂利道を歩く感触は心地よいものです。また、サイクリング自転車のスピードがあまり出せないので、散歩者の安全と快適の確保に役立ち、自転車と歩行者の共存が成り立つベースとなります。
 また利用面だけでなく、文化学習面からみても砂利道はとてもふさわしく感じられます。堀割は貴重な土木遺産、文化遺産です。全て人力で普請された堀割の歴史ドラマに興味を持ち、学ぶ人にとって、現場の砂利道は往時を体感的に偲ぶことができる貴重な装置になります。
雨が降ると時々道の路肩が崩れるので、行政が写真のように応急安全策を執り、その後補修しています。散歩者にとってありがたいことです。この付近は街灯が全くありませんが、夜間(夜明け前など)の利用者も結構います。こうしたメンテナンスがあるから安全に利用できます。写真は平成21年9月に撮影したものです。

花見川上流紀行 13柵

 ○○珍百景などと称するテレビ番組で、意味がわからない構造物とか野外の装置を紹介することがよくあり、散歩人の1人としていつも興味をそそられています。大抵は、つくられた時の状況が消失したのだけれども、その後撤去する積極的必要性がないので放置されたものです。最初の状況が思い出せなくなればなるほど珍風景になります。
 上の写真は、横戸緑地下のサイクリング道路脇に数十メートルにわたって設置される金網の柵です。平成元年に花見川区に転居してから、現在までこの金網はありますが、いまでもその機能についてぴんときません。金網の途中に途切れた部分がありどうもドアの跡のようです。水際に人が出ないようにするためにしては、途切れたところを使ったり、両端を廻れば行けますから、ほとんど意味がありません。人の背丈より高い金網の柵というものは人や動物が自由に出入りできませんという行動規制の強烈なサインです。無意識にまで働きかける記号です。だから、風景を鑑賞したり自由な散歩を愉しんでくださいという場所に置くことは、もしその必要性が無くなっているのならば避けたいものです。
 この場所は戦前軍用軌道の鉄橋があった場所であり、橋脚の撤去や護岸補修などの工事が行われ、そのときの仮設安全柵が残ったのかもしれません。私の想像です。それにしては恒久的で頑丈な金網なので私の花見川珍風景の1つです。

2011年1月29日土曜日

花見川上流紀行 12泉

 弁天橋から下流に向かって道が下っていく途中に小さな泉があります。一年中湿っています。誰かが手入れをしてくれているようです。小鳥がよく水を飲みに来ています。舗装していない道だから見ることの出来る光景です。
 これまでに花見川流域のほとんど全ての河川、水路を源流まで歩いているのですが、泉に出会ったのはここだけです。

花見川上流紀行 11平成4年の散歩写真

書庫の中で本を探していたら偶然に平成4年(19年前)の散歩写真アルバムの束を見つけました。
 上の写真は架け替え前の弁天橋です。この写真をみると、旧弁天橋が堀割の風景を引き立てているという印象を当時持っていたことを思い出しました。しかし、ドライバーとしては、すれ違いが出来ないので利用を避けたい橋でした。現在の弁天橋は過剰なほど頑丈で「ゴツすぎる」印象を受けます。しかしドライバーになると、前後の道よりも快適、安全に走行できる場所ですから好きです。
平成3年の夏に横戸緑地下の左岸斜面が山火事になりました。この写真は平成4年3月に撮影したものです。理由はわかりませんが、20年経った今もこの場所には背の高い木が育っていません。日当たりが悪いからでしょうか。
勝田川が花見川に合流する場所の段差で大量の白い泡が出て、川面一杯に広がる光景は心を痛めるものでした。この写真は平成4年1月3日午前撮影のものです。この写真を撮影した時に、「お正月なのに、3日ともなると洗濯をする人が急増するんだ」ということに気がついたことを、今思い出します。洗濯日和の午前に白泡が増加することはその前から知っていました。
 この時代から現在までの間、どのような水質改善対策がとられ、改善してきたのかということを調べたいと思っています。

2011年1月28日金曜日

花見川上流紀行 10河川争奪の見立て

河川争奪前の水系想像
河川争奪後の水系
 もともと花見川団地付近を源流とする水系(柏井の谷津)、花島公園の谷津を源流とする水系、柏井浄水場付近を源流とする水系の3つが柏井橋付近で合流して印旛沼方向に流れる水系があったと考えます。この河川を仮に古柏井川と呼ぶことにします。一方、東京湾方向に流れていた古花見川の最上流部の頭部侵食力が旺盛になり(おそらく海面低下や低温化に起因)、花島公園の谷津はおろか、二つの支流をも争奪し、さらに横戸台南端(「高台」と呼ばれる場所)付近まで古柏井川谷底を奪ったのだと思います。結果として、古柏井川は流域面積のほとんどを取られ、そこに流れる水の量と較べると著しく大きな空堀みたいな広い谷が下流の一部に残ったのだと思います。
 後世になり、人々が印旛沼干拓を課題とした時、願ってもいない大きな空堀みたいな谷があり、それは「高台」で突然花見川によって下からちょん切られている光景をみて、堀割普請の意欲が大いに湧いたのだと思います。
 堀割普請で難渋した化灯土も、こうした地形発達を想定すると、その成因や分布が合理的に説明できそうです。
 河川争奪箇所だったから堀割普請が行われたという仮説については、現場をくまなく散歩してみたり、情報を集めて分析し、今後検証していきたいと思います。

花見川上流紀行 9なぜ元池にこだわったか

私が、なぜ元池にこだわるか? その理由は、堀割普請以前に既に自然地形としてかなり大きな谷地形がそこにあったという仮説を私が持っているからです。仮に「元池」=「堀割普請以前のずっと前から存在していた溜池」が証明されると、自然地形としての大きな谷地形が存在していたという私の仮説が少しだけですが、補強されるからです。
 なぜ、「堀割普請以前に既に大きな谷地形が存在していた」という仮説に興味を抱いているかというと、堀割普請の場所に、もともと河川の争奪現象があったと見立てているからです。
 上のイラストは、河川争奪の古典的な説明図です。(「geomorphology」c.a.cotton 1958)

2011年1月27日木曜日

花見川上流紀行 8元池とは

明治15年(1882年)の弁天池
大正6年(1917年)の弁天池
 「横戸元池弁天宮」が横戸弁天の正式名称で、「続保定記」には元池弁天と書かれています。この元池とはどの池のことでしょうか。3つ考えがあると思っています。

 1弁天池が元池であるという考え方
 明治15年測量迅速図の弁天池は、堀割一杯に広がっている姿が表現されています。天保の堀割普請からまだ40年程しか経っていない時期の名残の池です。
 それから35年後の大正6年測量1万分の1地形図の弁天池は、池の周囲が水田に利用されるようになり、池が細長くなっています。地図上では延長1キロ、幅10~20メートルです。弁天池という名称が記載されています。
 元池とはこの弁天池であるという考え方があると思います。

 2天保堀割普請前の溜池が元池であるという考え方
 弁天池は、天保の堀割普請の前はどうだったのでしょうか。
 下図は天保の堀割普請前の「印旛沼干拓工事関係図」(幕張町中須賀武文家所蔵 千葉市図誌下巻〔千葉市発行〕掲載)です。
この絵図を見ると、勝田川と高津川が分かれた先の丘(墨色塗り)に囲まれたところに青色おむすび形の溜池があります。丁度堀割が位置するところですから、形はデフォルメされて表現されていますが、天保の堀割普請以前に目標となる顕著な池があったことは確実です。天保の堀割普請のときに、横戸弁天の鳥居が邪魔だから対岸の丘の上に移したということからも天保の堀割普請以前に弁天池同様の池があり、そこに横戸弁天が鎮座していた可能性が濃厚です。この池は享保及び天明の堀割普請のときに出来た地形を利用したものと考えられます。
 この池こそが元池であるという考え方も成り立つと思います。
 この池も弁天池と呼ばれていたものと想像できます。

 3享保の堀割普請(最初の堀割普請)以前に存在した溜池が元池であるという考え方
 弁天は水とのかかわりが深く、水のない場所に勧請されたとは考えにくいと思います。横戸弁天は最初の堀割普請以前に横戸に勧請されました。その時、既に溜池があり、そこに弁天が鎮座したものと考えることが自然です。弁天は「もともと」以前からそこにあった池に立地したから、元池弁天と呼ばれたと考えることは筋がとおります。あるいは、堀割普請後に弁天池と呼ばれるようになった池の「素(もと)」(元祖、根源)と言える水辺(池)に立地したから「もと(素)池」弁天と呼ばれ、表記が元池になったと考えることも出来ます。技術的土木的に堀割普請可能と人々が判断した場所ですから、そこにもともと谷地形があったと考えることが自然であり、谷地形があれば沖積地から見ると奥まったところですから溜池として利用されていたことは想像に難くありません。
 なお、人々が目の前の池を「弁天池」と呼び、「元池」と呼ばないことも弁天池が元池ではない傍証になると思います。

 今(現代)となっては、人々の記憶には、戦前の地形図に出てくる弁天池しかありませんから、「元池」=「堀割普請で出来た弁天池」となりますが、私は「元池」=「自然地形としての谷地形を利用して堀割普請以前のずっと前から存在していた溜池」と想像しています。

2011年1月26日水曜日

花見川上流紀行 7弁天の横戸勧請理由の想像

コンビニやスーパーのチェーン店を広く地域展開する運動と同じように、神社の地域展開が行われた場合も多かったようです。ある特定の宗教的人脈(ネットワーク)が特定の神様を広めて行ったことが多かったのだと想像します。
 多摩川の沿川には各地に漂着神伝承のある神社仏閣があるのですが、よく調べると多くの神社仏閣がある宗門の学問所のメンバーとつながりがあることがわかったという事実もあります。(「新多摩川誌」編著新多摩川誌編集委員会、平成13年発行)
 横戸に弁天が勧請されたのも、横戸村の住民が弁天勧請を望んだことは当然ですが、外からの戦略的な「出店」が横戸に行われたと考えるのが本筋だと想像します。同じ江ノ島からほとんど同じ頃多摩川羽田にも、横戸にも勧請されたことからそのように想像します。
 ここで、なぜ横戸という場所に勧請されたのでしょうか。横戸に勧請されたのが正徳5年(1715年)ということが正しければ、3回行われた堀割普請のうち最初の享保期堀割普請のきっかけとなった享保9年(1724年)の平戸村農民染谷源右衛門などの幕府に対する印旛沼干拓願い出より9年前のことです。まだ堀割はありません。
 現地を散歩しながら想像したことは、弁天を各地に「出店」していた「江ノ島商事」の戦略担当役員が、「印旛沼干拓」、「堀割普請」、「東京湾連絡舟運」などをキーワードとする地域開発機運の情報をいち早く察知し、リスク覚悟で当時未開の横戸に「出店」したのだと思います。
 横戸にたまたま弁天が勧請されて、後から偶然に堀割普請がそこに決まったとはどうしても考えられません。そこを掘りぬけば印旛沼と東京湾が結ばれるという象徴的戦略的な場所に、リスクテイクの達人である「江ノ島商事」の戦略担当役員が「出店」を決めたのだと思います。
 享保9年(1724年)から始まった享保の堀割普請は完成することなく終わりましたが、その後、安永9年(1780年)から始まる天明の堀割普請、天保13年(1842年)から始まる天保の堀割普請と3回にわたるビッグプロジェクトがこの地で行われ、弁天の横戸「出店」は結果として成功したのではないでしょうか。「天保改革と印旛沼普請」(鏑木行廣著、同成社)には普請の監督である幕府役人が弁天を利用ことなども書かれており、ビジネスとしての弁天が成功していたであろう様子を空想させます。

2011年1月25日火曜日

花見川上流紀行 6天保期横戸弁天の姿

上記の絵図は横戸弁天付近を示しており、「天保期の印旛沼堀割普請」(平成10年千葉市発行)に収録されている「続保定記」(山形県平田町久松俊一家文書)の口絵の一部とそれをさらに拡大したものです。逆さになっていますが、「元池弁天」の文字と社と社務所及びそれぞれ背後の樹林が描かれています。小型の建物が社で、弁天池に張り出した岬のような部分に位置しています。社と社務所双方とも赤く彩色されており、当時の横戸弁天の姿を生き生きと描写しています。
 弁天すぐ下の建物は「御小屋」と書かれており、庄内藩の工事関係建物です。
 対岸の丘の上の赤い大鳥居は横戸弁天の鳥居で、堀割普請の邪魔になるとのことで移されました(「天保改革と印旛沼普請」鏑木行廣著、同成社)。現在の鷹之台カンツリー倶楽部付近です。
 なお、弁天橋が両岸から土をせり出して堀を狭め、中央部で橋を架ける「土橋」の形式になっていることが確認できます。これは明治15年測量の迅速図からも読み取れるので、この絵図の弁天の姿が天保堀割普請が概成した状況での姿を表していると考えることができます。
この絵図に示された横戸弁天の姿をさらにリアルに想像するための参考図を下に掲載します。
この図は現在埋め立てられて羽田飛行場の敷地になっているところに立地していた玉川弁天(羽田弁財天社)の名所図(原本「江戸川名所図会」、新訂江戸川名所図会2 ちくま学芸文庫 収録)です。この図でも社が東京湾に張り出した部分に立地しており、社務所と思われる大きな建物がその近くにあります。また樹林で周りを囲んでいます。なお横戸弁天は正徳5年(1715年)に江ノ島弁財天から勧請されたのですが、玉川弁天は宝永8年(1711年)あるいは正徳3年(1713年)に江ノ島弁財天から勧請されたので、いわば兄弟筋にあたります。(横戸弁天も玉川弁天も戦後の地域開発で近くに移転し、共に往時より退縮しています。しかも、今なお信仰が途切れないで細い糸のようにつながっている姿も似ています。)

2011年1月24日月曜日

花見川上流紀行 5横戸弁天の旧位置

 
横戸弁天は、石碑に現在地下流250メートル地点から昭和37年に遷座したと書いてあります。
この旧位置を古地図で調べてみました。
 この地域の最初の近代測量図である迅速図(第一軍管区地方二万分の一迅速測図原図、「千葉県下総国印旛郡上志津村及千葉郡横戸村」、明治15年測量)をみると(上図)、弁天社として記述があります。よく見ると、建物の印が(くっついてしまっていますが)二つあることが確認できます。もともとあった旧弁天橋の左岸ほとりです。
 迅速図の精度は落ちるので、正確に過去と現在を比較するために、大正6年測図の1万分の1地形図「大和田」を使って、GISで現場を検証してみました。
上図のとおり、過去の弁天社は現在の弁天橋下流にあった旧弁天橋のさらに下流に位置していることが確認できました。現在の横戸弁天から直線距離で約270メートル下流です。
 なお、この図から、戦後の河川改修で天保期堀割普請による流路が、現在の横戸弁天から勝田川新合流地点付近で、西側に変更になっていることが確認できます。

2011年1月23日日曜日

花見川上流紀行 4勝田川旧合流点

 
            使用されなくなった勝田川の旧合流点
            1992年5月5日の同じ場所の情景
 勝田川が花見川に合流する場所の河川改修が進み、新合流点が現在使われるようになっています。それより上流の河道拡幅工事も進行して、勝田川の広い河道の姿が現れつつあります。
 勝田川の旧花見川合流点は現在そのままの姿で残っていますが、そのうち撤去されると思われます。
 この旧合流点にくると、いつも心痛めるような過去の風景が思い出されます。旧合流点の段差で勝田川の水が泡立ち、花見川の水面一杯に白い泡が広がり、風が吹くときは白い泡が舞うことがあったことです。
 今から19年前の1992年5月5日撮影の銀塩写真が残っていましたのでスキャンして掲載しました。その当時勝田川を歩くと、未処理と思われる家庭雑排水があちこちで流入していたことを思い出します。その後勝田川の水質はどうなったのでしょうか。19年も経っているので改善されているとは思いますが、これから調べてみたいと思います。
 また、そもそも花見川の水質はどうなのでしょうか?花見川は水の流れが感じられないので、散歩していても水質や水量について注意を払うことがあまりありませんでした。これから花見川とその支流の水質や水量について、情報を収集して、その実態やこれまでの改善策について知りたいと思います。

2011年1月22日土曜日

花見川上流紀行 3見どころ

 私が散歩で興味を持った地物・現象の内、他の人にも見ごたえがあると思ってもらえそうなものを示します。

●高津川合流部のコイの集団産卵(3月中旬頃)
 3月中旬頃、高津川が花見川に合流する付近で巨大なコイが群泳し、バシャバシャと大きな音を立てて集団で産卵します。普段見かけない光景であり、見ごたえあります。錦鯉なども混じっています。
 平成22年3月17日午前の観察では合流部付近にから上流100メートルほどの高津川区間に7-800匹の大型のコイが集まり、数匹から10匹ほどのグループをつくりそこかしこで産卵していました。産卵は流速の早いところを好んでしているように見えました。
 花見川中のコイが全て集合しているのではないかと想像しました。
 コイの生命力あふれる生活を見て、次のような疑問が次々に湧き出しました。
・コイに他の魚が食い尽くされているのではないか?
・なぜ3面張コンクリート水路の高津川に来て産卵するのか?(すぐ近くの勝田川合流部にはコイは全くいない)
・他にどのような魚がいるのか?
・勝田川の合流部が改修されて段差がなくなり、勝田川と花見川の生きものの移動ができるようになると、魚の分布はどうなるか?
 今後、行政や研究機関が花見川で水生動物などの専門的調査研究をしたことがあるかどうか調べて、情報を集めてみたいと思います。

●カワセミの飛翔など野鳥の生活
 この区間の花見川では、大和田排水機場直下の水が流れないで溜まっているところから、花島橋まで連続してカワセミを観察できます。
弁天橋から花島橋までの右岸は護岸のない崖となっていて、道が無いので人の影響が少なく、カワセミの営巣に都合が良いのではないかと思います。カワセミは青く輝いて飛翔し、ホバリングやダイビングを見せるなどダイナミックな生活を見せて、散歩者を愉しませてくれます。
 冬はカモ類もたくさん見かけます。人の気配が左岸にしかないので、他の場所と違って、人が近づいても逃げ出すことが少ないので、よく観察できます。
 数年前は、弁天橋から下流右岸数百メートル区間の斜面がサギ山になっていたことがあります。コサギやアマサギが沢山みることが出来て壮観でした。
 カワウやカモ類の編隊飛行も花見川に沿って朝晩見られます。
 誠に花見川は野鳥観察に適した場所です。それだけ野鳥の生活に役立つ環境があるのだと思います。
 写真はカワセミがよく採餌したり休んでいる場所の1つ。

●横戸元池弁天宮
 平成23年1月初旬のある朝6時頃散歩の途中に参拝しましたが、灯明がともり、そのローソクが燃える油の匂いが当たり一面に漂っていました。私にとっては懐かしい情景、懐かしい匂いで、この弁天様が現在でも地域の人々と深く関わっていることを実感できました。
 現場の石碑の碑文には、正徳5年(1715年)に江ノ島の弁天信仰の広がりの中でこの地に建立されたことが書いてあります。また、もともとは現在地より250メートル下流に鎮座していたが、昭和37年に印旛干拓水路拡張工事のため遷座したことが書いてあります。
 水に関わる神様の弁天がなぜこの地に勧請されたのか?強く興味を惹かれます。

弁天橋から上流方向の風景
弁天橋から下流方向の風景
●弁天橋からの堀割風景
 上流方向を見た風景は、台地が勝田川の沖積低地に移っていく情景であり、下流方向を見た風景は台地を削って出来た大きな堀割の風景で、2種類の風景が楽しめます。山から平野に川が流れるという一般的な風景と較べると、ここでは逆の様相になりますので、地形を気にする人にとっては、少しめまいがするかもしれません。夕方や早朝の上流方向の風景は、国道16号線沿いのガソリンスタンドや自動車ヘッドライトの光が水面に反射して、強い光の情景となります。
 弁天橋は歩道も広く、安全に風景を楽しめます。

●横戸緑地下付近からの堀割風景
 横戸緑地下のサイクリング道路から下流方向を見ると、堀割のS字カーブが奥行きのある堀割風景を作り出します。左右から迫る山並みのように見える情景が水面に投影され、風景画で好まれるような構図になります。

柏井橋から上流方向の風景
柏井橋から下流方向の風景
●柏井橋からの堀割風景
 上流を見た風景は青い水道水管橋がアイストップになって、堀割の姿をより印象深く見ることができます。下流を見ると、最成病院の建物が入りますが、カーブした堀割を見ることができます。
 橋の上から堀割を見ると、サイクリング道路から愉しむ風景とはまた違った光景に出会えます。
なお、残念ですが、柏井橋は歩道がなく、歩行するだけでも危険です。立ち止まって風景鑑賞する際には安全に気をつけることが大切です。

●最成病院対岸付近からの堀割風景
 最成病院対岸付近から下流方向の風景の特徴は、堀割のS字カーブが奥行き感を出すことと、平地に出るいわゆる竜の口の部分になるので、堀割の出口を予感させることです。写真に撮りたくなるような情景です。

花島橋から上流方向の風景
花島橋から下流方向の風景
●花島橋からの堀割風景
 上流方向の風景は、広い低地が狭まって、谷になるような暗示を受ける風景です。竜の口の風景です。下流方向の風景は堀割の感じは残りますが、広々とした雰囲気が勝る情景になります。

花島観音を本尊とする天福寺
花島公園
●花島観音と花島公園
 天福寺の本尊が木造十一面観音立像であり「花島観音」として親しまれ、観音信仰の対象になり、33年目ごとに開扉される秘仏です。天福寺と天津神社一帯は花島観音緑地保全地区に指定されています。
花島公園は花見川沿いのお花見広場、谷津を利用した中島池、谷津池、噴水池、渓流園及び台地上のふれあい広場、球技場などを含む約15ヘクタールの都市公園です。
 花島公園には堀割普請の歴史を説明する案内板があります。

2011年1月21日金曜日

花見川上流紀行 2散歩の目印

 散歩の目印となる構造物等を上流から下流に向かって、紹介します。

●大和田排水機場
 印旛沼の洪水を花見川を通じて東京湾に排水するためのポンプ施設です。最大毎秒120トンの能力を有します。同じ敷地内にある独立行政法人水資源機構千葉用水総合管理所が管理しています。
 印旛沼の水管理の説明看板や巨大なポンプ用スクリューの展示などもあります。新川側に出ると風景が一変して、新川の広々した水面風景となります。

●大和橋と歩道橋
 成田街道の橋梁で、道幅に較べて交通量が多いため歩道橋が併設されています。
 大和橋から上流は右岸側には道がありません。左岸側は道が新川方向に通じています。下流は右岸側は花見川沿いに弁天橋まで道が通じています。左岸側は京成本線鉄橋手前で道が途切れます。

●京成本線鉄橋
 花見川沿いの道はこの鉄橋により左岸側では通じていません。左岸の下流方向から堤防沿いに散歩してきた人は人家の裏を通り、川から離れて、京成本線の小さなガードをくぐって、上流方向に行けます。右岸側は狭いガードがあり、川沿いを通れます。
 この鉄橋を通るとき、車窓から大和田排水機場がよく見えます。

●高津川の流入(右岸)
 コンクリート3面張の高津川が京成本線直下流右岸で花見川に合流します。行政上は下水道施設(雨水排水路)であり、一見して河川の面影は感じられません。しかしこの河川は予想以上に多様な生物が利用しているようです。この合流部より下流が常時水流のある区間ですから、高津川が花見川の源流河川であるといえます。

●流域下水道水管橋
 現場の表示板には名称「千葉県印旛沼流域下水道印旛沼放水路水管橋」と書いてあります。この水管橋の右岸すぐに印旛沼流域下水道八千代ポンプ場があります。

●勝田川の流入(左岸)
 勝田川下流部の河川改修工事が継続的に行われており、花見川合流部は最近供用されました。旧合流部もまだ撤去されないで残っています。旧合流部は段差があり水生動物の移動が出来なかったと思われますが、新しい合流部では改善されました。
 勝田川の合流部では、勝田川に橋が架けられています。

●弁天橋
 この橋から上流は勝田川と高津川が作った沖積低地、下流は台地となり、この場所は地形の変換点に位置します。従ってこの橋より下流は堀割が深くなります。
 弁天橋から上流花見川右岸は舗装道路が通じています。上流左岸は砂利道が京成本線鉄橋まで通じています。下流右岸は道がありません。下流左岸はサイクリング道路として位置付けられる砂利道が東京湾まで通じています。(花島橋より下流は舗装道路)
 仮設トイレがありますが、勇気のある人しか利用していないと思います。

●水道局水管橋
 現場の表示板には「千葉県水道局花見川水管橋」と書いてあります。
 堀割が深い部分(台地を削ったところ)は弁天橋と花島橋の間ですが、水道局水管橋はほぼその真ん中付近に位置します。

●柏井橋
 右岸側は花見川団地方面からの浅い谷(柏井町の谷津)、左岸側は柏井浄水場方面からの浅い谷が花見川に合流する場所に位置する橋です。歩道橋がなく、歩行者にとって安全ではありません。
 柏井橋付近では、左岸にしか花見川沿いの道はありません。

●花島橋と歩道橋
 右岸の花島観音と谷津を利用した花島公園の近くに花島橋と歩道橋があります。
 花島橋付近では、左岸にしか花見川沿いの道はありません。左岸の道(サイクリング道路)は、ここから下流は舗装されています。
 花島公園には清潔なトイレがあります。