2017年9月29日金曜日

西根遺跡出土「杭」はイナウ 杭写真判読 1

いよいよ本命である「杭」写真の判読を行います。

1 入手「杭」写真
入手「杭」写真はつぎの5枚です。

入手「杭」写真 写真は千葉県教育委員会所蔵

発掘調査報告書に掲載されていない裏面の写真があるので大変貴重です。

2 観察のためのA面、B面設定
現物を閲覧した際に次のようにA面とB面を設定しましたので、今回も踏襲します。

A面、B面設定

発掘調査報告書に掲載されている写真はA面だけです。

3 観察結果
観察に使った写真と観察結果を示します。

西根遺跡出土縄文時代後期「杭」

西根遺跡出土縄文時代後期「杭」石器による加工跡

【観察結果】
1 石器による頭部削平、脚部削出
2 削りかけ跡多数
A面に削りかけ跡を多数観察することができました。すべて斜め方向であり、元来は材を削った翅(カールした薄皮)が付いて、地層に埋没する前後に無くなったと考えます。
材を薄く多数回削ったので、その部分の材表面が凸凹になっていて、他の部分がつるつるになっているのと対照的です。
3 刻印3箇所
制限の強い現物閲覧では刻印を2箇所確認したのですが、今回の判読で3箇所の刻印を観察することができました。
4 縛り跡2巻分
縄などで強く縛って附いたと考えられる凹み跡を2巻分観察できました。イナウに何かの「モノ」をつるしている姿を連想させます。
今回の写真判読で初めて発見したものです。
5 その他
現在は図示していませんが、削りかけや縛り跡とは異なる圧迫線がいくつかあります。方向は削りかけとは直交するものが含まれます。イナウに紐をタスキのようにかけている姿を連想させます。今後さらに詳しく観察・検討する予定です。それとは別に発掘時あるいは発掘後に付いたと考えられるような圧迫線もあります。

観察結果から「杭」が石器で作られた原始イナウであると結論付けることができる可能性がますます高まりますが、その考察は次以降の記事で行います。

4 参考 写真判読の様子

削りかけ跡判読の様子

刻印判読の様子

5 参考 発掘調査報告書掲載写真と今回利用写真の画像比較

報告書掲載写真と原本の比較

発掘調査報告書掲載写真を拡大するとアミが斜めに入り、その方向と削りかけ跡の方向が偶然ですが一致してしまい判読に苦労しました。しかし今回入手した原本により正確な判読が可能となりました。


2017年9月28日木曜日

西根遺跡出土「杭」はイナウ 発掘写真判読 2

2017.09.27記事「西根遺跡出土「杭」はイナウ 発掘写真判読 1」のつづきです。

発掘面(河床面)と露出した土器の間の土層と木枝との関係について詳細に観察してみました。

写真判読画面インデックス

4C09グリッド発掘状況写真判読3
小崖に見られる新鮮な「褐灰色粘質土層断面」(立面)と発掘面(河床面)(平面)の関係が判ります。
それと「杭」との関係から、「杭」は河床面から直接出土し、含粒状物黒色土層(骨片、炭)とは直接絡んでいないことが判ります。
しかし、「杭」の近くの土器片の下には新鮮な「含粒状物黒色土層断面」(骨片、炭)が観察できます。
「杭」が焼けていないのは、そのそばで焼骨行為をしたけれども「杭」は焼かないようにしたということです。祭壇の前、つまりイナウの前で焼骨行為をしたのだけれども祭壇(イナウ)を燃やさない(焦がさない)ことは縄文人にとっても当然のことです。

あるいは焼骨行為の時には祭壇(イナウ)がなく、焼骨行為の後土器破壊の時に祭壇(イナウ)が建てられたという可能性も排除できません。

4C09グリッド発掘状況写真判読4
画面中央の木枝は発掘面に接しているのではなく、含粒状物黒色土層の上で土器片の下に位置すると判定できます。

4C09グリッド発掘状況写真判読5
画面右の大小3本の木枝は発掘面の上の含粒状物黒色土層の中で土器片の下に位置すると判定できます。

写真判読4と5から木枝は河床直上に堆積したものではなく、つまり流水で流れ着いた流木の可能性はなく、焼骨行為における焚火の焚き木であることが判明します。

含粒状物黒色土層(骨片、炭、木枝)と土器片の分布が重なり、かつ混じるような写真になっていますから、含粒状物黒色土層(骨片、炭、木枝)の形成(焼骨行為)と土器破壊行為の間に大きな時間間隔がないことが判ります。
(土器片が置かれたことで、その下の骨片、炭、木枝が保護され地層として残ったと考えられます。)

2017年9月27日水曜日

西根遺跡出土「杭」はイナウ 発掘写真判読 1

西根遺跡出土「杭」に関わる杭及び発掘写真(未公表写真を含む)を千葉県教育委員会から入手し、検討しています。
「杭」そのものの写真を一瞥するとこれまで観察できなかった多数の特徴を観察することができます。その検討は追って行います。
これまでは発掘状況写真の分析を行い、写真に写る出土物が「杭」であり、その出土場所(1m×1mグリッド内における位置)を平面図の上で特定できました。
この記事では発掘状況写真から判読できる貴重な情報を検討しました。

1 出土物「杭」以外の丸木
次に1枚の発掘状況写真の判読結果を示します

4C09グリッド(縄文時代流路河床)発掘情報写真判読 1

B、Cとして出土物「杭」以外にそれに似た丸木の存在が判ります。
B、Cは発掘調査では自然木として処分され、出土物にはならなかったものと考えます。
Cは短いので何ともいえませんが、AとBは形状が類似し、ともに祭壇としてつかわれたイナウであると想定します。

D、Eは土器片の下及び中における粒状物のある黒い土層断面です。この黒い土層断面には黒い粒多数と木片断片がいくつも観察できます。この土層断面は拡大して下で検討します。

F、G、Hは発掘調査報告書で褐灰色粘質土と記載されている河床構成地層であると考えます。縄文海進の海の時代に堆積した地層であり、この場所が縄文時代後期の戸神川河床となった時に露出したものであると考えます。

写真の全体状況は次のように判読することができます。
1 褐灰色粘質土の戸神川河床面の上に「杭」、丸木が存在している場所がある。
2 同じ河床面に黒い粒多数と木片断片のある黒い土層が乗り、その上にその土層と土器片が混じった層が乗っている場所がある。

2 粒状物のある黒い土層
写真を拡大してより詳しく粒状物のある黒い土層を観察しました。

4C09グリッド(縄文時代流路河床)発掘情報写真判読 2

Aは河床面と土器片の間にある土層で黒い粒状物から構成され、所々に木枝の丸い断面(あるいは断片)が観察できます。
焼かれた獣骨の破片と炭(骨を焼いた木片の燃えカス)および燃え残った木片のように観察できます。
骨片と炭(及び燃え残り木片)が土器片層の下にあることから、焼骨行為が先でその後土器破壊行為があったと考えることができます。

Bは土器片と粒状物のある黒い土層が混じった層です。土器が破壊された時、土器片とその下にあった骨片と炭(及び燃え残り木片)の層が混じったものと推定することができます。

Cは発掘面(おそらく褐灰色粘質土層の上面、つまり河床面)に散らばる粒状物です。カドが丸いものは炭が多く、カドが尖っているものは骨片でが多いと想定します。

d、e、f、gは木片です。焼骨をつくった時の焚火につかった木枝の燃え残りであると考えます。その細さから上流から流れ着いた木片や付近に自生していた木(ヤナギ類など)がその始原であると想像します。

骨を焼くための焚き木は細く、祭壇用イナウはそれより太いという特徴の違いがあることも判りました。

この記事の写真判読では、「杭」以外にも同様の丸木が存在していたことと、焼骨行為の後その場所で土器破壊行為があったらしいことについてメモしました。

2017年9月26日火曜日

西根遺跡出土「杭」はイナウ 杭出土位置特定

それがイナウであると想定している「杭」の出土位置が特定できましたので記録しておきます。

1 「杭」出土グリッド

「杭」出土グリッド
グリッドの大きさは1m×1m

2 「杭」出土位置の特定
4C09発掘状況写真5枚に写っている「杭」、丸い土器片、平らな土器片、小崖の位置と平面図を対照させることが出来、「杭」の概略位置が特定できました。

「杭」出土位置の特定(1)
発掘状況写真は千葉県教育委員会所蔵

この概略位置特定情報に基づいて、写真に撮影されている範囲をより詳細に平面図と対照させることによって「杭」の発掘位置を高い精度で特定することが出来ました。

「杭」出土位置の特定(2)
発掘状況写真は千葉県教育委員会所蔵

「杭」位置特定作業の中で発掘状況写真をつぶさに観察して次のような情報を得ることが出来ましたので、次記事で検討します。
●出土「杭」以外に同じような別の「杭」と思われるものが観察できる。
●土器片の下に特徴的な土層(黒い粒のある土層)があり、その下に木枝が格子状に敷いてあるように観察できる。


2017年9月25日月曜日

西根遺跡出土「杭」はイナウ 発掘写真と出土物が対応

2017.09.23記事「西根遺跡出土「杭」はイナウ 精細データの入手」の続きです。

分析項目「ア 4C09写真に写る木片は「杭」であるかどうか」について検討しました。

4C09写真に写る木片 拡大図
写真は千葉県教育委員会所蔵

4C09木片は「杭」
写真は千葉県教育委員会所蔵

「杭」写真で確認できる特徴と木片を対照すると、木片が「杭」であることが特定できました。

特定理由
1 4C09グリッドから「杭」が出土していること。
2 木片形状全体が「杭」形状に似ていること。
3 Aえぐれ形状が一致すること。
4 Bそり形状が一致すること。
5 C枝存在が一致すること。

これで「杭」の出土状況について検討することができることになりました。

2017年9月23日土曜日

西根遺跡出土「杭」はイナウ 精細データの入手

1 これまでの経緯 「杭」現物の閲覧
2017.07.05記事「西根遺跡出土縄文時代丸木はイナウ」で、2017年6月28日千葉県教育委員会所蔵の西根遺跡出土縄文時代丸木(発掘調査報告書では「杭」)を閲覧する機会を得て、その現物分析の結果を書きました。
「杭」と称する縄文時代出土物はその特徴からイナウであるという確信を持ちました。
しかし、現物はビニール袋に薬品とともに入れられていることと、資料保護の観点からビニール袋を手に取ることが不可であり、限定された観察となりました。

現物観察結果 削り跡
資料は千葉県教育委員会所蔵

現物観察結果 刻印 
資料は千葉県教育委員会所蔵

2 「杭」写真と杭出土グリッド発掘状況写真の入手
この度、「杭」の精細写真と杭出土グリッド発掘状況写真計10点を千葉県教育委員会の許可を得て入手し、同時にブログ掲載許可も得ました。
そこで、「杭」がイナウである可能性等について10点の精細写真を分析して、これからじっくりと学習していきたいと思います。

入手写真
写真は千葉県教育委員会所蔵

私がこれらの写真を最初に閲覧した時、2点について驚き学習意欲が強烈に高まりました。
1点は「杭」写真に報告書未掲載の裏側写真が含まれていることです。
つまり「杭」の全体を精細写真で分析できるのです。
もう1点は杭出土グリッド(4C09)発掘状況写真に木片が写っていて、それが「杭」に似ていることです。
千葉県教育庁文化財課担当官の方からは写真の木片が出土杭であるかどうかの記録はないことを教えていただきました。もし写真木片が杭であるかどうかわかれば、どちらの場合でもとても役立つ情報を得ることができると期待感が高まりました。

3 分析項目
これら10点の写真を使って次の項目を順次分析することにします。

ア 4C09写真に写る木片は「杭」であるかどうか 
イ 「杭」の削り跡、刻印等の詳細分析把握
ウ 4C09写真の土器、木片(「杭」)、獣骨出土状況から何が読み取れるか

4 参考 「杭」出土グリッド

「杭」出土グリッド

「杭」出土グリッド(拡大)
4C09グリッドから大型土器を含む土器多数、「杭」、獣骨が出土しています。

2017年9月20日水曜日

新津健「猪の文化史 考古編」学習

2017.09.18記事「西根遺跡 焼骨と破壊土器が混ざって出土する理由」で頭部のない体部だけの幼獣焼骨の意義について考察しましたが、焼骨の意義、頭部のない獣骨の意義について図書「新津健(2011):猪の文化史 考古編、雄山閣」を入手して学習しました。

図書「新津健(2011):猪の文化史 考古編、雄山閣」

この図書ではイノシシをメインテーマにして、焼骨の意義、頭部の無い獣骨(焼骨)の意義について民俗例をふくめて考察しています。

この図書では、私が知りたかった事項がそのまま考察検討されている部分が多くあり、私にとっての良書となりました。

祭祀では、イノシシの頭部が体部とは別に扱われることは一般的であり、頭部は祭壇に飾られることが普通であることを知り、自分のこれまでの想定を変更する必要性は生じないことを確認できました。

儀式における猪の扱いの流れ
図書「新津健(2011):猪の文化史 考古編、雄山閣」から引用

この図書から有益な情報をさらに汲み取るつもりです。

2017年9月18日月曜日

西根遺跡 焼骨と破壊土器が混ざって出土する理由

西根遺跡縄文時代の土器集中地点と焼骨分布が重なります。
さらに、土器のかけらの間に焼骨(とそれを焼いた木の燃えカス)が見られます。

破壊した土器のかけらと焼骨が混然一体となって出土する意味がおぼろげながら判ってきたような思考が生れています。
そのおぼろげな思考を忘れないうちに、今後の学習の参考とするために、下にメモしておきます。

1 トチの実アク抜きによる主食づくりの道具としての土器(加曽利B式土器 粗製土器)が壊れて使用に耐えなくなる。
2 それに代わる新しい土器をつくり、古い土器は廃用とする。
3 土器を更新することにより、道具(設備)の面から主食づくりの継続性が集落で担保できる。(食物調達に関する持続可能性)
4 堅果類による主食づくりのメドがついた秋~冬に収穫祭を行う。
5 収穫祭で廃用土器を送り、土器に感謝する。(土器送り…土器破壊)
6 狩猟民である縄文人は主食である堅果類の収穫祭を狩猟の祭(イノシシ、シカの共食と骨焼き行為)の中で(の一環として)行った。
[恐らく狩猟の祭(イノシシ祭などと呼ばれる縄文社会普遍の狩猟祭)に後から堅果類収穫祭が加わった。]
7 縄文時代後期の印旛浦周辺地域は下総地域における主要な狩場では決してないのでイノシシやシカの入手は困難であり、祭祀用の幼獣を特別に入手したり、飼育していたと想像する。
8 縄文社会の伝統である狩猟祭(イノシシ祭)の一環として堅果類収穫祭が位置づけられ、廃用土器の破壊(送り)が行われた。
9 飼育幼獣などを利用してイオマンテ類似行為により獣を共食し骨を焼きそれを散布する行為は縄文社会を営むために必須の祭であった。狩猟行為の実態が存在しない、あるいは虚弱な集落であっても、狩猟祭は必須であった。その必須狩猟祭の一環として(新たに主食化が成功した)堅果類の収穫祭を行った。

土器破片と焼骨が一体となって出土する意味とは、狩猟民としての精神性を示す狩猟祭(イノシシ祭)を冠として、主食である堅果類の収穫祭が行われたことを示していると考えます。

狩猟祭(イノシシ祭)では頭部を体部と切り離して祭壇に飾ったと考えます。
狩猟祭(イノシシ祭)について、今後学習を深めます。
体部の骨を焼く行為の意味については、送り行為の一環(火葬)であると想像しますが、今後学習を深めます。

狩猟祭としての焼骨行為は精神性(象徴性)が強いと考えますので、焼骨散布による修景機能(祭壇付近を白く染める)や土木機能(祭壇付近の地面を固める)は結果として生まれるサブ機能であったと考えます。

参考 西根遺跡出土焼骨
発掘調査報告書から引用

2017年9月17日日曜日

西根遺跡 焼骨出土状況の詳細とその考察

2017.09.16記事「西根遺跡 焼骨はどこで焼かれたか」で焼骨が西根遺跡空間で焼かれて生成され、その場に存置されたことがほぼ判りました。

この記事ではさらに発掘調査報告書掲載情報を詳細に分析して焼骨出土状況を把握・確認するとともに、その事実に基づいた考察を行います。

1 焼骨出土状況の詳細把握
発掘調査報告書の土層断面図記載から骨片が炭化物(焼けた木片)と常に一緒に出土していて、獣骨が西根遺跡空間で焼かれ、その場に存置されたことが明らかになりました。

この様子は発掘調査報告書文章記述では次のよう述べられています。
「集中地点の中には土器のほかに獣骨片や炭化物が多くみられる所もある。獣骨片は比較的小型の哺乳類が中心であり、細かく粉砕され、被熱しているものが大半である。」(16ページ)
「(第1集中地点)3Cグリッドには土器と土器の間に焼けた獣骨片が見られる
(第2集中地点)包含層内の1部には炭化物や骨片が見られる
(第3集中地点)小骨片も認められる。」(22ページ)
「獣骨・種子については、調査区の中で目立ったものを採取したものである。分布については、第1集中地点~第5集中地点までは土器の重量分布(第13図)と重なっている
獣骨(第183図)については、大型片は出土せず、焼けた細片が主体である。全体で1509.6gが出土し、小グリッドで出土大いには、第1集中地点の3C65グリッドで104.2g、第3集中地点の8D76グリッドの197.0g、第4集中地点の9C96グリッド188.0g、10C09グリッドの160.7gであり、いずれも200gを切っており、僅かな出土である。獣骨の種別等については第8章第2節を参照されたい。」(232ページ)
「縄文時代後期の堆積層から採取した遺存体は、いずれも短時間に強い熱を受けたと考えられ、色調は灰白色ないし灰黒色を呈し、変形や損傷が著しい。」(342ページ 理化学的分析)
「西根からは、腐食しにくく、腐肉食性の動物などからの食害を受けにくい遊離歯も回収できないことから、今回の焼骨の中に占める頭骨の頻度はそれほど高くないと見込まれる。」(345ページ 理化学的分析)
「獣骨は、第1集中地点~第5集中地点で検出しているが、どれもほとんど同じ状況で被熱痕が強く残り、イノシシやシカの幼獣の骨片が多いという事実があきらかとなった。これについては今後、他の遺跡との照合が必要である。」(422ページ)

上記の記述から、焼骨の出土は土器が密集するところに分布し、炭化物と骨片が混ざっていて土器と土器の間にみられ、どこも同じような状況であることが確認できます。

2 焼骨づくりに伴う活動の考察 
破壊した土器があるその場所で焼骨を作ったことが確認できるのですから、次のような活動を想定できます。
●廃用土器の破壊と焚火による焼骨生成が1回の活動(祭祀)で一緒に行われた。
この活動想定から次のような状況を想像できます。
●廃用土器と生きた幼獣(シカあるいはイノシシ)を持参して西根遺跡に丸木舟で集団がやってくる。
●祭壇(イナウ)を設置し、飾り弓を使ったイオマンテ類似祭祀が行われる。
●獣の頭骨は祭壇に飾り、体部は焼いて集団が食べる。
●残った骨は焼いて骨灰(焼骨)とする。
●焚火の近くで廃用土器を破壊する。
(私はこの活動を堅果類収穫祭の一環であり、印旛浦広域集落群共同の取り組みであり、手賀浦地域との交流の場であり、印旛浦と手賀浦を結ぶミナトの移動(廃絶)ともかかわると考えています。)

このように想像すると次の諸点で発掘情報と整合します。
1 土器片の間に炭化物と焼骨が混ざって出土する。
2 頭骨は祭壇に飾られて放置されるので腐り、土層中に残りにくい。
3 自生する灌木を利用して現場でつくる祭壇(イナウ)は包含土層中に残り、木質(自然木)として出土している。
4 集落から持参した製品としてのイナウは「杭」として出土している。イオマンテ類似祭祀で使った飾り弓は出土。
5 包含層上下の土層から多くの木質が出土していることから、縄文時代後期の戸神川谷津は灌木が豊富であったと考えることができる。従って祭壇(イナウ)づくりはもとより、獣を調理したり焼骨をつくるための焚火の材料には事欠かなかった。

3 焼骨づくりに関する検討項目の考察
焼骨づくりのイメージがより詳しく湧いてきましたので、焼骨づくりの意義に関する検討が新たな項目として抽出されました。
具体的には次の項目について今後検討を深める必要があります。

●動物を調理して食った後の骨を何故焼いて骨灰(焼骨)にしてその場に存置したのか?
土器破壊と骨灰(焼骨)づくり(その存置)は一体の祭祀活動であると考えます。
その祭祀の意味、土器を破壊する意味、骨を焼いて存置する意味について詳しく検討する必要が項目として浮かびあがりました。
具体的には、骨灰(焼骨)存置行為に祭場を白く修飾する風景機能や祭場を固めて破壊土器が動かないようする土木的機能を縄文人が期待していたのかなどについて検討したいと思います。

4 焼骨分布を指標にした検討項目の考察
焼骨と炭化物と土器片が混然一体となって出土する状況は、その場所が後世の流路で破壊されなかったことを物語っています。
仮にその場所が後世の旧流路と平面図上で重なっていても、断面図上では上下に離れていることを物語ります。
つまり、焼骨分布を指標として後世流路により攪乱を受けていない場所を抽出できることになります。
逆に土器が分布し焼骨は分布しない場所で、後世流路と重なる場所は攪乱をうけた場所である可能性が濃厚になります。焼骨や土器の一部が流出してしまったり、上流から土器が水流で運ばれてきた場所になります。
焼骨分布を指標として西根遺跡の詳細地形特性を明らかにすることができます。
今後詳しく空間分析します。

参考 土器分布図(ウススミ)、時代別流路分布図、獣骨分布図(グリッド)のオーバーレイ図 第3~第5集中地点付近

5 参考 感想
1で引用したとおり発掘調査報告書では焼骨について「これについては今後、他の遺跡との照合が必要である。」と述べています。
この記述は、言外に、焼骨に関してはこれ以上検討しないということを述べていると感じました。
発掘調査報告書における「集中地点の性格と意義」における次の結論的記述には焼骨が検討ファクタとしては含まれていないことが推察できます。
「…何を意味するのか具体的には不明である。現代の針供養とも一面では通じるような感を受けるが、穿った見方であろうか。」

土器集中地点の性格と意義を検討するためには破壊土器だけに着目するのではなく、焼骨も重大な検討成分として一緒に検討することが必須だと考えます。

類似他遺跡の検討結果を丹念に見直し、西根遺跡と比較して西根遺跡の意義を考察する必要性が大切であることは論を待ちません。
しかし、その前に西根遺跡内部の徹底した分析・考察が無ければ、類似遺跡情報ばかり集めても、それがどれだけ使えるか何の保証もありません。

2017年9月16日土曜日

西根遺跡 焼骨はどこで焼かれたか

2017.09.15記事「西根遺跡 焼骨の意味に関する検討」で焼骨が祭祀に関わっているだけでなく、アク抜き用添加剤という実用機能を有する材料である可能性についても検討する必要性をメモしました。

もし焼骨がアク抜き用添加剤として使われたもので、廃用土器と一緒に西根遺跡にもちこまれたものならば、焼骨は集落で作られたものであると考えることができます。

そこでもう一度詳しく発掘調査報告書を調べてみました。

次に断面図における包含層の記述を抜き出してみました。

断面図における包含層の記述抜き書き 1

断面図における包含層の記述抜き書き 2

断面図における包含層の記述抜き書き 3

骨片の記述は4カ所ありますが、そのうち3か所は「炭化物・骨片」となっていて炭化物(木片の焼け焦げ)と骨片は同時に出土することが西根遺跡では一般的であると考えられます。

「杭」の実物閲覧をした際に、「杭」と一緒に黒く焼け焦げた小木片が2-3点同封されていました。

「杭」に同封されている炭化物(木片の焼け焦げたもの 画面下の黒い小片)

骨片と焼け焦げた木片がいつも同時に出土するということは、骨片が出土した場所で骨が焼かれた可能性が濃厚であることを示していると考えることが合理的です。

なお、焼けた粘土塊も出土したと発掘調査報告書に記述があります。(場所不明、写真等の情報なし)

以上の情報から、西根遺跡では動物の骨を焼いて焼骨を作り、その場に存置した可能性が高まります。

焼骨が集落で作られ、土器とともに持ち込まれた可能性は低くなりました。

廃用土器の破壊と焼骨行為は同じ大きな活動の中の並列する小さな構成要素であるように感じられます。

さらに焼骨について検討をつづけます。

2017年9月15日金曜日

西根遺跡 焼骨の意味に関する検討

西根遺跡出土焼骨の意味について様々な可能性を検討することの必要性を感じるようになりましたので、今後の検討方向をメモしておきます。

1 焼骨出土状況
西根遺跡には7か所の土器集中地点がありますが、そのうち5カ所の土器集中地点の土器密集部に対応して焼骨(獣骨)が出土しています。


土器重量と焼骨出土の対応 例
土器重量は密集部(最大分位 赤)のみ表示
 
焼骨の量は全体で1.5㎏で、その特徴は発掘調査報告書で次のように記載されています。
1 短時間に強い熱を受けたと考えられ、色調は灰白色ないし灰黒色を呈し、変形や損傷が著しい。
2 動物相が単純である。(ほとんどがイノシシとシカ)
3 同定可能な遺存体の中に占める頭骨の割合が低い。
4 推定年齢の若い遺存体が相対的に多く同定された。

出土焼骨例 発掘調査報告書から引用

焼骨の意義について、発掘調査報告書ではつぎのように記述しています。
「当時、何らかの必要があって、若齢個体を含むイノシシおよびシカの骨を焼く習慣があった可能性は今後検討する必要がある。」

2 これまでの検討
このブログにおける西根遺跡焼骨検討(見立て)の概要は次のようなものです。
・飾り弓と焼骨が出土していて、かつ若い動物が多く、頭骨が少ない状況から、またイナウと仮説する丸木が出土していることから、イオマンテ類似祭祀が行われ、焼骨は獣肉食の跡であると考える。
(若い動物を飾り弓で射る(送る)祭祀を行い、殺した動物の頭はイナウに飾り、体部は祭祀参加者で食べ、残った骨は焼いて祭祀場中央部(土器密集部)に撒いたと空想しました。)

3 焼骨検討に関する問題意識を深めた学習
最近、焼骨に関する専門的検討文献として「西野雅人・服部智至(2016):横芝光町中台貝塚出土の動物遺体、千葉縄文研究6」を千葉市埋蔵文化財調査センター所長の西野雅人先生からいただき学習する機会を得ました。
この文献では焼骨の事例と用例について幅広く検討が行われていて、特に骨灰に関して縄文時代に活用でき得たものとして、壁や床の補強材・装飾・調湿、低地の地盤改良、肥料、灰汁抜き、獣皮処理(漬け込みで毛が抜けやすくなる)などがあるとしています。

また、次のような現代の利用例を挙げて、こうした参考情報を踏まえて骨灰について検討すべきであることが指摘されています。
骨灰(ハイドロキシアパタイト)の現代の利用例
医療:歯科治療、骨や筋肉の増強・炎症予防、人口骨、男女産み分け
食用:ベーキングパウダー、フルーツの糖度向上
工業・建築:内外装工事(防水・調湿)、研磨剤、陶磁器、重金属吸着
その他:肥料・飼料、酸性土壌中和
「西野雅人・服部智至(2016):横芝光町中台貝塚出土の動物遺体、千葉縄文研究6」から引用

焼骨とは水で洗って発掘した結果であり、焼骨の実体が骨灰であると考えると、この論文の視点つまり骨灰の物質特性に着目する視点から西根遺跡焼骨に関して検討を深める必要があります。

4 西根遺跡焼骨の意味に関する可能性
上記文献学習からインスピレーションを得て、次のような項目について検討を深めることとします。

ア 焼骨(骨灰)が動物の送りであると考える。
アイヌに灰塚があり、モノを燃やした灰も1個所に集め丁寧に送るという習俗があります。この習俗と同じで、イオマンテ類似活動の結果として食した獣の骨を灰になるまで焼いて一カ所に撒き、獣を送ったと考えます。(このブログのこれまでの見立て)

イ 焼骨(骨灰)散布により祭祀場を装飾する。
アとともに、骨灰散布により祭祀場を白く染めるという装飾効果があったかもしれません。

ウ 焼骨(骨灰)散布により祭祀場の地盤を固める。
ア、イととともに一緒にその効果を狙った可能性として、骨灰散布により祭祀場の地盤を固めて祭祀をしやすくした可能性が考えられます。

エ 焼骨がトチの実アク抜き用添加剤であった可能性
ア~イの発想と根本的に異なる焼骨(骨灰)機能の可能性として、トチの実アク抜き用添加剤であったことが考えられます。この思考はこれまで自分が見立てた遺跡意味とは大幅に異なるものです。

この可能性について次のようなイメージを持ちました。
「焼骨はトチの実アク抜き用添加剤」の可能性
●焼骨は大量骨灰の中に含まれていたと考える。
●発掘作業の水洗作業で大量灰は全て失われ、少量の焼骨のみが採取されたと考える。
●焼骨を含む骨灰は加曽利B式土器の中に入れられてトチの実等堅果類のアク抜き剤として使われた。つまり、骨灰はトチの実等を煮沸する時のアク抜き用添加剤であると考える。
骨灰の中に混じる焼骨の生焼け部分から骨髄エキスが出て、トチの実に味付けする効用も考えられる。
●アク抜き煮沸用加曽利B式土器が壊れて廃用になった時、土器底に貯まった(こびり付いた)骨灰は洗い流されることなく西根遺跡に持ち込まれた。
●土器は全て破壊されるので、土器内部の骨灰は土器周辺に飛び散り土器と一緒に堆積したような層相(骨灰が撒かれたような層相)がうまれる。
●トチの実アク抜き作業は集落で行われたので、アク抜き剤としての骨灰(焼骨)も当然ながら集落でつくられた。

この可能性をもし仮説として採用すると、これまでの自分の見立てとは大きく異なるので、自分の作ったストーリーに様々な不都合が生れます。

焼骨の根本意義を祭祀に置くかつまりア、イ、ウで考えるか、それとも主食生産用添加剤として見るかつまりエで考えるか、大きな岐路に立たされてしまいました。

この岐路を越えると、自説の正しさにますます自信を深めるか、自説を放棄する苦しみ(恥ずかしさ)と引き換えに新たな価値を社会に提供できるような仮説を構築できるかのどちらかが待っていると期待します。ワクワク、ドキドキです。

じっくり学習を深めて行くつもりです。

……………………………………………………………………
追記 2017.09.17
「焼骨はトチの実アク抜き用添加剤」の可能性についてワクワク、ドキドキしながら焼骨について検討をはじめたのですが、検討を始めたとたんにその可能性は無くなりました。
2017.09.16記事「西根遺跡 焼骨はどこで焼かれたか」参照

自説の正しさにますます自信を深める結果となりました。
2017.09.17記事「西根遺跡 焼骨出土状況の詳細とその考察」参照

自身の内部で密かに期待した(?)どんでん返しがなくなり、寂しい(?)気持ちもありますが、「添加剤説」が一種の触媒となって自分の思考を刺激し活性化させています。

自説の正しさに自信を深めることができたことは良いことです。

2017年9月4日月曜日

西根遺跡 古墳時代のみ戸神川に可動堰が作られた理由

2017.09.03記事「西根遺跡 弥生時代以降における縄文土器露出状況」の検討副産物を記事にします。

次の図は時代別流路の断面図を例示したものです。

時代別戸神川流路の深さ

流路2(古墳時代前期以前)と流路3(古墳時代前・中期)の深さが大きく、また断面自体も大きくなっています。
戸神川の浸食力が大きく、極端にいえば沖積低地が河岸段丘のようになっている様子がわかります。

時代前後の流路1(縄文時代)や流路4~6・7は極浅い流路となっています。

この現象はいわゆる「弥生の小海退」に対応する地象であると考えます。
このような戸神川浸食力増加時期があったため、その期間に水田耕作する人々は戸神川に可動堰を作ったと考えます。
戸神川の浸食力が衰え、流路の深さが浅くなれば、可動堰は必要なくなり、自然流下で水田に水を引くことができます。
古墳時代にのみ戸神川に可動堰がつくられた理由は「弥生の小海退」の影響によるものであると考えます。

参考 古墳時代(流路3)可動堰
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年)から引用

2017年9月3日日曜日

西根遺跡 弥生時代以降における縄文土器露出状況

2017.09.01記事「西根遺跡と小字「西根」」で次の文章を書きました。

「古代人は西根遺跡空間付近で破壊縄文土器の圧倒的な露出風景を見ているでしょうから、その光景をみて「根の国」「黄泉の国」を想像したかもしれないと空想しています。」

古代人が戸神川光景を見て「根の国」を想像したかどうかは今は空想の段階です。
しかし、「古代人は西根遺跡空間付近で破壊縄文土器の圧倒的な露出風景を見ている」ことは確認できるので、GISにおける地図のオーバーレイによるデータを作成して確認してみました。

時代流路毎に見た縄文土器露出の可能性が高い場所

縄文土器分布図と時代毎流路を重ね合わせ、流路が縄文土器分布と重なった部分を抽出しました。断面図を参考に考察すると、流路2、流路3、現河川では抽出ケ所全てでほぼ確実に縄文土器が露出し、流路4、流路5、流路6では抽出した場所の多くのところで縄文土器露出が存在したと把握できます。

参考 西根遺跡の土器検出状況
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年)から引用

2017年9月1日金曜日

西根遺跡と小字「西根」

印西市小字「西根(ニシネ)」の位置を確かめると次のようになります。

印西市小字「西根(ニシネ)」

この分布範囲と西根遺跡との位置関係をGISで確かめると次のようになります。

西根遺跡と小字「西根(ニシネ)」

さて西根の語源はどのようなものでしょうか?
私は西根遺跡の学習の中で次のような仮説を1回メモしました。

1 西根の語源 仮説1
……………………………………………………………………
戸神川沖積地の左岸サイドに「西根」があります。
西根の東側は船尾白幡遺跡の中心拠点(Dゾーン)が控えています。
また西根遺跡から多数の出土物がみつかり、西根遺跡付近が船尾白幡遺跡のミナトであり、祭祀の場であることもわかってきています。
このような情報から、小字「西根」の意味を次のように想像します。
船尾白幡遺跡が新規開発地として建設された時、その西側に位置する戸神川低地は開発地(集落)と外部を結ぶ重要なミナトであり、そのミナトを通じて船尾白幡遺跡は外部とつながっていました。
つまり船尾白幡遺跡からみると、地先の戸神川低地は西側に伸びる根のような存在であったと考えます。
船尾白幡遺跡からみて地先戸神川低地は自らの根元の部分に当たると考えて、「西根」という地名が生まれたと考えます。

参考 印西町字界図(昭和63年印刷)平成13年4月印西市復刻
……………………………………………………………………
参考
ね【根】
1 〖名〗
二 物の基礎となり、それを形づくる根本となる部分。ねもと。つけね。
① 生えているものの下部。毛、歯などの生えているもとの部分。
*万葉(8C後)四・五六二「いとま無く人の眉(まよ)根(ね)をいたづらに掻かしめつつもあはぬ妹かも」
*あきらめ(1911)〈田村俊子〉七「頭髪の根が痛くって仕様がないよ」
② 立っているものが、地に接する部分。ふもと。すそ。
*書紀(720)神代上(兼方本訓)「譬ば海(うな)の上(うへ)に浮(うか)べる雪の根(ネ)係所(かかること)無(な)きが猶し」
*真景累ケ淵(1869頃)〈三遊亭円朝〉五一「手水鉢(てうづばち)の根に金が埋めて有るから」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館から引用
……………………………………………………………………

2 西根の語源 仮説2
西根遺跡の学習を深めるなかで奈良・平安時代の水辺祭祀だけでなく、縄文時代こそ最も活発な水辺祭祀が行われていたことを学習しました。
そして縄文時代水辺祭祀がその後の弥生・古墳・奈良平安時代に少なからず影響を与えたようだという印象を持つにいたりました。
このような学習進行のなかで、西根の語源を次のように仮説します。

西は印西の西と同じで印旛浦の西側という意味です。
根は「つけね」「ふもと」「すそ」という意味合いであり、西根は印旛浦の西にある「付け根」という意味合いになると考えます。
西根遺跡の空間が古代人にとって遠い昔から(原始時代から)伝わってきた祭祀空間であることから、つまり印旛浦の西にある信仰上の拠点空間であることから、西根という地名が生まれたと考えます。

なお、根が「根の国」(ニライカナイ)と関係するのかどうか、さらに検討していくつもりです。
古代人は西根遺跡空間付近で破壊縄文土器の圧倒的な露出風景を見ているでしょうから、その光景をみて「根の国」「黄泉の国」を想像したかもしれないと空想しています。

西根という地名はおそらく古墳時代か奈良平安時代につくられたと想像します。