2011年7月30日土曜日

犢橋貝塚

犢橋川流域紀行7 犢橋(こてはし)貝塚

            犢橋貝塚の碑
 貝塚の説明文とともに、「千葉県主要遺跡百選の内の一」が刻まれています。

            犢橋貝塚公園
 国指定遺跡「犢橋貝塚」を保存する歴史公園。なだらかな草原の公園で、地表に貝殻が露出している樹林地があります。

 犢橋貝塚は犢橋川支流の谷津谷頭付近の台地上に位置している縄文後期・晩期の集落遺跡です。
 縄文海進時の海岸線を現在の標高10m等高線付近と考えた時の海岸線と犢橋貝塚の位置関係を次に示しました。
 犢橋貝塚は最も近い海岸線から200m程度の距離にあり、海(干潟)の幸を採集するには好適な場所にあります。

            犢橋貝塚と縄文海進の海(想定)
 旧版地形図「六方野原」「検見川」「大久保」「三角原」をベースにしています。
 犢橋貝塚の形状は「千葉市史 原始古代中世編」(千葉市発行)掲載図面をGIS上で転写して作成しました。

            犢橋貝塚と縄文海進の海(想定)の現代地図プロット

 次に「千葉市史 原始古代中世編」(千葉市発行)より犢橋貝塚の説明を引用します。
本遺跡は東京から近い距離にあるため、明治年間より、「遠足会」と称する遺物採集や発掘などがしばしば行われた。戦後になってからは、昭和26年5月明治大学、同年8月東京学芸大学、昭和31年6月明治大学、昭和39年5月明治大学及び千葉大学が、測量や発掘調査を行い、次第にその様相が明らかとなった。
 この遺跡は、貝塚の分布範囲が東西200m、南北150mをはかる集落遺跡で、貝層は東西に長い馬蹄形を呈し、東と西に開口している。貝塚を構成する貝類は、キサゴ・ハマグリ・アサリ・カガミガイ・シオフキなどを主体としる主鹹貝類によって占められている。
 遺物も豊富で、土器は堀之内式・加曽利B式・安行Ⅰ・Ⅱ・Ⅲa式などの縄文後期前半から晩期初頭にかけてのものが発見されており、かなり長期にわたって集落が営まれたことを物語っている。
 昭和31年度の明治大学が行った発掘調査によると、貝塚北側末端部における層序は、ほぼ次のとおりであった。
 まず表土(20~50cm)はかなりの撹乱をうけた形跡があり、後期から晩期までの各型式の土器片や貝殻が混合していた。表土下の第一、第二、第三の各純貝層が整然と重なっており、おのおの10~30cm程度の厚さであり、遺物の包含は少ない。第三貝層の下に約1mの厚さをもつ混貝土層、その下のキサゴのこまかく砕かれた貝層がはいりこみ、その下の暗褐色の混貝土層(約20cm)、そしてローム層に至る。混貝土層は、後期終末の安行Ⅱ式土器を包含し、キサゴの破砕貝層以下は堀之内土器を包含している。しかし混貝土層中かなり深い部分まで大洞B式土器類似の砕片が含まれており、晩期と後期との境界を決める重要な問題を提起した。
 しかし、これらの諸調査において、常に、貝層部やその内側を発掘してきたにもかかわらず、これまでに一度も後・晩期の住居祉には遭遇せず、これを集落としてとらえる実証はつかめなかった。
 ところが昭和43年、遺跡の周辺を造成する際、貝層部から30m~50mをへだてた周辺部を削平したところ、その断面に、堀之内式及び加曽利B式の竪穴住居祉と貯蔵穴が数基露呈された。しかも貯蔵穴中から、称名寺及び堀之内Ⅰ式の完形土器も採集された。これによっても、当時の集落の基調となるべき住居祉群は、貝層部の内側よりも、むしろ外側にこそ広範囲に展開していた可能性が確認されたわけである。

2011年7月29日金曜日

子和清水遺跡

犢橋川流域紀行6 子和清水遺跡

            子和清水遺跡発掘場所(現代地図)

            子和清水遺跡発掘場所(旧版地形図)

 子和清水付近の周辺台地は、閉じた凹地等高線の存在に見られるように、水が行き場を失った地域です。それだけに犢橋川谷津谷頭の子和清水は湧泉量が多く、干天でも水が涸れることのない「強(コワ)い」(強靭な)清水であったと考えられます。また、「怖(コワ)い」(思いもよらない不思議な力がある)清水であり、病気治癒や健康増進に効果のある霊験あらたかな水が湧いていたに違いありません。

 子和清水を飲料水として利用していたと考えられる古代遺跡が近くに数箇所分布しています。
 このうち、子和清水から東約280mの台地端の遺跡が、清掃工場建設に際して昭和60年に発掘調査され、記録保存されています。この調査記録(「千葉市子和清水遺跡房地遺跡一枚田遺跡」千葉市教育委員会・財団法人千葉市文化財調査協会、1987)を見てみました。

1 旧石器時代
●立川ローム層下部から武蔵野ローム層上部までの範囲を調査して、845点(表採資料は含まず)の資料を得ています。
●尖頭器(槍先)、ナイフ形石器、敲石(ハンマー)、角錘状石器(キリ)、彫器(ノミ)、削器(先端に刃のついた剥片)、掻器(側面に刃のついた剥片)、両極石器、剥片、砕片、石核(原石)、礫などが出土し、大きなもので5cm~7cmの完成品、未成品が含まれチャート、玄武岩、砂岩、安山岩、黒曜石などを素材としています。
●2箇所の炉跡が確認されています。
●時代的には4段階の時代が認められ、最後の段階は旧石器時代最終末から縄文時代の初頭であるとしています。

2 縄文時代
●竪穴住居祉及び竪穴状遺構10軒、炉祉状遺構2基、土壙43基が検出され、住居祉は台地先端部に沿って分布しています。住居祉の年代は縄文前期後半から末葉7軒、中期後半2軒、後期後半1軒としています。
●出土遺物として土器(浅鉢、壺、深鉢など)、土製品(土偶、玦状耳飾、土錘)、石鏃(チャート、黒曜石)、石錐、両極石器、石斧、磨石・敲石・凹石、石皿、軽石、石棒、独鈷石、玉類・滑石が見つかっています。石器出土数は907点です。(土器片の出土数は記載ありません。)
●土器は次の区分により記載されています。
第Ⅰ群土器 早期前半の撚糸文土器
第Ⅱ群土器 前期前半の黒浜式土器
第Ⅲ群土器 前期後半の諸磯式・浮島式土器
第Ⅳ群土器 前期末葉から中期初頭の土器
第Ⅴ群土器 中期初頭の五領ケ台式土器
第Ⅵ群土器 中期後半の加曽利E式土器
第Ⅶ群土器 後期前半の称名寺式・堀之内式土器
第Ⅷ群土器 後期中葉の加曽利B式土器
第Ⅸ群土器 晩期中葉の前浦式土器
第Ⅹ群土器 晩期後半の千網式・荒海式土器
●玉についてはその製作跡を示しているとしています。

3 弥生時代
●遺構は検出されず、土器片が約30点出土しました。

4 古墳時代
●古墳時代前期に属する住居祉が2軒検出されています。2軒の住居は時間差があり同じ時に存在していた可能性は少なく、土器は供献用の土器がその大半を占め、儀式の場とも考えられるとしています。

5 歴史時代
●カマドを有する住居祉が1軒検出され、土器等が出土しています。

6 感想メモ
 この報告書を見て次のような感想を持ちましたので、メモしておきます。
●旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、歴史時代と切れ目なく遺跡が発見されており、この場所が人の生活場所として大切な条件を満たす場所であることがわかります。この場所を特徴づける根本的条件は子和清水の存在で間違いないと思います。干天でも清潔で多量の飲料水確保できることがこの場所に継続して人が住み着いた最大要因だと思います。

●南向き台地の端(はな)の縁に住居祉が立地しています。立地場所からは眼前に犢橋川谷津の広がりをパノラマで見ることができます。この場所の展望の良さは次のような利点があったと思います。
ア 呪術などの精神生活をしやすくする。(現代的に言えば、眺めがよくて気持ちがよい)
イ 日当たりが良く、衛生環境が良い。
ウ 天体運行についての把握が容易である。
エ 谷津を伝わってくる来訪者が住居場所を探しやすい。
オ 谷津を訪れる渡り鳥など、狩猟対象の発見に有利である。

●検出された住居祉数から、一度期に住んでいたのは多くて3~4軒程度と想像しました。

●古墳時代の遺跡が祭祀の場であるかもしれないという情報は、子和清水がいわば「聖なる泉」として古墳時代の人々に捉えられていたことを物語ると思います。古墳時代の人々が「聖なる泉」と考えたのは、旧石器時代人や縄文人が子和清水を「聖なる泉」として捉えてきたことが、弥生時代人も経由して継続して伝えられたからだと思います。

●こうした背景のなかで、親孝行とか酒とかが表のテーマのようになり、大きく変形はしたけれども、健康や命を育む「聖なる泉」であるということが子和清水の民話になり、現代にまで伝わってきているものと考えます。

2011年7月28日木曜日

子和清水

犢橋川流域紀行5 子和清水

            「子和清水源泉の跡」の碑

 犢橋川の源流部は谷津は子和清水調整池となっており、周辺台地は清掃工場、東関東自動車道千葉北インターなどになっています。
 残念ながらここが谷津であったという雰囲気はあまり感じません。調整池が盛土されたためか、台地が削られたためか確認していませんが、全体にのっぺらした感じの風景になっています。
 調整池の奥まったところに「子和清水源泉の跡」の碑がありました。
 名前の由来として、次の文章が彫られています。

昔、この地に、たいそうな親孝行息子がいたそうな、息子は毎晩のようにお酒を買って父親に飲ませていたそうな。
ある日、お酒を買えなくなった息子は思案の末、森の土手より湧き出る清水を徳利に入れ家に持ち帰ったそうな。これを差し出すと父親はひと口飲んで『旨い』と言い、飲むほどに酔うて来たそうな。
父親はあまりに旨いお酒なので『どこで買ってきたか』と尋ねると、困った息子は『清水』と言ったそうな。
この話が村人に知られ、『親は酒でも子は清水』と言われるようになり、やがて、この地を『子和清水』と言う。

            子和清水調整池

 旧版1万分の1地形図「三角原」(大正6年測量)にはコワ清水の姿がリアルに描かれています。谷津谷頭斜面から流れる水流とそれを貯める池が描かれています。GISで地図を拡大して測量すると、斜面から流れる水流延長15m、清水の池は7m×5mでした。この値から清水(清らかな湧き水)の規模を想像できます。

            コワ清水(旧版1万分の1地形図「三角原」)

 コワ清水の語源は「強(こわ)い」の語幹のコワが清水を形容しているものと考えます。「強く激しい、頑強である」という意味であり、要するに干天になっても泉の水が涸れることはない、水の湧き出す力が強い清水であることを表現しているものと考えます。
 古代人にとって飲料水の確保は死活問題ですから、清水の存在だけでなく、湧泉力の強さを地名に表現する切実さがあったものと考えます。
 歴史時代になると生活の水事情も改善し、「コワ」の意味を直接的に解釈しなくてもよいような(あるいや「コワ」の意味を忘れた)社会状況となり、上記のような民話により「コワ」の意味を説明するようになったのだと(常識に従えば)思います。

 「コワ」が「怖い」の語幹であり、「思いもよらない不思議な力がある」という霊力に関する意味が、「強い」の意味にオーバーレイして、この泉にまとわりついているのかもしれません。もしかしたら、上記民話はこの泉の霊力を伝えているのかもしれません。歴史時代につくられたおとぎ話ではなく、旧石器時代、縄文時代の人々の気持ちが、変形しながら、この民話として伝わってきているのかも知れません。(私の想像です。)

 子和清水の水は旧石器時代、縄文時代およびそれ以降の人々の重要な水源となってきたものです。

            子和清水跡の現代地図プロット
 子和清水の跡は現在は東関東自動車道千葉北インターの道路敷になっています。

2011年7月27日水曜日

河川争奪の胚

犢橋川流域紀行4 河川争奪の胚

            27.5m等高線と閉じた凹地等高線
 旧版1万分の1地形図(大久保、三角原、検見川、六方野原 各大正6年測量)

 犢橋川流域の旧版1万分の1地形図を良く見ると、河川争奪の胚とも言える現象が幾つも見つかります。

 上図は27.5m等高線をピンク色で抜き出したものです。南側の端が途中で段差で区切られた、2つの直線を成して分布しています。

 この直線状の27.5m等高線分布端を突き抜けて、宇那谷川筋、横戸川筋の谷地形が連続しています。
 このことから、等高線の直線状の分布は谷地形が出来たあと形成されたことがわかります。つまり、地盤変動でできたことが確認できます。

 27.5m等高線の直線状分布域の南側の谷地形を見ると、閉じた凹地等高線を示してしまうものがあります。閉じた凹地等高線を示す谷地形は宇那谷川や横戸川の流域から分離したけれど、犢橋川の流域にはいまだ入っていない、未分化の状況を表しています。河川の争奪はまだ行われていません。

 同時に、27.5m等高線の南側の谷で犢橋川の水系に入るものもあります。これは河川争奪が今始まった瞬間を捉えた、いわば河川争奪の胚みたいな地形であると考えます。

 これと同じ現象が現在の花見川本川でもあり、花見川本川の方は河川争奪が胚で終わることなく、古柏井川を大規模に争奪しました。しかし、犢橋川では河川争奪は胚で終わってしまいました。

 その差異の理由は、花見川本川の方はたまたまそこが南北方向の断層線の場所であったため、構造的弱線に沿って侵食を進めることができたのではないかと想像しています。(2011年3月18日記事「花見川中流紀行19活断層存在の可能性4」など)

 なお、上図をよくみると、直線状の27.5m等高線分布端の付近の谷に補助等高線で小崖が表現されています。もしかしたら東西方向の断層崖の名残かもしれません。

 旧版地形図による27.5m等高線と閉じた凹地等高線分布を現代地図のプロットしてみました。土地の改変が激しく、現代の地図からは全く想像も考えることもできない情報であることがわかりました。

            27.5m等高線と閉じた凹地等高線
 旧版地形図情報を現代図にプロットしたものです。

2011年7月26日火曜日

かつて犢橋川は本川筋だった

犢橋川流域紀行3 かつて犢橋川は本川筋だった

            河川争奪前の花見川水系(想像)

 東京湾に流れ込む水系と印旛沼に流れ込む水系が最初に出来た時、上図のような水系配置になったときがあると想像しています。
 この時の花見川水系をみると、犢橋川合流部より上流の花見川は水系の中の一つの支流に過ぎないことがわかります。犢橋川が本流筋でした。

            河川争奪後の花見川水系
(江戸時代における堀割普請をする前までの地形)

 その後河川争奪が起こり、印旛沼水系である古柏井川流域の殆んどが花見川によって争奪されてしまいました。花見川水系内の流域面積や水量は変化し、犢橋川の本川筋としての地位は消滅しました。

 犢橋川が元来は本川筋であったことが、谷津の広さ(幅)から判ります。犢橋川の谷津の方が、花見川谷津(犢橋川合流部より上流)より広いです。谷津の幅があります。

            犢橋川と花見川の谷津の広さ(旧版1万分の1地形図)

2011年7月25日月曜日

犢橋川の風景

犢橋川流域紀行2 犢橋川の風景

            花見川合流部
 地史的には元来犢橋川が本流筋だったのですが、現在の花見川が河川争奪により一小支川から本流筋に昇格しました。合流部では犢橋川の貧弱さばかりが目立ちます。なお、犢橋川の上流に勝田川源流の一部を河川争奪したばかりの地形を幾つか見つけましたので、後日報告します。
(この記事の写真は全て2009年10月31日に撮影したものです。)

            神場公園
 合流部左岸の台地を利用して神場公園が作られています。花見川と少し離れていますが、花見川歩きの休憩等にうってつけの場所です。

            犢橋川の河道
 犢橋川は梁がない柵渠です。梁が無い方が風景になじみ、親しみも湧きます。生きものも利用しやすいと思います。

            犢橋川を利用した高圧送電線
 犢橋川の河道(谷津)を利用して高圧送電線が走っています。花見川と志津方面をつないでいる幹線です。風景的には谷津の規模に較べて送電線鉄塔の規模(高さ、ボリューム)が大きすぎて、送電線施設を観賞するために谷津が配置されたような印象さえ受けます。

            送電線鉄塔を利用するオオタカ
 既報(2011年2月24日「花見川中流紀行9生態環境と送電線鉄塔」)のとおり、オオタカが谷津谷底で小動物を捕り、送電線鉄塔上で食っていました。オオタカにとっては格好の止まり木になっています。

            犢橋貝塚
 犢橋川の左支川谷津(現在団地開発で存在しない)の上流に犢橋貝塚があります。縄文海進の海が現在の内陸深くまで進入していたことに驚きます。

            カワセミ観察
 遠隔操作シャッターカメラでカワセミ観察している方がいました。カワセミは花見川合流部から、上流の子和清水調整池まで連続的に観察しました。ザリガニや小魚を採餌しているものと思われます。

            源流部の犢橋川
 調整池手前の犢橋川の状況です。

            子和清水調整池
 谷津が調整池として整備されています。調整池のどこかにカワセミが営巣しているのではないかと創造しました。調整池の奥は子和清水(と由来の話)の跡であり、縄文遺跡がある場所です。

            千葉市北清掃工場
 千葉市北清掃工場があります。

犢橋川の概要

犢橋川流域紀行1 犢橋川の概要


 犢橋(こてはし)川は花見川左岸の支川で、千葉市花見川区犢橋町、さつきが丘一丁目、二丁目などを流域としています。流路延長は約3km、流域面積は約4.4平方kmです。
 縄文海進時には東京湾の最奥部に位置し、流域の犢橋貝塚があります。
 現在の花見川本流に河川争奪現象が生じる前は、この犢橋川が花見川の本流筋でした。

2011年7月24日日曜日

花見川の旭日

 今朝(2011年7月24日)、花見川弁天橋から上流方向(勝田台方向)をみたときの旭日の変化が印象的でしたので画像をアップします。

            弁天橋から上流(4時24分)

            弁天橋から上流(4時28分)

            弁天橋から上流(4時33分)

            釣り人
 釣り人の舟が3艘出ていました。

2011年7月23日土曜日

長作城山貝塚

長作川流域紀行3 長作城山貝塚

            縄文海進と貝塚の分布
 青系統の色は縄文海進の海(想定)の範囲です。

            貝塚の現代地図プロット

 長作城山貝塚(城山遺跡)は縄文早期の貝塚です。
 「千葉市史 原始古代中世編」(千葉市発行、昭和49年)に、「印旛・手賀沼周辺地域埋蔵文化財調査」の一環として、昭和35年2月に、早稲田大学考古学研究室の金子浩昌によって行われた発掘調査を引用した記述がありますので、紹介します。

 「貝層の堆積は小規模であり、かつ、撹乱もあってあまり良好とは言えなかったようであるが、『小型ハイガイを主含とし、これにカキ・オキシジミ・ハマグリ・カガミ貝などがやや多く包含されていた。』このほか、イタボガキ・サルボウ・マテガイ・アカニシ・イボニシ・ツメタガイ・ウミニナなどが検出されたことから、『すべて遠浅の泥底質あるいは砂底質に棲息する種類であって、ハイガイの棲息など、当時陸水の影響が強くなく、暖流系支流のより直接的影響下にあった水域環境の状況を理解することができる。』とされている。
 人工遺物としては、玄武岩製品と軽石製品各一個であるが用途は判然としておらず、土器はすべて破片で表裏両面に条痕文を有する土器片がほとんどを占め、『これ以外に文様を殆んどもたないと考えられる一群の土器、つまり茅山上層式に比定されるものであろう。』とされている。

 東金街道(御成街道)が横切るこの小さな谷津が縄文時代には干潟の海であったことを考えると、その当時のこの付近のリアルな風景の様子を目の当たりにしたくなります。

 今ある各種情報をインプットして、当時のリアルな情景画像をつくるパソコンソフトを見つけて、あるいはいくつかのソフトの組み合わせによるシステムを開発して、往時の情景に没入したくなります。そのようなパソコンソフトは既にある、あるいは十分に開発可能に違いないと思います。

2011年7月21日木曜日

長作川の風景

長作川流域紀行2 長作川の風景

            長作川合流部の花見川のたたずまい
 この記事の写真は全て平成21年12月22日に撮影したものです。

            合流部付近の長作川
 長作川は鋼製の梁と鋼矢板でつくられた頑丈な柵渠となっています。
 写真撮影は出来ませんでしたが、カワセミが梁の下水面すれすれを飛翔していました。花見川から長作川に水生動物が遡上し、それを餌にするためカワセミが花見川から遠征する生態システムの存在を実感しました。

            東金街道を遠望する地点の長作川
 谷津の低地は水田として耕作されています。

            長作川から見る城山遺跡
 千葉市最北端の貝塚である城山遺跡は沖積地に舌状に突き出す丘でした。現在は密集戸建て住宅地になっています。遠目に見ると、住宅地のシルエットが舌状の貝塚地形を辛くも伝えています。

            長作川の谷津
 長作川の長作町筋(東筋)の谷津の風景です。斜面林が残っているので落ち着いて、囲まれた空間の雰囲気になっています。近くにこのような空間があれば毎日散歩したくなります。

            長作川の谷津の最奥部
 「THE 谷津」という感じの風景です。現代の風景であるのか、50年前の高度成長前の風景であるのか区別がつかないので、懐かしくもあり、自分の年齢も今が21世紀であることも忘れた空間です。
 この風景に不似合いの電車の音にいぶかしく思い、台地に上がると、京成線の実籾駅のそばでした。
 実籾と八千代台の間の線路がカーブする所の南側の林が、長作川谷津源流の林です。電車から谷津の谷底は見えません。

            長作川の天戸台筋(西筋)の谷津
 ここの谷津奥も、昔時間が止まってしまってしまったような、懐かしい雰囲気の風景です。人気が無くたまたますれ違った親子が、白黒映画にでてくる昔の人のように感じられてしまいました。

長作川の概要

長作川流域紀行1 長作川の概要


 長作川は千葉市花見川区長作町、天戸町を流れる花見川右岸の小河川です。流路延長は約2km(東筋)、流域面積は約2.4平方kmです。
 縄文海進時には東京湾の最奥部でした。千葉市最北端の城山貝塚もあります。
 流域を南北に分断するように東金街道(御成街道)が通っています。

2011年7月20日水曜日

宇那谷調整池について2 その必要性の自然地理的背景

 宇那谷川源流域は浸水被害を受けやすいために、排水路流下能力を高めました。しかし、その流出量を下流でさばききれないために宇那谷調整池がつくられました。この報告は前の記事でしました。

 宇那谷川源流域が浸水被害を受けやすい理由は、単純に都市化によるということだけでなく、この地域特有の自然地理的特性が関係していますので、それを説明します。

 宇那谷源流域は台地であり、東京湾側と印旛沼側の分水界に当たる場所です。本来であれば浸水被害を受けにくい場所であってしかるべきです。しかし、長沼池がかつて存在していていたことからわかるように、水が下流方向に流れないような特殊地形になっています。

 次の図は谷津の中の分水界と閉じた凹地等高線の位置をプロットしたものです

            宇那谷川源流付近の自然地理特性図

 普通の台地では谷津の中に分水界があるということはありません。また閉じた凹地等高線がこのように規則的に見られることもありません。
 この図からわかることは、一度出来た源流部地形が、その後の地盤変動により、下流に対する傾斜が無くなってしまった(沈下してしまった)ことです。源流部が低くなるような地盤変動が起こったため、水の行き場がなくなり長沼池がつくられ、あるいは谷津の中に分水界ができたり、浅い谷津は凹地になってしまったと考えられます。
 こうした自然地理的特性の存在は、宇那谷川源流域が浸水被害を受けやすい理由の一つとなっており、宇那谷調整池が必要になった背景になっています。
 なお、このような開発前地形の把握は、人工改変が進んだ現代の地図情報から得るのは困難です。上記自然地理特性図は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)から作成しました。
(2011年5月22日記事「長沼池の成因」参照)

2011年7月19日火曜日

宇那谷調整池について1 治水効果

            宇那谷調整池(グーグルアースより)

 宇那谷川にある宇那谷調整池の治水効果について、千葉市建設局下水道建設部都市河川課より教えていただきましたので、報告します。

●宇那谷調整池の諸元
 宇那谷調整池は4つの池からなり、平成11年度から工事をはじめ、現在1~3池が完成し、4池が整備中です。
1池:9500平方m
2池:5000平方m
3池:10500平方m
4池:13000平方m
合計:38000平方m

            宇那谷調整池平面図
千葉市建設局下水道建設部都市河川課提供

            1池(中央の池)

            1池への越流施設

            強制排水装置と水位計(手前縦パイプ)

●宇那谷調整池の経緯と機能
 宇那谷調整池上流域の著しい都市化により、雨水流出量が増大し、宇那谷1号排水路(このブログでは宇那谷川)流域では、床下浸水等の被害が頻発したことから、宇那谷1号排水路の整備を進めるとともに、下流部への流出を抑制するために、調整池の整備を進めています。

 具体的には、
 調整池より上流部の宇那谷1号排水路の計画流出量(20m立方m/s)に比べ、下流部の同排水路の計画流下能力(10m立方m/s)が既設構造物等の制約により小さいため、その不足分を調整池で一時的に貯留することにより、流域内の浸水被害の軽減を図るとともに、改修中の1級河川勝田川に対する流出抑制効果を発揮しています。

2011年7月18日月曜日

千葉市花見川区に在った旧軍毒ガス演習場 5

8下志津特殊演習場が作られた時期

            下志津演習場制定年別
「下志津原」(陸上自衛隊高射学校、1976)掲載地図

 「下志津原」(陸上自衛隊高射学校、1976)によれば、

宇那谷部落は、昭和十二年から十三年の演習場拡張の際、六十五戸の大部落が、主力は現在の千葉市若松町へ(A元千葉県議員の土地一〇町歩を千葉市と千葉県が協力して買い上げた土地)、大聖寺というお寺もろ共に三十七戸が集団移住、一部は現在の千葉市大日町に移転し、部落あとは『宇那谷の森』という部落林を残し原野と化したのである。

とあります。
 従って、昭和13年から昭和17年までの間に下志津特殊演習場が作られたことが確認できます。
(千葉市花見川区に在った旧軍毒ガス演習場 終)

2011年7月17日日曜日

千葉市花見川区に在った旧軍毒ガス演習場 4

7 下志津特殊演習場の使われ方について
7-1はじめに
 下志津特殊演習場の区域は、「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載地図(近衛師団管轄演習場規程付図第六其ノ一)を、趣味のGIS分析している最中に偶然発見しました。
 特殊演習場の意味を知るために、近衛師団管轄演習場規程の本文を閲覧して、間違いなく毒ガス演習場であることを確認しました。

 この特殊演習場から約1.8km南東の千葉市稲毛区内では平成19年以降合計175発以上の毒ガス弾(95式90mmきい弾)が地中から発見されており、この特殊演習場がどのように利用されていたのか、区内近傍生活者の一人として気になります。

 一方、千葉市花見川区に毒ガス演習場が存在していたという事実は市民はもとより、千葉市も初耳であるということでした。このことから下志津特殊演習場に関する情報は世の中の表には出ていないことが判りました。

 そこで下志津特殊演習場の利用内容に関する情報を集めてみました。
 結論から言うと、下志津特殊演習場の利用内容を直接示す資料は見つけることができませんでした。

 しかし、下志津特殊演習場が置かれた状況に関連する情報を幾つか得ることができましたので、紹介します。

7-2 陸軍習志野学校における毒ガス演習
 「陸軍習志野学校」(昭和62年1月、陸軍習志野学校史編纂委員会発行)によれば、陸軍習志野学校は昭和12年からは動員予定の迫撃大隊、野戦瓦斯隊に対する教育を実施しました。迫撃大隊は迫撃砲でガス弾を発射するガス兵であり、野戦瓦斯隊は撒毒、制毒、除毒を行うガス兵です。

 実毒演習は2段階あり基本(各個)訓練と練成(部隊)訓練がありました。

 基本(各個)訓練は習志野原で行いました。
○実物演習場は習志野原のほぼ中央、射撃場北側の平坦な松林の中にある。東西500m、南北300mで周囲は土堤に囲まれており、僅かに中央部分が緩やかな凹地状をなし、この区画内のほぼ中央部分の東西200m、南北150mの地域に通常100~200kg程度の「きい剤」を撒布した撒毒地を構成し、捜索、検知、除毒、通過など各種の基本動作の訓練を行った。

「○実物演習場を利用して行われた教育課目の一例は次のとおりである(甲種学生の例)。
(1)撒毒…手撒又は車撒
(2)捜索…撒毒地前後縁の捜索(各種風向、夜間)
(3)通過…通過準備、戦闘通過、応急消毒、馬匹の通過
(4)工事…撒毒地内の工事、作業と消毒の関連
(5)制毒…晒粉、草刈、掩覆の効力
(6)対雨下行動…雨下準備、雨下体験、応急消毒

            習志野実物演習場の説明図
「陸軍習志野学校」(昭和62年1月、陸軍習志野学校史編纂委員会発行)347ページ掲載図
習志野特殊演習場の利用説明図であると考えられます。

○野営綜合演習または習志野原の実物演習終了後、次の段階として行われた。場所は実物使用演習場に指定された赤城、相馬ヶ原、王城寺原、富士裾野等である。この演習は教導連隊の支援を受けて行われた。学生に対する野営綜合演習の教育課目の一例は次のとおりである。
(1)演習計画立案(宿題)…資材準備、演習地域の選定、標示、消毒設備、勤務員の配慮・任務
(2)対ガス放射…初動の発見、警報伝達、防護
(3)捜索…捜索計画、斥候長の指揮、気状瓦斯滞留地域の判定と処置
(4)防御…陣地の防護設備、警戒、捜索、対雨下、対瓦斯弾動作、陣地の制毒
(5)攻撃…撒毒地帯を有する敵陣地に対する攻撃準備位置の選定、防護施設、警戒部署、標示、装面指揮、長時間の装面、工事と戦闘と防護の調和、夜間の消毒路の構成

 習志野実物演習場(習志野特殊演習場そのものであると考えられます)の大きさが東西500m、南北300mとなっていますが、下志津特殊演習場の大きさは東西460m、南北360mであり、大きさが近似しています。これから、下志津特殊演習場も習志野実物演習場(習志野特殊演習場)と同様の働きをしていたのかもしれません。

7-3実弾演習の場としての下志津演習場
 規程では下志津演習場と習志野演習場の射撃に関し、次のように定めています。

下志津演習場…一般の演習、歩砲其ノ他ノ射撃
習志野演習場…実弾ヲ使用セザル各種演習但シ習志野演習場ニ限リ歩兵一小隊以下ノ戦闘射撃ヲ行フコトヲ得

 規程ではさらに詳細に射撃に関して規定しており、下志津演習場では歩兵重火器、戦車、砲兵(山砲、十榴、十五榴、十加)の射撃方法について記述しています。習志野演習場では火砲(歩兵重火器を含む)を禁止して、歩兵の戦闘射撃(軽機を含む)は1小隊(80人)以下までとしています。

 こうした演習場全体の運用の違いは、下志津特殊演習場と習志野特殊演習場の運用の違いに反映していた可能性を排除できないと思います。

 ただし、「陸軍習志野学校」(昭和62年1月、陸軍習志野学校史編纂委員会発行)の幹部候補生の回想録には習志野演習場および下志津演習場双方における迫撃砲実射の思い出がでています。習志野演習場でも迫撃砲の実射が行われていたのは事実のようです。

(つづく)

2011年7月16日土曜日

千葉市花見川区に在った旧軍毒ガス演習場 3

            「陸軍習志野学校」(昭和62年1月、陸軍習志野学校史編纂委員会発行)

5参考 陸軍習志野学校が利用した演習場
 陸軍習志野学校は「瓦斯防護に関する教育、調査研究を行ふ所とす。学生は各兵科(憲兵隊を除く)将校を以て之に充つ。なお幹部候補生の教育を行ふ。」(昭和18年版陸海軍軍事年鑑、財団法人軍人会館図書部編)とされており、旧軍の化学戦研究教育の中枢機関でした。

 「陸軍習志野学校」(昭和62年1月、陸軍習志野学校史編纂委員会発行)によれば演習場に関して次の記述があります。
習志野学校が学生や練習隊(教導連隊)等の野営演習や研究演習のために使用した演習場は全国各地にわたっており、とくに研究演習は縷々内地以外の地域の演習場を使用した。このうち数多く利用したのは習志野原、下志津原、相馬ヶ原、王城寺原等である。」(196ページ)

また、習志野学校で教育を受けた幹部候補生の回想記事に次のような記述があります。
瓦斯教育は、遭遇戦、陣地攻撃における瓦斯用法の原則等を学科及び術科として習得もしたが、防護服を着用し、暑い習志野原を駆け回ったときは、流汗淋漓そのものであった。
習志野原、下志津原、相馬ヶ原(群馬県)、王城寺原(宮城県)、富士山麓滝ヶ原廠舎、東金方面、箱根等における戦術教育、実弾射撃は、僅か二〇名の候補生に、今にして思えば、よくこのような徹底した教育を授けてくれたものと感銘一入である。」(283ページ)

 これらの記述から、下志津特殊演習場が陸軍習志野学校の毒ガス演習にも利用されていたことがわかります。

6 千葉の団隊に対する毒ガス弾等交付状況
 下志津特殊演習場は陸軍習志野学校の外、近隣団隊の毒ガス演習に使われていたものと考えます。

 次に、環境省資料(「昭和48年の『旧軍毒ガス弾等の全国調査』フォローアップ調査報告書 平成15年11月28日(平成16年3月31日更新版)」)より、千葉の団隊に対する毒ガス弾等交付状況を示します。
 なお、この資料は平成に入ってから環境省が調査したものであり、限られた情報源(教育総監起案文書等)による情報です。
 この資料による、交付された毒ガス弾等は全て教育演習用のものと考えられます。
 年次は1931年から1940年に限られています。
 実戦部隊に対する交付情報は含まれていません。

参考(環境省資料 別表2毒ガス弾等の交付 千葉分)
1931年
●演習用弾薬特別支給
陸軍歩兵学校…みどり棒10缶、みどり筒甲350本
陸軍騎兵学校…みどり筒甲150本
陸軍野戦重砲兵学校…みどり筒甲200本
陸軍工兵学校…みどり棒10缶、みどり筒甲30本、みどり筒乙30本
1934年
●演習用弾薬特別支給
陸軍習志野学校…きい1号300kg
●弾薬調弁並支給
陸軍習志野学校…試製あか筒2000本
1935年
●演習用弾薬特別支給
陸軍習志野学校…拳銃用90式みどり弾300発、95式90mmあか弾600発、95式90mmきい弾300発、試製93式あか筒1000本、きい1号5.5トン、きい2号1.5トン
1936年
●演習用弾薬交換支給
陸軍習志野学校…前支給95式90mmあか弾600発を200発に修正
●弾薬特別支給
陸軍習志野学校…95式90mmあか弾400発
1937年
●演習用弾薬一部支給
陸軍習志野学校…きい1号甲1トン、きい2号乙2トン、試製93式あか筒900本、95式90mmあか弾235発、95式90mmきい弾190発
●弾薬支給
陸軍習志野学校…きい1号乙500kg、93式あか筒100本、89式催涙筒200本、89式催涙棒25函
●演習用弾薬特別支給
陸軍野戦砲兵学校…92式75mmあか弾40発、92式尖鋭150mmきい弾10発
●化学戦資材特別支給
陸軍歩兵学校…きい1号125kg、きい2号75kg、93式あか筒100本
●弾薬特別支給
陸軍習志野学校…95式90mmあか弾65発、95式90mmきい弾50発、きい1号500kg
●化学戦資材特別支給
陸軍歩兵学校…きい1号500kg、きい2号300kg、93式あか筒300本
1938年
●弾薬特別支給
陸軍野戦砲兵学校…93式75mmあか弾1500発、92式75mmきい弾600発、93式尖鋭100mmあか弾700発、92式100mmきい弾200発(交付地:富士駒門)
●緊急化学戦資材特別支給
陸軍歩兵学校…きい1号甲400kg、きい2号100kg、試製98式小あか筒300本、89式催涙筒甲600本
陸軍戦車学校…きい1号甲100kg、きい2号30kg、試製98式小あか筒60本、89式催涙筒甲90本
陸軍騎兵学校…きい1号甲150kg、きい2号30kg、試製98式小あか筒30本、89式催涙筒甲150本
陸軍野戦砲兵学校…きい1号甲150kg、きい2号30kg、試製98式小あか筒30本、89式催涙筒甲150本
陸軍工兵学校…きい1号甲100kg、きい2号50kg、試製98式小あか筒30本、89式催涙筒甲210本
陸軍習志野学校…試製98式小あか筒150本、89式催涙筒甲300本
1939年
●弾薬特別支給
下志津陸軍飛行学校…きい剤200kg
1940年
●化学戦教育用資材特別支給
陸軍防空学校…98式あか筒100本、あを1号500kg
●弾薬特別支給
陸軍習志野学校…きい1号甲350kg、きい1号乙200kg、きい1号丙200kg、95式90mmきい弾30発
●化学戦教育用資材特別支給
陸軍騎兵学校…きい1号甲60kg、きい2号30kg
●化学戦教育用弾薬特別支給
陸軍工兵学校…きい1号30kg、きい2号10kg


みどり…催涙剤
きい…びらん瓦斯
あか…くしゃみ瓦斯
あを…窒息瓦斯

(つづく)

2011年7月15日金曜日

千葉市花見川区に在った旧軍毒ガス演習場 2

            下志津特殊演習場区域の現代地図プロット

3 特殊演習場の使用に関する規程の記述
 規程の「第三章演習場ノ使用 其ノ三土工作業及特殊演習」には次の記述があります。

「第二十一条 規則第二十七条ニ依ル土工作業ハ演習場内、実線路以上ノ道路上及人馬車両ノ行動頻繁ナル主要地区ニハ行ハザルモノトス
練兵場ニ於テハ所定作業場以外ニ於テ土工作業ヲ行ハザルモノトス

第二十二条 特殊演習ヲ実施シ得ル地域ハ富士裾野演習場(付図第一其一、其三及其四)下志津演習場(付図第六其一及其三)及習志野演習場(付図第七、其一及其三)内所定ノ地域トシ之ガ使用ニ関セテハ第二十五条ニ拠ル

第二十三条 規則第二十九条ニ基キ土工作業ノ実施又ハ存置ニ関シ師団長ノ認可ヲ受ケントスルトキハ作業ノ目的及種類、位置、経始並ニ存置期間其ノ他必要ナル事項ヲ明記シ演習場司令官(常設演習場司令官ナキ演習場ニアリテハ主管)ヲ経由シテ之ヲ申請スルモノトス所定以外ノ場所ニ於テ特殊演習ヲ実施セントスルトキ亦之ニ準ズ

第二十四条 土工作業ヲ行ヒ又ハ射弾ヲ掘出スル場合ハ予メ主管ニ通報シ且其ノ復旧工事ニハ主管ノ立合ヲ求ムルモノトス練兵場ニ於ケル所定区域外ノ土工作業ノ実施並ニ其ノ復旧ニ関シテハ前項ニ準ズ

第二十五条 特殊演習ノ実施及其ノ危害除去ニ就テハ前条ヲ準用ス、但シ習志野特殊演習場及其ノ訓練施設ノ使用及危害除去ニ関してハ陸軍習志野学校長ト協議シ其ノ定ムル所ニ依ルモノトス」

第二十二条で特殊演習をする場合の地域が定められています。
第二十三条で特殊演習を実施する時は必要な事項を明記して近衛師団長の認可を受けることが定められています。

参考 規程第二十三条に出てくる規則第二十九条の本文
規則第二十九条 演習ノ為大ナル土工作業ヲ行ハムトシ又ハ将来演習ニ利用スル為特ニ土工ヲ存セムトスルトキハ団隊長ハ予メ管理委員長ヲ経テ所管軍司令官、師団長ノ認可ヲ受クベシ此ノ場合ニ於テ管理委員長ハ之ヲ関係軍司令官、師団長 第十八条ニ係ルモノニ在リテハ教育総監、常設セル演習場司令官、経理部長及主管ニ報告又ハ通牒スベシ

第二十四条では特殊演習の実施に際して演習場主管に通報し、危害除去に関して演習場主管の立ち合いを求めることが定められています。
また、習志野特殊演習場の使用と危害除去は陸軍習志野学校と協議して、その定めるところとするとしています。習志野特殊演習場は陸軍習志野学校が専用的に使用し、監理していた特別の特殊演習場であったことがわかります。

4特殊演習場の危害予防に関する規程の記述
規程の「第四章演習場ノ警戒及取締 其ノ一通則」には次の記述があります。

「第三十八条 射撃演習、特殊演習及其ノ他ノ演習ノ際ニ於ケル演習場内外ノ危害予防、警戒並ニ防諜ニ関シテハ規則第四十四条乃至第四十七条ニ依ルノ外左記各号ニ拠ルモノトス特ニ常設演習場司令官ノ定メナキ演習場ニ於ケル危害予防等ニ関シテハ主管ト連絡シ地方官公衛ニ対スル通牒其ノ他ニ関シテ遺漏ナキヲ期スルモノトス


(五)特殊演習ヲ実施シタル地域ハ厳密ニ危害除去作業ヲ行ヒ尚必要アル期間立入禁止等ノ処置ヲナシ演習場司令官並ニ主管ニ報告又ハ通報スルモノトス」

実毒演習に関して危害除去に注意を払う記述です。

参考 規程第三十八条に出てくる規則第四十四条~第四十七条の本文
規則第四十四条 演習場司令官ハ射撃演習並ニ実毒使用ニ際シ演習場内外ニ危害予防及防諜ニ関スル事項ヲ指示シ演習団隊ヲシテ確実ニ之ヲ履行セシムベシ其ノ主要ナル事項概ネ左記ノ如シ
一 演習場ニ通ズル主要ナル道路ノ入口ニ禁令、危険区域其ノ他注意事項ヲ掲示スベシ
二 射撃開始時ニ赤旗ヲ掲揚シ射撃終了後全ク危険ナキヲ認メタル後之ヲ降下スベシ
三 火砲ヲ以テ射撃ヲ行フ場合ニハ当日第一ニ射撃スベキ部隊ヲシテ射撃開始前号砲ヲ発射セシメ若クハ煙火ヲ打上ゲシムベシ
四 将校ヲ長トスル警戒硝ヲ設ケ危険区域ニ通ズル道路ノ入口其ノ他所要ノ地点ニ哨兵ヲ配付スベシ
飛行演習其ノ他射撃以外ノ演習ニ在リテモ危険ヲ及ボスベキ処アルトキ若クハ軍事上特ニ必要ト認ムルトキハ演習場司令官ハ前項ニ準ジ警戒及取締ヲ実施セシムベシ


規則第四十五条 団隊長ハ射撃演習並ニ実毒使用ヲ行フ一週間前ニ予定日割ニ場所、危険区域、射撃及実毒使用中交通遮断ヲ要スベキ道路等ヲ記載セル要図ヲ添ヘ之ヲ主管並ニ関係アル軍隊、地方官公衛等ニ通牒シ要スレバ交通遮断ヲ要求シ且演習場到着後直チニ演習場司令官ニ報告スベシ
常設演習場司令官ヲ置ク演習場ニ在リテハ団隊長ハ射撃演習及実毒使用ヲ行フ十日前ニ前項ノ要旨ヲ演習場司令官ニ届出テ演習場司令官前項ノ通牒及要求ヲ為スベシ
第二十条ニ依リ演習場ヲ使用スル官衛、学校ノ長官ハ演習場使用ニ際シ危険ノ顧慮アルトキハ前二項ニ準ジ処置スルモノトス又此ノ通牒ヲ受ケタル常設演習場司令官ハ前項ニ準ジ処置スルモノトス


規則第四十六条 演習場司令官ハ射撃演習及実毒使用間危険予防及地方民ノ便宜ヲ図ル為必要ナル事項即チ日日ノ演習開始並ニ其ノ終了時刻及休日等ヲ遅クモ其ノ三日前ニ関係地方官公衛ニ通牒スルモノトス其ノ予定ヲ変更シタル場合亦之ニ準ジ成ルベク速カニ通牒スルヲ要ス


規則第四十七条 前諸条ノ外演習場ニ於ケル警戒ニ関シテハ各兵射撃教範ニ準拠スベシ

(つづく)