2017年6月30日金曜日

土器重量等グリッドデータのGoogle earth立体グラフ表現

西根遺跡の出土土器重量等小グリッドデータをGoogle earthで立体グラフ表現することができました。
グリッドデータをQGISに取り込んで扱うようになったので、そのデータをkmlファイルにすることが可能となり、それをGoogle earthで表現したものです。
具体的にはGE-GRAPHというブラジル産フリーソフトを使いました。
2m×2mグリッドの中心に50㎝×50㎝の正方形底辺を持つ角柱を立て、角柱の高さでデータ量を表現したものです。

土器重量分布

土器重量分布

土器重量分布

土器破片数分布

土器1破片当たり重量分布

獣骨量分布

獣骨量分布

立体グラフを拡大した様子

間違ってストリートビューになった時の様子

立体グラフの高さや色などの調整をすれば、また発掘域地図を下敷きにすればより分かりやすいグラフになり、平面地図からはわからない事柄に新たに気が付くことができそうです。

表現(プレゼン)だけでなく、発想思考ツールとしても使えそうです。

Google earthに2m×2mグリッドを置いても十分に表現できる精度があるこを実感でき、一種の感動を憶えます。

Google earthで情報を立体表現することにより西根遺跡の状況がより詳しく感得できます。

2017年6月29日木曜日

土器重量と獣骨重量からみた西根遺跡祭祀空間イメージ

土器重量と獣骨重量の関連から西根遺跡の祭祀空間イメージを思考して、空間に投影してみました。
思考シミュレーションです。

1 祭祀空間イメージに関する思考
土器重量の分位と獣骨分位を次のように組み合わせ、4つの領域にそれぞれ意味を与えました。

土器重量と獣骨重量の関連による祭祀空間イメージ

2 祭祀空間イメージの空間投影結果

土器重量、獣骨重量分布と祭祀空間イメージ(第1集中地点、第2集中地点)

土器重量、獣骨重量分布と祭祀空間イメージ(第3集中地点、第4集中地点、第5集中地点)

土器重量、獣骨重量分布と祭祀空間イメージ(第6集中地点、第7集中地点)

3 考察
第1集中地点と第4集中地点に「獣肉調理肉食祭祀専用空間」とネーミングした空間が出現します。
祭祀が熱心に行われた空間(土器重量が大きい空間)に隣接して獣肉調理肉食祭祀専用の空間が存在したに違いないという思考をシミュレーションとして空間投影したものです。

2017年6月27日火曜日

西根遺跡 獣骨重量分布図

西根遺跡の獣骨重量小グリッド分布図は既に2017.05.30記事「西根遺跡 獣骨重量」で掲載して説明しています。

しかし、この時の分布図の区分は発掘調査報告書におけるものです。

この記事では、データの区分を等量5分位法で行った結果を示します。

学習作業ツールをQGISに乗り換え、データの区分や表現をこれまで以上に自由に操作できるようになったことを機会にして、小グリッドデータを比較しやすくするために等量5分位法を標準にしています。

1 獣骨重量分布図
参考として土器重量の最大分位(赤)と獣骨重量分布図を対照させて示します。

土器重量の最大分位(赤)と獣骨重量分布図(第1集中地点、第2集中地点)

土器重量の最大分位(赤)と獣骨重量分布図(第3集中地点、第4集中地点、第5集中地点)

※第6集中地点、第7集中地点は土器重量最大分位(赤)と獣骨重量分布はともにありません。

2 考察
大局的には土器重量最大分位の分布と獣骨が分布する範囲がほぼ対応します。
土器重量が増えれば増えるほどその場所は熱心な祭祀の場所であると考えてきましたが、その最も土器重量が大きい場所(祭祀が最も熱心に行われた場所)と獣骨分布域が対応するので、祭祀中心域で獣肉調理と獣肉食が行われた様子を想定することができます。

以上は大局観です。
次に土器重量と獣骨重量の対応を詳細に観察するとそれらの分布は微妙にずれていることに気が付きます。
そのずれを利用して祭祀空間の機能ゾーニングが可能であると考えており、引き続き詳しく検討します。

2017年6月26日月曜日

西根遺跡の土器は全て丸木舟で運搬されてきたか

2017.06.25記事「西根遺跡に持ち込まれた土器は全て破壊されたか」では次の興味ある検討を行いました。

小グリッド(2m×2m)を単位とした土器1破片あたり重量の分布を調べると、土器密集度と逆相関することがわかりました。
つまり土器が密集すればするほど、土器片は小さくなるのです。
この現象は、土器密集場所とは祭祀が熱心に行われた場所であり、その祭祀では持ち込まれた土器が破壊されたからと解釈しました。
祭祀場所中心部付近には沢山の土器が持ち込まれ、熱心な祭祀が行われ、その熱心さに比例して土器がより細かく壊されたと考えました。

西根遺跡にもちこまれた土器は機能喪失土器、あるいは持ち主がいなくなったものであることが想定できますが、持ち込まれたときはある程度完形を忍ばせる姿をしていて、その後この場所で細かく破壊された姿が浮かびあがりつつあります。

この記事では1破片当たり重量データをQGIS分析機能を利用してさらに検討します。

1 土器重量の大小別に1破片当たり重量データを観察する
1-1 土器重量最大分位グリッドと最小分位グリッドを対象とした1破片あたり重量データ

土器重量最大分位グリッドと最小分位グリッドを対象とした1破片あたり重量データ(第1集中地点、第2集中地点)

土器重量最大分位グリッドと最小分位グリッドを対象とした1破片あたり重量データ(第3集中地点、第4集中地点、第5集中地点)

土器重量最大分位グリッドと最小分位グリッドを対象とした1破片あたり重量データ(第6集中地点、第7集中地点)

この図から次の特徴を読み取ることができます。
a 土器重量最大分位グリッド(土器が沢山密集しているグリッド)は1破片あたり重量が小さくなるのですが、第1、2密集地と第3~5密集地ではその値が異なります。第1、2密集地より第3~5密集地のほうが1破片当たり重量の値がより小さくなっています。
b 土器重量最大分位グリッド(土器が沢山密集しているグリッド)でも1破片あたり重量が最大分位(赤)になっている特異場所があります。
c 土器重量最小分位グリッド(土器が最も少ないグリッド)における1破片あたり重量の分布をみると、土器密集域から離れた場所ほどその値が大きくなるように見えます。

次にこのデータとほぼ同じ情報となりますが、参考として土器重量大分位(123)グリッドと小分位(45)グリッドを対象とした1破片あたり重量データを示します。

1-2 土器重量大分位(123)グリッドと小分位(45)グリッドを対象とした1破片あたり重量データ

土器重量大分位(123)グリッドと小分位(45)グリッドを対象とした1破片あたり重量データ(第1集中地点、第2集中地点)

土器重量大分位(123)グリッドと小分位(45)グリッドを対象とした1破片あたり重量データ(第3集中地点、第4集中地点、第5集中地点)

土器重量大分位(123)グリッドと小分位(45)グリッドを対象とした1破片あたり重量データ(第6集中地点、第7集中地点)

1-1と同じことが観察できます。

2 考察
2-1 第1、2集中地点と第3~5集中地点の土器高密集域における1破片当たり重量の違いについて
1破片当たり重量の違いから、第1、2集中地点より第3~5集中地点の方が祭祀がより熱心に行われるようになったと考えました。

2-2 土器高密集域における1破片当たり重量値の特異グリッドについて
土器重量最大分位グリッドでみる特異グリッド(赤)は全て流路が含まれるグリッドです。
既に特大加曽利B式土器検討でも明らかになったことですが、丸木舟で運ばれてきた土器を、それ以上舟を遡上させることができない場所(廃絶ミナトの近く)で陸に揚げる作業をして、その場に置いたあるいは落ちた土器がかなりあり、それがこの特異グリッドの素性であると考えます。

土器を水路から揚陸する時に水面に落ちてしまえばそれを壊すことは無理です。また意識的に水路内に置いたとしても、水面に土器を投げたとき、既に土器片が堆積している場所の衝突より水面衝突の破壊程度は少なくなってしまいます。

なお、第1密集地、第3密集地、第4と第5密集地近くにこの特異点があること自体が土器が丸木舟で運ばれてきたこをと物語っていると考えます。

陸域から流路沿いに分布する集中地点に土器を運び込むことは考えずらいので、西根遺跡における土器は全て丸木舟で運ばれてきたと考えます。

丸木舟でわざわざ運ぶような場所に土器送り場を設けた意味は、土器そのものの送りに意義があるのではなく、廃絶ミナトの送り(施設空間の送り)の手段として土器送りがあったからだと思います。

2-3 密集域から離れるほど破壊程度の小さい土器が分布する
祭祀場所の区画や祭祀に必要な祭壇(ヌササンのようなもの)に対応して土器を配置する場合もあったのではないかと想像します。この場合土器を細かく壊さなかったと考えます。
また集団によらない個人レベルの祭祀では土器壊しの熱心さは少なかったのかもしれません。
なお、発掘調査において出土量が小さいデータを「グリッド一括」「河川一括」としてくくってしまった影響はあまりないと考えます。




2017年6月25日日曜日

西根遺跡に持ち込まれた土器は全て破壊されたか

QGISによるグリッド分析ができるようになったので、まず土器重量、土器破片数、1破片当たり重量を観察してみました。

1 土器重量、土器破片数、1破片当たり重量

土器重量、土器破片数、1破片当たり重量の各分布図を並べて観察できるようにしました。

土器重量、土器破片数、1破片当たり重量(第1集中地点、第2集中地点)

土器重量、土器破片数、1破片当たり重量(第3集中地点、第4集中地点、第5集中地点)

土器重量、土器破片数、1破片当たり重量(第6集中地点、第7集中地点)

区分は全て等量5分位法で、色分けも統一しました。

2 考察
2-1 土器重量と土器破片数は強く相関する
土器が多量に持ち込まれたグリッドでは土器重量が大きくなり、土器破片数も大きくなることは、大局観として当然のことですから、2つの分布図は似通ったものになります。

2-2 土器重量及び土器破片数と1破片当たり重量は逆相関する
土器重量及び土器破片数と1破片当たり重量はきれいに逆相関する様子が分布図の見比べから観察できます。
つまり、土器が沢山置かれ集中するところほど1破片あたり重量が小さくなります。
土器が集中するほど土器が細かく破壊されているということです。
この情報は西根遺跡の正体を暴くために大変重要な情報になると考えます。

土器が集中するところには大型土器が集中するのですが、その場所で土器がより細かく破壊されているということは、土器が人為的に破壊されたことを物語っていると考えます。
土器が集中する場所は祭祀の場所であると考えていますが、祭祀が熱心な場所ほど土器が祭祀行為で細かく破壊されたと考えます。

西根遺跡付近は印旛沼湖面(縄文海進の海面)近くで洪水時の急流はないので、土器破壊は流水の力ではほとんど発生しないと考えられます。
土器が埋没後に踏圧や耕作により破壊が進んだとしても、土器集中場所であればあるほどその影響は少なくなると考えられます。

西根遺跡の土器は復元すれば完形に近くなるものが多いのに、細かく破壊されているのは、持ち込まれた土器が祭祀で破壊されたからであると考えます。
この考えの妥当性を1破片当たり重量分布図が補強していると考えます。

復元土器の例
「印西市西根遺跡」から引用

この考察は次の記事につづきます。

2017年6月24日土曜日

衰退期の大膳野南貝塚集落

この記事は2017.06.22記事「最盛期の大膳野南貝塚集落」のつづきです。

発掘調査報告書からの引用は赤字で示します。

1 堀之内2 式期
「本時期には大膳野南貝塚縄文集落は縮小傾向となる。本時期に属する主な遺構は住居7 軒、土坑8 基、屋外漆喰炉1 基などである。このうちJ31・32号住は径9 mを超える大型の柄鏡形住居である。」
「遺構の分布は散在傾向だが、大きく台地東~南側縁辺部に住居群、中央~西側平坦部に土坑群が位置しており、可視的には前段階(堀之内1 式期)の遺構配置を踏襲しているようにみえる。」
「漆喰使用文化は本時期も継続しており、J11・40・81号住の3 軒の住居で漆喰炉が、北貝層西端部では4 号屋外漆喰炉が検出された。また貝層を伴う遺構は住居2 軒、土坑5 基を数え、集落規模は大きく縮小しながらも採貝活動および貝殻利用は本時期も継続して行われていたようである。」
「埋葬関連の遺構は2 軒の廃屋墓が検出された。J11・40号住より伸展葬と推定される人骨が出土した。いずれも単葬である。」

堀之内2 式期集落

2 堀之内2 式期のメモ・考察
2-1 集落の発展と衰退に関する問題意識
分布図を並べてみると貝塚集落の発展と衰退の様子が顕著に観察できます。

大膳野南貝塚 貝塚創始期-発展期-衰退期の竪穴住居跡の変化

各時期のある時間断面を考えた時、どれほどの住居が存在していたかという点は今後検討するつもりですが、創始期と衰退期は似たような住居数であり、発展期はそれと比べるとはるかに多い住居が存在していたことは確実です。
この顕著な分布変化を見て次のような問題意識を持ちました。

問題意識メモ(2017.06.24)
・集落発展の理由
・集落発展は自然増か社会増か?
・社会増の場合どこから移住してきたか?
・集落衰退の理由
・集落衰退は自然減か社会減か?
・社会減の場合どこに移住したか?

不確かな第1印象ですが発展も衰退も自然増減より社会増減の方が効いているように感じます。

2-2 衰退期A、B家族がそれぞれの祖先住居・貝塚を守っているように感じられる
次の図に示すように衰退期A、B家族がそれぞれの祖先住居・貝塚を守っているように感じられます。

貝塚創始期と衰退期のA、B家系統は対応するか?

創始期に始まるA、B家の直系血統は衰退期にも継続していて、直系血統の人々は祖先崇拝の強い気持ちがあり、それで住居位置を決めていたと考えます。

衰退期にC家集団が消滅するのはC家集団がもともと集落創始に関わらない「外人部隊」のような性格の集団であったためであると考えます。
集落運営が困難になるとC家集団はそこで頑張る意味はなく、早々に別の場所に移住していったと考えます。
A家、B家集団のものも多くは移住していったと考えますが、極一部(本家筋)だけは経済や生活状況にお構いなく祖先を守っていたのだと想像します。

2017年6月23日金曜日

西根遺跡 QGISを使った小グリッド分析方針

老体に鞭打ってQGIS操作技術を習得して、西根遺跡における小グリッド(2m×2m)GIS分析が出来るレベルまで到達できました。
この2週間ほど、QGISの初歩的操作技術習得に明け暮れたことになります。

作成したグリッドに発掘調査報告書の番号をラベルとして表示させた様子

土器総重量を発掘調査報告書の区分で表示させた様子

土器総重量の小グリッド分布図

QGISには数値の区分法(分類法)が沢山用意されていてそれを使うこともできます。

土器総重量と土器片総数を同じ分類法、区分数で表示比較した様子

技術的基礎が整いましたので次の分析を行って西根遺跡の正体を浮かび上がらせ(ることの一環の作業を行い)、同時にQGIS操作を楽しむことにします。

1 土器重量と土器片数の関連分析
土器重量/土器片数を算出して分布を見ることにより、使える情報が生まれるか検討します。
・1片あたり重量が大きい小グリッドは壊れの少ない大物土器が多かった場所であり、その場所がもし土器重量や獣骨重量の大きい小グリッドと別の場所に現れれば、空間の意味付けに使えるかもしれない。

2 土器重量と獣骨重量の関連分析
土器重量と獣骨重量の関連を2017.06.01記事「西根遺跡 水辺祭祀濃密さの空間評価」とは別の視点で行う予定です。

次のような視点を検討しています。

土器重量と獣骨重量の関連分析の視点

参考 2017.06.01記事「西根遺跡 水辺祭祀濃密さの空間評価」における分級評価

3 祭祀重要空間(小グリッド)を対象とした接合土器片分析
1と2の検討から浮かび上がる祭祀重要空間(小グリッド)を対象に復元土器の接合片分布を検討して、土器が水路から持ち込まれたもの(丸木舟で運搬されたもの)であることを検証します。

……………………………………………………………………
QGISの初歩的操作がある程度自由にできるようになってみると、その操作性、高機能性、表現力など期待以上のものがあり趣味活動のおもちゃとしてしばらく熱中しそうです。

2017年6月22日木曜日

最盛期の大膳野南貝塚集落

2017.06.21記事「大膳野南貝塚 後期集落学習 その1」のつづきです。

発掘調査報告書からの引用は赤字で示します。

1 堀之内1 式期
「大膳野南貝塚縄文集落の最盛期で、貝塚を伴う環状集落が検出された。今回の調査で発見された遺構および各貝層(北・南・西)から出土した遺物の大半は本時期に属する。出土遺物等から本時期に属することが判明した主な遺構は、住居47軒、土坑61基、土坑墓1 基、屋外漆喰炉6 基、小児土器棺6 基、単独埋甕8 基を数える。また、出土土器が無文あるいは小片であったため、大枠として後期と判断した遺構( 1 ~ 3 号単独埋甕等)、出土遺物が僅少あるいは皆無なため、時期決定が出来なかった遺構の多くは本時期に属する可能性が高いものと考えられる。なお、掘立柱建物址と判断できる遺構は検出されなかった。」

「遺構の分布状態は、大きく台地縁辺部~斜面部にかけて住居が分布し、住居分布の内側に土坑群が位置している。可視的には、住居は台地の東側縁辺部~斜面部、中央部南側、西側縁辺部~斜面部にそれぞれ群在しており、これらは二重ないしは三重に重複する環状集落と推定される。また、J47・91・92号住などは斜面下部にまで展開している。集落規模は最大で東西径約120m(J47号住-J91号住)、南北径約150m(J 8号住-バクチ穴5 号住)に及ぶ。」

「前段階で開始された漆喰使用文化は本時期も継続しており、25軒の住居で漆喰炉が検出された。漆喰貼床はJ43号住で検出されているが、貼床範囲は炉址周辺のみで前段階のJ34・77・104号住で検出された漆喰貼床に比して小規模になっている。また、J63・105号住の2 軒の住居で廃屋儀礼と推定される環状の焼土堆積が検出された。稀有な事例として注目に値する鯨骨製骨刀はJ105号住の環状焼土堆積から出土した。貝層を伴う住居は19軒を数える。また、貝土坑は20基を数え、うち3 基では漆喰の堆積が確認された。」

「 埋葬関連の遺構としては廃屋墓(単葬、複葬)、土坑墓、小児土器棺等が検出された。廃屋墓のうち複葬となるものはJ18号住( 2 体)、J67号住( 4 体)、J74号住( 7 体)の3 軒である。」

堀之内1 式期集落

2 堀之内1 式期のメモ・考察
2-1 3家族集団が観察できると予想する
前時期の称名寺~堀之内1 古式期に大膳野南貝塚を創始した2大家系の存在を想定しました。

A、B2家家族が観察できる?

この視点で堀之内1式期の竪穴住居と貝層の分布をみると次のような3家族集団を想定できます。

A、B、C3家集団の関係が観察できるか?

貝層が3つ独立して存在していて、それに空間的関係が明瞭な竪穴住居が存在するのですから3つの集団が存在することは当然のことであると思います。
出土物等からこの3集団存在を検証する作業が楽しみです。
なお、発掘調査報告書ではこのような3集団区分という概念は記述されていないようです。
現時点で空想すれば、A家、B家は造成した貝層の大きさが近似していますから双方ともに漁業をメイン生業とし、対等関係にあった主要集落構成集団であると考えます。
C家集団は造成した貝層が貧弱です。同時にその形状が直線状であり「祖先に関係する祭祀・送り場」というような見立てが困難です。そこに直線をつくる(ことにより環状を完成させる)という意識が先に働いているように感じてしまいます。
C家集団とは言いましたが血族集団ではなく、混成集団かもしれません。また漁業に携わっていた割合は大変小さいのでA家集団やB家集団の活動をサポートするような生業・役割を果たしていたと考えます。集落の中で劣位であった集団であると考えます。

A、B家に対してC家が後から集落に入ってきたことが判りました。この事実からA家、B家の漁業における海との交通は台地東側の谷津を利用していた考えることができます。
台地東側の谷津を利用すれば東側の谷津より急坂が少なくなります。

2-2 環状イメージから外れた竪穴住居が存在する
集落が長期間の活動の中で環状を形成するように、当時の縄文人は意識していたと想像します。
西貝層が台地縁に細長く伸びる様子は、無理矢理そのような貝層を配置して何としてでも集落風景として環状イメージを持てるようしようという苦肉の策のように想像してしまいます。
さて、その環状イメージから外れた竪穴住居がいくつか存在します。

環状から外れる竪穴住居の意味は?

環状イメージから外れた竪穴住居には環状の中にあるもの、外にあるものが存在します。
環状イメージと外れてしまっても存在させた背景には明確な目的・機能が存在したと考えます。
集落風景づくり以上に重要な実利的意味がそこに見つかるに違いないと考え学習を進めます。

つづく

2017年6月21日水曜日

大膳野南貝塚 後期集落学習 その1

大膳野南貝塚の縄文時代中期末葉~後期の集落の様子を発掘調査報告書のまとめ記述を引用しながら学習します。

発掘調査報告書からの引用は赤字で示します。

1 集落、貝塚の概要
「本時期に属する遺構は、竪穴住居址93軒、土坑264基、土坑墓1 基、屋外漆喰炉8 基、小児土器棺6 基、単独埋甕12基、埋葬犬2 体、鹿頭骨列1 ヵ所などである。また、検出された人骨は30体(廃屋墓20体、土坑墓1 体、小児土器棺6 体、単独出土3 体)を数える。出土した遺物は土器、土製品、石器、骨角器、貝製品、人骨、獣骨、貝類などで、総量は中テン箱で約720箱を数える。発見された遺構の時期は加曽利E4 式期から加曽利B2 式期にわたるが、最盛期は後期前葉堀之内1 式期である。」

「貝層は大きく3 ヵ所(北・南・西貝層)が検出された。貝塚の形態については、古墳時代以降の土地改変の影響等により貝層の空白域もみられるが、大略環状を呈するものと推定される。環状貝塚とした場合の規模は、南貝層東端部-西貝層のラインで直径80m前後を測る。北・南・西貝層を除去した後には大小約160ヵ所の貝層ブロックが確認され、このうち遺構に伴う貝層(地点貝塚)は78ヵ所(住居内26ヵ所、土坑内52ヵ所)を数える。貝層の様相は混貝土~混土貝層が大半で、純貝層は一部の遺構内貝層に散見されるのみで
ある。貝種組成は内湾砂底群集を主体とし、とくにイボキサゴとハマグリが卓越し、シオフキ・アサリ等が一定量含まれる。この組成は千葉県内における東京湾沿岸域の中~後期貝塚と共通するものである。貝層の形成時期については、称名寺式期から堀之内2 式期と推定され、前述した集落形成期間より若干短いものと考えられる。貝層形成の最盛期は、集落と同様に堀之内1 式期である。」

2 加曽利E4~称名寺古式期
「本時期に属する主な遺構は住居5 軒、土坑5 基、単独埋甕1 基などである。貝層を伴う遺構は土坑1 基(247号土坑)のみで、その他の遺構では貝層は検出されておらず、積極的な採貝活動の痕跡は確認できない。埋葬関連の遺構としては廃屋墓が1 軒検出された。J88号住の床面直上より集骨と推定される壮年期男性骨1 体が出土している。」

加曽利E4~称名寺古式期

3 称名寺~堀之内1 古式期
「本時期は大膳野南貝塚を特徴づける現象ともいうべき「漆喰」の使用が行われ始める時期である。本時期に属する主な遺構は住居5 軒、土坑17基などである。漆喰の使用については、全ての住居の炉址で漆喰堆積が確認されており、さらにJ34・77・104号住の
3 軒では顕著な白色を呈する漆喰貼床が検出された。また、J34・104号住では廃屋儀礼と推定される環状の焼土堆積が検出された。
 貝層を伴う遺構は、住居4 軒、貝土坑5 基が検出された。また、北・南・西の各貝層からの出土土器は、本時期より増加傾向がみられる。各貝層の土器包含状況と遺構内貝層の検出状況、前述した漆喰使用状況などから、本格的な採貝活動および貝殻利用は本時期より開始されたものと推定される。
 埋葬関連の遺構としては、J77号住より床下墓坑が検出された。墓坑内からは土製垂飾を伴う3 歳前後の小児骨が出土している。」

称名寺~堀之内1 古式期集落

4 称名寺~堀之内1 古式期のメモ・考察
4-1 祭祀が行われた廃絶竪穴住居が貝塚の核となる
この時期に採貝活動が活発化し、竪穴住居跡では廃屋儀礼があるということと、全ての竪穴住居が貝層の下に位置するということから、この時期の竪穴住居家族が大膳野南貝塚集落の創始家族として後の世代に崇拝された可能性を感じます。
この時期の世代は恐らく他所より移住してきた、漁業活動技術を有する集団であったと想像します。
この時期の竪穴住居廃絶祭祀で形成された貝等の堆積域がその後の集落の「送り場」となり、貝層拡大(貝塚形成)の核となったと想定します。

4-2 大膳野南貝塚を創始した2大家系
北貝層と南貝層にそれぞれ対応する竪穴住居が2軒、3軒あることから、貝層は2カ所でそれぞれ独自に発展していて、2つの家系に対応していると考えます。
遺物を詳しく分析して、北貝層と南貝層に対応する2つの家系が抽出できるか、今後の学習が楽しみです。

4-3 土坑集中場所が前期集落と類似
土坑集中場所が竪穴住居から離れた台地西側に多く、前期集落と似ています。
前期集落と同じように堅果類の良好な保存環境を確保するために、竪穴住居から土坑を離したと考えます。
2017.04.19記事「土坑集中の意味」参照

4-4 後期の中で竪穴住居1軒あたり土坑数が大きい
時期が判明した土坑だけを対象とすると、後期の中でこの時期の竪穴住居1軒あたり土坑数が最も大きくなっています。

後期 竪穴住居1軒あたり土坑数 (時期が判明したものだけを対象とする)
加曽利E4~称名寺古式期 1.0
称名寺~堀之内1 古式期  3.4
堀之内1 式期       1.3
堀之内2 式期       1.1
堀之内2 ~加曽利B1式期 2.0

貝塚を形成した称名寺~堀之内1 古式期、堀之内1 式期、堀之内2 式期のうち、称名寺~堀之内1 古式期の竪穴住居1軒あたり土坑数の値が大きいのはまだ海産物を堅果類に交換する取引交易システムが不十分であり、堅果類の備蓄を積極的に行うことが集落運営上必要であったからだと考えます。
堀之内1 式期、堀之内2 式期では海産物を堅果類にいつでも交換できる地域取引交易システムが整備されていたと考えます。堅果類の備蓄を自ら積極的に行う必要はなく、漁業活動に専念できたのだと考えます。

つづく

2017年6月20日火曜日

大膳野南貝塚後期集落の堅果類自給率は4割程か

大膳野南貝塚後期集落(中期末葉~後期集落)の時期別検討に入る前に、前期集落と後期集落の竪穴住居1軒あたり土坑数の顕著な相違に気が付きました。
この相違は集落活動における前期後期の経済活動の違いを表現していると考えます。
大切な指標を見つけたような気持ちになりましたのでメモしておきます。

1 前期集落と後期集落の竪穴住居と土坑の分布

大膳野南貝塚 前期後葉 竪穴住居と土坑

大膳野南貝塚 中期末葉~後期 竪穴住居と土坑

2 竪穴住居1軒あたり土坑数

竪穴住居軒数と土坑数

竪穴住居1軒あたり土坑数

3 考察
貝塚を形成しなかった前期集落では竪穴住居1軒あたり土坑数が7.1に対して、貝塚を形成した後期集落では竪穴住居1軒あたり土坑数が2.8となり、前期に対して後期は4割にまで減少しています。
前期集落の土坑はサンプル調査した14基から全てオニグルミ核が出土していて食料貯蔵庫であったことが判っています。
2017.04.28記事「土坑の出土物」参照

後期集落で竪穴住居1軒あたり土坑数が減少した理由は土坑を利用した食糧貯蔵量(堅果類貯蔵量)を少なくしても済むようになったからだと考えます。
食料貯蔵量を少なくしても困らない理由は海産物と堅果類の取引が日常的に広域で行われたからであると考えます。

前期集落が自給自足していたと考えると、後期集落は海産物を使った交易で必要量の6割ほどの堅果類を入手していたと考えることができます。
主食自給率は4割程だったことが推定できます。

後期集落は貝塚を作ったほどの集落ですから、生業を漁業に特化させ、自分たちが必要とする分以上の収穫を行い、海産物を交易品として出荷していたと考えることができます。

これを逆から見ると、大膳野南貝塚後期集落と交易していた内陸集落では自分達が食う分よりはるかに多い堅果類等を採集し、貯蔵していて、日常的に出荷していたと考えることができます。
このような集落では竪穴住居1軒あたり土坑数が大きな値になっていたと想定します。
秋に採集収穫した堅果類を土坑で貯蔵しておき、冬から夏頃まで出荷供給していたと想像します。

竪穴住居1軒あたり土坑数の時期変化から、集落単位自給自足を必要としない地域の食糧流通経済の存在を見ることができました。

2017年6月19日月曜日

大膳野南貝塚 土坑QGISデータ作成

大膳野南貝塚の学習用GISを地図太郎PLUSからQGISに変更しました。
その変更(引っ越し)の手間がいろいろとかかりますが、その中でQGISの高機能性に触れて、早めに引っ越しして良かったという感想を持ちます。

後期集落の竪穴住居と土坑のGISデータの引っ越しが終わりました。

大膳野南貝塚後期集落の竪穴住居(ポリゴンデータ)と土坑(点データ)

後期集落の時期別竪穴住居集計

後期集落の時期別土坑集計

時期別に後期集落竪穴住居と土坑分布を作成して、次の記事から発掘調査報告書のまとめの学習を始めます。

2017年6月16日金曜日

大膳野南貝塚もQGISに引越

西根遺跡は小グリッド分析の必要に迫られ、学習ツールとしてのGISを地図太郎PLUSからQGISに引っ越しました。
2017.06.15記事「西根遺跡 QGISにおける小グリッド(ポリゴン)作成

大膳野南貝塚の学習は再開して少しずつカンが戻り新たな興味もいろいろ生まれいろいろな記事を書きたくなりました。
そして学習で気が付いたことを分布図として表現しようとしたのですが、GIS上の作業をする必要があります。
その時、このまま地図太郎PLUSで作業を進めると早晩壁にぶつかることに気が付きました。
そこで学習再開のこの機会をとらえて、大膳野南貝塚も学習ツールとしてのGISをQGISに移行することにしました。
この記事ではQGIS引っ越しの理由をまとめておきます。

1 QGISでは多数ファイルを作成する必要がない
次の画面は地図太郎PLUSで大膳野南貝塚の竪穴住居の位置をプロットしたものです。

地図太郎PLUS 大膳野南貝塚 竪穴住居

単純に竪穴住居全部をプロットするだけなく、時期別分布、面積別分布、平面形別分布なども表現する必要があります。
このような表現をする場合、次のようにレイヤ別にファイル(csvファイル)を作成してそれを地図太郎PLUSにとりこむ必要があります。

地図太郎PLUSのレイヤー例

レイヤーの数は膨大になりますのでこれをいちいちファイル作成取り込みするのは大変な手間です。
ところがQGISでは属性テーブルを操作して表示・非表示、任意の分級、記号や色の指定が演算子を使って自由にできます。それらのファイルを作成していちいち取り込む必要がありません。
作業の効率化が段違いです。
何度も作業をし直すことができます。
作業の効率化が段違いであるということは、発想力・思考力が強化されることに連動します。

2 QGISでは高度な分析ができる。
以前からヒートマップ(ラスタ)や空間演算ツール(ベクタ)を使ってきていますが、QGISには解析ツール、調査ツール、ジオメトリツール(以上ベクタ)や地域統計、地形解析(以上ラスタ)など多数のツールがあります。
また、プラグインで多方面へ機能拡張できます。
QGISでは図面の重ね合わせだけでなく、強力な分析ができます。
この機能は残念ですが地図太郎PLUSにはありません。

3 位置正確性
地図太郎PLUSにおける遺構分布図プロットはどうしても「名人芸」になります。他の地物と画像を「手の操作で合わせる」作業(拡大縮小・回転・移動…)になります。
QGISのジオリファレンスは座標を入力することが可能です。また他の地物と合わせるにしても、画像を「手の操作で合わせる」作業は必要としません。 
大変正確にできます。

QGISと地図太郎PLUSのジオリファレンス比較
最大4mほどの誤差があります。

QGISと地図太郎PLUSのジオリファレンス
QGISによるジオリファレンスは座標通りとなりましたが地図太郎PLUSによるジオリファレンスは限界があります。

なお、この程度の位置誤差は学習するためにはあまり気にすることはないと割り切ることもできます。
しかしQGISに引っ越すからには、より正確な地図で学習できることを楽しみます。

今後はQGISをメイン、地図太郎PLUSをサブとして使っていくことにします。