2015年9月30日水曜日

鳴神山遺跡の興味ある墨書土器

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.215 鳴神山遺跡の興味ある墨書土器

鳴神山遺跡の多出文字、長文文字に次いで、これら以外の興味ある文字について検討します。

1 年号
「弘仁九年九月廿」という年号が墨書土器として出ています。

弘仁九年九月廿のスケッチ
「千葉市北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)[以下発掘調査報告書とします]から引用

弘仁(こうにん)九年は西暦818年です。WEBから情報を拾うと、弘仁7年に空海が高野山金剛峰寺を開く、弘仁9年に富寿神宝鋳造、弘仁13年に景戒が「日本現報善悪霊異記」を編集などの項目が拾えます。その頃の年代の特定年月日が墨書土器として出土したということは鳴神山遺跡を考える上で重要な情報であると考えます。

2 「弓」の墨書
鳴神山遺跡出土ヘラ書き土器の「弓」字形と南河原坂窯跡群出土ヘラ書き土器の「弓」字形が同じであることから、鳴神山遺跡の文字「弓」共有集団が土器製作を南河原坂窯跡群に発注したことが証明されたという発掘調査報告書の検討結果を別記事で既に紹介しています。
2015.09.15記事「鳴神山遺跡の特注品であることを示すヘラ書き土器(追補情報)」参照

「弓」字形史料

この「弓」の意味を考えてみました。

参考までに千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)で「弓」を検索すると鳴神山遺跡、南河原坂窯跡群を含む5遺跡から「弓」が出土していて、諏訪山遺跡(旭市)と桜井平遺跡(旭市)からは「弓取」という熟語で出土しています。

「弓取」を辞書で調べると次のような意味になります。

ゆみ‐とり【弓取】
〖名〗
① 弓を手に持つこと。弓を用いること。また、その人。
古今著聞集(1254)一二「或所に強盗入たりけるに、弓とりに法師をたてたりけるが」
② 弓術にすぐれていること。また、その人。
吾妻鏡‐文治元年(1185)八月二四日「行平。日本無双弓取也」
半井本保元(1220頃か)上「生付たる弓取なれば、矢つかゆてのかひな四寸まさりて長し」
③ 弓矢を持つことを勤めとすること。また、その人。武士。
播磨風土記(715頃)印南「私部(きさきべ)の弓取等が遠祖(とほつおや)、他田熊千(をさだのくまち)」
金刀比羅本平治(1220頃か)中「弓取(ユミトリ)のならひほどあはれにやさしきことはなし」
④~⑥略
『精選版 日本国語大辞典』 小学館

播磨風土記(715頃)印南の例文が紹介されている「③ 弓矢を持つことを勤めとすること。また、その人。武士。」を墨書土器文字「弓取」の意味として捉えることがふさわしいような印象を持ちます。

この印象から連想して、鳴神山遺跡出土「弓」も同じ意味、つまり武器である弓矢を持つことを務めとする(生業職種とする)兵士、つまり戦闘員を意味すると想像することもできます。

墨書土器として、線刻「大加」に墨書「弓」が書かれたものが2点出土していることから、「大加」を共有する集団の中に「弓」(つまり戦闘員)を職種とした小集団が存在していたような印象をもちます。

空想に空想を重ねれば、「弓」が意味する戦闘員は蝦夷戦争に出かけるための兵士ではなく、集落の独自性や安全を維持するための武力だったと思います 。

3 播寺、波田寺

播寺、波田寺、佛という文字が出土していて、仏教関連の言葉であると考えます。

「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書 XIV -印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)では次のような記述があります。

「波田寺」も「播寺」も音声表記では「はたてら」であり、同一のものを表記していると考えられる。」

私はこの記述に強く興味を持ちました。
「はたてら」の「はた」がこの近くにある小字名「白幡」の「はた」と通じる可能性があるからです。

「白幡」地名は特別興味を持っているので、今後「はたてら」と「白幡」の関係について検討することにします。

なお、ケチをつけることになってしまい、つまらない話になってしまいますが、「波田寺」も「播寺」も音声表記では「はたてら」であり、同一のものを表記していると考えられる。」は間違いなのではないかと考えます。

いくら調べても「播」をハタと読む辞書等の情報を見つけることができません。「播」は「ハ」か「バン」になると考えます。

報告書の記述は「播」を「幡」あるいは「旛」と勘違いしたものと考えます。

播寺のスケッチ
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用

波田寺のスケッチ
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用

4 酒有、酒万

酒という文字が「米を発酵させて製するアルコール分含有の飲料」つまり日本酒を意味すると考えますから、酒万は「万」を共有する集団配下の酒つくり集団を意味するかもしれません。

墨書土器文字卅はミソと読み味噌作り集団を意味していると考えますから、鳴神山遺跡で酒、味噌などの発酵食品がつくられていたことが考えられます。

酒万のスケッチ
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用

2015.09.30 今朝の花見川

今朝は、青空が映えていて、朝焼けも満月もあり、冷涼で、乾燥していて、ほどよい風もあり、きわめて快適な早朝散歩となりました。

また昨晩は必要な時間だけ快眠をとれましたので、フィジカルも快適です。

このような内外快適環境の中で体を動かすと、頭脳も喜んでプラス方向の思考が次々と発生します。

花見川風景

花見川風景

花見川風景
うろこ雲のかたまりが高スピードで花見川上空を流れていきました。

弁天橋から下流

弁天橋から上流
真綿を延ばしたような雲に光点のような白点があり、装飾物のようで興味ふかい風景です。

畑の空

2015年9月28日月曜日

鳴神山遺跡の長文墨書土器

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.214 鳴神山遺跡の長文墨書土器

鳴神山遺跡の墨書土器文字・熟語で多出するものは2015.09.27記事「鳴神山遺跡の墨書土器文字・熟語」で検討しました。

この記事ではそれ以外の文字のうち、長文文字について検討します。


長文の墨書土器文字は当時としてはきわめて高い教養が必要であることと、長文の祈願文を甕などに書いてもだれからも咎められないだけの権力が必要であることから、集落支配層のトップクラスの人間によって書かれたものと考えます。

同じ墨書土器文字と言っても1文字がその8割を占める大衆のものと、支配層トップクラスの長文のものとではその意義が異なります。

大衆の書いた墨書土器からは集落内の集団区分、労働の使命(職種)区分などを知ることができると考えます。

大衆の書いた墨書土器は大衆一人一人個人が内部から湧き上がる心情を言葉にしたものでないことは明らかです。

社会的(集団的)規制の中で上部から与えられた(指導された)言葉を書いています。(書いてもらったという方が多かったのかもしれません。)

与えられた(指導された)言葉には集団の特性や使命(職種)が反映されているものが多かったようです。

一方、支配層トップクラスの書いた墨書土器からは支配層が使った祈願の言葉が判ります。

しかし、祈願内容そのものは延命など一般的なものであり、社会的な内容は浮かび上がってこないようです。

●丈尼丈部山城方代奉/丈尼

丈尼丈部山城方代奉/丈尼のスケッチ
「千葉市北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)[以下発掘調査報告書とします]から引用

発掘調査報告書では内外面とも全面赤色塗彩していて、2名の人名を書いていて、「方代奉」が北海道遺跡出土墨書土器「丈部乙刀自女形代」と同じであろうとしています。

「丈部乙刀自女形代」の解釈は次のように考えられています。

「丈部乙刀自女形代」→人名「丈部乙刀自女」+身召代「形代」
復原案「丈部乙刀自女形(召さるる)代り進上す」
(「千葉県の歴史通史編古代2」(千葉県発行)(平川南「墨書土器の研究」の転載(一部改変)情報)から引用)
2015.07.07記事「墨書土器にみえる丈部(ハセツカベ)一族」参照

祈願した人名と祈願に使った言葉の構造は解明され、さらに祈願内容が余りに一般的な延命であることがわかりました。

私は人面土器なども一緒に出る場合があり、宴会の席で、酒に酔った勢いで、教養の自慢も兼ねて、遊び半分に書いているのではないかと想像してきています。

その場合の(酒の場の)祈願内容が一般的な延命という個人的なものであったということは理解できます。

遊びで書いている(余興で書いている)墨書土器に、仕事の課題を書くわけにいきません。

酒の場を離れれば、次のような本当の祈願をしなければならないような状況が必ずやあったに相違ありません。

・支配層として律令国家から要請される課題達成(過大な物資供出、兵員提供、通過兵員に対する運搬業務や宿営地・食料の提供など)の祈願。

・配下住民を食わせるために必要な地域開発成功の祈願。

・配下住民の支配(行政・政治)に関する悩みを解決のための祈願。

しかし、支配層は自らの本当の困難や悩み解決の祈願を墨書土器に託さなかったと思います。

その理由は、墨書土器はあくまで、支配層や官人が文字の力(魔力)で大衆を動員するために使ったツールだからです。

支配層はあくまでもお遊び、余興で墨書土器を書いたのだと思います。

人面土器が多出する理由もそのためです。


以下の例は祈願内容が延命のものと、祈願内容不明のものです。

●同□[ ]丈部ヵ刀自女召代進上

同□[ ]丈部ヵ刀自女召代進上のスケッチ
発掘調査報告書から引用

●国玉神上奉 丈部鳥 万呂

国玉神上奉 丈部鳥 万呂
発掘調査報告書から引用

鳴神山遺跡には多出文字でもなく、長文文字でもないけれど特徴的な文字・熟語がありますので、次の記事で検討します。

2015年9月27日日曜日

鳴神山遺跡の墨書土器文字・熟語

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.213 鳴神山遺跡の墨書土器文字・熟語

鳴神山遺跡の墨書土器文字・熟語の整理を進めました。

5点以上史料が出土した文字・熟語を整理してみました。

鳴神山遺跡墨書・刻書土器文字の単独出土数・総数・熟語

この表をイメージ的に整理すると次のようになります。

鳴神山遺跡 5点以上出土した墨書・刻書土器文字・熟語

5点以上出土した文字・熟語ということは、その文字・熟語が広く支配層中堅も含めた住民大衆に使われた可能性が高いものであると考えました。

支配層のトップクラス独自の文字・熟語は恐らく5点以上出土にならないと思います。支配層トップクラスが残した史料は恐らく長文史料がそれに該当するのではないかと想像します。

鳴神山遺跡では出土していませんが、人面墨書土器なども支配層トップクラスの書いたものと想像します。

5点以上出土文字・熟語は現場の官人(現場監督)とその配下の労働層が、プロジェクト別(いわば生業職種別)に使った祈願語であると想像します。

これらの文字・熟語はスローガンの役割をも果たした祈願語であると考えます。文字・熟語の中にはプロジェクト(職種)内容を幾分か反映しているものも含まれていると考えて間違いないと思います。

大、大加、大八のグループが最大出土数になっています。大を共有したグループが鳴神山遺跡のメイン集団であることは間違いありません。

メインの大グループの下にサブグループ大加と大八があったと想像します。

大の文字だけから、その集団イメージを想像できません。

×は熟語がほとんどありません。×が特定集団と結びつくものかどうかいまのところわかりません。

依も熟語が全くありませんから、この文字を共有する集団は純粋な単一集団であったと想像しています。

衣の文字出土と関連して、被服作成集団かもしれないと考えています。

冨も熟語が少なく、あまり他集団と関わらない集団であったと想像します。農業集団であると想像します。

♯、井は♯人、井人という熟語が4点出土していますから、単純な魔除け記号ではなく、より高次の意味が読み取れる可能性もあります。♯人、井人で魔除けを祈願する人=祈祷師などという空想も今後検討したいと思います。

エ、工はともに漢字の工である可能性の臭いを感じます。土木や建築関係集団でしょうか?

万を共有する集団は幾つかのサブ集団から構成されているようです。本家筋が上万(1点出土)でその配下に中万、千万があると想像しました。2015.09.23記事「鳴神山遺跡遺跡の墨書土器2」参照

犬は狩猟集団が共有する祈願語であると想像します。

丈は長文史料で丈部(ハセツカベ)が4点出土していることから印旛郡の支配的氏族である丈部一族を表現しているものと考えます。

十は×である可能性を感じます。

田は稲作に従事した集団の祈願語であると想像します。

久、久弥良、久弥は湿地における狩猟集団(水鳥猟集団)であると想像します。

卅はミソと読み、味噌作り集団の祈願語であると想像します。

廾、廿はツヅラと読み、被服倉庫の管理集団の祈願語であると想像します。

一はイメージが湧きません。

光は農業に関わる集団の祈願語であると考えます。

攴はボクと読み、字義はムチでたたくということですから、集落内治安集団の祈願語であると想像します。

高、三(3つ棒)、太、長、里は具体的イメージが湧きません。高、太、長、里は農業経済的豊かさの祈願語であるかもしれません。

山本は熟語単独で15史料が出土していて、山(農業開発地)の元締め集団の祈願語であると想像します。

5文字以上出土しない史料の検討は別に行います。

2015年9月26日土曜日

1500記事通過に感謝

この記事がブログ「花見川流域を歩く」の1500番目の記事となります。

このブログに多くの皆様からアクセスしていただき、心から感謝申し上げます。

1500というキリの良い番号を節目ととらえて、ブログ活動に関して日頃考えていることをメモしておきます。また参考までにアクセス状況もメモしておきます。

●ブログ活動に関して最近考えていること

ブログ記事を作成して、それの積み重ねに趣味活動エネルギーのほとんどを使うというこれまでのスタイルを次のように変更して行きたいと考えています。

つまり、メインの趣味活動が存在し、その活動で行う日誌作成、メモ・下書き作成をブログ活動に該当させるというスタイルに変更したいと考えています。

これまでに、日々ブログ記事を作成するという1日単位の区切られた活動が強く身についてしまいました。

その活動は「作業や思考をしたら必ず結果を出して記事にする」という習慣になり、趣味活動を快適に進行させる原動力になりました。

しかし最近、1日という時間で作業や時間を必ず区切るということが自分が必要とする作業や思考と齟齬をきたすことが多くなってきました。

趣味のテーマが多少なりともより多量の情報、より専門的情報、より高度な分析作業を求めてきているのだと思います。

これからは、テーマを深めるために必要ならば1日単位というテンポを度外視して、ある程度継続した作業や思考を行いたいと思います。

ブログ記事作成は、そうした趣味活動の日誌作成、メモ・下書き作成行為に位置付けて行いたいと思います。

なお、趣味活動の結果は近い将来新たなサイトを設け、そのサイトで情報発信したいと考えています。

活動のメイン舞台(メイン情報発信の場)はサイトに移行し、ブログは活動日誌、活動メモ帳(下書き帳)として継続したいと考えています。

●参考 ブログのアクセス状況

アクセス数の推移

アクセス数は趨勢的に増加しています。皆様に感謝します。

県別アクセス数

東京、千葉がダントツに多く、次いで神奈川、埼玉が多くなっています。さらに大阪、愛知、茨城などが多くなっています。

花見川という千葉県内でも大変ローカルな地域話題について、関東を中心に全国の皆様にアクセスしていただき感謝します。

世界からのアクセス

世界56ヵ国からのアクセスがあり、特にアメリカ合衆国各州から継続してアクセスをいただいています。

千葉県内でも大変ローカルな話題の日本語ブログにこれだけ、世界の皆様にアクセスしていただき、感謝します。

2015年9月25日金曜日

鳴神山遺跡墨書土器の文字分析着手

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.212 鳴神山遺跡墨書土器の文字分析着手

鳴神山遺跡墨書土器の文字分析に着手しました。

データは千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)を使います。

データベースが整備されているので、データを分析して遺跡の特性を把握できるならば、他の遺跡も全て遺跡特性を知ることができます。

一つ一つの遺跡の発掘調査報告書を図書館で(帯出できないものを含めて)閲覧して読解することは膨大なエネルギーを要します。(半日もあれば1冊の報告書の概要を知ることはできますが、情報をパソコンに入れるまでに膨大な時間がかかります。)

しかし、墨書土器に関するデータベースから遺跡の特性を知ることができれば、比較的に容易に古代社会のイメージを最小限のエネルギーで、自分のペースで知ることができます。

そういった意味で、「電子データがあり、パソコンで利用できる」という特殊的に有利な条件を最大限生かしたいと思い、墨書土器検討の自分なりのパターンをつくろうとしています。

検討すべきことはいろいろあるので、それぞれ鳴神山遺跡で試行してみたいと思っています。

この記事では単独出土文字の状況を整理してみました。

墨書土器文字は8割方が1文字で出土します。

その文字の出現頻度を調べてみました。

次の表は文字別に、1文字で出土する出現土器数と多文字の中に含まれるものも含めてその文字が出現する総土器数を調べたものです。

鳴神山遺跡 墨書・刻書土器文字 出土状況 1

鳴神山遺跡 墨書・刻書土器文字 出土状況 2

「ヵ」と注釈された史料は集計に含めています。
釈文できない史料及び2つの釈文案が出ている史料は集計から除いてあります。

この表を散布図にしてみました。

鳴神山遺跡 墨書・刻書土器の文字別出土状況

大という文字が単独出土数も総出土数も他を圧倒しています。

大という文字を共有する集団が鳴神山遺跡のメイン集団であったと考えます。

単独出土数の順位は、×、依、冨、♯(井を含める)、工、万と続きます。

×と♯(井を含める)は魔除け記号です。この記号が特定集団と結びついていたものか、それとも一般的なものであったのか、今のところ知識がありません。

しかし、他の漢字はそれぞれ意味があり、その意味は集団の使命(生業)と関連していると仮想していますから、記号も特定集団と結びついている可能性が高いと考えています。

より現場活動的集団(例 狩猟集団など)が記号を共有していた可能性を想像します。

単独出土数が5以上の文字はその文字がある程度の範囲で人々に共有されていたことが確認できますから、その文字を共有した集団の特性をあぶり出せる可能性があります。

その文字の出土遺構の状況や出土遺物、共伴する他の文字などを分析すれば、その集団の特性を知ることができる可能性があります。

漢字の奈良時代の意味は現代でも推定可能ですから、漢字そのものからだけでもその集団の特性の臭いを嗅ぐことができると考えます。

更に検討を進めます。

つづく

2015年9月24日木曜日

2015.09.24 今朝の花見川

今朝の花見川は、曇りであるとともに霧が出て、明るさの無いまるでモノクロームのような風景になっていました。

2日前の早朝風景は久しぶりに青空がきれいだったので、対照的です。

2日前(22日)と今朝の風景を並べて掲載します。

花見川 2015.09.22

花見川 2015.09.24

花見川 2015.09.22

花見川 2015.09.24

花見川 2015.09.22

花見川 2015.09.24

弁天橋から下流 2015.09.22

弁天橋から下流 2015.09.24

弁天橋から上流 2015.09.22

弁天橋から上流 2015.09.24

2015年9月23日水曜日

鳴神山遺跡の墨書土器 2

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.211 鳴神山遺跡の墨書土器 2

鳴神山遺跡墨書土器検討の途中状況をメモしておきます。

鳴神山遺跡出土墨書・刻書土器情報全1158件を出土遺構別にソートして、それを文字別分布図に表現して分析しようとしています。

墨書文字を出土遺構別に整理して眺めていたところ、大変示唆に富んでいるというか、興味深い情報に遭遇しました。

鳴神山遺跡の文字では「万」が多数出土します。

鳴神山遺跡 万が出てくる釈文欄記載

万が絡む文字は相互に関連するような印象を持ち始めていました。

出土遺構別にデータベースを整理して眺めていると、「110竪穴住居」に目が釘付けになりました。

出土遺構別ソート画面 110竪穴住居

参考 110竪穴住居の位置

「上万上万」と「本家」が同じ遺構から出土しています。

これを見て、「上万」が本家で、「上万」の下に「中万」が、その下に「千万」、「万」が存在するという階層構造が頭の中に浮かびあがりました。

その階層構造の途中に「七万」や「工万」、「酒万」が専門職として存在すると考えました。

つまり、「万」という文字を祈願語として共有する一族が鳴神山遺跡で展開しているという見立てです。

白幡前遺跡では見られなかった(正確には気が付かなかった)特定文字の展開構造が存在するという見てです。

今後、この見立ての確からしさを、文字の分布や遺物との関係等から検討していくことにします。

110竪穴住居の「上万上万」の画像
千葉県出土墨書・刻書土器データベースから引用

110竪穴住居の「本家」の画像
千葉県出土墨書・刻書土器データベースから引用

もし文字「万」に本家-分家構造が見られると、文字「大」にも「大加」、「大八」などがありますから、同じような構造が存在している可能性が検討対象となることになります。

この記事は生れてたてほやほやの思いつきメモですが、鳴神山遺跡墨書土器検討が面白くなってきました。

2015年9月22日火曜日

鳴神山遺跡の墨書土器 1

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.210 鳴神山遺跡の墨書土器 1

鳴神山遺跡の検討を中断して寄り道で墨書土器学習をしていましたが、墨書土器に関する栄養をかなり吸収できましたので、再び鳴神山遺跡検討に戻り、早速墨書土器の検討に入ります。

次の表は鳴神山遺跡と白幡前遺跡遺跡の墨書・刻書土器文字の出現数上位50位までを示した表です。文字と言ってもデータベースの釈文欄記載について機械的に出現数をカウントし、それを並べたものです。

鳴神山遺跡及び白幡前遺跡 墨書・刻書土器文字 出現数上位50

参考 鳴神山遺跡と白幡前遺跡の位置

鳴神山遺跡と白幡前遺跡で50位までで共通する文字は釈文不能(□、□□)を除くと×、廾、♯、井の4文字だけです。

×と♯は魔除け記号であり、井も♯と同じ魔除け記号の可能性が濃厚です。

そのように考えると、記号ではなく文字(漢字)として残るのは廾(※)だけです。

※ データベースでは十の会意文字(十を2つ横につなげた文字)が活字にすると廿になり、墨書・刻書の画像と異なるので、元来全く別の漢字である廾(きょう)で表現している場合があります。(廿で表現している場合もあります。)

鳴神山には大、依、大加、冨、千万、大大、中万などの出現数が多く、白幡前遺跡には生、夫※(大一の組文字)、廓、継、○(則天文字)、入、文、立、圓(異体字)、(特定記号)、饒などが多いのですが、出現数50位までの文字で漢字はたった1文字しか共通するものがないということに驚きます。

白幡前遺跡では、多出文字はそれを共有する集団が自らの使命を簡潔に表現していると考えました。

多出文字は、共伴して出土する文字や遺物などから、単純で無味乾燥な共有符牒ではなく、「生」は白兵戦で相手を殺して生き抜く決意を、「夫※(大一の組文字)」は陰陽師の大一占を、「廓」は軍事・兵站基地(=白幡前遺跡)の防備を、「廾(活字で表現すると廿)」はツヅラと読み被服廠の管理警備を…などです。

多出文字はそれを共有する集団の使命(平たく言えば生業)に強く関連していると考えました。

鳴神山遺跡の多出文字を白幡前遺跡での検討を踏まえてみると、次のような特徴が浮かび上がります。

1 多出文字の種類が白幡前遺跡より少ない。
多出文字の種類(例えば10以上出土文字)をカウントすると、鳴神山遺跡では白幡前遺跡より少なくなっています。

これは、鳴神山遺跡に存在した、使命を異にする集団(プロジェクトチーム)の数が少なかったということだと思います。

墨書・刻書土器数は鳴神山遺跡の方が多いのですから、1つの集団が大集団であった可能性があります。

2 文字が意味する内容から経済的豊かさや農業繁栄の祈願がメインであるという印象を受ける。
大、大加、冨、千万、大大、中万などは経済的豊かさを祈願する言葉であるという印象を受けます。

また、依は同じく出現する衣と通じて被服作成(麻栽培や製糸・織物・縫製)に関連するという印象を受けます。さらに関連して、廾は白幡前遺跡と同じく廿(つづら)と読み被服廠管理に関する祈願語であるという印象を受けます。

久弥良は同時に出現する久、久弥、弥良などとのグループで考えられますが、ヤラ(湿地)に関わる職業(水鳥猟?)関連の祈願語であるという印象を受けます。

犬は狩猟に関連するような印象を受けます。

山本は山(農林業地)の元締めという意味であり、農業活動集団の祈願語であるという印象を受けます。

卅はミソと読み、味噌作り集団の祈願語かもしれません。

鳴神山遺跡の出土遺物情報をまだ閲覧できていないので、十分な検討ができませんが、出土文字だけからの印象では、鳴神山遺跡は大きな農業基地であったということになります。

2015年9月21日月曜日

参考 文字「六万」分布からの連想

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.209 参考 文字「六万」分布からの連想

鳴神山遺跡の検討を中断して寄り道で墨書土器の学習をしています。

この記事では墨書土器文字「六万」の分布から連想したことがらをメモしておきます。

2015.09.20記事「ヘラ書き土器の意味」でヘラ書き土器の文字(釈文欄記載内容)という表を掲載しました。千葉県出土ヘラ書き土器文字の出現数の50位までの順位表です。

この表で漢字2文字の例は六万だけで、目立っています。

この文字「六万」を千葉県データベースで検索すると次のような結果となりました。

「六万」の検索結果
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)による

2つの遺跡から「六万」が出土していて、高岡大山遺跡からは墨書・線刻土器16、ヘラ書き土器6が出土しています。ヘラ書き土器のうち1つは須恵器です。

文字「六万」の出土遺構
画像は千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)による

高岡大山遺跡には「六万」という文字を共有する集団が存在したことがわかります。

なお、高岡大山遺跡は粘土採取坑が存在していることから土師器生産の可能性があるとのことですが、須恵器生産は無かった遺跡です。

従って、「六万」をヘラ書きした須恵器は高岡大山遺跡の文字「六万」共有集団が近隣の須恵器生産地に発注し、その納品物に文字「六万」がヘラ書きされていたと考えることができます。

文字「六万」を共有していた集団は利用土器を生産地に特注できるだけの力(政治的・財政的力)を持っていた集団であると考えることができます。

「六万」が出土するもう一つの遺跡は村上込の内遺跡です。墨書土器2点、線刻土器1点が出土しています。

千葉県内で出土する「六万」は2つの遺跡だけです。その2つの遺跡は直線距離で11㎞しか離れていません。

また文字「六万」は千葉県で出土した墨書・刻書土器22496点のうち19点(0.08%)だけです。

このような状況から、高岡大山遺跡と村上込の内遺跡の「六万」はたまたま偶然に、無関係に出土したのではなく、相互に関連して出土したと考える方がはるかに合理的です。

高岡大山遺跡に存在した「六万」共有集団の一部が村上込の内遺跡に移動したと考えることが自然な連想です。

政治的には高岡大山遺跡は印旛郡の郡衙「別院」に該当する遺跡である可能性が残るとされています。(「佐倉市史 考古編(本編)」(佐倉市発行)

もし高岡大山遺跡が郡衙別院であるとすれば、村上込の内遺跡はそれよりランクの低い村神郷の政治拠点ですから、高岡大山遺跡から村上込の内遺跡に政治行政的な支配・指導のために人材が派遣されて当然です。現代行政で地方局から現場事務所に事務所長が派遣されるようなものです。

「六万」文字の2遺跡からの出土は以上のように、一種の転勤による文字拡散だと想像します。

次に、2遺跡からの「六万」出土は、奈良時代における交通との関係もあるのではないかと考えましたので、記録しておきます。

つまり、高岡大山遺跡は東海道(陸路)の拠点であり、一方村上込の内遺跡は東海道水運支路(仮説)の要衝に位置しています。

文字「六万」の出土遺構と交通との関係

高岡大山遺跡は東海道(陸路)を押さえていて、その権力の一翼を担う「六万」共有集団の一部が東海道水運支路(仮説)を押さえている村上込の内遺跡に派遣され、その場の権力の一翼を担うということが連想できます。

文字「六万」が2つの遺跡から出土した背景には、東海道陸路と東海道水運支路(仮説)が連携して活用されていたという古代交通事情があるものと考えます。

2015年9月20日日曜日

ヘラ書き土器の意味

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.208 ヘラ書き土器の意味

鳴神山遺跡の検討を中断して寄り道で墨書土器の学習をしています。

須恵器釜と土師器焼成遺構の学習をしましたが、その関連でヘラ書き土器とそれ以外の墨書土器の比較をしておきます。

ヘラ書き土器は窯で土器を焼成する以前に生産地の工人が書いたもので、ヘラ書き土器以外の墨書土器・刻書土器は土器消費地で書かれたものであると考えて比較します。

千葉県におけるヘラ書き土器とそれ以外の墨書土器・刻書土器の出土数は次の通りです。

千葉県出土墨書土器・刻書土器の内訳(表)

千葉県出土墨書土器・刻書土器の内訳(グラフ)

文字が書かれた土器史料のうちヘラ書き土器は6.9%ときわめて少数になります。

つまり、ヘラ書き土器は土器文字史料のなかでも特殊なものです。

ヘラ書き土器の全土器に占める割合は6.9%よりはるかに低い数になります。

このことから、ヘラ書き土器が単純な作業管理用符牒ではないことが類推できます。

次に墨書・刻書土器の内、人面・戯画土器の出土数を集計すると次のようになります。

人面・戯画土器の割合

ヘラ書き土器にも人面土器があることに驚きました。

ヘラ書き人面土器例
上谷遺跡出土土師器坏
千葉県出土墨書・刻書土器データベースから引用

この例が、発注者の要望により描いたものか、それとも工人自身が自分のために描いたものか興味があるところです。

この例の存在は、単なる特殊事例として見るのではなく、ヘラ書き土器というものの本質が単純な作業管理用符牒ではないことを雄弁に物語っている事例として見るべきだと考えます。

次に、文字数について検討します。

ヘラ書き土器とそれ以外の墨書・刻書土器の文字数は次のようになります。

ヘラ書き土器とそれ以外の墨書・刻書土器の文字数(表)

ヘラ書き土器とそれ以外の墨書・刻書土器の文字数(グラフ)

ヘラ書き土器の方がそれ以外の墨書・刻書土器より1文字が多く、2文字以上のものが少なくなっています。

この結果は生産地のヘラ書き土器と、消費地で書かれる墨書土器・刻書土器の文字を書く主体が異なるからであると考えます。

土器消費地では一つの土器に人一人が対応して墨書・刻書土器が書かれます。その際の多文字の割合より、多数土器に工人一人が対応するヘラ書きの方の割合が小さくなるのは当然です。

大量生産していて、一人の工人が多数のヘラ書きをするのですから、文字数は少ない方が作業効率が向上します。

ヘラ書き土器は単純な作業管理用符牒ではないが、作業効率を重視して書かれたと考えます。

次に、文字内容について検討します。

ヘラ書き土器とそれ以外の墨書・刻書土器の出現数順文字を50位まで示します。

ヘラ書き土器の文字(釈文欄記載内容)

ヘラ書き土器を除く墨書・刻書土器の文字(釈文欄記載内容)

データベースの釈文欄の記載内容を機械的に出現数集計して並べたものです。

ヘラ書き土器の文字をよく見ると、×に関わる記号や文字(×に読み得るもの)が多くなっています。次のようなものがあります。

×(224)、×[記号か](66)、×(記号)(34)、〆[記号か](27)、十(11)、十[記号か](7)、××(5)、×(記号)(5)、□[記号「×」ヵ](4)

×に関連するもの(あるいは関連する可能性のあるもの)は全部で383あり、25%に達します。

一方、ヘラ書き土器を除く墨書・刻書土器では、×に関連するもの(×、×[記号ヵ])は合計520で全体の2.5%です。

ヘラ書き土器では×関連が特段に多くなっています。

×は魔除けの記号であると考えられます。

出荷する土器に魔除け記号を書きこんで、土器消費者にサービスする土器生産者の姿を想像します。

次に文字を見ると、ヘラ書き土器の50位までに出現する漢字は、そのほとんどがヘラ書き土器を除く墨書・刻書土器の文字の50位までに出てきます。

漢字はヘラ書き土器とヘラ書き土器を除く墨書・刻書土器が同期しているように感じます。

この事実から、土器消費者が好む文字をヘラ書きで書きこみサービスする土器生産者の姿を想像します。

以上の検討から、ヘラ書き土器は土器生産者の稀な行為で、それは土器消費者に対する文字サービスであると結論的に想像できます。

恐らく、土器の特注があった場合などに、サービスとして魔除け記号を書きいれる、あるいは発注者の好む文字や発注者の銘を書きこむという特殊商行為があり、その跡がヘラ書き土器として出土していると考えます。