2012年7月26日木曜日

ノウサギとばったり会う

今朝散歩中(5:05)思いがけない場所で薄茶色のノウサギにばったり会いました。
ノウサギは広い畑を言葉どおり「脱兎のごとく」走り林の中に消えました。写真は撮れませんでした。
インパクトが強かったので、印象が残っている内に記事にしました。

ノウサギを見かけた場所
柏井橋付近の青い水管橋がある近くの畑です。

勝田川の谷底平野の畑でノウサギの足跡をよく見かけるのですが、柏井橋付近のさして自然が残っているとは思えないような場所でノウサギを見たのは意外でした。
この近くで先日ハクビシンを見かけました。

思うに、林の近くで、人の視線が通りにくい場所に沢山の家庭菜園があり、ノウサギやハクビシンにとって格好の餌場になっているのだとおもいます。
「せっかく作った作物を盗るな」という看板はノウサギやハクビシンには通じていないようです。


このところ生き物に関するネタが沢山集まっていますので、順次記事にする予定です。
・コジュケイのつがいと2mのニアミス
・カメの産卵行動
・カゲロウの一斉孵化、一斉飛翔と落下カゲロウを食べるカメの群れ(動画)
・木の花に群がる数千のアブが出すブーンという音(動画)

早朝の散歩は手には各1キロのウェイトを持ち半ば競歩のような早歩きで、フィジカルな効果を主目的にしています。
しかし4時30分ごろから1時間の時間は、結果として生き物が人を避けるために行う夜行活動の最後の時間帯と重なっているようです。
ハクビシン、ノウサギを見ることができたのはそのためだと思います。

2012年7月22日日曜日

双子塚古墳の過去・現在・未来 その2

双子塚古墳出土物を閲覧して

この記事シリーズでは発掘調査報告書(「千葉市双子塚-横戸団地建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」1983、千葉県住宅供給公社・財団法人千葉県文化財センター)を報告書と略記します。

3 縄文時代
双子塚古墳そのものの検討に入る前に、双子塚古墳本体の土の中から出てきた縄文土器について検討します。

次の写真は閲覧した出土縄文土器です。

双子塚古墳出土縄文土器片 A
(千葉県立房総のむら所蔵)

双子塚古墳出土縄文土器片 B
(千葉県立房総のむら所蔵)

報告書では写真Aの資料から土器の復元想像をしています。

双子塚古墳出土縄文土器片 Aの復元図
報告書掲載図

報告書によれば「墳丘の調査時に、墳丘盛土の主として北西部分から53点の縄文土器片が得られた。個体数としては2個体にすぎない。」と記述されています。
墳丘は周溝を掘った土や周辺の土を盛土して作られたと考えられますから、縄文土器はこの古墳北西部付近の土中にあったものが、古墳築造工事の際に盛土に混入したものであることは間違いないと思います。
この付近は花見川河川争奪の結果できた谷中分水界があり、丁度、東京湾水系花見川の源頭部です。
源頭部に存在していた湧泉の水を飲料水にして縄文人がキャンプしていたと考えられます。

この様子を想像して絵にしてみました。

縄文土器片の出土ポイントと縄文人居住場所の推定

縄文時代遺跡という切り口で双子塚古墳の位置を見てみると、次の図に示すように東京湾水系が印旛沼水系の奥深くに入り込んだところにあります。

双子塚古墳の場所にある縄文時代遺跡の位置

双子塚古墳の場所にあった縄文時代遺跡は千葉市域の縄文時代遺跡の最北端に位置します。
千葉市域の最北端だからと言ってそれだけで価値があるわけではありません。
しかし、東京湾水系の縄文時代遺跡が密集する場所から、花見川の谷津を遡ってここまで北に位置する場所に縄文時代遺跡があることは、縄文時代人が花見川の特異な地形(河川争奪)を活用して居住場所を拡大していたということであり、興味が湧きます。
その興味は、印旛沼水系勝田川の縄文時代居住地(遺跡)まで1400mの地点(歩いて15分?)まで迫っていて、この場所が印旛沼水系を活用する縄文人との交流の橋頭保であったに違いないということの感得に通じ、古代交流ルートの幹線がここに存在していたという仮説(検討テーマ)に通じます。

なお、ここに縄文時代遺跡がある最大の理由は、ここで飲料水が得られるからだと考えて間違いありません。
次の記事で検討する、古墳時代の古墳がある理由はそれとは異なります。
同じ場所にある時代の違う遺跡が共に花見川源流部の泉(水あるいは谷津)と深い関係にあり、その関係の中身が全く異なる点に着眼し、検討を深めて行きたいと思います。

つづく

2012年7月20日金曜日

双子塚古墳の過去・現在・未来 その1

双子塚古墳出土物を閲覧して

先日、双子塚古墳(※)出土物を千葉県立房総のいえで閲覧しましたのでその結果を報告します。同時に、双子塚古墳に関わる情報や感想をシリーズ記事としてまとめてみました。
なお、過去記事と重複する部分がありますが、ご容赦ください。

※双子塚古墳は千葉県埋蔵文化財分布地図における正式名称は双子塚遺跡となっています。しかし、発掘調査報告書で古墳であることが判明していますので、この記事では双子塚古墳と表記します。
双子塚古墳が古墳として呼ばれていないだけでなく、事実上古墳として扱われていない社会現象の理由等はこのシリーズ記事のなかで検討します

目次
1 出土物閲覧
2 双子塚古墳の特異な位置
3 縄文時代
4 古墳時代
5 近世
6 近代
7 現代 開発と古墳撤去
8 近未来 古墳撤去だけでいいか?

1 出土物閲覧
1-1 出土物閲覧申請
双子塚古墳の出土物資料は現在千葉県立房総のむらに所蔵されていることが判りましたので、房総のむらに出土物閲覧許可の申請をして、許可をいただきました。

閲覧承諾書

なお、このブログに出土物写真を掲載するために上記閲覧申請とは別に掲載許可の申請も行い、その許可も得ています。

1-2 出土物閲覧
千葉県印旛郡栄町に所在する千葉県立房総のむらを訪ね、双子塚古墳の出土物を閲覧し、写真撮影しました。
発掘調査報告書の情報だけを知っている場合と、それに加えて実物を手に取った時の印象を経験した場合を比べると、自分の場合、後者の方が発想の豊かさが飛躍的に高まります。
同時に、この資料閲覧時に、学芸員の方から出土物に関連してさまざまな考古学的な情報を教えていただき、大変参考になりました。感謝します。

閲覧のために用意していただいた出土物資料

なお、発掘調査報告書に掲載されていた片口鉄鍋は房総のむらには伝わってきていないとのことです。
出土後非公開資料として別管理されているのか、あるいは紛失したのか不明でした。

2 双子塚古墳の特異な位置
双子塚古墳の出土物を検討する前に、この古墳の特異な地理的位置を確認しておきます。

1 双子塚古墳は東京湾水系花見川の最源流部(谷中分水界)に位置する。
2 双子塚古墳は東京湾水系流域の古墳では、千葉市域で最北端に位置する。

双子塚古墳の特異な位置

双子塚古墳は東京湾水系花見川の最初の一滴の水が流れ出す最源流部を見下ろす台地縁に作られた古墳です。東京湾水系流域古墳の中では、千葉市域で最も北に位置しています。この特異な位置が、東京湾水系花見川の谷底平野の開発史を考える上で貴重な情報をもたらす可能性があります。

つづく

2012年7月19日木曜日

花見川流域の古墳時代遺跡の予察

千葉県埋蔵文化財分布地図(1、3)(平成9年、11年、千葉県教育委員会)から得られた花見川流域の古墳時代遺跡合計68個所を地形段彩図にプロットしてみました。

花見川流域の古墳時代遺跡の分布
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)

古墳時代遺跡分布図と弥生時代遺跡分布図を比較すると、弥生時代遺跡の分布地点はその近傍を含めると、全て古墳時代遺跡の分布域と重なることが判りました。(図面は省略します。)

古墳時代遺跡分布図と縄文時代遺跡分布図を重ねて比較すると、古墳時代遺跡分布の特徴が浮かび上がります。

花見川流域の古墳時代遺跡と縄文時代遺跡の分布重ね図
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)

この重ね図から古墳時代遺跡の特徴の予察を行います。

なお、この予察は個々の遺跡についてその種別、出土物や報告書記載情報を踏まえていません。これまでこのブログの活動で得た花見川流域の地形特性の情報と、遺跡分布そのものの情報に基づいて行っています。 この予察(問題意識)が本当であるかどうかについて、これから各遺跡の情報を詳しく吟味して行うつもりです。

予察の結果を次の図と表に表しました。

予察図

予察結果
1 古墳時代遺跡はほとんど全て台地上にある。
これはこれまで何回か述べているように、沖積地微高地や河岸段丘上の古墳時代集落が現在まで集落として継続していて、遺跡として発見できないこと(遺跡としては消滅していること)が主因であると考えます。
統治の場(支配層の居住地)や祭祀の場など特別な社会的機能が台地上にあり、それだけが古墳時代遺跡として現在発見されているのだと思います。

2 古墳時代遺跡は縄文時代遺跡よりその分布が集約されている
予察図に白い楕円で4個所を囲みました。その場所は縄文時代遺跡はあるが、古墳時代遺跡はない場所です。
それら4個所は谷津の上流部や小さい谷津の部分です。
これらの場所は飲料水を得られ、なおかつ狩猟基地としては好適な場所であるが、水田耕作ができる広い谷底平野が無い場所です。 つまり、古墳時代になると水田耕作適地の周辺にその時代の統治や祭祀の場が集約されていったと考えます。

3 東京湾水系流域の遺跡が増大し、印旛沼水系流域の遺跡が減少した
縄文時代遺跡の東京湾水系流域の分布と印旛沼水系流域の分布を比較すると、直感的には大きな差異を感じません。
ところが、古墳時代遺跡の東京湾水系流域の分布と印旛沼水系流域の分布を比較すると、東京湾水系流域の分布が濃いことが直感的にわかります。
なぜ東京湾水系流域の分布の方が多いのか、とても興味深い現象です。
おそらく東京湾側の方は東京湾各地との交流があり、農業だけでなく、交易、広域的統治(地方・国家レベルでの支配-非支配関係)、文化、軍事等の面で印旛沼水系側より地域開発が進んだものと考えます。
(統治、経済交易、軍事、文化などの諸側面で、東京湾側から受ける刺激のほうが印旛沼側から受けるものより大きかったと考えられます。)

4 古墳時代遺跡分布の特性

古墳時代遺跡分布の特性を次のように予察してみました。

予察図内の記号
分布特性(予察)
A
新川(平戸川)谷底平野の水田と関わる遺跡(統治・祭祀機能)
B
高津川谷底平野の水田と関わる遺跡(統治・祭祀機能)
C
勝田川谷底平野の水田と関わる遺跡(統治・祭祀機能)
D
花見川及び犢橋川の水田と関わる遺跡(統治・祭祀機能)
E
花見川の源流部に立地した遺跡(祭祀機能?)
F
犢橋川の源流部に立地した遺跡(祭祀機能?)
G
東京湾(幕張湾)の古代湊付近に立地した遺跡(交易機能?)
H
幕張湾口に立地した遺跡(軍事機能?)
I
幕張湾口に立地した遺跡(軍事機能?)
J
台地内陸に立地した遺跡(?)
K
谷津奥に孤立して立地した遺跡(?)
L
台地奥に立地した遺跡(?)

2012年7月17日火曜日

海老川乱歩さんのコメント(2012.7.17付)

2012.7.14記事「海老川乱歩さんの大発見(!)」に海老川乱歩さんから本日コメントをいただきましたので、記事として掲載します。

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海老川乱歩です。

「南ブロックを西へ50m移動」とありましたのでびっくりしました。
クーラーさんが数字を出す前に、自分でも何m移動したのか確認しようと思っていたのですが、後回しになっていました。
自分の目測予想はせいぜい5m~10mだと思っていましたので予想外の大きい数字です。
ということで自分も、Google Map の衛星写真で確認してみました。
画面の左下に出てくる距離の目盛50mを定規で測ったところ32mmでした。
芦太川の谷底の最深部を中央分離帯の所(カーブミラーの所)として、中央分離帯の延長線上から断層の南側の谷のカーブが終わって直線になり始める所(薬屋付近)までの距離を測ったところ、30mmでした。
求めるずれた距離を x として、比の計算をすると下記の式が成り立ちます。

32mm:50m = 30mm:xm  ①
50/32=x/30
x=(50*30)/32
x=46.875m (27インチモニターでの結果)

因みに24インチモニターでも確認してみました。
50mの目盛を定規で測ったところ28mmでした。
中央分離帯の延長線上から断層の南側の谷のカーブが終わって直線になり始める所(薬屋付近)までの距離を測ったところ、28mmでした。
以下の式をたてれば、答えは一目瞭然ですね。

28mm:50m = 28mm:xm  ②
x=50m (24インチモニターでの結果)で、クーラーさんの数字とドンピシャです。

(①式と②式の左辺の左項は、各人が使用しているモニターのサイズと設定ドット数で変わりますので注意してください)

クーラーさんの出した数字50mは、怪しくないということが分かります。
ずれた距離は、50m±10m の範囲におさまるといったところでしょうか。

ここで新たな疑問が発生しました。
ずれた距離が50mあり、1回のアクションの水平方向の移動距離を2mと仮定すると、50m/2mで、25回アクションが発生したことになります。
私が前に書いた2回どころじゃありませんね。(恐ろしい回数です)
いやいやそうじゃなくて、大規模なアクションは起こらなくて、年間移動距離を仮に5mmというゆっくりな移動として計算すると、50m/5mmで、10000年という長い時間をかけてゆっくりと50mずれたのか、私には分かりません。
やはり専門家に調査して頂き、結果を知りたいところですね。

自分が思った事や疑問を書き出します。

1.芦太川
・仲東谷津と交差するところで、長沼のように水は溜まらなかったのか。
・仲東谷津と交差するところで、東西方向にずれのようなものが確認できるが、断層の東側延長線上に花見川と横戸川?に芦太川のような分かり易いずれが確認できない。

2.柏井の谷津
・柏井の西側の谷津の上流の、中央公園の谷津は、花1小のところでなぜ崖を越えられなかったのか(クーラーさん曰く、無能谷はある)。(西隣の芦太川は、断層を超えている)
・柏井の東側の谷津は、西側の谷津の上流にある中央公園の谷津のような谷津が無い。(クーラーさん曰く、無能谷はある。USA-M223-73やGoogle Mapの衛星写真を見ると、花島の谷津がこの無能谷につながっているようにも見える)
・Google Mapの衛星写真をよく見ると柏井の東西の谷津が合流する所で、東側の谷津も西側の谷津も南ではなく、北に向かってカーブしているように見える。(南の東京湾方向ではなく、あたかも北側の印旛沼方向に流れていたようにもみえる。)

3.花島の谷津
・花島の谷津の成因も断層による段差が原因と思われる。柏井の谷津のように花見川の反対側(東側)に、花島の谷津と同じような谷津が無い。

  2012年7月17日 2:00
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この記事に対する私のコメントは追って記事にします。

2012年7月16日月曜日

ミシシッピアカミミガメ

今朝は花見川サイクリング道路をゆっくり横断する動物を見かけ、最初超特大のネズミかと注視し、近くでカメと判明しました。

砂利道を横断したカメ(ミシシッピアカミミガメ)
北米原産のミシシッピアカミミガメ(侵入種)で体長は30㎝以上ありました。
特定外生物には指定されてはいないようですが、本来いてはこまる種です。

カメが特段めずらしいものではありませんが、フクロウ→モグラ→ハクビシン→カメと毎日動物に注目する自分の心理状況(一種のシンクロニシティー)に気がつきました。 散歩で受ける無数の情報の中から、動物ネタに注意を向ける深層心理機制が自分の中で強まっているようです。

2012年7月15日日曜日

ハクビシン確認

今朝(5:30頃)散歩中に花見川近くの道路を横断するハクビシンを見ました。
写真はとれませんでしたが、印象を表現すると次のようになります。

道路を横断するハクビシンと思われる小動物の印象

ハクビシンと思われる小動物が横断した道路
右手(花見川側)から左手(林)に横断して、道路から林の中に飛び込んでいきました。

実は数か月前の深夜、近くの住宅地で自動車を運転中に、ヘッドライトに照らされた同じ小動物を見かけました。
強く興味をもったので、いろいろ調べて、ハクビシンらしいと検討をつけていました。
今朝見かけた動物の大きさ(全長1mくらいで尾が長い)等の特徴からハクビシンであることはほぼ間違いないと確認できました。

近くの家庭菜園の入り口に、「せっかく作った作物を盗るな」という趣旨の張り紙等がいくつもありますが、その犯人の一部はハクビシンかもしれません。

2012年7月14日土曜日

海老川乱歩さんの大発見(!)

2012.7.1記事「海老川乱歩さんのコメントと回答」に海老川乱歩さんから次の文章を含むコメントをいただきました。

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■このブログをここまで読んだ感想と私の考え
国土地理院の空中写真 USA-M223-73 を見ると、芦太川の谷頭部(花3小付近?)と花島の谷津の谷頭部(花島小付近(旧花4小))の位置がほぼ等しい(他の印旛水系の谷頭部とほぼ直線で結ばれる)ので、昔は花島の谷津も印旛水系だったというのもうなずけるような気がします。
(最初は、Cooler先生のおっしゃる事が信じられませんでした)
またこの空中写真をよく見ると、芦太川の谷津と仲東谷津が交差する所で芦太川の谷津が東西方向にずれているようにも見えます。
花見川に両サイド(東側と西側)から力が加わって花見川付近が隆起したか、花見川の片側(東か西)だけ力が加わって花見川付近が隆起し、花見川だけ水系パターン異常が発生したのでしょうか。
そう考えると小崖は、最低でも垂直方向と水平方向の2回動いたのでしょうか。
いつかはまた動く事も考えて備えなくてはいけませんね。
(学者が花見川周辺の崖に無関心のようにみえるのは、私だけでしょうか。Cooler先生が学者でしたら「すいません」)
USA-M223-73 を見ると地殻変動の痕跡が何本か写っていますが、小崖には○○断層のような名前がついていないのでしょうか。
ノーマークだといつか痛い目にあうと思います。
こんな身近な所にあるとは思いませんでした。
恐らく日本中にこんな感じで身近な所に、無名のものが沢山あるのではないでしょうか。
USA-M223-73 は、花見川周辺の地殻変動の痕跡を写したいい写真だと思います。
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この中で、「芦太川の谷津が東西方向にずれているようにも見えます。」は次の写真の○の中のことだと思います。

米軍空中写真(usa-m223-73の1部)

このずれが地殻変動のためであると海老川乱歩さんがおっしゃったことは一つの重要な新発見だとおもいます。
私もこのずれ自体は気がついていましたが、これが地殻変動(横ずれ断層)のためであると正面から意識することはありませんでした。
小崖2が垂直方向の成分だけでなく、大きな水平成分の移動を伴っていることに気がつくと、いろいろなことが氷解する可能性が濃厚になりました。

居てもたってもいられないような興味に動かされて、芦太川のずれの分を補正するようにマップを切ってつなぎ合わせてみました。
マップを切った線分は小崖2にほぼ沿う単純な直線としました。

現在のマップ
地形段彩図にDMデータをオーバーレイ

芦太川のずれの分だけ補正して切張りしたマップ

結果として、南のブロックを西に約50m移動させることで補正しました。
このようにマップを切張りすると、芦太川のずれは解消します。

1 円錐体地形の合理的説明
同時に、これまで十分に納得できなかった芦田川ずれ地点の地形(円錐体地形)の合理的説明ができるようになるとおもいます。
(2012.1.16記事「円錐体地形」参照)
この検討は後日詳細に行いたいと思います。

2 柏井付近地形発達の合理的説明
マップ切張りで、これまで異常と考えていた古柏井川河道線の不連続の理由がわかることになりそうです。
上記切張り前と後の図の一部を切抜き、古柏井川河道線(谷津の側線)を書き込んで比較してみました。

古柏井川河道線の比較
左は現在のマップ、右は南ブロックを50m西に移動したマップ

南ブロックを50m西に移動すると、古柏井川河道線(谷津の側線)が南北方向にスムーズにつながり、河川争奪を考える際の地形発達の思考を合理的に進めることができます。
現状のマップでは地形発達における前谷津(西から流入する谷津)の役割を過大評価してしまうことになります。
(実際に数か月前までの私の思考はそうであり、誤っていました。)

50mという大きな水平移動の存在に気がつくと、ほかにも解明できることが沢山でてくると思います。
海老川乱歩さんの大発見に感謝します。

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追伸1
防災的観点から小崖2を見ると、それは未発見の活断層ということになると思います。その方面からの調査が必要なものであるのか、機会をみつけて専門家に聞いてみたいと思っています。
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追伸2
芦太川はこれまで「アシブト川」と呼んでいました。八千代市や千葉市の行政の方もそう呼んで(読んで)います。
しかし、最近ある資料にルビがあり「アシダ川」となっていました。
八千代市のこの付近の字名や字界は失われていて、地名資産が粗末に扱われてしまった地域です。
理由は言葉になりませんが、私は「アシダ川」が本来の呼び名ではないかと感じています。
自分としては「アシダ川」と呼ぶ(読む)ことにしました。

2012年7月11日水曜日

モグラ

弁天橋の南の花見川サイクリングロードを今朝散歩中、モグラの死体を見かけました。


モグラの死体(2012.7.12 4:56撮影)

アリがたかっていて、また皮膚病か寄生虫と思われる多数の小円形脱毛部があり、気分のよいものではありませんが、一応記録しておくことにしました。

実は昨日同時刻頃に、ほぼ同じ場所でカラスくらいの大きさで褐色の鳥が悠然と飛び、サイクリングロード上空から花見川対岸の崖の林の中にスーッと消えるのを目撃しました。
根拠はありませんが、フクロウのような気がしました。

昨日猛禽類を観察し、今日その餌となるモグラを観察したことから、花見川の堀割が野生生物にとって大切な場所であることを実感しました。

数週間前にはモグラがサイクリングロード上を歩き回り、草むらに入っていくところも見ています。

2012年7月8日日曜日

花見川流域の弥生時代遺跡の予察

千葉県埋蔵文化財分布地図(1、3)(平成9年、11年、千葉県教育委員会)から得られた花見川流域の弥生時代遺跡合計11個所を地形段彩図にプロットしてみました。

勝田川(=新川あるいは平戸川)の沖積地平野に関わる3遺跡と花見川の沖積平野に関わる8遺跡の2群として認識することができます。

花見川流域の弥生時代遺跡の分布
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)

2点について予察します。

1 水田耕作が始まっているのに、遺跡発見場所はほとんど台地上である理由
弥生時代遺跡の分布を地形との関係でみると、ほとんど台地上であり、水田耕作が始まったにも関わらず、低地や河岸段丘上の遺跡がほとんどないことは極めて不自然です。
2012.7.2記事「弥生時代遺跡が極端に少ない理由」では、「弥生時代の居住地の大半は現在の集落と重なる」ため遺跡が消滅し発見されることがないという推測をしました。
こうした問題意識で「千葉市史 通史 原始古代中世編」(昭和49年、千葉市発行)をめくっていると、次のような記述を見つけました。
(沖積低地に立地する弥生遺跡が昭和49年ごろほとんど見つかっていなかった理由として)「それは、当時にあって沖積低地内での集落立地の条件を満たす微高地が、それ以後の時代、特に近・現代においても早くから市街地として発達したために姻滅してしまったためとも考えられる。
だいたい自分の考えと同じであり、情報の少ない約40年前の記述とはいえ、なんとなく自分の思考がむちゃくちゃ間違っていることはないと感じました。

台地上に発見された弥生時代遺跡は、地域の高度な社会機能(祭祀等)に関わる遺跡(別表現すれば、支配者層に関わる遺跡)であり、一般民衆の居住遺跡は沖積地微高地等にあり、その多くは現在も集落となっているため、遺跡としては「発見」されていないと感じています。

2 発見遺跡数が少ない理由
頭の体操で、遺跡の時代区分別の「1遺跡の代表年数(A/B)」を計算してみました。この指標は「時代の長さを考慮して、どれだけ遺跡が発見されているか」を知るために考えたものです。

結果は次の通りとなりました。
花見川流域の1遺跡が代表する年数(その1)

時代
時代の年数
(単位:年)
A
花見川流域の遺跡数
(単位:箇所)
B
1遺跡の代表年数
(単位:年/箇所)
A÷B
(参考)Aの想定
旧石器時代
14000
10
1400
3万年前(※)から16千年前まで
縄文時代
13600
105
130
16千年前(紀元前140世紀)から紀元前4世紀ごろまで
弥生時代
650
11
59
紀元前4世紀ごろから紀元後3世紀中ごろまで
古墳時代
450
68
7
3世紀半ば過ぎから7世紀末ごろまで
※「八千代市の歴史 通史編 上」(八千代市発行)によれば、千葉県内の旧石器時代遺跡はほとんど全て立川ローム層から発見されている。

時代の時間を考慮すると、弥生時代の遺跡数が特別少ないとはいえないかもしれないと感じるようになりました。
弥生時代と古墳時代は同じ水田耕作が行われた時期ですから、合わせてみると次のようになります。

花見川流域の1遺跡が代表する年数(その2)

時代
時代の年数
(単位:年)
A
花見川流域の遺跡数
(単位:箇所)
B
1遺跡の代表年数
(単位:年/箇所)
A÷B
(参考)Aの想定
旧石器時代
14000
10
1400
3万年前(※)から16千年前まで
縄文時代
13600
105
130
16千年前(紀元前140世紀)から紀元前4世紀ごろまで
弥生時代+古墳時代
1100
79
14
紀元前4世紀ごろから紀元後7世紀末ごろまで

丁度一桁ずつ変化し、なにか理由は言葉ですぐ表現できませんが、「やっぱりそうか」と納得できるような感情になりました。

結論から言えば、弥生時代遺跡数が「極端に少ない」と思ったのは、縄文:弥生=1:1という言葉の重さの先入観念を時間にも誤って適用していた自分に気がついたことです。
時代の時間を考慮すれば、花見川流域の縄文時代遺跡105に対して弥生時代遺跡11は「極端に」少ないとは必ずしも言えないと思うようになりました。 発見遺跡数に着目するのではなく、1で述べた地形との関係からみた分布特性に着目していきたいと思います。 つづく

2012年7月7日土曜日

花見川流域の縄文時代遺跡の予察

千葉県埋蔵文化財分布地図(1、3)(平成9年、11年、千葉県教育委員会)から得られた花見川流域の縄文時代遺跡合計105個所を地形段彩図にプロットしてみました。

花見川流域の縄文時代遺跡の分布
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)

縄文時代遺跡を地形との関係で見ると、大ざっぱにみて、次のように5分類できるような気がしてきました。

A 高津川沿い台地縁辺部に立地しているもの
B 勝田川(横戸川、宇那谷川、小深川、西小深川)沿い台地縁辺部に立地しているもの(密集分布)
C 花見川源頭部付近の台地縁辺部に立地しているもの
D 花見川、犢橋川、長作川沿いの台地縁辺部に立地しているもの(密集分布)
E 台地の内陸部に孤立して立地しているもの(オアシスのように孤立して存在する水に依拠していたもの)

流域でみるとAとBは印旛沼流域、CとDは東京湾流域です。Cは花見川河川争奪により台地内陸深くに立地している縄文遺跡であり、位置的にA、BとDの中間に存在することからし、A、BとDの人的・物質的・文化的交流の中継地であった可能性を感じさせます。

次に縄文遺跡が発見されていないゾーンについて、その理由を考えたところ、次に5つの理由が脳裏に浮かびました。

ア 習志野演習場が存在するため、遺跡調査がおこなわれたことがない地域(縄文遺跡は存在すると考えられる)
イ 空川の古柏井川が存在していたため、水に不自由であり、縄文遺跡がない地域
ウ 水が少ない台地中央部
エ 水が少ない台地中央部
オ 砂丘により遺跡が隠されている地域(縄文遺跡は存在すると考えられる)

これらの予察を次の図にまとめました。

縄文遺跡予察図
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)

縄文遺跡といっても時期の違い、遺構種類の違い等別に詳しく見ていくことが必要であり、そうした視点から今後詳細に検討する予定です。
また、千葉県埋蔵文化財分布地図(1、3)(平成9年、11年、千葉県教育委員会)より新しい情報を入手できましたので、詳細検討は最新情報で行う予定です。

つづく

2012年7月6日金曜日

花見川流域の旧石器時代遺跡の予察

千葉県埋蔵文化財分布地図(1、3)(平成9年、11年、千葉県教育委員会)から得られた花見川流域の旧石器時代遺跡合計10個所を地形段彩図にプロットしてみました。

花見川流域の旧石器時代遺跡の分布
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)

旧石器時代遺跡を地形との関係で見ると、次のように3分類できるような気がしてきました。

A 谷津源頭部の湧泉を利用していると考えられる遺跡。奥まった場所の台地上にあります。(定住的な地域拠点?)
B 東京湾の幕張の入り江に直接面した台地上の遺跡。(海岸付近の猟に関係?)
C 河川の合流部(川付近の猟に関係?)

具体的には次のようになります。

花見川流域の旧石器時代遺跡の特徴(予察)

仮番号
遺跡名
特徴(予察)
所在市
1
子和清水遺跡
A 犢橋川の谷津源頭部(湧泉)
千葉市
2
武石遺跡
B 東京湾(幕張の入り江)
千葉市
3
箕輪遺跡
A 畑川の谷津源頭部(湧泉)
千葉市
4
居寒台遺跡
B 東京湾(幕張の入り江)
千葉市
5
直道遺跡
B 東京湾(幕張の入り江)
千葉市
6
玄蕃所遺跡
B 東京湾(幕張の入り江)
千葉市
7
上志津大堀遺跡
A 勝田川右岸支川の谷津源頭部(湧泉)
佐倉市
8
桜ケ丘遺跡
A 小深川の谷津源頭部(湧泉)
四街道市
9
高津新山遺跡
C 高津川と北高津川の合流部
八千代市
10
高津新田遺跡
A 芦太川の谷津源頭部(湧泉)
八千代市
このような予察が果たして妥当なものなのか、各遺跡の詳細を既存の調査報告書等を学習して検証していきます。(検証はできなくとも自分なりに合理的思考ができるようにしたいと思います。)

同時に、これらの旧石器時代遺跡の年代が判っているものであるのか、学習します。
これらの遺跡はおそらく3万年前頃から1万6千年前頃だと思いますが、遺跡とその年代の地形(現在より100m以上海面が低い時期もあり、立川面〔千葉第2段丘〕が形成されていた頃)との関係について合理的にイメージできるようになりたいと思います。

旧石器時代の東京湾幕張の入り江は、現在より深い谷であったことは間違いありません。
最終氷期最盛期には海面はそこになかったのですが、1万6千年前頃にはフィヨルドみたいな海があったかもしれません。
Bと分類した遺跡の意味は「海」そのもの(海の猟)ではなく、海岸近くの「深い谷地形」(大型獣の狩猟の場)にあったのかもしれません。

これから、あれこれ思考・学習していきたいと思います。

つづく

縄文時代遺跡、弥生時代遺跡、古墳時代遺跡等について予察をする予定です。