2015年7月31日金曜日

佐倉市史考古編

最近佐倉市史考古編が出版されていることを知り、入手しましたので紹介します。

佐倉市史については既に2014.03.18記事「佐倉市史 紹介」で紹介していますが、佐倉市史考古編はこの記事作成後に発行されたようです。

1 佐倉市史考古編(全2冊)の諸元、内容、主要目次
●佐倉市史 考古編(本編)
【諸元】
書名:佐倉市史 考古編(本編)
編集:佐倉市史編さん委員会
発行:佐倉市
発行日:平成26年3月31日
体裁:A4判、440頁
【内容】
「本書は、そうした大いなる自然の恵みに対して、先人たちが繰り広げてきた営みの様子を考古学の観点から解き明かし、旧石器時代から中近世までの佐倉市域の歴史と人々の暮らしの足跡を綴り、後世に伝えていこうとの目的で編さんが進められたものです。」(発刊のことば)
【主要目次】
序章 佐倉と考古学
第1章 旧石器時代-最古の狩人-
第2章 縄文時代-土器を使う生活のはじまり-
第3章 弥生時代-農耕文化のはじまりと集落の様子-
第4章 古墳時代-前方後円墳の時代-
第5章 奈良・平安時代-文字世界の幕開け-
第6章 中・近世-北総の中心となった佐倉-
【定価】
定価は全2冊で7500円でした。

●佐倉市史 考古編(資料編)
【諸元】
書名:佐倉市史 考古編(資料編)
編集:佐倉市史編さん委員会
発行:佐倉市
発行日:平成26年3月31日
体裁:A4判、465頁
付録:DVD「佐倉市史」考古編(資料編)資料集成・分析報告
【内容】
「資料編は、主な遺跡・資料集成・分析報告から構成され、収録した遺構及び遺物は、佐倉市(一部隣接地域を含む)における旧石器時代から中・近世(一部近現代含む)までを対象としている。」(凡例(資料編))
【主要目次】
旧石器時代の解説
縄文時代の解説
弥生時代の解説
古墳時代の解説
奈良・平安時代の解説
中・近世の解説
主な遺構
分析と集成について
あとがき 等
付録(DVD収録)
資料集成
分析報告

佐倉市史考古編(全2冊)

2 感想
感想といってもまだ読んでいないので読後の感想ではなく、読前のパラパラめくって全体を見た感想です。

この図書は自分の興味が極めて強く刺激される図書です。

恐らく発刊間もないので情報が最新であることも影響していると思います。

それ以上に佐倉市域は東京湾-花見川-平戸川(新川)に続く印旛浦に位置していて、東海道水運支路の直接検討地域だからだと思います。

またもともと私は佐倉市域が印旛浦の中枢部を押さえている位置にあり、下総地域での中心であると考えてきています。

このような感想は、千葉県の各時代遺跡密度図(ヒートマップ図)を作成したとき、強く持ちました。(2014.08.27記事「奈良時代遺跡密度データを補正する」参照)

その中心地域の情報を詳しく知ることができるので、どのような情報を知ることができるのか、年甲斐もなくドキドキしています。

次の図は本編第5章第1節下総国と印旛郡の成立3古代の交通のコラム「水上交通からみた古代の印旛」掲載の図です。

印旛で結節する水系A・Bと北上する水路
佐倉市史考古編(本編)から引用
(水系Aは東京湾水系、水系Bは太平洋水系を指す)

この図は東京湾水系と香取の海の交通を考える上で既知の情報をわかりやすくとりまとめていて、大変に興味深いものです。私の興味を刺激するものです。

このような興味深い図に、自分が仮説している東海道水運支路(東京湾-花見川-平戸川(新川)-印旛浦-香取の海)をどのように組み込むことができるか、検討を加速したいと思います。

……………………………………………………………………
付録DVDにはExcelファイル、pdfファイル、jpgファイルが収録されていますが、jpgファイルだけアイコンにサムネール画像が表れず、Picasaフォトビュアで「無効な画像」となり、一切のコピーが出来ないため、画像が確認できませんでした。

佐倉市史編さん委員会事務局に連絡したところ、jpgファイルはWindowsフォトビュアでのみ開き、アイコンにサムネール画像が表れないことや一切のコピーが出来ないことは仕様であることを教えていただきました。

2015年7月30日木曜日

萱田遺跡群の鉄製品出土物 その3 鎌と穂摘具

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.177 萱田遺跡群の鉄製品出土物 その3 鎌と穂摘具

萱田遺跡群出土の鎌と穂摘具について検討します。

1 鎌
出土した鎌の例を示します。

白幡前遺跡出土鎌の例

萱田遺跡群の鎌出土状況を次に示します。

萱田遺跡群の鎌出土状況

竪穴住居10軒あたり鎌出土数を分布図にすると次のようになります。

竪穴住居10軒あたり鎌出土数

最も特徴的なことは権現後遺跡のⅠ、Ⅱ、Ⅲゾーンの値が高く、実際の出土数も7、6、4とゾーン別では他のゾーンにぬきんでています。

権現後遺跡は古代の土器生産工業団地であったと考えますので、鎌は土器焼成坑で燃やす草木を刈り取る道具であったことがほぼ確実に推察できます。
2015.07.05記事「八千代市権現後遺跡は古代の土器生産工業団地」参照

鎌出土数及び竪穴住居10軒あたり鎌出土数は農業主体と考えた北海道遺跡より、軍事兵站・輸送基地の中心地である白幡前遺跡の方が大きな値を示します。この理由について次のように考えます。

奈良時代の軍事兵站・輸送基地では基地要員(基地内に居住する住民)の食料や衣服等が官から完全に支給されていたということは無かったと考えます。多かれ少なかれ自給自足的な生活の側面があったと考えます。

一定量の生活物資の支給はあったとしてもそれだけでは生活が成り立たないので基地要員の家族は家庭菜園的な農地を持ち雑穀や野菜などを栽培して生活の糧にしていたと考えます。

そして基地要員の家族は(白幡前遺跡に住む家族は)農業中心のプロジェクトに従事する家族(北海道遺跡に住む家族)より裕福であり、鉄製の農具や道具を手に入れることが出来たのだと思います。

農業中心のプロジェクトに従事する集団は、いわばブルーカラーであり、俘囚や奴婢や社会階層の低い人が多く含まれていたと考えます。その人々は貧しく、鉄製の農具や道具を手に入れることが困難であったのだと思います。

農業開発プロジェクト自体は官が主導し、支配層は権力を持っていて、ハマグリを食することもあったのですが、その下で働く人々はただただ肉体労働を提供するだけだったのだと思います。

鉄の農具や道具は農業開発地域に集中して、そこでの農業開発の効率を高めればよいようなものですが、実際はそうした社会全体の効率性をマネージするような行政とか政治は虚弱だったのだと思います。

2 穂摘具

次に穂摘具の例を示します。

白幡前遺跡出土穂摘具の例

穂摘具はイネや雑穀等の穂だけを摘み取る収穫用の道具です。

萱田遺跡群の穂摘具出土状況を次に示します。

萱田遺跡群の穂摘具出土状況

竪穴住居10軒あたり穂摘具出土数を分布図にすると次のようになります。

竪穴住居10軒あたり穂摘具出土数

権現後遺跡で穂摘具出土がゼロであり、この遺跡が土器生産に特化していた程度が高かったことを物語っています。
土器生産のための工程が官人技術者の指導で行われたと考えます。粘土掘り、粘土の水簸、焼成のための燃料刈取り乾燥蓄積、轆轤による土器づくり、焼成など。
燃料刈取りのための鎌は多出しているけれど、穂摘具がゼロであるということは、土器づくりに従事した人々は家庭菜園みたいな自給自足的生活の側面が弱く、官からの支給で生活のほとんどを賄っていたことが考えられます。

白幡前遺跡、井戸向遺跡、北海道遺跡の穂摘具出土状況を見ると、鎌の出土状況と同じように裕福の程度が反映した出土状況になっていて、その道具を本来は一番必要とする人々のゾーンには少ないという逆転現象が見られます。

2015年7月29日水曜日

萱田遺跡群の鉄製品出土物 その2 刀子

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.176 萱田遺跡群の鉄製品出土物 その2 刀子

萱田遺跡群から刀子が187点出土しています。種類別にみると最も出土数の多い鉄製品です。ちなみに、不明品を除くと、第2位が鉄鏃80点、第3位が鎌49点です。

刀子のイメージを次に示します。

白幡前遺跡出土刀子の例

大きなもので刃渡り15㎝程度です。柄(つか)を入れると優に30㎝以上はあったと考えます。

また鎺(はばき)が出土していることから大型刀子(刀剣)が存在し鞘に納めて所持されていたことが確実です。

白幡前遺跡出土鎺(はばき)の例

鞘や柄の木質部が残存した刀子も多数出土しています。

刀子所有者は恐らく刀子を腰に帯刀して、常時身に着けていたと考えます。

萱田遺跡群における刀子出土状況は次の通りです。

萱田遺跡群の刀子出土状況

竪穴住居10軒あたり刀子出土数を分布図にすると次のようになります。

竪穴住居10軒あたり刀子出土数

武器プロパーである鉄鏃(槍)の同じ指標の分布と比べて、刀子が4つの遺跡に拡散している様子がわかります。

これは刀子の武器としての側面が弱く(※)、その本質が切る、削ぐ、剃る等の万能道具であるためです。

※刀子に護身用武器としての側面があることは見逃せないと考えます。白幡前遺跡1A・1Bゾーンや井戸向遺跡Ⅲゾーンでの出土数が多い理由はこのためだと考えます。

参考 竪穴住居10軒あたり鉄鏃出土数

刀子の出土数から判断して、官人、将兵はもとより墨書土器を使った一般住民もかなりの割合で刀子を所持していたと考えます。

2015年7月28日火曜日

掘立柱建物1棟あたり鉄鏃出土数による考察

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.175 掘立柱建物1棟あたり鉄鏃出土数による考察

竪穴住居10軒あたり鉄鏃出土数を指標として萱田遺跡群の軍事機能ゾーンを既に抽出しました。
2015.07.26記事「萱田遺跡群の鉄製品出土物 その1 鉄鏃」参照。

また、標準武器である鉄鏃(槍)を伴う主な活動は次に3つであることを検討しました。
1 基地中枢機能の警備、要人の警護
2 軍用倉庫の防衛
3 武器を所持する蝦夷戦争出征将兵の逗留、将兵の教育訓練活動
2015.07.27記事「萱田遺跡群における鉄鏃(槍)を伴う活動」参照

この記事では指標「掘立柱建物1棟あたり鉄鏃出土数」により萱田遺跡群における鉄鏃(槍)を伴う活動の補足検討を行います。

これまでの萱田遺跡群検討で、掘立柱建物は次のような用途に使われていたと想定しています。
鉄鏃(槍)を持った番兵を配する用途には○を付けました。
鉄鏃(槍)を持った将兵が出入りする用途には◎をつけました。

○1 支配層住居
○2 接待施設(宿泊・宴会場)
3 寺院施設(お堂等)
4 陰陽師施設
○◎5 司令所施設(司令官詰所・会議室・宴会場)
○6軍需用品貯蔵庫(武器・衣服・食料・生活用品等)
7 事務棟(公文書作成、会計事務、食堂)
○8 活動のための資機材置き場
○9 農業生産物倉庫
○10 焼成土器貯蔵庫
11 小集団のための集会場(会議室・食堂)
12 機織り・縫製作業場

掘立柱建物の全ての用途が番兵を配するものでなかったと考えますが、多くの掘立柱建物は武器を持った番兵を配置していたと考えます。

ですから平均的に考えると、掘立柱建物数が多くなると、その番兵も多くなり、結果として鉄鏃の出土も多くなると考えます。

つまり掘立柱建物1棟当たり鉄鏃出土数は概念としては一定であると考えます。

しかし、司令所施設があるゾーンでは武器を所持した将兵の出入りが多く、そのゾーンでは鉄鏃の出土が多くなると考えます。

このような前提を踏まえて、掘立柱建物1棟当たり鉄鏃出土数を計算してみました。

次の表は掘立柱建物1棟あたり鉄鏃出土数をまとめた表です。

萱田遺跡群の鉄鏃出土数

この表を地図に表現すると次のようになります。

掘立柱建物1棟あたり鉄鏃出土数

まず、掘立柱建物が存在しない7つのゾーンでは北海道遺跡Ⅶゾーンを除いて鉄鏃が出土しません。この情報は掘立柱建物が主な番兵配置施設であるという想定が大局的には間違っていないことを示していると考えます。
北海道遺跡Ⅶゾーンの鉄鏃出土はⅣゾーンの掘立柱建物に関連したものである可能性があります。

萱田遺跡群の掘立柱建物1棟あたり鉄鏃出土数の平均は0.5となります。
そこで、0~0.99までの幅は平均的な値であると考えます。
1以上の値を異常値として考察することにします。

白幡前遺跡1Aゾーンは値1となります。
このゾーンは東国から陸奥国へ向かう下級将兵の逗留場所で、掘立柱建物も下級将兵用司令施設であると考えてきていますので、そのような理由から鉄鏃出土が多いと考えます。
1Aゾーンの東に広がる河岸段丘全て(現在伝わってきている小字は「牛喰」)が下級将兵逗留施設であったと想定しています。ちなみに上級将兵逗留施設は1Bゾーンであると想定しています。

井戸向遺跡Ⅳゾーンは値2.3となります。
このゾーンはこれまで農業開発が進行しているゾーンとして考えてきています。ですから土地開発という観点から考えると鉄鏃が9つも出土する状況を説明できません。

そこで、実際の鉄鏃出土遺構を地図にプロットしてみました。

井戸向遺跡Ⅳゾーンの鉄鏃出土遺構
9つの鉄鏃のうち1つを除いてすべてが寺谷津に面する台地縁か斜面上にあります。
この分布形状から鉄鏃出土は基地主部(白幡前遺跡)の警備に関わるものであると推察できます。

具体的には基地主部(白幡前遺跡の中央貴族接待施設、寺院、陰陽師施設、上級将官逗留施設など)を寺谷津を挟んで防衛する任務、つまり寺谷津から賊が侵入しないように見張るとともに、俘囚や奴婢が基地から逃亡しないように見張っていたものと考えます。

井戸向遺跡Ⅳゾーン付近は未開地であり、寺谷津沿いに見張り小屋を建て、基地の防衛にあたる必要があったものと考えます。

北海道遺跡Ⅲゾーンは値2.0となります。
値2.0ですが、実際の鉄鏃出土数は2ですからあまり詳しい検討は必要ないと思います。
北海道遺跡Ⅲゾーンは居住ゾーンであり支配層もこのゾーンに居住していたことがハマグリ出土等から判っています。従って、掘立柱建物の警備と支配層の警備が重なった値になっていると考えます。

2015年7月27日月曜日

萱田遺跡群における鉄鏃(槍)を伴う活動

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.174 萱田遺跡群における鉄鏃(槍)を伴う活動

2015.07.26記事「萱田遺跡群の鉄製品出土物 その1 鉄鏃」で萱田遺跡群から合計80の鉄鏃が出土したことと、鉄鏃が武器としての槍として使われていたことを想定し、その出土状況を「竪穴住居10軒あたり鉄鏃出土数」で見ることによって、軍事的機能が高いゾーンをあぶり出したことを書きました。

その軍事機能検討とは何か、検討してみます。

萱田遺跡群から出土するメインの武器は鉄鏃であると考えています。
鉄鏃は長い棒の先に挿し込んで槍として使ったと考えます。

刀子も武器の一種であると考えられます。刀子が護身用機能も兼ねていたことは間違いないと考えます。しかし刀子は武器プロパー(武器専用)ではなく、その本質は多用途万能道具であると考えます。刀子の検討は改めて行います。

萱田遺跡群からは大型の刀剣は出土していません。

萱田遺跡群における標準武器は槍であったと想定します。

槍という武器を伴う活動にはどのようなものがあったか、なぜ出土したか検討します。

萱田遺跡群における槍を伴う活動は次の3点が存在していたと考えます。

1 基地中枢機能の警備、要人の警護
2 軍用倉庫の防衛
3 武器を所持する蝦夷戦争出征将兵の逗留、将兵の教育訓練活動

1 基地中枢機能の警備、要人の警護
「竪穴住居10軒あたり鉄鏃出土数」の図に基地中枢機能と要人の宿泊場所を描きこみ、想定を含めて鉄鏃数が多いゾーンを描きこんでみました。

基地中枢機能・要人宿泊場所とそれを囲む「竪穴住居10軒あたり鉄鏃出土数」高レベルゾーン

基地中枢機能と要人宿泊場所を取り囲んで「竪穴住居10軒あたり鉄鏃出土数」高レベルゾーンが配置されていることがわかります。

白幡前遺跡2Aゾーンの周りに誰でもその存在が判る武器(槍)をもった兵士を配置する土地利用(基地ゾーンニング)は、律令国家が計画的に配置したものであると考えます。

白幡前遺跡と井戸向遺跡はたまたま2つの遺跡になっていますが、古代にあっては一体不可分の同じ基地内領域であったと考えます。

白幡前遺跡の東側には1Aゾーンの延長と2Cゾーン~3ゾーンの延長が拡がっていたと考えます。

2 軍用倉庫の防衛
萱田地区遺跡では棒状鉄製品が多出していて、その用途は判明していません。しかし白幡前遺跡発掘調査報告書では、1Bゾーンではこの棒状製品をかんぬき棒の差し込み金具として、3ゾーンでは枢戸(くくるど)の鍵として想定しています。
多数出土する棒状鉄製品の多くは戸締りに関する器具である可能性が濃厚です。

この情報から、古代では律令国家直轄の軍用基地といえども治安が悪いことが想定されます。

軍需物資をストックする掘立柱建物にはしっかりとした鍵をかけ、槍を持った番兵を配置していたのだと思います。

3 武器を所持する蝦夷戦争出征将兵の逗留、将兵の教育訓練活動

白幡前遺跡の1Aゾーン、1Bゾーンは陸奥国へ出征する将兵の一時逗留場所であったと想定しています。
ですから、この場所から多数の鉄鏃(槍)が出土していることが考えられます。

なお、墨書土器文字の検討から井戸向遺跡Ⅲゾーンについて2015.06.14記事「墨書土器代表文字の意味」で次のように記述しました。

「井戸向遺跡Ⅲゾーンでは「入」(ハイル)と「生」(イキル)が一緒に代表文字になっていますから、軍事部門のゾーンで、かつ兵として正式登用されていない人間が多いと考え、そのゾーンが新兵訓練地みたいなところと、仮説してみました。」

墨書土器文字の意味検討から、井戸向遺跡Ⅲゾーンを将兵の教育訓練活動の場所と考えたのでした。

この記述と井戸向遺跡Ⅲゾーンの竪穴住居10軒あたり鉄鏃出土数8.8という高レベル数値がよく対応しています。

墨書土器文字の意味検討と武器出土状況がよく対応していて、われながら興味を深めます。

参考 井戸向遺跡と白幡前遺跡の墨書土器文字の意味の検討
2015.06.14記事「墨書土器代表文字の意味」掲載図

2015年7月26日日曜日

萱田遺跡群の鉄製品出土物 その1 鉄鏃

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.173 萱田遺跡群の鉄製品出土物 その1 鉄鏃

萱田遺跡群の鉄製品について検討します。

つぎのグラフは萱田遺跡群の全ての金属製品出土物を集計したグラフです。

萱田遺跡群金属製品出土数

刀子が187で最も多く、次いで鉄鏃80、鎌49、手鎌22、銙帯22、紡錘具15と続きます。

使途不明品は99に上ります。

銙帯には青銅品が含まれ、仏像・和鏡・銭貨は銅製品です。それ以外は全て鉄製品です。

この金属製品出土物の中で鉄鏃のみが武器そのものです。刀子は多目的に用いられた道具と考えます。多目的の中に護身用としての利用もあると考えられますが、武器としての利用はあくまでも副次的なものであると考えます 。

それ以外の製品は全て武器としては用いられないものです。

この記事では武器である鉄鏃について考えます。

鉄鏃には次のような3種類の形状のものが出土しています。

鉄鏃の例

鏃は木の棒の先に据え付けられていた痕跡をとどめるものが多く、槍として使われていたようです。

鉄鏃の遺跡別・ゾーン別出土状況をまとめると次のようになります。

萱田遺跡群の鉄鏃出土状況

竪穴住居10軒あたり鉄鏃出土数を地図にすると次のようになります。

竪穴住居10軒あたり鉄鏃出土数

竪穴住居10軒あたり鉄鏃出土数が大きい値であるということは、人口当たり鉄鏃数が多いことを示すと考えられ、それは人口に占める兵士の割合が高かったことを示すと考えられます。

つまり竪穴住居10軒あたり鉄鏃出土数が大きい値であるゾーンは軍事的機能が高いゾーンであると考えます。

つづく

2015年7月25日土曜日

文書表現「カトリ」と発音表現「カントリ」の差異に着目する

小字地名データベース作成活用プロジェクト 24

2015.07.23記事「香取に関する超空想」で「香取」(カトリ)の語源が「狩り鳥」(カリトリ)にあるのではないかと考察(空想)しました。

直観的検討ではありますが、自分では結果としての蓋然性はかなり高いと考えています。

さて、「角川日本地名大辞典 12千葉県」の「かとりぐん 香取郡」の項で次のような記述があります。

「かとりぐん 香取郡
古代~近代の郡名。下総国のうち。「和名抄」下総国十一郡の1つで,「加止里」と訓。利根川下流南岸の一帯に位置する。「鹿取」(類聚符宣抄)・「許托」(正倉院文書)・「幟取」(日本書紀)などとも書く。香取神宮の所在郡。江戸期は「かんとり」と称した。」
「角川日本地名大辞典 12千葉県」より引用

当て字では「カトリ」と読む字をあてていることは確実です。

しかし、「江戸期は「かんとり」と称した。」という記述は何を意味するのでしょうか?

私は当て字表現(文書表現)は「カトリ」と読ませる表現であるけれども、実際の地名の発音は現地では「カントリ」であったと考えます。

同じく「角川日本地名大辞典 12千葉県」の「かとり 香取<佐原市> [中世]香取村」の項で次のような記述があります。

「室町期,文安6年9月21日付香取孫六憲秀売券・同日付憲長添状には「町屋敷一間の坪者,香取下町のしき」「かんとりまちのしき,まこ四郎やしき」などとあり,神宮周囲に町場が形成されていたことが知られる(要害家文書/香取文書纂)。」
「角川日本地名大辞典 12千葉県」より引用

室町期文書に発音を文字にしたひらがなで「かんとり」が出てきます。香取の発音は「カントリ」であったことがわかります。

つまり、文書表現は「カトリ」と読ませる表現になっているけれども、現地発音は「カントリ」であったということです。

2015.07.22記事「市川市香取について」で書いたように、14世紀香取神宮の河関が所在した市川市大字香取、小字香取は「カンドリ」という発音が伝わってきています。

これも香取の現地発音は「カントリ」(あるいは「カンドリ」)であったことを示す有力な材料になります。

この差異が存在するということ自体が重要な発見であると思います。

さらに、この差異は地名の出自・変化を考える上で大変貴重な情報を提供するものと考えます。

この場で大論文を書くわけにもいかないので、この差異が生れた経緯・意味の要点をメモしておきます。

●室町期の文書やその頃生まれた市川市地名「カントリ」「カンドリ」、江戸期の発音「カントリ」は、元々の地名原義「狩り鳥」(カリトリ)に由来する発音であると考えます。「カリトリ」がなまって現代にまで伝わってきているということです。

●先住民を殲滅して(狩り鳥して)その記念の地に香取神宮・鹿嶋神宮を建てたという国の始まりに関わる重要な地名を文書にする時(当て字をつくる時)、当時のインテリは先住民を鳥に見立て、その鳥を狩ったという直接行為(一種の野蛮行為)の粗野な表現をオブラートにくるんだのだと思います。

現地では「カリトリ」から転じて「カントリ」「カンドリ」などという発音であることを知りながら、きれいな音である「カトリ」と読ませる当て字をしたものと考えます。

つまり、文書上の読みは「カトリ」に変化し、鳥(=先住民)を狩るという粗野な直接表現を薄めることができたのです。

●現在では文書上の表現「カトリ」が呼び名ともなってしまったのですが、市川市には化石的地名として原義「狩り鳥」に由来する「カンドリ」が残っています。

香取神宮と市川市香取
Google earthから引用追記

……………………………………………………………………
萱田地区遺跡検討を進めているのですが、思いのほか資料(発掘調査報告書)閲覧にてこずり、データ整理に時間がかかっています。図書館から借りだして自分の机の上に置ければその後の作業は流れ作業になるのですが、どうしても図書館の外に持ち出せない資料(※)があり、四苦八苦してその図書の情報を得ています。思い通りに作業が進みません。

※千葉県立中央図書館、千葉市立中央図書館、八千代市立中央図書館が保有していて全て帯出禁になっている萱田地区遺跡の報告書
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅・都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター」、「同 図版編」、「同 図面編」

そんな状況がありますので、たまたま埋め草記事で書いた地名「香取」に関する考察をくどいですが、またまた書きました。

2015年7月24日金曜日

Google earthで地理院地図を使う

ブログ花見川流域を歩く番外編2015.07.23記事「地図太郎PLUSで電子国土が使えなくなる」で説明したように、地図太郎PLUSで電子国土が使えなくなり、焦っていた時、反対にGoogle earth proで地理院地図が使えることを知りました。

これまで地図画像を地図太郎PLUSからkml出力してGoogle earth proに貼り付けていたのですが、地図そのものならそのような手間をかけないで、地理院地図がGoogle earth proで直接使えるので、大変便利なことを知りました。日進月歩のGIS技術についていくのは大変なことです。

次のサイトでkml配信ファイルリストから「標準地図」「色別標高図」や空中写真等のURLをダウンロードできます。

地理院地図KMLのサイト
http://geolib.gsi.go.jp/node/2537

ファイルリストのURLをクリックするとKMLファイルがダウンロードされます。そのダウンロードファイルをクリックするとGoogle earth(あるいはGoogle earth pro)が立ち上がり、その中で「標準地図」「色別標高図」や空中写真等が表示されます。(何れもパソコンにGoogle earth、Google earth proが既にダウンロードしてある場合)

Google earthの表示
斜め写真として表示しています。

Google earthでの「標準地図」の表示
Google earthで「標準地図」を斜め表示することができます。地理院地図では斜め表示はできません。

「標準地図」の半透明表示
「標準地図」を半透明にして表示することもできます。

Google earthでの「色別標高図」の表示

「色別標高図」を半透明にして「標準地図」とオーバーレイ表示
Google earth上で「色別標高図」を半透明にして、「標準地図」とオーバーレイ表示することもできます。

地理院地図も3D表示できるなど素晴らしいのですが、Google earthの方が全地球をカバーしていて圧倒的に利用しがってが良いと感じてきています。

そうした状況の中で、地理院地図がそのままGoogle earthで使えるようになったので、Google earthが地理院地図というデータを利用する際の標準的なGISになると感じます。

2015年7月23日木曜日

香取に関する超空想

小字地名データベース作成活用プロジェクト 23

市川市に存在する大字香取(カンドリ)、小字香取(カンドリ)は中世(14世紀)にその場所に香取神宮の河関(太日川[江戸川]筋徴税所)が存在したことに対応していることをメモしました。2015.07.22記事「市川市香取について」参照
この地名事象は空想ではなく、史実に対応しています。

さて、そもそもの香取神宮の香取、地名香取市の香取(カトリ)の語源について興味があります。鹿嶋神宮の鹿嶋、鹿嶋市の鹿嶋(カシマ)とも関係します。

地名辞典には次のような説明があります。

「かとり 香取 <佐原市>
下総台地北端,香取神社があり亀甲山と呼ばれる丘陵地に位置し,北方を利根川が東流する。
地名の由来は,檝取(かじとり)・揖取・梶取による説,縑織(かたおり)など縑(かとりぎぬ)による説,葛を採る葛取による説,神集(かんづまり)にちなむ説,経津主命が邪神を平定したことにちなむ勝取説,鹿狩りによる鹿取説,神鳥(かんとり)説など地名の転化に関して諸説がある(佐原市史)。」
「角川日本地名大辞典 12千葉県」より引用

「かしまぐん 鹿島郡
常陸国・茨城県の郡名。県南東部の鹿島灘沿岸一帯の地。
「風土記」には香島郡と見え,郡名の由来について,香島の天の大神,すなわち鹿島神宮の神郡であるので,カシマを郡名としたとするが,カシマの語義はカスミと同じく神の住所の意という説,建借間命のカシマをとったという説,「肥前国風土記」杵嶋郡条にも見えるカシシマがカシマの語源で,カシシマとは,船をつなぎとめる杭を打つ島(場所)の意という説などがある。」
「角川日本地名大辞典 8茨城県」より引用

私は次のように超空想します。

カトリとは「カリトリ」すなわち「狩り鳥」のことで、「鳥」(トリ)とは先住民のことではないかと考えます。
即ち、西国から入植した集団が先住民を狩った場所(服属させた場所)であるので「狩り鳥」(カリトリ→カトリ)とよんだのではないかと考えます。

カシマとは「カリシマ」すなわち「狩り島」のことで、「鳥」(先住民)を狩った島(服属させた島)のことだと考えます。

この超空想の背景には次の論文があります。

井上孝夫(1995):房総地域の製鉄文化に関する基礎的考察、千葉大学教育学部研究紀要43巻、p1-12

この論文では「鳥見(トミ)の丘」(本埜村丘陵に比定)や古代東海道駅名「鳥取駅」の「鳥見」、「鳥取」における鳥との関わりについてついて次のように考察しています。
「「鳥見の丘」に登って東の方を見渡し、鳥どもの様子、すなわち敵の情勢を探った」
「鳥とは「東国蟠踞の先住民」、鳥取とはその鳥を捕まえる討伐側のことであり、鳥取とは「先住民の服属」を意味している。」

香取や鹿嶋の語源は西国からの入植民が先住民に対して軍事的に勝利したことに因ると考えます。

鳥見神社や鳥取方面から東に攻めて、香取や鹿嶋の地で先住民を殲滅し、香取や鹿嶋が軍事勝利の記念の地となり、それが香取神宮や鹿嶋神宮の起原と考えます。

香取神宮、鹿島神宮、鳥見神社、鳥取駅の位置
Google earthより引用

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カリトリ ←→ カトリ に類似した音詰めの例

カリクラ(狩倉) ←→ カクラ(狩倉)
カリノ(狩野) ←→ カノ(狩野) 


2015年7月22日水曜日

市川市香取について

小字地名データベース作成活用プロジェクト 22

前後のブログ記事と無関係で、花見川ともあまり関係しませんが、自分にとって興味ある地名を見つけましたので、メモしておきます。

2015.06.26記事「市川市等5市の小字データベース完成」で報告した千葉県内11市の小字データベースを見ていると、市川市に香取という大字・小字を見つけました。

この付近は14世紀頃香取神社の河関があった場所であり、その歴史が地名になって残っていると考えられ、興味を引きます。
将来詳しく検討したいと思います。

データベースで香取を検索した結果

データベースで検索すると千葉県内11市で5つの「香取」小字が見つかります。
八千代市の香取下(吉橋)は検討していません。
残り4つの小字は全て市川市内です。

市川市の大字香取(カンドリ)の位置は次の図の通りです。

市川市大字香取の位置

大字湊は大字香取の北に隣接し、大字欠真間は大字香取の東に隣接しています。
ですから、市川市内の「香取」小字の大元は大字「香取」(カンドリ)付近にあることが推察できます。

次の図は鈴木哲雄「中世関東の内海世界」に掲載されている図に書き込みをして引用したものです。

「海夫注文」に載る津と香取社の河関
鈴木哲雄「中世関東の内海世界」より引用・書き込み

この図の香取社の河関の△行徳の位置が現在の市川市大字香取(カンドリ)に対応します。

中世(14世紀)に香取神宮の経済権益が太日川(フトイカワ、現在の江戸川)にまで及び、香取神宮が行徳で江戸川を通航する荷に対して徴税していた河関の場所が地名として現在まで伝わっています。

大変興味深い地名事象ですので、将来詳しく検討したいと思います。

なお、中世(14世紀)の香取神宮の影響圏が香取内海と太日川に2分されていたことから、当時既に花見川-平戸川筋の運輸通航が廃絶していたと認識することができます。

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次の感想は本質から外れたものとなっていると考えますので廃棄します。
カリトリがまなって「カントリ」とか「カンドリ」になったと考えます。(2015.07.25追記)
2015.07.25記事「文書表現「カトリ」と発音表現「カントリ」の差異に着目する」参照

香取をカンドリと読む背景に、徴税の行為を博打用語の総取り(ソウドリ)とか犯罪用語の横取り(ヨコドリ)などの「ドリ」に擬して発音した思考があると空想します。完取り(カンドリ)[完全に徴税する]の意味が込められていたのかもしれません。関(カン、すなわち河関)取り(ドリ)かもしれません。
香取をカトリと素直に発音するのではなく、濁音にして言外に徴税に反抗した雰囲気を感じます。香取神宮は太日川(江戸川)では民衆に強くは受け入れられていなかったと空想します。


2015年7月21日火曜日

萱田遺跡群付近の開発前地形が判る地図

萱田遺跡群付近の開発前地形が判る地図の利用が可能となり、検討の視野を拡げることが可能になりましたので報告します。

八千代市都市整備部都市計画課に測量成果の複製承認の手続きを行い、昭和30年代末頃測量の八千代市都市計画基本図(1/3000)を入手することができました。八千代市のご好意に感謝します。

旧版八千代市都市計画基本図の例

この旧版八千代市都市計画基本図を編集して萱田遺跡群付近検討の基図を作成しました。

旧版八千代市都市計画基本図を基図とした地図(萱田遺跡群の位置)

開発前の地形が手に取る様にわかる資料です。

白幡前遺跡付近を拡大すると次のようになります。

旧版八千代市都市計画基本図を基図とした地図の拡大図(白幡前遺跡付近)

情報が精細ですから、思考が刺激されます。

発掘された遺跡と平戸川谷津の間の土地(1Aゾーン・1Bゾーンよりさらに一段低い河岸段丘、その付近の小字は古代奇習「殺牛祭神」を連想させる牛喰(!!!))にどのような遺構・遺物が有り得るのか(どのような歴史が刻まれているのか)、否が応でも興味が深まります。

この精細な地図を入手できたので、発掘された遺跡だけで全てを考えるのではなく、その東の土地の古代の状況を想像して、遺跡の情報と東の土地の想像結果を含めて、より広い視野からこの場所の古代社会について考察することができるようになります。

この付近の開発前地形は次の旧版2.5万分の1地形図(大正10年測量)からも知ることができます。

旧版2.5万分の1地形図(大正10年測量)「習志野」図幅の一部

しかし、この旧版2.5万分の1地形図に遺跡ゾーンをプロットすると地形とかなり食い違ってしまい、地形の形状が正確ではないことに気が付かされました。大ざっぱな地形の様子を知ることはできますが、自分が知りたい古代社会の集落・施設・土地利用に関わるような微地形を知ることはできません。

こうしたことから、精細情報である旧版八千代市都市計画基本図を利用できるようになったことは、自分にとって画期的です。

なお、現代の標準地図からは開発前地形を全く読み取ることができません。

現代標準地図
地理院地図から引用

2015年7月20日月曜日

萱田遺跡群の紡錘具 その2

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.172 萱田遺跡群の紡錘具 その2

竪穴住居100軒あたり紡錘具出土数を萱田遺跡群のゾーン別にもとめ、図示しました。

竪穴住居100軒あたり紡錘具出土数
紡錘具出土数及び竪穴住居数を各遺跡発掘調査報告書より読み取り、作成。
地図の基図は八千代市都市計画基本図(昭和38年測量)(八千代市都市計画課より複製承認済)

白幡前遺跡は他の3遺跡と比べると紡錘具の出土が多いのですが、よく見ると白幡前遺跡の中心である2Aゾーン(寺院及び接待施設が存在)は紡錘具の出土が最も少なくなっています。寺院関係者や集落支配層のトップクラスの家族は紡錘具を使って糸を撚り、その糸で機織りして布を作り、その布を縫製して自らの被服を調達するという自給自足的生活を免れていたと考えられます。

北海道遺跡では紡錘具の出土がⅣゾーンに限られています。これから、北海道遺跡では遺跡内(集落内)で分業体制が敷かれ、Ⅳゾーンでのみ紡績(糸撚り)、機織り、縫製を行っていたと考えます。Ⅳゾーンには掘立柱建物が集中しますので、この建物を利用して機織りが行われていたと考えます。
竪穴住居が多いⅢゾーンには掘立柱建物が1軒しか存在しいないため異様に感じていましたが、紡錘具出土も偏っていることから、遺跡内(集落内)分業体制が行なわれていたことが判明しました。
Ⅲゾーンは居住するだけの場所、Ⅳゾーンは生活用品をつくる場所だったのです。

次に参考として、これまでに検討したTとSの分級によるゾーン特性の検討を掲載します。

参考 TとSの分級によるゾーン特性の検討
TとSの分級によるゾーン特性の検討は2015.07.03記事「権現後遺跡の墨書土器と建物指標によるクロス評価」等の記事で詳しく説明しています。

この結果から「業務地区」と判定したゾーンの多くが竪穴住居100軒あたり紡錘具出土数の値が大きいことがわかりました。
「業務地区」と考えたゾーンは特定ミッションを持った小集団が活動していた場所であると考えますが、そのような場所では、小集団毎に紡績(糸撚り)、機織り、縫製のプロセスを自給自足的に実施していたことがわかります。

次の図は鉄製紡錘具出土ゾーンを示したものです。

鉄製紡錘具出土ゾーン

鉄製紡錘具出土ゾーンでは自分が使う被服だけでなく、陸奥国へ向かう将兵のための軍服をつくっていた可能性があります。
鉄製紡錘具は高機能紡錘具であり、高機能機織り機械、鉄製ハサミ等と一緒に官が支給して、白幡前遺跡が軍服・被服工場であった可能性が濃厚です。

2015年7月19日日曜日

萱田遺跡群の紡錘具 その1

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.171 萱田遺跡群の紡錘具 その1

萱田遺跡群の紡錘具について検討します。

紡錘具は紡錘車ともよばれ、麻や絹の繊維を糸に紡ぐ道具です。

井戸向遺跡Ⅰゾーン出土紡錘具の例
「八千代市井戸向遺跡 -萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅳ- 図版編」(1987、住宅・都市整備公団 首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用

萱田遺跡群の紡錘具出土状況は次の通りです。

萱田遺跡群の紡錘具出土状況
白幡前遺跡、井戸向遺跡、北海道遺跡、権現後遺跡の各発掘調査報告書から集計

この表から竪穴住居100軒あたり紡錘具出土数をグラフにすると次のようになります。

竪穴住居100軒あたり紡錘具出土数

紡錘具の出土状況は竪穴住居10軒あたり掘立柱建物数と類似した状況になっています。

参考 竪穴住居10軒あたり掘立柱建物数

紡錘具は農業開発集落(北海道遺跡)で最も少なく、逆に農業とはもっとも縁遠いと考えた白幡前遺跡で最も多いことから、紡錘具という道具は農業生産とは別次元の道具であると考えざるをえません。

麻を栽培し麻繊維という原料を生産すること、あるいはカイコの飼育と繭を生産することは農業生産プロパーであったと考えます。その部分は農業専業的集団が担当したと考えます。例えば北海道遺跡が担当したと考えます。

しかし、その原料を使って糸を撚り、糸から織物をつくり、さらに被服をつくるという作業は農業専業的集団とは離れ、掘立柱建物を共有する小集団毎に自給自足的作業で対応していたと考えます。

例外を除いて(集落=軍事基地の指導トップクラスや寺院を除いて)全ての小集団(特定ミッションを持つ組織集団)が糸撚りと機織りを自ら行い、自分達の日常的被服を調達していたと考えます。(例外については次記事で説明予定。)

そう考えると、権力の強弱(つまり掘立柱建物の多少)と紡錘具出土量が比例することが合理的に理解できます。

なお、権力の中心であった白幡前遺跡でのみ鉄製の紡錘具が出土します。
紡錘具には鉄製、石製、土器リサイクル製の3種類がありますが、鉄製が最も重いため回転慣性力が強く、糸撚りを最も効率的に行うことができます。つまり鉄製紡錘具は同じ紡錘具でも最も高機能品です。

鉄製紡錘具の割合

鉄製紡錘具が白幡前遺跡でしか出土していないということは、白幡前遺跡の住民が権力(財力)を持っているため高機能品を入手でき、被服に関する自給自足生活を最も効率的に行えたことを示しています。

同時に、白幡前遺跡には被服廠の存在が推定されることから(2Fゾーンの墨書土器文字「廿」(ツヅラ)出土から推測)、鉄製紡錘具は住民の日常的被服作成のためではなく、軍服作成のための道具だったとも考えることができます。

鉄製紡錘具を使って効率的に糸を撚り、掘立柱建物の広い空間で効率的な機織りをして布をつくり、その布で軍服を作成していたという被服工場があった可能性も考えられます。

「廿」(ツヅラ)という墨書土器文字は単に被服の倉庫があったという意味ではなく、紡績・機織り・縫製工場併設も意味するのかもしれません。

北海道遺跡は農業開拓集落と考えていますが、北海道遺跡のような集落が麻栽培と麻繊維をつくっていた、あるいはカイコの飼育と繭生産を行っていたと考えます。
しかし、繊維から糸を撚り、機織りして布をつくり、さらに被服をつくるという自給自足工程では、社会的地位が低いために(権力や財力が弱いため)道具である紡錘具の数が僅かしかなかったと考えます。
従って、住民の被服は近隣と比べてお粗末であったと考えます。

つづく

2015年7月18日土曜日

2015.07.18 今朝の花見川

日の出前は雲が多かったのですが、時間がたつに従い、風に飛ばされる低空の灰色の雲が少なくなり、青空と白い高空の雲が見えるようになりました。

雲に覆われる花見川

南の方向は灰色の雲が少なくなった花見川

花見川

日の出の光が真横から差し込む花見川

弁天橋から下流方向

弁天橋から上流方向

畑の空