2011年12月31日土曜日

谷中分水界と道

谷中分水界の丁度その位置が8つの道路の起終点となる5差路(大正6年測量旧版1万分の1地形図「大久保」による。明治15年測量迅速図でも同じ。)となっていて、地形と道ネットワークの関係が特徴的です。

谷中分水界の5差路と結ばれている場所
この5差路(現在の6差路「花見川三小西側」交差点と同じ位置)に関わる8本の道路がどこと結ばれていいるか、旧版図等調べてみました。

谷中分水界の5差路
基図は旧版1万分の1地形図「大久保」「三角原」

Aは南方向の馬加(幕張)と結ぶ道路です。この交差点から300m程だらだら坂を下り、その後12~3mの崖を降りると猪田谷津の沖積地になります。その沖積地を台地縁に沿って歩けば、再び坂を上ることなく馬加まで行けます。そこから東京湾に出航できます。

Bはいわば地域の生活道路であり、幹線機能はないと考えます。

Cは東北方向に連続的に分布する湧水地帯を結ぶ道路です。この道路を利用して滝ノ清水を経て三山、田喜野井、飯山満方面に行くことができます。この道路は5差路を経てもともとHに連続しているものと考えます。

Dは北の大和田と結ぶ道路です。高津新田を経て高津川沿いを行きます。

Eは地域の生活道路であり、幹線機能はないと考えます。

Fは横戸の弁天経由で志津や佐倉と結ぶ道路です。芦太川の谷底をだらだら降り、途中で台地を横切り花見川に出るルートです。

GはHの補助道路のように考えます。Hが男坂、Gが女坂のような役割をはたしていたように想像します。

Hは花島に向かう道路で、花島で花見川を渡り四街道方面に行けます。

このように8本の道路の機能と行き先を考えると、この交差点の主機能は東西方向の道路と南北方向の道路の結節、南北方向の道路の分岐にあるように整理できます。

谷中分水界5差路の交通機能

谷中分水界に交差点ができた理由
東京湾側から人力や家畜を利用して荷物を運んで、猪田谷津の谷頭の崖を登り、各地に行く場合、無駄なエネルギーを消費しないで済むルートの道路が成立することは当然です。
東京湾側からこの谷頭分水界のある芦太川を伝って北方向に行けば、他のルートより高低差の少ない荷物運搬ができたものと考えられます。
また、台地の上に出るには、谷中分水界で台地に上るのが最も効率的です。

谷中分水界の現場に立った時、地形の傾斜があまりにも緩やかであり、現代人の私は自動車利用など文明生活に慣れきっているせいか、荷物を背負って、あるいは家畜に乗せて(引いて)、さらには大八車などを利用して、わずかでも高低差の少ない道をもとめた古代人~近世人の気持ちを生き生きと感得できないことに気がつかされました。

谷中分水界5差路に関する空想
この谷中分水界5差路の南西1Kmには長作築地貝塚があり、縄文海進の海が谷中分水界5差路近くの猪田谷津まで入っていたことが想像できます。
私は、この谷中分水界間近が海で、東京湾から舟で直接近くまで人が来れた時分からこの谷中分水界の交差点があったのではないかと空想します。
縄文人が東京湾側と印旛沼側を往来する一つのルートをここに持ち、また湧泉地帯を結ぶ東西方向の移動ルートも持っていたにちがいないと空想します。
こうした空想を実証する方法があるか、検討していきたいと思います。

古代花見川ルートの復元材料
東京湾側と印旛沼側を結ぶ道路を考えた時、この谷中分水界5差路を通るルート(芦太川ルート)のすぐ東に花見川ルートがあったはずです。
花見川ルートの方が東京湾側と印旛沼側を結ぶ往来のメインルートであったと想像しています。
しかし、近世の堀割普請で古代の道路は消失したと考えます。
縄文時代など古代の花見川ルートの復元について考えるとき、谷中分水界5差路を通るルート(芦太川ルート)の存在は貴重な情報を提供してくれるものと考えます。

GROBEさんのコメント(2011.12.26)の感想

GROBEさんからコメント(2011.12.26)をいただきました。(2011.12.20記事「GROBEさんコメントの感想」)
感謝申し上げます。

内容は次の通りです。
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GROBE さんのコメント...
  沖積層全てが海進が進んでいった時の堆積物と考えるのは乱暴で、内容を精査する必要があり、周辺部にも視野を広げて調べたところ、TP +-3m以内の沖積層中の貝殻の有無で顕著な違いを見いだしました。
さつきが丘より下流側各点(整理番号12455以西)では存在しますが、花島橋付近より上流側各点(整理番号31747以北)では存在しません。
下流部と同様海水が谷底を満たしていれば生態も同様だったはず。
これにより自分はこう考察しました。
柏井に至る支谷津は、氷期には現在より10m程低い谷底であったが、その後海面が上昇する1万数千年間に再堆積物や腐食質による堆積が進み、海進最高時点に於いては海水が侵入する谷底の状態ではなかった。
Web上の情報では縄文海進に関して、 面白半分で極端に扱われている場合が多いように感じます。
2011年12月26日3:02
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このコメントの感想を述べます。

柱状図で貝殻の記載のある場所は貝塚のある場所と大体重なるので、GROBEさんのおっしゃるとおり、そこにははっきりした海の生態があったことは確実だと思います。

柱状図で貝殻の記載のない場所について、どのように捉えたらよいか、GROBEさんのコメントをきっかけに、考えてみました。
次の図は前回掲載した千葉県地質環境インフォメーションバンクから得た情報に、仮定として、縄文海進クライマックスの標高TP+3mのラインを点線で入れたものです。

花見川谷底の地質柱状図

本当は、地質柱状図の標高比較をするときに、地殻変動の影響を加味しなければならないと思います。柏井付近で隆起し、下流では相対的に沈降するという傾向の地殻変動が縄文海進前から現在まで続いていると言われています。 しかし、その影響の程度を考える材料が見つかりませんので、ここでは、地殻変動の影響はとりあえず無視しています。

縄文海進のクライマックスの標高をTP+3mと仮定します。

その場合、花島南(花見川大橋付近)と花島ではこのクライマックスの海水準より下に沖積層が位置しています。
この沖積層の上面(A層とB層の境)は縄文海進クライマックスの海面の時の海底だと、雑駁ですが、考えてあまり間違いはないと思っています。
つまり、花島南と花島の沖積層(B層)は海面の下に位置したことがある沖積層です。
貝殻の記載はないけれども海成層であると私は考えました。
河成層と考える積極的材料が見つかりません。

柏井橋付近(整理番号32400)の柱状図のB層は有機質シルトとなっており、観察記事として「全体に砂、腐植物を混じる。部分的に砂多くなる。含水中」となっています。
この情報は、ラグーン的環境を示唆しているかもしれないと考えます。
入り江奥の海と川の間には、ラグーン(潟湖、汽水域)のような環境が形成されるのが一般的です。
花見川谷津のような細長く狭い場所で、ラグーンに相当するような海と川の中間的な環境がどのように存在したのか、今後検討することが大切だと思いました。

縄文海進時の花見川と同じような地形の場所が、現在どこかに存在していれば、その入り江の堆積環境を見れば、考察のヒントが得られるかもしれません。

2011年12月30日金曜日

谷中分水界の位置

芦太川が東京湾側水系の長作川(花見川支川)によって頭部を切られた部分を3D表現してみました。

芦太川截頭部(立体地図表現)
5mメッシュ+カシミール3Dによる

芦太川截頭部(地形レリーフ表現、1m単位)
5mメッシュ+カシミール3Dによる

この図を使って谷中分水界の基本的な説明をします。

芦太川截頭部の説明図

小崖
この附近では下総上位面(下末吉面相当)が東西方向の高さ3m程度の小崖によって区切られて、高度が異なって存在しています。
この小崖は北側で隆起し、南側で沈降した地殻変動を表現しているものと考えられています。
以前、東京湾北縁活断層の一部と考えられていたものです。ただし、東京湾北縁活断層の存在は近年否定されました。
この小崖は花見川を越して東側の台地にも連続して観察できます。

小崖 天戸町

芦太川の想定延長部
この小崖のところでたまたま長作川の谷頭侵食により芦太川の浅い谷地形は一旦なくなります。
芦太川の浅い谷地形は小崖ができる前からあったものですから、小崖の南にその断片がある可能性が濃厚です。
地形レリーフ図から小崖南側に浅い谷地形の断片があり、これが芦太川の上流部である可能性が濃厚です。

谷中分水界の位置
谷中分水界の位置は道路が放射状に発達する起点となっている場所で、ここが印旛沼水系と東京湾水系の地形上のもともとの分水界となっています。
現在の道路も同じ場所で6差路となっていて、「花見川三小西側」交差点となっています。
道路やビルの盛土によって事前の情報がなければ谷中分水界とは誰も気がつきませんが、事前の情報があれば、谷中分水界を体感認識できます。

谷中分水界の北側
遠方で道路が下っている。

谷中分水界の西側
道路が上っていて、谷斜面が迫っている。

谷中分水界の南側
道路盛土によりこの場所からは認識できないが、南に移動すると道路が下る。

谷中分水界の東側
道路が上っていて、 谷斜面が迫っている。

谷中分水界付近でだけ、芦太川の浅い谷が間近に迫った狭い谷になっており、この附近で最も隆起が激しかったことを想像できます。

別の谷中分水界
なお、この谷中分水界とは別に芦太川の西側の支川の源頭部も谷中分水界となっていて、高津川の支川の谷にそのまま移行しています。
地殻変動にかかわると考えられるこの現象も興味を誘いますので、いつか検討してみたいと思います。

2011年12月28日水曜日

谷中分水界の発見

滝ノ清水から東南800m程のところに谷中分水界がありますので紹介します。
この谷中分水界は旧版1万分の1地形図を眺めているとき発見したものです。

旧版1万分の1地形図「大久保」「三角原」部分

北から伸びてきた芦太川(印旛沼水系)の浅い谷が、長作川(東京湾側水系)の猪田谷津によって頭を切られたところにあります。
現代の地図を次に示します。

谷中分水界付近(数値地図2500[空間データ基盤])

次に、現代の地形を3Dレリーフ図で示してみました。
3D表現すると、読図という翻訳作業を頭脳に強いなくてもよいので、直感的に地形を理解できます。その分地形の意味や成因など本来考えるべき事柄にエネルギーをより多く使うことができます。

谷中分水界3Dレリーフ図1(5mメッシュ+カシミール3D)

谷中分水界3Dレリーフ図2(5mメッシュ+カシミール3D)

参考 上記谷中分水界3Dレリーフ図は次の基本色区分に基づいて、色と色の間のグラデーションを利用して標高1m毎の異なる色のレリーフで表現しています。
谷中分水界3Dレリーフ図の基本色区分

この谷中分水界の存在から、次の2つの興味が発生しました。

ア 人文的興味
谷中分水界を起点に発する放射状の道の意味はぜひ知りたくなります。
この場所が峠にあたり、古代から交通の要衝であったに違いありません。この場所の交通など、人との関わりの歴史資料を探したくなります。
しかし、ざっと調べた限りでは、資料は見つかりません。どうするか?

イ 自然的興味
この谷中分水界がなぜできたか、知りたくなります。
この谷中分水界の形成史を考えることは、印旛沼水系と東京湾水系の地形的せめぎあいを考えることであります。この場所から東1.3㎞には花見川があり、河川争奪の現場になっています。
花見川河川争奪の成因仮説を検証するためにも、この谷中分水界の地形発達を考えることに興味が増します。
これまでに獲得できたいくつかのスキルを有効活用して、自分としてはすこし突っ込んだ検討をしてみたいと思います。

このブログでは当面、次の項目で谷中分水界に関する記事を連載する予定です。
1 谷中分水界の地形事実
・断面や縦断、現場の様子など。

2 谷中分水界の利用
・放射状の道、峠、野馬土手など

3 谷中分水界の成因
・地形面、崖、浅い谷と深い谷、花見川河川争奪との対比

2011年12月25日日曜日

下野牧の名残り「野馬除土手」

下野牧の名残り「野馬除土手」 滝ノ清水跡のすぐ近くに野馬除土手が現存しています。

現存する野馬除土手(正面)

2つの土手により構成されている野馬除土手
2列の土手になっているのですが、どうしてもそれを表現する写真をとることができませんでしたので、組写真にイメージを書き込みました。

地図には溝として表記されています
千葉市提供DMデータ

ここにも千葉市教育委員会の説明板がありました。興味ある記述ですので、転載します。

千葉市教育委員会の説明板
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下野牧の名残り「野馬除土手」
千葉市長作町

この「野馬除土手」は、江戸幕府の牧場である「小金牧の内下野牧」(南は花見川団地、北は鎌ヶ谷市に続く原野)の野馬が外へでないように隣接する村々の農民が築いたものです。
下野牧には約2.300疋の野馬がいたようです。
この土手は、溝を掘り、土を左右に盛って築いたもので、野馬土手、野馬堀、道灌堀とも言われています。

下総の牧場の歴史は古く、平安時代に編纂された延喜式に下総5牧の名があります。その一つ「高津牧」は習志野原をその地にあったと推測されます。
徳川幕府は下総の東に佐倉牧、その西に小金牧、安房に峯岡牧、駿河(静岡)に愛鷹牧を置き、それぞれに内牧を設けて野馬を捕える「捕込」場を造りました。鎌ヶ谷側に下野牧の捕込場跡があり、年1度の「野馬捕り」行事は人気を呼び、見物人で賑わいました。
捕えた野馬は良馬を献上馬とし、他は駒、小荷駄用、農耕馬用として払い下げられました。農耕馬は農村の経済に大きな影響を与え、「馬の半稼ぎ、馬の半身上」と言われるほど役立っていました。 (協力:房総牧研究会 千葉市教育委員会文化課) ……………………………………………………………………

説明板のイラスト

2011年12月24日土曜日

春日神社と「開有富」開墾碑

滝ノ清水跡のすぐ近くに春日神社と「開有富」開墾碑があります。

春日神社と「開有富」開墾碑

神社前の説明板の内容を紹介します。

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春日神社と「開有富」開墾碑 この神社は、健佐賀足智命、伊波比主命、天子八根命、比売命、健御名方命、下照姫命を祀り、開墾の守護神社として信仰されています。
神社の創建は不詳ですが、江戸時代に長作村農民が、作新台東側(字「享保」)を新田開発し、享保15年(1730)石宮を建立、明治初期には同西側(字「開有富」)を開墾して、明治7年(1874)に社殿を替造りました。
大正元年(1912)に、長作の諏訪神社に合祀され、昭和60年(1985)に作新台氏子中により現在の社殿に改築奉納されました。
開墾碑は、明治2年(1869)の「勧農殖産の令」のもとに、耕地が不足していた長作農民が請願して作新台北部を開墾した時の記念碑です。
この開墾事業は、江戸幕府の牧場「小金牧」であった野馬の放牧地を解放しての開墾でしたので、牧から追われた野馬やアラビア馬などが、明治6年に「習志野原」演習場となった地域に集められました。
そのため、この請願は容易に許可されず、農民は生活に窮しました。
そして、長作村名主・中台武左衛門を中心とする6か村(花島、天戸、長作、三山、田喜野井、高津新田)による野馬引払い嘆願運動に発展しました。
死を覚悟のうえの武左衛門の強訴は、明治4年秋に許され、開墾がなし遂げられました。
その業績をたたえ、明治12年に碑を建立しました。
なお、野馬は明治8年、佐倉牧の三里塚に移されました。
(協力:長作町・諏訪神社氏子中、房総牧研究会   千葉市教育委員会文化課)
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私は、滝ノ清水が縄文時代以前から干天でも飲料水が得られる特別の場所であり、一種の信仰対象であったと想像します。その原始信仰が春日神社の起源であると空想しています。

2011年12月23日金曜日

野馬の水呑み場「滝ノ清水」跡

滝ノ清水跡に次の説明板があります。
20年前の平成3年3月に協力:房総の牧研究会・千葉市教育員会の連名で作られたものです。
風雪の中で文章が読みづらくなっていますが、貴重な情報が書かれていますので、紹介します。

野馬の水呑み場「滝ノ清水」跡 説明板

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野馬の水呑み場「滝ノ清水」跡
所在地:千葉市長作町

この辺りは、里の人が「滝ノ清水」とか「神社の池」と言っている野馬の水呑み場跡で、池の深さは約1m“青玉が立つ”程に豊かな水が湧き、V字形の割れ目より余り水が谷の方に流れ落ち、昔からどんな日照り続きでも涸れた事がなかったと伝えています。

この池に水を呑みに来た馬は、徳川幕府が下野牧に放牧していた野馬で、日本古来から生息している背丈1.2m程の小さな馬でした。池は、当初円形でしたが野馬の里入りを防ぐため元禄2年(1689)三方を土手で囲みました。この牧場を管理していた金ヶ作(松戸市)の役所は、牧内の水が日照りで涸れた時隣接する野付村より2人づつ日割りで動員して、この池の水を所々に置かれた樽に運ばせて野馬に呑ませました。又、年一度の池底の砂すくい作業も野付村農民の仕事でした。

平成3年3月
協力:房総の牧研究会
千葉市教育委員会
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この説明板のイラストを拡大して示します。

宝暦6年頃の想像図

青木更吉著「小金牧 野馬土手は泣いている」(崙書房)にはこの滝ノ清水と付近の野馬土手について詳しい説明があり、上記イラストの原画も掲載されています。

2011年12月22日木曜日

滝ノ清水

滝ノ清水の地理的位置

二宮神社の話題は前回まででひとまず終わりとします。
二宮神社に興味が湧いたのは、そこが印旛沼側水系と東京湾側水系の分水界地帯であり、有力な湧水場所であったため、それを活用した歴史的人文的事象が現在も残っていたからでした。

二宮神社と同じような湧水として、二宮神社から東南東約2.8㎞の地点の長作川谷頭に湧水がありましたので、この湧水(「滝ノ清水」)について、複数の記事にして紹介します。
滝ノ清水の位置は次の通りです。

滝ノ清水の位置
千葉市DMデータ、習志野市DMデータによる。

残念ながらこの滝ノ清水は平成になった頃埋め立てられて、現在はありません。

現在の滝ノ清水跡の状況
左が谷津、右が台地

大正6年測量の旧版1万分の1地形図「大久保」には滝ノ清水の姿が池として描かれています。

旧版1万分の1地形図「大久保」部分

池の大きさをGIS上で計測すると、周長64m、面積270平方mとなりました。
滝ノ清水の東台地には大きな凹地があり、この清水の地下水涵養場所であることを想像してしまいます。
また滝ノ清水から野馬土手が南東に延びています。

滝ノ清水付近の現在の地形は次のようになったいます。

滝ノ清水跡付近の現在の地形
5mメッシュをカシミール3Dで運用。レリーフの段差は1m。

2011年12月21日水曜日

下総三山の七年祭り

船橋市三山の二宮神社 4

二宮神社を中心にして、船橋市・千葉市・習志野市・八千代市の9つの神社が集まる下総地方を代表する寄合祭りが「下総三山の七年祭り」として千葉県指定無形文化財となっています。

祭りは9月に行われる小祭と、11月に行われる大祭からなり、6年毎の丑年と未年に行われ、数え年で7年になることから、七年祭りと呼ばれています。

お祭りの起源には複数の説がありますが、室町時代の千葉一族、馬加康胤にまつわる安産祈願と安産御礼の故事に由来する説が有力とされています。

小祭はかつて湯立ての神事により大祭の日を占ったことから湯立祭とも呼ばれ、二宮神社だけで行われます。神輿や山車などが、一日かけて三山町内をねり歩きます。
大祭初日は、「禊式」で、旧鷺沼海岸に行き身を清め、翌日に備えます。
2日目は「安産御礼大祭」で神揃場(船橋市三山7)に全ての神社の神輿が勢揃いし、七曲りと呼ばれる道を通って二宮神社に向かい、昇殿して参拝します。
3日目の「磯出祭」は千葉市の旧幕張海岸で、4社によって行われる安産を祈願する祭事です。このあと二宮神社と子安神社の神輿による「別れの儀式」を行い、その帰りに二宮神社の神輿だけが習志野市鷺沼の「神之台(火の口台)」に立ち寄って、神事を行います。この神事は、祭りの終わりを知らせるものと言われています。

各神社の役割は次の通りです。
二宮神社(船橋市三山)          父
子安神社(千葉市花見川区畑町)    母
子守神社(千葉市花見川区幕張町)  子守
三代王神社(千葉市花見川区武石町) 産婆
菊田神社(習志野市津田沼)       叔父
大宮大原神社(習志野市実籾)     叔母
時平神社(八千代市萱田町、大和田) 長男
高津比咩神社(八千代市高津)     娘
八王子神社(船橋市古和釜町)     末息子

(以上船橋市教育委員会の説明板による)

この祭りに参加している地域を俗に注連下(しめした)23か村といい、その範囲は馬加(現幕張)、天戸、畑、武石、長作(以上千葉市)、高津、萱田、大和田、麦丸(以上八千代市)、久々田(現津田沼)、実籾、谷津、藤崎、鷺沼(以上習志野市)、田喜野井、中野木、古和釜、大穴、坪井、楠が山、八木ヶ谷、高根、飯山満(以上船橋市)の23の村々です。

七年祭り参加神社と注連下23か村の分布

船橋市教育委員会の説明板

七年祭りは550年以上の歴史があり、直近では2009年11月22日~23日に行われました。
次回は2015年11月ということであり、是非とも見物してみたいと思います。

なお、七年祭り参加9神社のうち、未訪問神社については近々訪問してみたいと思いました。

2011年12月20日火曜日

GROBEさんコメントの感想

2011.12.14記事にGROBEさんから次のコメントをいただきました。感謝申し上げます。

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近隣に住む者ですが時々拝見させて頂いております。
気になりる点が有りますが、縄文海進を過大評価されているように感じます。
神場公園近くの低地部で標高7mなので花島以北まで入り江だったという考えには無理があります。
柏井橋は昔橋が必要ない程谷底が浅かったそうです。
311時に亥鼻橋近くの川べりが崩落したのですが、地下2〜3mで真っ黒な淡水性泥炭層に見えました。
ちなみに印旛沼側の縄文海進のMAXは宮内橋付近だそうです。

もう一点 花島観音の場所を指して花島と言われているように感じますが、地元でそのようには言わず、村域全てを指して花島と言います。
既に亡くなった古老から聞いた話では、花島村は大昔別の場所の台地上にあり、風が強すぎるからという理由のため移転したそうです。
言い伝え的な伝承なので理由は正確ではないと思われますが、周辺村に比べ非常に狭い村域から、割り込み的に移転して来たのかも知れません。
ちなみに同古老の話によると花見川は飛び越せる程の小川であったそうです。
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このコメントに関連して、私が理解している事柄をまとめてみました。

1 縄文海進の海が、花見川のどこまで入っていたかという問題
次の地層の柱状図は千葉県地質環境インフォメーションバンクから得たもので、標高を揃えて示しました。

花見川谷底の地質柱状図

地質柱状図の位置

柱状図の位置は下流(左)から花見川大橋付近、花島付近、柏井橋付近を示しており、距離間隔はそれぞれ900m程度です。

この柱状図を私は次のように解釈しました。
A層とB層はN値が1程度であり、C層はN値が50程度で全く異なり、A、B層は沖積層、C層は洪積層(木下層+上岩橋層)と考えました。
つまり、C層の上面が縄文海進のあった時の谷底で、B層が縄文海進が進んでいった時の堆積物と考えます。
縄文海進の最盛期の海面高度は標高2mから3mと言われています。
柏井橋付近のB層は高度的には縄文海進の影響の範囲内です。
細長い内湾奥での海と川の微妙な関係をリアルに想像できませんが、B層下部が海成であってもおかしくないと思います。
川の流域はいたって小さいので、川の影響は少ないと考え、海進最盛期には柏井まで海が来ていたと考えています。
後谷津、前谷津まで海が入っていたと考えます。

A層はいわゆる化灯土で、海が引いて行った時の湿地にできた植物の腐植層であると考えます。

つまり、花島を例にとれば、谷底の標高は次のように変化したと考えます。
最終氷期には谷底の標高は-3m程度であった。
縄文海進の最盛期が終わって、海が引いていった頃の谷底の標高は2m程度であった。
その後谷底の湿地の腐食層の堆積が進み、標高は4m以上になった。
その後花見川の洪水堆積や盛土等により谷底の標高は現在の約7mになった。

私は現在の谷底標高から、縄文海進の海がどこまで入っていたかを厳密に知ることはできないと思っています。
しかし、花見川付近では、貝塚の分布等から、標高10mの等高線のあたりまで縄文海進最盛期の海が入っていたと、便宜的に平面位置を捉えると、いろいろな問題を整合的に解釈できることが多いと考えています。

なお、調べてみると、「千葉市史 原始古代中世編」(千葉市発行)には清水作貝塚の記述があります。
また、花見川沿いに縄文遺跡が分布していることから、花見川の奥深く細長く入り込んだ縄文の海と人の生活の関係を調べることにも興味が湧きました。

2 地名「花島」について
資料では、千葉市花見川区花島町は千葉郡犢橋村大字花島(1889年犢橋村村制施行)に由来し、その前は下総国千葉郡花島村です。
今、花島は集落と田畑林全体を指した地名です。
花島観音のあるところだけを「花島」と呼んでいないと思います。(小字名は「中島」であると資料に出ています。)

この町名(村名)の由来は「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」によれば、「周囲に水をめぐらした台地上に祀られたことにちなんで称された、花島観音の山号(花島山)に由来すると伝承されている。」とされています。

私は、その「花島観音」「花島山」の「ハナシマ」はどうしてつけられたのか、考えました。
そして、「ハナ」は「ハナミガワ」、「ハナワ」などと同じ語源(突端、出っ張りの意)であり、「シマ」は花島観音のある場所の島状の形状に由来すると考えました。
このような私の仮説を、仮説としてではなく、自明のように記事を書いてしまったので、誤解を与えてしまったのかもしれません。お許しください。

なお、「既に亡くなった古老から聞いた話では、花島村は大昔別の場所の台地上にあり、風が強すぎるからという理由のため移転したそうです。」というお話は大変興味をそそられます。
とても短いものですが、花島村の最初の移住を物語る民話として理解できます。
私のかってな想像では、その台地とは西方向の台地だと思います。
柏井の最初の移住も西側からのものだと、地名の付け方から想像しています。(西側の谷津を前谷津と呼び、東側の谷津を後谷津と呼んでいることから、母集落の方向[西側]を向いて[意識して]地名を付けたと考えました。)

GROBEさんからまたコメントをいただけるとうれしいです。

2011年12月19日月曜日

二宮神社の名所絵図

船橋市三山の二宮神社 3

成田参詣記に二宮神社(当時の名称「三山明神社(みやまみょうじんやしろ)」)の絵図が掲載されています。
建物の配置は現代と変わりません。

成田参詣記収録の三山明神社
(「現代語訳成田参詣記」大本山成田山新勝寺成田山仏教研究所発行より転載)

この絵図に地形区分を加えると次のようになります。
絵図に御手洗之泉こそ表現されていませんが、それがある谷津谷頭は意識して描かれています。

絵図三山明神社の地形解説

2011年12月18日日曜日

船橋市三山の二宮神社 2

二宮神社の地理的位置

基盤地図情報5mメッシュとカシミール3Dを使って二宮神社の地理的位置説明俯瞰図を作成しました。

二宮神社の地理的位置

ミクロにみれば、この図は、三田川の一つの谷津谷頭部にある湧泉を挟んで台地北側(左)に二宮神社拝殿、南側(右)に参道正面鳥居が位置していることを示しています。

マクロに見れば、犢橋川谷頭部の子和清水、長作川谷頭部の湧泉などとほぼ直線状に連なる位置(東京湾側水系の谷頭前線)に二宮神社があることを示しています。

花見川の河川争奪流域(仮説)を参考に示しました。

2011年12月17日土曜日

船橋市三山の二宮神社 1

参道の地形的特異性

以前の記事(2011.8.18「流域界付近の泉と文化の検討」)で、その「予察」を書いたように、船橋市三山の二宮神社は多様な視点から興味を募らせるものです。

まだ炎暑の季節だった9月11日に現地に出向き参拝し、様子を体感しました。
しかし、このブログでは他の話題で忙しかったので報告しそびれていました。そこで、写真の趣は今の季節に合いませんが、現場の状況についてレポートしてみます。

神社正面の鳥居をくぐると、谷津斜面を降りて谷底に至ります。
そして再び谷津斜面を登り本殿に至ります。
参道が谷津地形を横断するという特異な形態になっています。

1正面鳥居

2一旦谷津谷底に降りる参道

谷底には「御手洗之泉(みらたらしのいけ)」があります。

3御手洗之泉(みらたらしのいけ)

二宮神社付近の地図と写真位置
船橋市より提供していただいたDMデータです。

旧版1万分の1地形図「大久保」部分
大正6年測量

残念ながら泉(いけ)そのものは現在貧相な形状になってしまっています。
しかし、この神社のオリジナリティーがこの泉(いけ)にあり、この泉(いけ)に参拝することこそが真の意味で神社に参拝することであることがよく理解できました。
そのような理解を万人にさせるための仕掛けとして参道の特異な地形利用があることもよく理解できます。

泉脇の碑には次の文面が書かれています。 ……………………………………………………………………
御手洗之泉
みたらしのいけ

この泉は往古から湧き出ていた泉である
私達の祖先はこの泉を発見しこれを水源地としてこの附近で農耕の生業を創めたものと推測される
その昔この地は老松古杉が森々として崇厳の気が充ち充ちて「御山」を称ばれていた
この神域に健速須佐之男命・櫛稻田比売命・大國主命を祭神として二宮神社を創立し三山の守護神とした
米づくりは住民の生業の中心をなしこの泉は必要欠く可からざるものであった
時により干天が続き民家の井戸が乾いてもこの泉だけは枯れることなく渾々と湧出を続け村民の生命を護り続けて現代に至っている
古老はこの泉の水を飲むと母親の乳が良くでると言い伝えてもいる
この清水の湧出がある限り三山の繁栄を象徴する泉である。

昭和四十九年二月十五日記
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御手洗之泉を参拝してから谷津斜面を登りると拝殿が眼前に現れます。

4 拝殿

(つづく)

2011年12月15日木曜日

下総国印旛沼御普請堀割絵図

八千代市立郷土博物館より下総国印旛沼御普請堀割絵図(八千代市文化財)の画像ファイルの提供を受け、このブログで公表する許可をいただきましたので紹介します。

下総国印旛沼御普請堀割絵図(八千代市立郷土博物館提供)

この絵図は八千代市ホームページによれば次のように説明されています。
……………………………………………………………………
印旛沼の堀割工事に係わった時に描かれたものです。
 当時の印旛沼周辺の村々のことが描かれ、また工事に関して必要な記述もみられ、当時の村の様子や工事計画の一端を知ることができる歴史資料として重要なものです。
 利根川が東遷(とうせん)したことにより、利根川が増水すると、印旛沼に大量の水が逆流し、印旛沼周辺が洪水にみまわれ、大きな被害を受けるようになってしまいました。そこで洪水を防ぎ、干拓により新田開発をするため開削工事が行われました。工事は新川と花見川をつなげるというものでした。
 江戸時代だけで3回行われましたが、いずれも成功しませんでした。この絵図は2回目の安永・天明期のものと推定されます。
 所蔵者の信田家はこの工事に積極的に参画しており、指定文化財の附(つけたり)とした安永9年(1780年)の「下総国印旛沼新開大積り帳」と天明3年(1783年)の「印旛沼新堀割御普請目論見帳」もその時の資料で、当時の計画を知ることができます。
……………………………………………………………………

以前の記事(2011.11.1「絵図注記文字の解読を教えていただく」)で紹介したとおり、この絵図の印旛沼水系新川(勝田川)と東京湾水系花見川の間に「コノ間 拾四丁芝地 高七丈壱尺」という注記文字が書かれています。

また、その注記文字の新川(勝田川)側に「溜井」が描かれていて、その部分の台地に谷状の地形が存在していたことを暗示しています。


下総国印旛沼御普請堀割絵図部分(八千代市立郷土博物館提供)

この絵図は、天明期印旛沼堀割普請の前には、横戸村と柏井村の間の台地に分水界があったことを示す貴重な地形歴史資料の一つです。

この絵図画像のブログ公表を許可していただいた八千代市立郷土博物館と所蔵者に感謝します。

2011年12月14日水曜日

流域レベルの地形断面図

5mメッシュをカシミール3Dで運用して、流域全体の地形断面図を作ってみました。
ワンタッチで次の断面図が作成できます。

流域を横断する地形断面図

地形断面図線の位置

流域をこのような断面図7枚で輪切りにして、比較することも試行しましたが、ほんの数分で作業は終えました。手作業では気の遠くなるような作業です。

上記の地形断面図で谷津谷底の高度を連ねてみると、中央部で低くなるカーブを描いています。
花見川は河川争奪があり、かつ堀割普請で深く掘り下げていますから直接の検討から一旦取り外す必要がありますが、その他の谷津谷底は縄文海進の影響を受けて埋積した沖積面という条件の下で比較することができます。

谷津谷底高度が断面中央部(流域中央部)で低く、断面縁辺部(流域縁辺部)で高い理由と、私が考える河川争奪成因(*)と密接な関係があると考えており、今後検討を深めたいと考えています。

* 2011.11.20記事「地理的位置仮説」参照

2011年12月13日火曜日

絵遊び

基盤地図情報5mメッシュとカシミール3Dを使って絵遊びをしてみました。

視点を花見川河道内の元弁天社付近に置き、360度のパノラマ風景を「撮影」し、そのうち成田山参詣記の絵図「印旛沼鑿開趾」とほぼ同じ視界を切り抜き、水平方向を圧縮デフォルメしてみました。

カシミール3Dで描いた花見川元弁天社付近の地形

成田山参詣記収録絵図「印旛沼鑿開趾」

この絵遊びをしてみて、カシミール3Dと5mメッシュデータの組み合わせは、地形を俯瞰するという利用だけでなく、風景の検討に使えるかもしれないと、気がつきました。
過去の地形図等から過去地形のメッシュデータを生成できれば、過去の風景画像を描くこともできる可能性を感じました。

2011年12月12日月曜日

地形断面図のレトロでない作成法

基盤地図情報5mメッシュとカシミール3Dの活用

2011.12.8記事「地形断面図のレトロな作成法」に対抗できる、「レトロでない作成法」を紹介します。

基盤地図情報5mメッシュ(国土地理院より無償提供されている標高データ)をカシミール3D(フリーソフト)で運用すると、次のような地形断面図がワンタッチで作成できます。

カシミール3Dで作成した地形断面図

断面図の位置

地形断面図作成の手順は次の通りです。
1 画面上で断面の始点で右クリックし、出てくる窓の項目から「断面図」を選択する。
2 断面の終点の位置をクリックする。
これで断面図のウインドウが開きます。
好みの断面図に変更できるように各種ボタンがありますが、今回の作業では縦軸をいじって見やすくしました。(カシミール3Dは山岳における利用を標準としているので、縦軸の1メモリが100mになっている。)
断面図ウインドウのなかの人形アイコンを動かすと、その場所の高度などの情報が表示されます。

同じ位置の「レトロな作成方法」による地形断面図を次にしめします。

DMデータから手作業で作成した地形断面図

DMデータ等高線情報と5mメッシュでは精度上の差が歴然としています。
DMデータ等高線情報から私は東岸と西岸の河岸段丘の高さが違うと判断していましたが、5mメッシュの情報から、それは間違いで、両岸の河岸段丘は高度面でほとんど同じであることが確認できました。

もう、レトロな方法で作成した地形断面図は使えません。