2011年3月31日木曜日

花見川被災の追加情報

緊急報告 東日本巨大地震による花見川被災状況1」(2011年3月24日記事)の「5堤防法面の大陥没」の動画を次に追加します。


緊急報告 東日本巨大地震による花見川被災状況2」(2011年3月24日記事)の「8打瀬2丁目、3丁目地先の堤防パラペットの大規模倒壊、損傷」の動画を2本次に追加します。



花見川中流紀行 22明治前期の道教石

 迅速図「千葉県下総国千葉郡畑村」図幅の視図に「イ 天戸村」として道教石が掲載されています。
 道教石の御成街道に面する正面には「花島山正観世音」、向かって右側には「是ヲ北観音堂へ八町」、左側には「西ふなはし道」と書かれています。以前紹介した柏井の道教石(花見川上流紀行28現存する道教石)と彫られた文字の書体や全体のデザインが似ていて、同じ職人グループが作ったことを感じさせます。

            迅速図視図 イ 天戸村

            道教石の現況

 道教石の位置は迅速図の中で「イ」として掲載されています。(図中交差点の東北隅に「イ」が書かれていますが、道教石の実際の位置は西北隅にあります。)

            迅速図

            現代図

 そばに千葉市文化財説明板が設置されていて、この石塔の説明があります。この十字路が御成街道と検見川道の交差点であることや観音信仰が盛んであったことが書かれています。

            千葉市文化財説明板

 なお、迅速図にこの視図(イラスト)が掲載された理由は、あくまでも軍事的理由です。つまり、軍隊が作戦行軍する際の地図読図に際して、道を間違わないための目標となる道教石(道案内のある石塔)の場所と見た目(写実)を参考にすることが出来るようにするためです。

2011年3月30日水曜日

花見川中流紀行 21昭和5年の花見川橋

 「検見川」について確認したいことがあり、「絵にみる図でよむ 千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)を見ていたら、たまたま「千葉県検見川町鳥瞰図」(昭和5年1月松井天山写生、成田山仏教図書館所蔵)を見つけました。その中に花見川橋がリアルに描かれており、橋脚の本数や欄干の様子が迅速図視図の花見川橋と似ているので掲載します。

 迅速図の測量が明治15年(1882年)で千葉県検見川町鳥瞰図の作成が昭和5年(1930年)ですからおよそ50年の間隔があります。従ってその間に何度か架け替えが行われた可能性は大ですが、基本的な構造や形状を変えていないようです。(河道の位置は変わったけれども)このような構造、形状が現在の新花見川橋にも継承されていることを考えると、それが洪水や潮汐のエネルギーあるいは社会が必要とする利便性(橋上の通行や橋下の通航)にマッチしていたものであると考えます。

            「千葉県検見川町鳥瞰図」の部分
            (「絵にみる図でよむ 千葉市図誌 下巻」〔千葉市発行〕より引用)

 「絵にみる図でよむ 千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)では「千葉県検見川町鳥瞰図」について詳しく説明するとともに、作者の松井天山(1869~1946)についても大正10年代から昭和10年代にかけて都市鳥瞰図を中心に数々の地図を残した人として、作品リスト付きで紹介しています。

            「千葉県検見川町鳥瞰図」
            (「絵にみる図でよむ 千葉市図誌 下巻」〔千葉市発行〕より引用)
 この鳥瞰図を見ていると、現在もある神社、停車場、学校などを手がかりにして、紙上散歩をいつまでも続けてしまします。この付近で潮干狩りをしたことのある年代の1人として、時間が過去に戻ってしまいます。
 なお「千葉県検見川町鳥瞰図」は著作権が消滅しています。

2011年3月29日火曜日

花見川中流紀行 20明治前期の花見川橋と岡阜

            ホ 花見川橋縦断面(五百分一)

 迅速図(明治前期測量2万分1フランス式彩色地図-第一軍管地方二万分一迅速測図原図-)と視図(しず)〔地図に描かれているスケッチ〕の説明は以前の記事(花見川上流紀行27明治前期の新川橋〔現大和橋〕)で行いました。首都防衛のために陸軍が明治15年ごろ作成した地図です。
 この迅速図の「千葉県下総国千葉郡馬加村」図幅の視図2点を紹介します。

 上に掲載したのは当時の花見川河口付近に架かっていた国道の花見川橋の縦断面図です。500分の1というスケールが出ているので、地図上で計測すると、橋の長さ19m、欄干の高さ1m、水常(平均水面の意か)からの高さ1mとなりました。
 現在この場所は陸地になっており、花見川は西に150m程移動しています。その部分に架かっている橋は「新花見川橋」です。

            新花見川橋

 明治前期花見川橋と新花見川橋の見かけが似ていることが印象的です。

 次は岡阜です。読みは「こうふ」、意味は「おか。小高いおか。」(新修漢和広辞典、集英社)です。江戸から明治時代の軍事用語かもしれません。現在は花見川によって切断開削されていますが、かつて幕張平野に突出した台地の先端がありました。この台地先端の断面図が視図に出ています。この場所は幕張平野を一望できるので、野砲設置場所、偵察場所、指揮場所などとしての軍事価値を認めて視図を作成したものと思われます。

            ハ 検見川村国道之北側岡阜断面(四千分一)

 下の写真は上流の瑞穂橋から下流方向を眺めたもので、両岸に樹林が見えますが、左側の樹林が岡阜の頂部、右側の樹林がそれと切断されて孤立した岡阜の脚部です。(話しは違いますが、この脚部には貝塚があります。)

            瑞穂橋から下流を望む

 次に「ホ 花見川橋縦断面(五百分一)」と「ハ 検見川村国道之北側岡阜断面(四千分一)」の位置が掲載されている迅速図(部分)とほぼ同じ場所の現代地図を掲載します。

            迅速図

            現代地図

2011年3月28日月曜日

松本清張「天保図録」に登場する秘法「流堀り工法」


 以前の記事でも書きましたが、WEB経由での格安古書購入が、私の最近の癖になっています。「印旛沼開発史」(全4巻、栗原東洋著)、「印旛沼開発工事誌」(水資源開発公団印旛沼建設所)などが手に入りました。北海道や名古屋の古書店から申し訳ないような値段で入手できました。花見川のことを考える上で基本図書ですから手元においていつでも見れるようできました。
 いつぞやにはこれらの本を解体、スキャンして透明テキスト付きpdfにして、パソコンの中で検索しながら利用できるようにしたいです。しかし、そうする時間がもったいないので、当面紙の本で使うしかありません。

 さて、「印旛沼開発史」(栗原東洋著)のページをめくっていると天保工事の記述の中に「流し堀工法と御普請方秘伝という説」という項目があります。この中で、松本清張「天保図録」の記述が引用され、検討されています。興味を持ちましたので、古書購入サーフィンよろしく、WEB経由で松本清張全集27巻「天保図録 上」、28巻「天保図録 下」(文芸春秋社)を購入してみました。

 松本清張「天保図録」は昭和37年から昭和39年にかけての3年間週刊朝日に連載された天保改革を主題にした長編歴史小説です。あとがきで著者みずから「だいたい、史実に沿って書いてきた」と述べています。史実と違う部分を自ら指摘して「あえて考証家の指摘に備えておく」と書いているほどです。

 小説の後半で、天保改革を主導した老中首座の水野忠邦によって開始された印旛沼開鑿(かいさく)が舞台となります。

 印旛沼開鑿の終盤で、目付鳥居耀蔵が大和田あたりから花島観音まで、雨中の氾濫工事現場を視察します。工事の失敗が明白となっている現場です。鳥居は、その結果をわざと隠して、工事が順調であるように老中水野忠邦に報告します。鳥居の魂胆は水野がこの工事を続けて工事の失敗を確実なものにすることにあったのです。鳥居の楽観的な報告に疑問を持った水野が別の正確な報告をした者と対決させる場面があります。ここで鳥居が、難渋している化灯土対策として、御普請方の秘事として伝えられている関東流の「流堀り」工法を使えば、工事は順調に進むと述べます。それで対決に勝利します。
 「流堀り」工法とは、人力ではなく、洪水の流水パワーを利用して土砂(ここでは化灯土)を掘削流下させる工法です。
 結果、水野は失脚していき、鳥居の裏切り、保身が一時成功します。小説はそのように続いていきます。

 松本清張は、鳥居が「流堀り」工法を知った根拠として、鳥居の関係する印旛沼開鑿関係技術者が幕府の書庫から享保普請の際の地元庄屋の上申書を見つけ、その中に化灯土対策として「流堀り」工法の具申があったとしています。(その上申書の内容はその後関東流工法の中に組みいられ御普請方の秘事となったとも書いています。)

 この小説を栗原東洋は「印旛沼開発史」の中で詳しく取り上げています。そして、小説だからしかたがないが、出典を明らかにしていないのでそのまま鵜呑みにできない、しかし「いかにもありそうなこと」であるとしています。

 これに加えて、栗原東洋は天保工事の第三工区(第三の手)の現場監督の1人であった新津順次郎が工事中止後、工事再開を求めた意見書を提出し、その中で化灯土対策として「流堀り」工法を提案していることを紹介しています。そのときの具体的工法は、単に水勢を利用するだけでなく、堰上げの方法で人為的に洪水を起こす方法であることが記述されています。

 なお、松本清張の「天保図録」は花見川の現場を視察してこの小説を書いただけあって、大和田から花島付近までの地物の記述は、よく特徴をつかんでいるように思いました。特に、柏井村付近を鳥居が通る際、竹薮の場面を書いていますが、別の記事(花見川上流紀行17竹林その1)で書いたとおり、柏井付近の竹林はこの付近特有の文化景観ですから松本清張の土地を見る目の鋭さに感心しました。
 また、水資源開発公団の方からいろいろ説明を受けて、その情報を小説の中で開陳していると想像させるような場面もあり、興味をそそられました。

2011年3月27日日曜日

花見川流域の魅力と地域づくり


 私は次の3つの事柄に興味を持っています。
1 「趣味の散歩」のICT化、高度化を図り、地域発見ツールとして開発すること。
2 このツールを使って、花見川流域の魅力、アイデンティティを徹底的に探ること。
3 得られた情報を少子高齢化時代のまちづくり、かわづくりに活かす方策(システム)を発見開発すること。
 このブログでは、上記3つの事柄の取組活動プロセスを同時進行的に報告し情報発信しているものです。

 情報発信の順番は花見川本川筋を上流→中流→下流と進み(現在は中流の途中)、次いで高津川筋、勝田川筋、犢橋川筋、畑川筋、長作川筋、浪花川筋と進んでいくつもりです。情報発信したいと思っている「面白い」題材が沢山あるので、闇雲に情報発信していても散漫になりそうなので、ここでは活動を振り返り、今後の方向性の検討をつけておくことにします。

1 「趣味の散歩」のICT化、高度化を図り、地域発見ツールとして開発すること。
 GPS、GIS、各種ソフト活用などについてこれまで報告してきました。またWEBにある情報の効率的、効果的活用についてもスキル向上に努めています。今後も意欲的に取り組み、早まる時代の動きに負けないようにしたいと思います。なお、開発・スキルアップで満足してとどまることなく、実用ツールとしての活用実績を積み上げていきたと思っています。

2 このツールを使って、花見川流域の魅力、アイデンティティを徹底的に探ること。
 これまでの記事に収録された花見川流域の魅力、アイデンティティに関するキーワードとして、例えば次のようなものをリストアップすることができます。
 横戸弁天、元池、河川争奪、泉、砂利道、土置場跡、堀割普請、竹林、化灯場、続保定記、野鳥、花島公園、道教石、花見川の語源、白鳥、河川景観、魚類、カワセミ、縄文海進、活断層、花見川の出自、素掘堀割
 まだ本川筋だけです。今後支川筋を含めて花見川流域の魅力、アイデンティティに関するキーワードで、いままで見過ごされてきたもの、価値を軽視されてきたものなどに焦点を当てて記事として書いていきたいと思います。

3 得られた情報を少子高齢化時代のまちづくり、かわづくりに活かす方策(システム)を発見開発すること。
 この点では、これまでほとんど取組をしてきていません。しかし、流域の魅力やアイデンティティに関わる素材が集まりだしたので、これから取組を強めたいと思います。
 特に、素掘堀割の文化遺産的、土木遺産的価値に着目して、次のような方策アイディアが頭の中で思い浮かんでいますので、メモしておきます。こうしたメモを修正・肉付け・発展させながら活動していきたいと思います。

A子どもの学習支援
・千葉市、八千代市の小学校では、教科(社会科)で堀割普請を学習している。
・子どもたちが素掘堀割の現場に来て、安心して学習できる環境をつくることが大切だ。
・そうすることで、子どもたちの学習が深まるし、素掘堀割が残っていることの価値が生きる。
・子どもたちを素掘堀割の現場に呼ぶためには、地域の諸団体・行政が協力して様々なことを実現しなければならない。
・安全対策、トイレ、学習用説明板、教材、現場案内者、現場講師・・・
・保護者だけでなく、町内会、市民団体など地域住民の協力や意欲がなければできない。
・河川管理者、公園管理者(サイクリング道路)、事業者(水資源開発機構)の対応、協力が必須である。
・例えば千葉市花見川公園緑地事務所と八千代市郷土博物館が連絡連携するなど、自治体の違い、部局の違いを乗り越えた協力関係が大切である。八千代市の学校が現場学習をして花島公園を利用したり、千葉市の学校が現場学習の後八千代市郷土資料館を利用したい。
・こうしたことが実現の方向で動けば、地域内部のコミュニケーションや連携が深まる契機になるだろう。
・子どもたちが現場に来て学習できれば、堀割普請の学習を深めることが出来るだけでなく、河川・水環境・野鳥や自然環境・地域の歴史などに興味を拡げることもできるだろう。
・こうした活動が始まれば、保護者(子育て世代)と地域住民(高齢者)の交流が促進され、子育て世代のニーズが社会に反映されやすくなるだろう。
・こうした活動が始まれば、興味を持った住民が集まってきて、様々な自主的活動が盛んになるにちがいない。
・子どもたちの学習だけでなく、一般住民が堀割普請の学習、地域の自然・社会・歴史の学習をする仕掛けの構築も可能となる。

B花見川を軸としたフィールドミュージアム活動の展開
・花見川には文化的遺産、土木的遺産としての価値がある素掘堀割が残されている。
・しかし、その価値は忘れられていて、社会はそれを活用していない。
・素掘堀割以外にも花見川には沢山の文化・歴史・自然資産がある。本川筋の一部だけでも横戸弁天、元池、河川争奪、泉、砂利道、土置場跡、堀割普請、竹林、化灯場、続保定記、野鳥、花島公園、道教石、花見川の語源、白鳥、河川景観、魚類、カワセミ、縄文海進、活断層、花見川の出自などがある。支川筋を加えれば膨大な資産がある。
・これら地域が有する資産全体をネットワークとして捉え、持続可能な方法で保全・展示・活用していく仕組みを市民主導で構築していく。
・エコミュージアムやジオパーク、グラウンドワークなどの取組が参考になる。(ただし、そうした「ブランド」の直輸入を目的にしない。)
・最初の取組は、言いだしっぺとなる市民グループを形成し、どのような資産があるのか、現場で確認し、専門家の意見も聞きながら自分たちでリストアップすることだろう。
・専門家の指導を受けつつ、市民の目線で資産リストを作る活動が進展すれば、資産の保全・展示・活用方法などのアイディアは豊富化し、方向性も見えてくる。
・市民の活動が広がれば、行政の協力も得やすくなる。

2011年3月26日土曜日

印旛沼堀割普請の丁場と素掘堀割の残存

●印旛沼堀割普請
天明期および享保期の印旛沼堀割普請は干拓による新田開発と防災のための地域開発で、地元のニーズに従って実施されました。(この2つの普請は最終的には失敗しました。)この普請跡(古堀筋)を利用して天保期の印旛沼堀割普請が行われました。幕府が外国船による東京湾封鎖を恐れて、舟運による物資輸送ルート確保(東北沿岸→利根川→印旛沼→東京湾)を主眼に実施されたものです。(この普請も完成することなく終わり、印旛沼開発の完成は昭和43年度まで待たなければならなかったのです。)

●お手伝い普請
天保期印旛沼堀割普請はお手伝い普請であり、幕府の命により次の全国5藩が従事しました。
1の手(平戸村~横戸村) 沼津藩(水野家) 現静岡県沼津市
2の手(横戸村~柏井村) 庄内藩(酒井家) 現山形県鶴岡市
3の手(柏井村~花島村) 鳥取藩(松平家) 現鳥取県鳥取市
4の手(花島村~畑村)  貝淵藩(林家)  現千葉県木更津市
5の手(畑村~検見川村) 秋月藩(黒田家) 現福岡県甘木市

●丁場区分
1の手から5の手までの丁場(工区)区分は、久松宗作著「続保定記」の絵地図に境界現地における3本の境界杭(各藩1本の領域説明杭、持場境杭)と旗2本(日の丸、御用)のイラスト入りで表現されています。
続保定記における丁場(工区)区分のイラスト表現
 上図は柏井村右岸台地上の丁場(工区)区分表現です。左から御用の旗、鳥取藩の領域説明杭、持場境杭(領域説明杭の半分以下の丈)、庄内藩の領域説明杭、日の丸の旗が表現されています。また領域説明杭の説明内容がイラストの上に文字で書かれています。(イラストは「天保期の印旛沼堀割普請」〔千葉市発行〕より引用)

●丁場区分のプロット
 続保定記の絵地図に表現された丁場境界杭の位置を近代測量図にプロットしました。プロットは次の4つの要因により、ストレスなく、思った以上に正確に出来ました。
1 天保期と地物変化量の少ない近代測量図を使えたこと
使った近代測量図は大正6年測図1万分の1地形図です。この地形図に表現されている地物は天保期の地物と変わったところはあまり無いので、プロットするには効率的です。現代の地図に直接プロットすることは、地物改変量が多く、困難です。
2 続保定記絵地図のデジタル巻物を使ったこと
冊子版の絵地図画像を1枚のデジタル巻物に編集したことによって比定作業の飛躍的効率化を図れました。
3 GPS、GIS活用によって土地勘の向上が図られていたこと
私の散歩では、GPSロガーを利用することにより現場写真に位置情報を埋め込み、それをGISでマップ表現して利用しています。この作業を散歩ごとに繰り返すことにより、通常では得られない精度の高い野外土地勘を得ることができました。続保定記の絵地図は鳥瞰図的視点で表現されているように見えますが、その本質は野外に立った人が見た情景を写実的に表現しています。ですから、絵地図に表現された情報は、私が得た野外土地勘と共通(共振)するものがあるように感じました。
4 久松宗作の観察眼が鋭く、表現に写実性があったこと
作業した後で判ったことですが、続保定記著者の久松宗作の観察眼が鋭く、地形をはじめとする地物の現場の特徴をよく押さえ正確であること、その表現に写実性があったことが一番重要だと思いました。

次図は、続保定記の絵地図に表現された丁場境界杭の位置を近代測量図にプロットした結果に、出自タイプを併記して示します。


印旛沼堀割普請の丁場区分

●庄内藩の持場
 上図の内、庄内藩の持場を次に拡大して表示します。


庄内藩(酒井家)の持場

 庄内藩の持場の出自タイプを見ると、古柏井川タイプの全てと花見川争奪化灯タイプの一部となっています。
 花見川の6つの出自タイプのうち、堀割を素掘した普請は出自が古柏井川タイプの区間だけです。つまり、庄内藩しか堀割を素掘していません。他の出自タイプは全て既存水路の改修であるといって過言ではありません。

●各藩持場と出自タイプ、工事内容の対応
つまり、各藩持場と出自タイプ、工事内容の対応には、次のような関係があります。
1の手 沼津藩 平戸川タイプ      平戸川の改修
2の手 庄内藩 古柏井川タイプ     堀割の素掘
          花見川争奪化灯タイプ 花見川の改修(化灯対策)
3の手 鳥取藩 花見川争奪化灯タイプ  花見川の改修(化灯対策)
          花見川化灯タイプ   花見川の改修(化灯対策)
4の手 貝淵藩 花見川化灯タイプ    花見川の改修(化灯対策)
          花見川砂地タイプ   花見川の改修
5の手 秋月藩 花見川砂地タイプ    花見川の改修

●素掘堀割のイラスト
 庄内藩が担当した古柏井川タイプの堀割素掘区間の現状写真とほぼ同じ場所の続保定記イラストを次に掲載します。

弁天橋から下流方向の堀割風景(現状)

続保定記掲載イラスト「百川雇丁場堀割之所」
            人海戦術による素掘の情景を描いている
(イラストは「天保期の印旛沼堀割普請」〔千葉市発行〕より引用)

●素掘堀割が有する価値
 谷底平野の河川改修の跡は現在では物としては何も残っていないと思いますが、堀割の素掘は物として残っています。この物として残っている素掘堀割の文化遺産、土木遺産としての価値について社会が気づき、地域づくりに活用するとともに、後世に伝えていくことが大切であると思います。

2011年3月25日金曜日

花見川の出自と被災箇所の対応

花見川の出自タイプ

 これまでこのブログでは花見川本川筋を対象に、散歩の中で思い浮かんだ河川争奪、化灯分布、縄文海進などの話題について情報発信してきました。これらの情報がある程度溜まってきたので、それを使って、本川筋の出自を地史的観点からタイプ区分してみました。

上図は縄文海進想定図を基図にして、出自を6タイプに区分したものです。下流から説明してみます。
1 東京湾埋立地タイプ
東京湾埋立地につくられた花見川本川の延伸部分です。
2 花見川砂地タイプ
花見川の本来の河口付近であり、続保定記(天保期印旛沼堀割普請の「工事誌」)で土質が「砂地」と記載されている区域。この区域の周辺には貝塚が分布していることから、縄文海進の頃は海浜的環境があったと考えられます。
3 花見川化灯タイプ
花見川の上流部分で、続保定記で土質が「化灯場」と記載されている区域。この区域は土質から縄文海進の頃は後背湿地的環境があったと考えられます。
4 花見川河川争奪化灯タイプ
花見川が古柏井川から河川争奪した区域。化灯が分布していて、天保期堀割普請では工事が最も難航した場所です。
5 古柏井川タイプ
花見川によって上流部分が河川争奪されたため、流域のほとんどを失い截頭川となってしまった河川です。最初の堀割普請(享保期)までは柏井村の「高台」付近を源流とし、平戸川(後の新川)方向に流れていました。この河川が平戸川に合流する所に「元池」と呼ばれる溜池があったものと考えられます。
6 平戸川タイプ
古柏井川、勝田川、高津川などを合流して印旛沼に流入する河川です。

 出自(地史的出自)タイプの違いは地形や堆積物の違いですから、当然のことながら過去・現在の普請(工事)、土木に影響します。

 天保期の堀割普請では3花見川化灯タイプと4花見川争奪化灯タイプの区間での工事が難航したことが、続保定記に詳しく報告されています。

化灯場で難儀している様子
 このイラストは久松宗作著「続保定記」(「天保期の印旛沼堀割普請」〔千葉市発行〕収録)に掲載されているもので、化灯場で工事が難航している様子を描いています。現在の柏井橋付近の工事現場で、右奥が下流の花島方面です。4花見川争奪化灯タイプの区間です。化灯場での工事をしやすくするために、上流からの水流を別水路をつくり足踏水車で下流に流しています。過去の工事杭が見つかった工事現場では、技術者が役人に対して、馬糞のような化灯土に三間竿(約5.4mの竿)を挿しながら「ドコ迄も入マス」と報告している情景が描かれています。

 2011年3月24日記事で報告した東日本巨大地震による花見川河川施設被災箇所を、出自タイプと重ね合わせて次図に表示しました。

東日本巨大地震による被災箇所と出自タイプ

 被災箇所が主に3つの出自タイプに集中的に関わっていることが特徴的です。
 1東京湾埋立地タイプの被災が最も深刻です。右岸堤防パラペットが倒壊損傷しました。地盤の液状化現象と揺れが主因のように考えられます。6つの出自タイプの中で、このタイプが最も脆弱な場所であることが検証されました。
 3花見川化灯タイプに被災が集中しています。一部花見川砂地にかかる部分もありますが、巨視的に見て花見川化灯に被災が集中していることに注目すべきだと思います。天保期堀割普請では化灯の存在が工事難航の主因でしたが、今回の堤防表法面陥没なども化灯の存在が関わっていることが考えられます。
 6平戸川タイプは印旛沼から奥に入った沖積地であり、花見川化灯タイプと類似した沖積堆積環境があり、それが今回の被災要因の一つであると考えられます。

 なお、今回の地震で花見川争奪化灯タイプに目立った被災がなかったことは、この区間の化灯分布域が現在の花見川水面下にほとんど水没しており、河川施設との関わりが無いためであると考えられます。
 また、花見川砂地タイプに目だった被災が無かったことは、一般に考えられている以上に、防災的観点からみた地盤が良好であることを物語っているのかもしれません。

2011年3月24日木曜日

緊急報告 東日本巨大地震による花見川被災状況 2

7真砂5丁目、4丁目地先の左岸護岸裏の地盤沈下
左岸護岸裏の地盤が30-40cm程一様に沈下していて、護岸が相対的に隆起したような形状を呈しています。サイクリング道路の中央部の舗装の継ぎ目や道路脇から噴砂が出ています。
護岸自体に損傷はないようです。ここの護岸は鋼矢板の基礎の上に乗っていることが対岸からわかります。

            護岸裏地盤沈下の場所

            地盤の沈下と噴砂


8打瀬2丁目、3丁目地先の堤防パラペットの大規模倒壊、損傷
 500mくらいにわたって、堤防パラペットが大規模に倒壊し損傷しています。倒壊している部分を見ると、多量の噴砂が見られていることから、地盤の液状化現象と強い揺れにより、石の上においてあったコンクリートパラペットが自分を支えられなくなり、転倒したように見えます。倒壊していない部分も噴砂により転倒寸前のところがあります。パラペットの川側の小段と鋼矢板による護岸には損傷はないようです。

            堤防パラペット大規模倒壊、損傷の場所

            堤防パラペット大規模倒壊の全景

            被災前(平成21年9月)
            被災後(平成23年3月23日)

            転倒寸前のパラペット

            管理用道路の下に空洞があり危険に状況

 次の2枚の写真を比較することによって、パラペットが転倒していない場所においてもダメージが大きいことがよくわかる。
            被災前(平成21年9月)
            被災後(平成23年3月23日)
(この項おわり)

緊急報告 東日本巨大地震による花見川被災状況 1

地震発生から11日後の平成23年3月23日に花見川の本川部分の状況を見ましたので報告します。

1 高津川合流部から勝田川合流部付近までの右岸堤防の沈下、亀裂
            右岸堤防の沈下亀裂の場所

 堤防上の道路はもともと老朽化していましたが、今回の地震で沈下したところがあり、道路を遠望すると川側をメインに波打って見えます。川側の堤防法面に1m程度の深さの亀裂が入っている部分もあります。

            川側が沈下している

            表法面に亀裂が入っている

2 天戸制水門付近の法面崩落
            2~6の場所

応急工事が終わって、サイクリング道路の迂回路ができていました。

            法面崩落現場の状況

3天戸大橋下の盛土の亀裂と護岸損傷
橋脚を覆う盛土に大きな亀裂が入っていました。これまで小屋が2軒ありました。住民の方は近くの河川敷に避難しているようです。
盛土下の護岸損傷部の補修工事が行われていました。

            盛土の亀裂

            護岸補修工事

4犢橋川合流部の護岸陥没とサイクリング道路のせり上がり
 犢橋川合流部の護岸を覆うブロックが陥没散乱するなどしていました。もともと老朽化していた部分です。また犢橋川のボックス部分が相対的にせり上がったため、その上のサイクリング道路に30-40cm程の段差ができていました。段差の応急補修工事はされています。この付近のサイクリング道路には路面舗装が横断的に割れている部分が数箇所あります。

            護岸陥没

            サイクリング道路のせり上がり

5堤防表法面の大陥没
堤防表法面が大陥没していて、底部には水が溜まっています。

            堤防表法面の大陥没の状況

6亥鼻上流右岸の法面崩壊
人家近くの道路のあるところの崩壊で、応急補修が行われています。これより上流にある右岸のコンクリート護岸も全体が傾斜するなどダメージが大きいようです。

            法面崩壊の応急補修
(つづく)

化灯場、貝塚、縄文海進のオーバーレイ

化灯場、貝塚、縄文海進
 続保定記絵地図デジタル巻物を使って、早速絵地図に記載されている「化灯場」と「砂地」の文字の位置を地図にプロットしました。続保定記絵地図は普請(工事)の絵地図ですから、工事現場の土質が記載されているのです。
 「化灯(けとう)場」とは現在でも園芸で化土(ケド、ゲド)などの用語で使われているように、アシなど水辺の植物が土の中で腐って堆積し粘土質になった谷津堆積物が分布する場所です。堀割普請では掘ってもすぐ崩れるので、工事が最も難航したのが化灯場です。化灯場の工法にまつわる題材は松本清張が「天保図録」で取り上げているほどです。
 その「化灯場」は絵地図に7箇所記載されています。現在の柏井橋上流付近から天戸町付近にかけて分布しています。これを赤で表示しました。また「砂地」は4箇所記載されています。亥鼻橋付近から検見川付近にかけて分布しています。これを黄で表示しました。
 この情報に貝塚分布図と縄文海進想定図をオーバーレイしてみました。縄文海進想定図は海進想定場所を青系統色で、陸地を緑で表示してあります。
 このオーバーレイ図をみると「砂地」と貝塚分布が対応しているように見ることができます。具体的には、「砂地」の最上流部と貝塚の最上流部(坊辺田、神場)が対応しているように見ることができます。「砂地」と貝塚の分布域には、縄文海進のころ海浜の性格が強い環境があったと想像できます。
 「化灯場」はそれより上流側に分布しています。このことから、縄文海進のころ湾奥部の後背湿地的環境がそこにあったものと想像できます。
 次に「化灯場」の分布が狭い幅の花見川の奥深くに伸びている特異な姿に気がつきます。
なぜこのような「化灯場」の分布になったのか、本来の本流筋(犢橋川筋)から分岐した花見川がなぜ台地深く浸食を進めることが出来たのか、今後検討を深めていくつもりです。
河川争奪が起こったからそうなったと見立てているのですが、なぜこの場所でだけ河川争奪が起こったのか、そのヒントが巨智部忠承の論文「印旛沼堀割線路中断層の存在」(地学雑誌4巻3号 明治25年)あたりにありそうだと予感しています。

(なお、巨智部忠承の論文「印旛沼堀割線路中断層の存在」に関連して千葉県総務部消防地震防災課より返答をいただき、2011年3月18日の記事で紹介しました。現在大震災の真最中でそれどころではないと思いますが、将来一段落する時が至ったならば、活断層の可能性と防災について、もう少し私の考えているところを述べたいと思っています。)

2011年3月22日火曜日

続保定記絵地図のデジタル巻物化

 天保の堀割普請で、庄内藩は領民1400人以上を動員して横戸村から柏井村までの区間の掘削に従事しました。このとき庄屋の久松宗作は領民に付き添って普請の現場に出向き、領民の世話をするとともに普請の様子を見聞し、その結果をイラストと絵地図を多量に含む著作物「続保定記」にとりまとめました。

 絵地図は木版多色刷りで見開き2ページが1つの画像になっており、全部で17あります。その全てが「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市市史編纂委員会編集、千葉市発行、平成10年3月)にカラー印刷で収録されています。17画像の最初は「印旛沼全図」と表題があり、利根川も書かれています。最後の画像は「海」と表題があり、黒田家元小屋などが描かれています。17画像で利根川から東京湾までの水系を全て描いています。

柏井付近の絵地図画像

 絵地図には各藩の受け持ち区域、元小屋、特徴的な地物、地形、化灯場など貴重な情報が記載されています。従って、これら17画像を1つの画像に編集できれば地図としての活用利便性が飛躍的に向上します。そこで、17画像を1枚の巻物にデジタル的に編集することが可能であるかどうか、試みてみました。

 デジタル巻物化の作業は次の手順で行いました。
1 書籍のページをスキャンして画像ファイル(jpegファイル)をつくる。
2 ページ画像ファイルから個々の絵地図を一つ一つ切り取りして、絵地図画像ファイル(jpegファイル)をつくる。(印旛沼から東京湾まで17ファイルができる)
3 17ファイルを横に連結して一つの巻物のような絵地図にする。

 作業を行う上で、私のスキルレベルでは次の点が課題となりました。
ア 17ファイルを横に連結する簡便な方法があるか。
イ 17ファイルを横に連結して画面上で移動するなど、実用的に使えるか。
ウ ファイル接合の正確性をどの程度確保できるか。(続保定記作成に従事した絵師が、絵地図接合を暗黙の前提として作業しているのかどうか)

 作業結果は次の通りです。
1 書籍見開きページをスキャンして5つのjpegファイルを作成しました。
2 フォトショップで5つのファイルを必要数分コピーして、17画像分のファイルを切り取りで作成しました。
3 17画像の連結はWEBでフリーソフトを見つけて利用しました。
私は通常、画像の張り合わせをフォトショップでしていますが、最初に画像を張り合わせる大きさを測ってキャンバスをつくる必要があります。17画像の大きさを調べて、それに見合うキャンバスを作るのは、大変億劫です。そこで、最初からキャンバスを作らないで随時画像を追加できるソフトを探してみました。
 そうしたところJointogether
(作者のホームページhttp://homepage3.nifty.com/hirapro/program.htm
というフリーソフトを見つけ、思い通りの機能がありましたので、使いました。キャンバスの大きさは随時画面上にある窓に数値を入れて変化させることが出来ます。使いやすいソフトです。
 このフリーソフトで絵地図4画像分を張り合わせた状況のプリントスクリーン画像(3画面使用で画面一杯に展開)を次に示します。

ディスプレイ3台を利用した場合のプリントスクリーン画像例

 結果として幅12551ピクセル、高さ742ピクセルのキャンバスに17画像を張り合わせることができました。一つのjpegファイルにまとめることも出来ました。

1枚に編集した続保定記絵地図デジタル巻物

 作成した一つの絵巻物のような絵地図はフリーソフトJointogetherでも、フォトショップでも同じように快適に閲覧できます。

 さて、この作業で、絵地図の画像接合がうまく行くか心配したのですが、杞憂に終わりました。17枚の画像のうち東端の印旛沼の画像は他の画像ともともと別の縮尺の絵地図となっているので接合は出来ません。それ以外の絵地図の画像は全て違和感なく接合できました。
 1枚の細長い長方形の紙に巻物として絵地図を作り、それを切り取って一枚一枚の冊子用絵地図にするという基本的な考え方に基づいて作業をしたことが確認できました。
 同時に、柏井村の庄内藩と鳥取藩の境の出ているページとその西の花島観音の出ているページだけは、半ページほど重複部分(接合部分)があることがわかりました。恐らく庄内藩の管轄部分の絵地図作成とそれ以外の部分の絵地図作成の作業を分けて行ったためであるからだと思います。

 今後、作成したデジタル巻物を使って情報の収集分析を効率的に行っていきます。

2011年3月21日月曜日

花見川の文化的価値評価の現状

千葉市域にある唯一の花見川関連文化財説明板
            花島公園内設置 左岸サイクリング道路利用者の目には触れない

 土木遺構としての花見川の文化的価値について、それが社会的にどのように評価されているのか、素掘堀割部分に焦点を当てて確認してみました。

1文化財指定
 千葉県と千葉市について調べたところ、花見川に関する文化財指定はありませんでした。
 ただし、花島公園内に花見川関連の文化財説明板が1基設置されています。
 千葉市教育委員会の文化財担当者に電話でヒアリングしたところ、「花見川を文化財に指定しないのは、規模が大きく、区域の特定が出来ないことや実用河川で使っていることなどによる」とのことでした。
 千葉市としては、花見川の文化的価値は認めるが、特段の行政上の位置づけはしていない、ということだと思います。

2土木遺産認定
 土木学会選奨土木遺産という認定制度があります。土木学会ホームページによるとその認定制度について次のように説明しています。

 土木学会選奨土木遺産の認定制度は、土木遺産の顕彰を通じて、歴史的土木構造物の保存に資することを目的として平成12年度に創設されました。
 土木学会としては、その結果として、
社会へのアピール
 (土木遺産の文化的価値の評価、社会への理解等)
土木技術者へのアピール
 (先輩技術者の仕事への敬意、将来の文化財創出への認識と責任の自覚等の喚起)
まちづくりへの活用
 (土木遺産は、地域の自然や歴史・文化を中心とした地域資産の核となるものであるとの認識の喚起)
失われるおそれのある土木遺産の救済
 (貴重な土木遺産の保護)
 などが促されることを期待しています。

 花見川はこの制度で認定されていません。

3民間グループによるリストアップ
 ちば河川交流会という河川関係者の民間グループがあり、ここから「遺しておきたい伝えたい千葉の水辺(自然・景観・土木遺産)」(2009.3)という冊子がでています。この冊子では千葉県内30の「遺しておきたい伝えたい千葉の水辺(自然・景観・土木遺産)」対象がリストアップされており、花見川はその一つとして、「印旛放水路」名称で、次のように記載されています。

●表題:下総台地を開削して印旛沼の水を東京湾へ
●名称:印旛放水路
●所在地:千葉市検見川~八千代市平戸
●説明:印旛沼周辺の水害解消、農地拡大を目的に、江戸時代から工事が始められ、昭和43年に印旛沼~東京湾間16kmが開通した。江戸時代天保のお手伝い普請では全国から1万人を超える人夫が集められており、沿川の千葉市横戸には庄内農民の墓がある。沿川はサイクリングロードに指定され市民の憩いの場になっている。
この他、写真図、アクセス、その他、備考、印旛放水路サイクリングマップが掲載されています。


 法的な文化財指定や選奨土木遺産認定が例えなくとも、ちば河川交流会のような民間活動が社会にあるのですから、もっと花見川の歴史に関する情報提供があってもよいと思います。
 花見川サイクリング道路を訪れた人が(素掘堀割の現場に来た人が)花見川の歴史について学べる仕掛け(例えば道路沿いの説明板)があると、地域や河川に対する理解や愛着が増すと思います。

2011年3月20日日曜日

社会科副読本に登場する花見川堀割普請

 花見川の堀割普請が小学校社会科副読本でどのように登場しているかということを紹介します。
 千葉市の副読本「わたしたちの千葉市」(千葉市教育委員会、平成22年版)と八千代市の副読本「わたしたちの八千代市」(八千代市教育委員会、平成22年版)を見てみました。両市の副読本ともに郷土の歴史として花見川と新川の歴史を大きな題材として扱っていました。

千葉市小学校社会科副読本「わたしたちの千葉市」より
 「わたしたちの千葉市」では郷土の歴史が「昔の道具とくらしのへんか」、「れきしマップづくり」、「みんなのために努力した人たち」の3つから構成され、「みんなのために努力した人たち」は3つの題材(「大賀一郎とオオガハス」、「丹後堰をつくった布施丹後」、「花見川を開く」)が取り上げられています。「みんなのために努力した人たち」の目次には3つの題材にくくりがしてあり、「どれかを詳しく調べる」とかかれています。

 「花見川を開く」は6ページで花見川と印旛沼の開発の歴史がテーマとなっており、次の6つの項目から構成されています。
●花見川サイクリングロードのたんけん・・・むかしは新川と花見川はつながっていなかった。
●昔の花見川のまわりと水がいの様子・・・印旛沼は水害に苦しめられた。
●人々のねがいと染谷源右衛門・・・新田開発と水害を防ぐため印旛沼の水を東京湾へ流そうとした。
●開発工事の様子・・・源右衛門は財産を全部売って大工事をした。
●花見川を開く計画とその後の開発・・・工事は引き継がれ、1843年の工事は84万人参加し、1968年に完成した。
●花見川・印旛沼とこれからのわたしたち・・・水田が増え、飲み水、工業用水としての利用、洪水を防ぐ。自然がいっぱいのいこいの場所。

 この副読本を読んで、次の2点が印象に残りました。
1水害を防ぎ、新田開発するという視点で開発工事が行われ、1968年に国の工事として完成し、洪水防御、干拓のみならず水資源開発がおこなわれたという、地域開発の総合性について学習しようとしていること。
2サイクリングや掃除の写真、あるいは川をきれいによびかけるポスターなどを掲載して、花見川の利用や愛護に学習の幅を広げようとしていること。


八千代市小学校社会科副読本「わたしたちの八千代市」より
 「わたしたちの八千代市」では郷土の歴史の題材が2つ(開発につくした人々、上代芳太郎のらく農)取り上げられています。

 そのうちの1つである「開発につくした人々」8ページが全て花見川と新川の歴史となっています。
「開発につくした人々」は次の4つの項目から構成されています。
●印旛沼の開発・・・今と昔で印旛沼の形がちがうこと。
●印旛沼の大水・・・印旛沼は水害に苦しめられた。
●「ほりわり」工事・・・1染谷源右衛門が印旛沼の水を江戸湾に流す工事にとりかかった。2島田村の次郎兵衛が工事を始めた。3江戸幕府が工事を進めた。
●大和田排水機場・・・大和田排水機場が完成し、印旛沼の水害はなくなった。印旛沼や新川を大切な自然として守る。

 この副読本を読んで、次の2点が印象に残りました。
1印旛沼の水害克服という明解な視点で享保期、天明期、天保期の3回の堀割普請の歴史に詳しくふれ、大和田排水機場の役割も理解できるように、学習のわかりやすさを意識していること。
2続保定記の黒鍬者もっこ担ぎイラスト、当時の道具イラスト、もっこ担ぎ体験写真を掲載して、労働体験(筋肉感覚体験)により学習を深めるようと工夫していること。

 花見川流域を散歩し、堀割普請に興味をもつものとして、千葉市、八千代市ともに堀割普請に関連する花見川の歴史を掘下げて学習教材とされていることに感銘しました。また、安心しました。


 私は花見川の素掘堀割部分は土木遺産、文化遺産として価値があると思っています。その価値をもっと大切にした方が地域のためによいと思っています。しかし、社会的には花見川素掘堀割部分にそのような明確な価値は与えられていません。社会がその価値に気がついていないように感じています。花見川を散歩すると、現場には歴史を情報として受け取れるところがほとんどないことからも実感します。(花島公園内に千葉市教育委員会の歴史説明板が1つあります。)

 このような私が千葉市と八千代市の小学校社会科副読本をみると、勇気が湧いてきます。というのも、子どもたちに郷土の歴史として花見川の堀割普請を重要な出来事として教える、しかし、花見川の堀割現物がほぼそのまま残っていてもその土木遺産、文化遺産としての価値は気がつかない、ということは社会として間尺に合わないことです。そういう間尺に合わないことは、いつか解決されるに違いないという必然性みたいなものを直感するからです。

 なお、千葉市、八千代市双方の副読本ともに続保定記の黒鍬者のもっこ担ぎのイラストを掲載しています。子どものみならず大人でもインパクトを受ける資料です。続保定記には別に多量のイラスト、絵地図が掲載され、それらは「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)として刊行されています。私は、このような情報の存在自体が花見川の素掘堀割部分の土木遺産、文化遺産としての価値を高めていると思います。
江戸働黒鍬之者大もつこうにて堀捨土をかつく図
            久松宗作著「続保定記」
            (「天保期の印旛沼堀割普請」〔千葉市発行〕より引用)