2014年9月30日火曜日

遺跡密度図による縄文交通路パターン作業仮説の作成

花見川地峡史-メモ・仮説集>3花見川地峡の利用・開発史> 3.1埋蔵文化財データに基づく地域特性基礎検討>3.1.34遺跡密度図による縄文交通路パターン作業仮説の作成

1 遺跡密度図(ヒートマップ)から当時の交通路パターンイメージを原理として取得できる
遺跡密度図(ヒートマップ)から得られる有力情報の1つとして、その時代のおおよその交通路パターンの推測ができることに気がつきました。おおよその交通路パターンのイメージをもつことができるのです。

2014.09.26記事「西根遺跡について(資料閲覧前考察)」では「枝村俊郎・熊谷樹一郎(2009):縄文遺跡の立地性向、GIS-理論と応用vol.17 no.1」掲載縄文遺跡密度図から関東-東北交易路を推測しました。

縄文遺跡連担状況から想像する縄文時代の関東-東北交易路
「枝村俊郎・熊谷樹一郎(2009):縄文遺跡の立地性向、GIS-理論と応用vol.17 no.1」

この地図は、もし関東と東北の間に交易路があるとすれば、大局的にみれば、それは必ず縄文遺跡が連担しているルートに存在しているに違いないという考えのもとに描いたものです。

現代において交通路(道路、鉄道、航空路、航路)は都市地域・産業集積地を結ぶことによって成立しています。逆に、全ての都市地域・産業集積地はその大小にかかわらず必ず交通路で結ばれています。
この交通路と都市地域・産業集積地との関係から、交通路そのものの情報がなくても、都市地域・産業集積地の情報があれば交通路パターンのおおよその姿をイメージすることができます。

原始・古代にあっても全く同じ考えをとることができます。
原始・古代においても交通路(陸運路、水運路)は当時の集落や生業地を結ぶことによって成立していたことに間違いありません。逆に、全ての集落や生業地はその大小にかかわらず必ず交通路で結ばれていたことに間違いありません。

従って、原始・古代の集落や生業地の情報があればおおよその交通路パターンをイメージすることは、原理的にできるのです。

今、原始・古代の集落や生業地の情報は遺跡情報として存在しています。そしてその遺跡情報から遺跡密度図を作成すれば、その時代のおおよその交通路パターンをイメージすることは、原理として出来てしまうのです。

遺跡密度図さえあれば、だれでも、特段の分析や知識を必要としないで、交通路パターンをイメージすることが出来るのです。

交通路そのものの遺跡が見つかることは稀だと思いますが、遺跡密度図はその精粗を別にすれば任意に設定する時代毎につくることができます。そして、その時代毎に交通路パターンの推測ができてしまうのです。

原始・古代の交通路検討の有力ツールを発見したことになります。
遺跡密度図(ヒートマップ)という交通路検討の有力ツール発見はこのブログにとって画期的な出来事です。

2 遺跡密度図(ヒートマップ)から交通路パターン作業仮説を設定する
遺跡密度図(ヒートマップ)からイメージできる交通路パターンはあくまでも推測情報です。
この推測情報を作業仮説として設定して、それを実際の交通路検討に使えば、既存遺跡意義の再検討、交通遺跡の新発見等に活用することが可能だと思います。

このブログの範疇をはるかに超えていますが、もし全国を対象に縄文時代の交通路パターンを検討することがあるならば次のような作業仮説を立てることができると思います。

縄文遺跡密度図から作成した交通路パターン作業仮説(ar2014093001)
「枝村俊郎・熊谷樹一郎(2009):縄文遺跡の立地性向、GIS-理論と応用vol.17 no.1」掲載縄文遺跡密度に加筆

※ このブログにおける作業仮説を管理するために、今後記述する作業仮説に記号を付けます。
ar2014093001→ar(作成者の記号)2014093001(西暦2014年9月30日に作成した作業仮説のうち1番目)

3 千葉県北部の縄文時代交通路パターン作業仮説
縄文時代といってもその時期(草創期、早期、前期、中期、後期、晩期)によって社会の様子が大きく異なるのですが、手元にある情報はそれらの時期区分をしていないものしかないので、仕方なしに縄文全期をひとくくりにして、交通路パターン作業仮説を作成してみました。

千葉県北部の縄文時代交通路パターン作業仮説(ar2014093002)

陸運路と水運路及びその接合点であるミナトを概念的に描いてみました。ミナトは西根遺跡以外はまだ具体的遺跡に対応させて考えていません。また、陸運路と関係しないミナトも省いてあります。

この類の作業仮説は、いろいろな事実の認識が進めば新しい仮説に取って変わるもので、いわば肥やしみたいものです。ですからこの作業仮説は人前に出すのははばかり、個人だけで、密かに、何食わぬ顔で使うのが本来のあるべき使い方だと思います。
しかし、このブログはいつも申し上げているように、思考プロセスの実況中継の場ですから、この作業仮説の誕生から最後の廃棄までを伝えて行きます。

この作業仮説のミナトを具体的遺跡と対応させる作業をすれば、縄文時代交通路に関する認識が急速に深まるものと展望しています。

なお、ミナトは次のようなイメージで考えています。

西根遺跡(縄文時代後期)の学習から想定しているミナトイメージ

実際の、作業仮説(ar2014093001)と具体的遺跡との対応作業は、今すぐではなく、弥生時代、古墳時代、奈良時代、平安時代のヒートマップ作成検討後に行います。

2014年9月29日月曜日

軽い記事、重い記事

原始・古代関係図書を読む 15

2014.09.14記事「印旛の原始・古代-旧石器時代編- を読む」から都合により突然「原始・古代関係図書を読む」シリーズを始めました。

その都合が済みましたので、それ以前のシリーズ「花見川地峡史-メモ・仮説集>3花見川地峡の利用・開発史> 3.1埋蔵文化財データに基づく地域特性基礎検討」に復帰したいと思います。

「原始・古代関係図書を読む」シリーズを始めた理由は8日間ほどパソコンの前に坐れない状況が生まれることになったので、その前に記事ストックをつくり、その8日間は外出先で記事アップだけをするために、「軽い記事」を多量に用意する必要があったためです。

その8日間は過ぎ去ったのですが、そして「軽い記事」作成とアップも大体できたのですが、「軽い記事、重い記事」に関する感想に変化が生じましたので報告します。

1 軽い記事、重い記事に関する当初の感覚
当初次のような感覚をもっていました。

・軽い記事・・・作成にかかる時間は3時間以内。時事ネタ、批判ネタ、読書感想記事等
・重い記事・・・作成にかかる時間は3時間以上、丸1日かかる時も。他から影響を受けいていない自分独自の興味を展開深化していく記事

趣味で書いているブログ記事ですからどれも自分は面白いのですが、重い記事の方がオリジナル性がありますから充実感があるのは当然です。重い記事の方により高い価値を置いていました。

軽い記事は他者の労作(や活動等)をネタにするわけですから、虎の威を借る狐のようであり、いくら面白くても高い価値はおけないと考えていました。

2 軽い記事をシリーズで書いた後の感覚
軽い記事シリーズである「原始・古代関係図書を読む」シリーズを書いていくうちに、次のようなこれまでに気がつかなかった感覚を得ることができました。

ア 対象図書をよく読むことができる。したがって、それまで気がつかなかった重要情報に気がつくことができる。
イ 対象図書のコンテンツと自分の興味のかかわりを強制的に知ることができる。つまり自分の興味を客観的にみることができるようになる。
ウ アとイから新しい興味・アイディアが湧いてくる。

このように、軽い記事作成として軽んじてきた行為が意外と自分に役立つ行為、大切な行為であることがわかりました。

重い記事作成に偏するのではなく、軽い記事作成と重い記事作成の双方を行い、量的にはどこかに最適バランスが存在するようだと感じたことは、自分にとって有益です。

3 「原始・古代関係図書を読む」シリーズについて
ブログ記事アップを8日間停止することを忌避するために始めた「原始・古代関係図書を読む」シリーズはその役割を終えたので、一旦区切ります。

しかし、上記のように自分にとって面白く有意義でもありますので、今後不定期として折に触れ継続することにします。

「印旛の原始・古代-縄文時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)」の読後感想はまだ続きそうです。この図書は自分にとって格好の学習テキストです。

実は当初次の図書の読後感もアップしたかったのですが、これまでの記事で次々に尾ひれが沢山ついてしまって出番が無かったのです。これらの図書の読後感等も折に触れ記事にしていきたいと思います 。

まだ記事出番が回ってきていない図書

なお、「原始・古代関係図書を読む」シリーズも特設サイトを設けて再掲し、まとめて読むことができるようにする予定です。

西根遺跡の意義に関する見立力の検証

原始・古代関係図書を読む 14

2014.09.26記事「西根遺跡について(資料閲覧前考察)」に書いた、資料閲覧前の西根遺跡意義見立てと資料学習の比較による私の遺跡見立力レベルの検証をします。

自分の見立てと資料の関係は次図のようになっていて、結果として自分の見立力レベルの検証はできませんでした。

西根遺跡の意義に関する私の見立力レベルの検証

資料(「千葉県文化財センター調査報告第500集 印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」)に遺跡意義検討が使命として(形式的にはともあれ、実質的には)入っていないということは1市民から見て残念でした。

自分の見立力レベルの検証は出来ませんでしたが、自分の見立た事柄が否定された訳ではありません。

自分の見立てた事柄(西根遺跡は関東-東北交易路における奥印旛浦西端の拠点ミナト)は誰も考えたことがない社会初出の情報のようなので、大事に育てて行きたいと思います。

2014年9月28日日曜日

印西市西根遺跡埋蔵文化財調査報告書を学習する

原始・古代関係図書を読む 13

2014.09.26記事「西根遺跡について(資料閲覧前考察)」で次の記述をしました。

(図書の)記述は、沖積地小河川沿いに多数土器が長期にわたり集中して置かれたという極めて特異な遺跡であるにも関わらず、その意義(それが何であるかという推測や説明)について全く書かれていないという異様なものであるので、記述の仕方に対する強い感情と出土物・遺跡サイトに対する強い興味を持ちました。

このような感情・興味から、(埋蔵文化財調査報告書が手元にないにも関わらず)まず、自分の見立てを、縄文時代関東-東北交易路の視点から検討しました。

この記事を書いた後、埋蔵文化財調査報告書を千葉市中央図書館から館外帯出して学習しましたので、その結果を報告します。

1 調査報告書「印西市西根遺跡」の諸元

「印西市西根遺跡」の図書諸元は次の通りです。

【諸元】
書名:千葉県文化財センター調査報告第500集 印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-
編集:財団法人千葉県文化財センター
発行:独立行政法人都市再生機構千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部、財団法人千葉県文化財センター
発行日:平成17年3月25日
体裁:A4判、433頁+図版62

【内容】
独立行政法人都市再生機構千葉地域支社の千葉ニュータウン事業に伴って実施した印西市西根遺跡の発掘調査報告書。

【主要目次】
第1章 はじめに
第2章 縄文時代
第3章 弥生時代~古墳時代中期
第4章 古墳時代後期~平安時代
第5章 中・近世
第6章 理化学的分析
第7章 漆関係資料
第8章 自然科学的分析
第9章 墨書土器
第10章 まとめ

千葉市中央図書館から館外帯出した「印西市西根遺跡」

2 調査報告書「印西市西根遺跡」における遺跡意義の記述
調査報告書「印西市西根遺跡」(以下報告書と呼びます)の第10章まとめ第1節縄文時代に項目「9西根遺跡土器集中地点の性格と意義」に次の記述があります。

(土器以外の遺物、土器の器種及び状態の検討の後)「上記の事例を総合的に考えれば、本遺跡土器集中地点は日常的に使用された土器の置き場であると言えるであろう。炭素年代測定の成果によれば300年の期間、地点を僅かに変えながら、日常的な土器のみが残されていることは何を意味するのか具体的には不明である。現代の針供養とも一面では通じるような感を受けるが、穿った見方であろうか。」

厚さ3cmの大報告書にしては意義に関する思考がほとんどゼロであり、残念です。

報告書では土器の詳細な分析を始め各界の専門家を総動員して出土物の詳細事実記載・分析をしていて、それがこの報告書の目的であり、遺跡意義の検討は目的に含まれていないと理解すると合点がいきます。

3 調査報告書「印西市西根遺跡」から浮かびあがるミナト
上記の通り、報告書に関わった専門家はこの遺跡がミナトである可能性に全く無頓着ですが、私はこの報告書の記述の中に次のようなミナトを示唆する情報を見つけたので、ピックアップしておきます。

3-1 土器について
●日常的に使用された土器の川辺配置と高修繕率
日常土器が川辺に完形で配置されていた状況から、それが運搬用器具(丸木舟運搬で使う現代におけるコンテナ、パレット)あるいは交易に伴う一時的利用として使われた可能性を示唆しています。
土器の修繕率が通常の場合より高いことが、煮炊き用等として集落で通常使用した後の第2段階リサイクル利用であることを物語っています。

3-2 石器について
●良質な黒曜石の出土
信州産と考えられる良質な黒曜石の出土場所は土器集積域(交易ヤード)であり、当時の流路ではありません。このことから、交易品として交易ヤードに持ち込まれた黒曜石がなんらかの事情(こぼれて紛失等)で土中に埋まったものと考えられます。
他の石器はその機能を喪失したものが多いのですが、これは交易の際、価値の無い物がその場に捨てられた、あるいは洪水等で交易品があったヤード破壊された後、価値の無いものして回収されずに残存したなどとして考えることができます。

3-2 木製品について
●杭の出土
杭と考えられる遺物1点が検出されています。この杭についての検討は報告書中で一切ありません。飾弓については特別の検討をしているにもかかわらず、杭検討ゼロは残念です。飾弓=宝物だからそうなったのだと思います。
さて、当時の河道内から杭が出土したということは、その杭の用途を舟の停泊用であると考えることが極自然です。
この杭出土が、この場所がミナトであることを雄弁に物語っています。

飾り弓と杭
千葉県文化財センター調査報告第500集 印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書- より引用

このブログでは花見川区の地名「柏井」が杵隈(かしわい)であることを明らかにしていますが(2013.07.14記事「千葉市柏井の由来は船着場(仮設)」参照)、その検討のなかで、次のような情報を得ています。

「古代~中世には船をつなぐために水中に立てる杭・棹を〈かし〉といい,牫牱または杵と表記した。船に用意しておき,停泊地で水中に突き立てて用いた(《万葉集》1190)。」(『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』「河岸」の項)

出土杭をよく見ると節の部分がわざと出っ張りで残されています。これは、ここにヒモを結び、常時舟に積んでいる船具であり、停泊する時にその杭を水中に突き立てて停泊杭として使ったものだからと考えることができます。

●飾弓の出土
飾弓の出土が土器集積域ではなく当時の河道内であることが飾弓の意味の一端を説明しているように考えます。土器、それも漆容器としての土器のある場所から飾弓が出たのではありません。

飾弓は何かの状況(不用意な水中落下、破損による投棄等)で水中に没した重要交易品と考えることが自然です。この遺跡付近の漆文化の一端を示す物ならば、漆容器のある土器集積域から出土するに違いありません。

素人考えでは飾弓を漆との関連で考えるのではなく、狩猟文化が高度化してその道具の弓が実用物から芸術品的に昇華されていく様子に注目すべきだと思います。飾弓は狩猟文化が爛熟した場所からそうでない場所に移動する途中だったのだと思います。

漆容器の出土は、それはそれでこの付近(ミナトの影響圏である印旛沼周辺)に漆文化があり、漆そのものが交易品になっていたと考えればよいのだと思います。

飾弓と漆の移動方向は逆方向だったのかもしれません。同じ方向であるという決めつけはできないと思います。縄文時代にあっても原材料の産出場所と、高度な製品生産場所は異なると考える方が自然です。

4 弥生時代以降の出土物、地名
報告書では弥生時代以降についても、この遺跡がミナトである可能性は考慮していないようです。

しかし、報告書に記述されている記述をよく読むと、弥生時代以降もミナトとして機能していた遺跡であることが縄文時代以上に明確に読み取ることができます。

弥生時代~古墳時代中期の項では船の部材と考えられるものが出土し、「本遺跡は印旛沼の突端部付近に位置しており、船材が出土しても不思議ではない地域であり、注目される。」と記述されています。

古墳時代後期~平安時代の項では出土墨書土器に「舟穂郷生部直弟刀自女奉」と書かれたものがあり、この地に残る「船尾」という地名が9世紀中葉まで遡ることがわかり、古代では印旛郡舩穂郷に含まれることを示すものであると記述されています。

この遺跡場所そのものが古代印旛郡舩穂郷の名称発祥地そのものだと思います。古代印旛郡舩穂郷の中心地が西根遺跡の場所だと思います。

舩穂郷の舩穂、地名の舟尾の意味はいつか詳細検討したいと思いますが、現時点では次のように考えます。

舩、舟(ふな)は舟が集まる場所、つまりミナトを意味すると考えます。
穂、尾(お)は山裾の延びたところ、山の高い所、みね、おねを意味すると考えます。

この二つを合わせてミナトのある山裾を意味したと考えます。

奥印旛浦の各地から舟で運ばれてきた交易品が、この西根遺跡というミナトで舟から降ろされ、ここから陸路で山裾を登り、現在の印西市和泉や小倉付近に運ばれていった様子からつけられた地名だと思います。

古代地名「舩穂郷」発生の背景に、縄文時代から関東-東北交易の重要ミナトがそこに在り、同じ交易が過去からずっと存在していたことがあると考えることは当然です。


2014年9月27日土曜日

縄文時代交易路検討から千葉県の形の意味がわかる

原始・古代関係図書を読む 12

2014.09.26記事「西根遺跡について(資料閲覧前考察)」で縄文時代関東-東北交易路を縄文遺跡連担性から検討しましたが、この検討の最中に千葉県の形の意味が自分なりにわかりましたので、記録しておきます。

次の図は「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)に掲載されている奈良時代の房総三国の地図に、縄文時代関東-東北交易路(想像)を記入し、下総国を赤塗りした図です。

房総三国分郡図
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)より引用、加筆

この図から直感できることは、旧石器時代、縄文時代そしておそらく弥生時代、古墳時代まで下野-北総回廊が交通路として利用されてきていて、そのために結城、豊田、猨島、相馬、葛飾が印旛、千葉などと連携・交流している一体の地域であったため、同じ下総国に編入されたということです。

律令国家による計画道路(官道)ができるまで、下野-北総回廊が関東と東北を結ぶ幹線交通ルートであったのです。
そのルート沿いの地域が経済的、文化的、政治的等でまとまっていた(連携していた、交流していた)のです。

この様子を概念として示すと次のようになります。

房総三国分郡図と地域連携の様子
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)より引用、加筆

この地域のまとまりは奈良時代の計画道路(官道)によって解体の方向で推移して行ったものと考えます。

現在の千葉県北西部の角のような出っ張りは、原始・古代交通路による下野-北総回廊という地域連携の姿の名残です。

千葉県北西部の角の形の意味

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追記2014.09.28
この記事の最初版で「千葉県北東部」と間違って記述しました。お詫びします。
この記事は殆ど時間を消費しないで勢いだけで書いたので、無意識レベルの錯誤がそのまま表現されてしまいました。記述時思考を絶えず意識化してこのような間違いを防ぐようにします。
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追記2014.09.28
思考は勝手な方向に進んで行ってしまい、コントロールに苦労していますが、次のような記事をいつか書きたいので、メモしておきます。

結城、豊田、猨島、相馬、葛飾を含んだ下総国流域は北西から南東方向に流れる水系に従って形成された圏域です。つまりこの圏域は国土計画的用語でいえば「流域圏」です。
この流域圏は縄文時代には既に形成されていました。(このブログでは、その物的証拠の一つとして印西市西根遺跡を考えようとしている。)
その流域圏を直角に串刺しして律令国家計画道路(東海道)がつくられました。

この関係は三全総から五全総までの国土づくり計画で強く意識された、流域圏とそれを串刺しする幹線交通軸(高速道路、新幹線)の関係と全く同じです。
古代と現代の国土づくりにおいて生じた、この同一問題を比較することによって、古代社会の理解をより一層深めることができるか、検討したいと考えています。

2014年9月26日金曜日

西根遺跡について(資料閲覧前考察)

原始・古代関係図書を読む 11

1 西根遺跡学習の3ステップ
2014.09.24記事「交通・交易の証拠となる出土物」で、図書「印旛の原始・古代-縄文時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)」の西根遺跡(縄文後・晩期)記述について紹介しました。

記述は、沖積地小河川沿いに多数土器が長期にわたり集中して置かれたという極めて特異な遺跡であるにも関わらず、その意義(それが何であるかという推測や説明)について全く書かれていないという異様なものであるので、記述の仕方に対する強い感情と出土物・遺跡サイトに対する強い興味を持ちました。

そこで、図書紹介シリーズ記事の趣旨から少しずれますが、この遺跡について少し集中的に検討してみます。

検討は自分の見立力のレベルを知るという検証も合せて行いたいので、次の3ステップで行います。
1 図書「印旛の原始・古代-縄文時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)」の情報だけを出発点にして、手持ち情報と思考力(想像力)だけを頼りにして、この遺跡が何であるか推測してみる。(見立て)

2 西根遺跡に関する発掘調査報告書を閲覧して、そこで書かれているに違いない遺跡意義考察を学習する。

3 1と2から西根遺跡の意義について専門家が考察している内容と、当初自分が見立てた意義を比較して自分の見立力のレベルを推し量る。

この記事では上記のうち1について書きます。
2と3は連続して記事にはできないと思いますのでご了解ください。

2 西根遺跡に関する資料閲覧前考察
2-1 西根遺跡サイトの広域地理的位置
2-1-1 縄文時代の関東-東北交易路の想像
次の図は「枝村俊郎・熊谷樹一郎(2009):縄文遺跡の立地性向、GIS-理論と応用vol.17 no.1」(※)収録の図版「図7 縄文遺跡のカーネル密度による面的表現」です。
縄文遺跡の密度を表現しています。このブログで作成しているヒートマップと同じ手法による地図です。

縄文遺跡のカーネル密度による面的表現
「枝村俊郎・熊谷樹一郎(2009):縄文遺跡の立地性向、GIS-理論と応用vol.17 no.1」より引用

この図を利用させていただいて、次の「縄文遺跡連担状況から想像する縄文時代の関東-東北交易路」を作成しました。

縄文遺跡連担状況から想像する縄文時代の関東-東北交易路

もし、関東と東北の間に交易路があるとすれば、大局的にみれば、それは必ず縄文遺跡が連担しているルートに存在しているに違いないという考えのもとに描いたものです。
メインルートは遺跡連担の状況が濃い内陸ルートであり、海路による沿岸ルートもあったに違いないと想像しました。

なお、内陸ルートは旧石器時代人の移動ルートである下野-北総回廊と一致する(陸路と水路の違いはある)ことに感慨深いものがあります。

2-1-2 縄文時代関東-東北交易路(想像)と西根遺跡の位置
上記の関東-東北交易路(内陸ルート)を地形段彩図を使って関東平野について描いてみて、その中に西根遺跡をプロットしてみました。

縄文時代関東-東北交易路(想像)と西根遺跡の位置(基図は地形段彩図)

縄文海進による海、あるいはそれに関連する水面・河川を最大限に利用したルートを考えると幾つかのところで陸越えをする場所が必要になります。
その陸越えをする場所(つまりミナト)の一つが西根遺跡であると考えざるをえません。

西根遺跡は関東と東北を結ぶ交易ルートの中で、奥印旛浦東端のミナトであり、ここから交易品が東北方面に出荷されたり、あるいは東北方面の交易品が奥印旛浦にもたらされた場所に位置します。

上図の基図を縄文遺跡ヒートマップに差し替えてみると次のようになります。

縄文時代関東-東北交易路(想像)と西根遺跡の位置(基図は縄文遺跡ヒートマップ)

ヒートマップの最大の目玉(印旛沼南岸から東京湾にいたる縄文遺跡密集地)が関東-東北交易ルートの最南端ターミナルであり、そこから出発した交易品の最初の陸越え地点が西根遺跡であると考えます。

2-2 サイトの地形環境
西根遺跡の場所は縄文海進の時の海岸線付近に丁度位置しています。
また、土器の集積場所が上流から下流に向かって、順次古い時代から新しい時代に変化するので、その変化のしかたが縄文海進が海退に転じ、水面の高さが順次低くなり、ミナト機能を維持するためには場所を下流に移動せざるを得ない状況を示しているように見られます。

西根遺跡のある場所は定期的に洪水に見舞われる場所ですから、縄文人はそれを承知で長期間使っていたので、そのことは土器の用途を絞りこむための重要なファクターとなります。

地形の状況がよくわかる旧版25000分の1地形図白井図幅、小林図幅(ともに大正10年測量)を使って、西根遺跡の場所をみてみました。

西根遺跡の位置と付近の谷津
西根遺跡から丸木舟で川をさかのぼり、あるいは谷底を徒歩でさかのぼると分水界に出て、それを越えるとすぐに手賀沼の海に続く谷津にでます。

2-3 付近の縄文遺跡
次の図は西根遺跡を中心とするふさの国ナビゲーションの地図です。

ふさの国ナビゲーションの地図
西根遺跡の近くの戸神遺跡は縄文遺跡であり、船尾白幡遺跡は旧石器、縄文、古代の遺跡です。
西根遺跡が生きていた時(機能していたとき)、それを近くの縄文遺跡(集落)が管理していたと考えます。

2-4 土器の用途
1200の土器が7箇所の川辺に集中して存在し、完形個体を順次平面的に据え置いたような状況であり、祭祀用土器は全くでいません。
この土器の用途について1人でブレーンストーミングを行い、つぎような用途例を抽出して、それを検討し、絞ってみました。

土器用途に関するブレーンストーミング

恐らく奥印旛浦の水面を使って物資を運ぶ時には、物によっては土器が用いられる時があり、西根遺跡のミナトから手賀沼方面へ陸運で運ぶ時は土器を使わないで肩に背負子のような道具でかついで運んだのだと思います。

2-5 飾弓について
飾弓と漆の入った土器が見つかっていることから、この付近に漆文化があったと図書で推察しています。

西根遺跡がミナトであると考えると、飾弓と漆の入った土器がこの付近(西根遺跡の近辺)の産であるという保証はありません。
ミナトであると考えると、寧ろ遠方からもたらされたもとの考える方が自然です。
飾弓も漆の入った土器も遠方から遠方へ移動する途中で、たまたまこのミナトで水中(土中)に没してしまったと考えるほうが自然です。
ふさの国ナビゲーションの情報を見ると、石器(縄文時代)も出土しているようです。

私は、石器材料が東北から関東にもたらされる主要ルートがこの内陸ルートだと考え、石器以外にも多くの物品が東北からこの西根遺跡のミナトを通過したのだと考えます。

2-6 遺跡の意義
西根遺跡の広域地理的位置と縄文海進時海岸線付近の丸木舟が出入りできる地形から、土器を運搬用コンテナ・パレットとして考え、この場所が関東と東北を結ぶミナトであったと極自然に推察できます。

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※ 論文「枝村俊郎・熊谷樹一郎(2009):縄文遺跡の立地性向、GIS-理論と応用vol.17 no.1」は千葉市埋蔵文化財調査センターの西野雅人様より提供していただきました。感謝申し上げます。

2014年9月24日水曜日

交通・交易の証拠となる出土物

原始・古代関係図書を読む 10

1 チェックリスト
印旛の原始・古代-縄文時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)の遺跡事例を読みながら、そこに交通・交易の証拠がどの程度あるのか考えています。

次のようなチェックリストをつくり、この図書の遺跡記述を整理してみることはあまり時間を要しないと思います。

●交通・交易の証拠となる遺構、遺物
・交通施設(道路跡、船着場跡、・・・)
・交通手段(舟)
・運搬具(担ぐための籠みたいなもの)
・荷物となって外部から運ばれてきたもの、運ばれていく可能性のあるもの(石器(素材)、土器をはじめとする生活用品、装身具、祭祀用具、貝、他)

2 西根遺跡
次の西根遺跡では川沿いに土器集中場所が見つかっているとのことです。土器個体数は約1200で7箇所に集中しているそうです。

西根遺跡
印旛の原始・古代-縄文時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)より引用

西根遺跡
印旛の原始・古代-縄文時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)より引用

この場所(印西市戸神川谷底、当時の流路のほとり)では、完形個体を順次平面的に据え置いたような状況が想定されると記載されています。祭祀用土器は全くでていないそうです。

この遺跡が何のための場所であったかという記述は全くありません。

飾り弓の出土から、近くに漆文化があったという推測が書かれています。

素人考えでは、船着場の交易ヤードのようにしか見えません。
縄文時代の港の姿を示しているように感じます。

遺跡存在場所が旧石器時代狩人の移動ルートが最初に香取の海に到達する場所であり、また、多数の土器と1点の飾り弓が交易の姿を暗示していることから、この遺跡から強い刺激を受けましたので、次の記事で自由な想像レベルの検討をします。

3 千代田遺跡
次の千代田遺跡(四街道市の台地上)では鹹水産の貝を主体とする貝塚が発見されています。
千代田遺跡
印旛の原始・古代-縄文時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)より引用

「印旛沼南岸の遺跡において、鹹水産の貝が主体となる大規模な貝塚が形成される遺跡は皆無であり、東京湾沿岸地域と印旛沼南岸地域の関係性を考えるうえで多くの情報を有する遺跡である。」と記述されています。
生貝が交易によって東京湾沿岸から内陸に運ばれた結果だと思います。

この遺跡にどの場所で採れた貝がどのルートで運ばれたか、興味が湧きます。

2014年9月23日火曜日

遺跡と地名

原始・古代関係図書を読む 9

印旛の原始・古代-縄文時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)附録CD-ROMに収録されている縄文時代遺跡台帳とその分布図をパソコン上で少し操作してみて、次のような発想が頭にまとわりついて離れませんので、記録しておきます。

●地名も調査対象になるという発想
ア 遺跡から出土する遺構や遺物が科学的調査対象となっている。

イ 遺跡の存在している地形は遺跡を知る上での1級の物的証拠であり、遺構や遺物と同レベルで科学的調査対象とすれば多くの有益情報が集まるに違いない。

ウ ア、イと同じように、遺跡付近の地名も調査対象となるのではないか?
・遺跡が生きていた時代に、その場所で暮らしていた集団はその場所に地名を付けて相互の会話で使っていたに違いない。
・その原初地名が現代にまで伝わっているところがあるに違いない。
・遺跡存在場所付近の地名を対象に、遺跡と関わる原初地名があるかどうか検討する価値がありそうだ。

もともと地名に興味を持っているのですが、地名全体を対象にして検討するより、遺跡付近の地名に対象を限定して検討すれば、効率がよいということに気がついて発想しました。

現代地名の中で、縄文時代に付けられた地名の残存と縄文遺跡との関係は次のようになっているに違いないという前提で考えています。

縄文時代地名と縄文遺跡との関係イメージ

遺跡所在場所付近の小字地名に限定して地名検討すれば、これまで知られていなかった有用な情報が得られるかもしれないと密かに考えています。

なお、地名から得られる情報は出土物や地形から得られる情報とは異なり、鋭利な証拠性がありません。また検討・分析方法もほとんど確立していないと思います。

……………………………………………………………………
新たな妄想

以前「ハナ」地名を検討しました。花輪、猪鼻、花見、花島などのハナ地名が千葉県北部には沢山あります。ハナは縄文語起源に違いないと想像しました。(2011.06.04記事「花見川の語源7 アイヌ語源説の取り下げ」参照)

さて、ハナワ(花輪)という地名を旧石器時代遺跡や縄文時代遺跡リストで散見して、ふと、次のような妄想が頭をよぎりました。
根拠はないのですが、このブログは思考プロセスの実況中継の場ですから、記録しておきます。

ハナワ(花輪)はハナ(台地の先端)とワ(曲がったところ)から構成されていて、直線状に続く台地縁辺部に対比するところの台地先端部が出っ張っているところを意味することは間違いないと思います。
このような場所は旧石器時代や縄文時代では狩場(追詰猟)として使われていたと考えられます。これも間違いないと思います。

今、ワナ(罠)という言葉があります。
この言葉の説明は、「 縄や竹などを輪の形にして、その中にはいった鳥や獣を締めて生けどりにするための仕掛け。転じて、広く網や落とし穴などをはじめ、鳥獣をおびき寄せてとらえるためのいろいろの仕掛けについてもいう。」(『精選版 日本語国語大辞典』 小学館)となっています。

この説明は現代風の説明であり、この説明から離れて、罠の原初型が旧石器時代や縄文時代の落とし穴にあると考えてみます。

旧石器時代や縄文時代に落し穴猟が追詰猟と一体で行われていたと考えると、落し穴猟の場と追詰猟の場所は同じ場であり、そこはハナワです。

つまり、ワナ(罠)のワ(輪)はもともとはハナワ(花輪)のワ(輪)であるという妄想です。

縄文時代人が使っていた言葉のうちハナやワが現代まで地名「花輪」や一般用語「罠」として伝わってきていると妄想します。

ワナ(罠)の語素検討
検討1
ワ(輪)+アナ(穴)つまりワアナ(ハナワにつくった穴)が詰まってワナになった。意味はハナワアナ(花輪穴)である。

検討2
ワ(輪)+ナ(助詞)と考える。ワナのナはミナト(水門)とかマナコ(目な子)と同じ助詞「な」であると考え、本来はワナ場などのようにナの下に別の言葉があるべきですが、それが消えてしまったと考える。

検討3
ナを菜と考え、罠に動物をおびき寄せる餌と考える。輪菜。その場合、静的な狩方法を連想させ、罠と花輪は離れる。この説を採るなら、罠は農耕社会で生まれた言葉になる。

私は検討1を有力視します。


縄文時代遺跡 花輪 検索結果


2014年9月21日日曜日

真性縄文遺跡分布図の活用方法

原始・古代関係図書を読む 8

印旛の原始・古代-縄文時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)にCD-ROMが附録して添付されていて、次の資料がpdfファイルで収録されています。
・印旛郡市縄文時代遺跡台帳
・印旛郡市縄文時代遺跡分布図
・挿図・写真図版出典一覧

1 印旛郡市縄文時代遺跡台帳について
掲載台帳の遺跡数をカウントすると次のようになります。

印旛郡市縄文時代遺跡数

八街市と富里市を除いていずれも「ふさの国ナビゲーション」の遺跡数より増えています。これは最近の新規調査結果を県で集約集計する作業が遅延しているからのようです。

八街市の減少の理由は判りません。
富里市のリストは他市町とは異なり、最初から悉皆データではないようです。旧石器データも同じ理由で「ふさの国ナビゲーション」より遺跡数が減少しているようです。(2014.09.16記事「印旛郡内旧石器時代遺跡分布図を使ったヒートマップ検証」参照)

2 印旛郡市縄文時代遺跡分布図について
草創期、早期、前期、中期、後期、晩期別の6枚の真性(※)縄文時代遺跡分布図が収録されています。

縄文時代後期遺跡分布図
印旛の原始・古代-縄文時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)より引用

プロットの記号が小さいので、地図全体を表示するとプロットがほとんど見えなくなります。
そのように精細な情報地図です。

なお、この真性分布図は、調査歴および紹介歴があるものに限定されていて、リスト(台帳)の全てがプロットされているわけではありません。

※ 真性分布図という用語について
このブログでは、アドレスマッチングによりGIS上にプロットした遺跡分布図を擬似遺跡分布図と称し、遺跡所在現場を地図にプロットした遺跡分布図を真性遺跡分布図と称しています。(擬似コレラ、真性コレラというような用語法のアナロジーです。)

3 印旛郡市縄文時代遺跡分布図の活用について
CD-ROMに収録されている縄文時代6時期の遺跡分布図そのもの、あるいはそれに調査歴、紹介歴のないデータを加えた遺跡分布図を並べるだけで、そこから豊かな情報を得ることができます。

さらに、その6枚のプロット図からヒートマップをつくり、比較すると時期別遺跡変遷がよくわかると思います。

印旛郡市という限られた地域ではありますが、6枚のマップが出来ていますので、今後これを活用して遺跡の分析を行い自分の基礎知識を増やしたいと思っています。
また分析方法開発のデータとしても使えると考えます。

参考 ある範囲に限定して作成した真性縄文時代遺跡分布図のアニメーション試作
印旛の原始・古代-縄文時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)収録図を引用して作成
● 遺構が検出された遺跡
▲ 遺構は検出されず、遺物のみが検出された遺跡




2014年9月20日土曜日

印旛の原始・古代-縄文時代編- の読み方

原始・古代関係図書を読む 7

原始や古代の香取の海と東京湾との交通に興味を持ったのですが、個々の遺跡レベルの知識はゼロといっていい状況です。

従って、印旛の原始・古代-縄文時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)は代表的縄文時代遺跡をビジュアルに説明しているので、私にとってはまたとない絶好の学習テキストです。

まずざっと読んでみて、遺跡位置図はあるのですが、迫力ある出土物の写真や出土状況説明とその遺跡がおかれた実際のサイト状況を一緒にイメージできません。

そこで、遺跡位置図をGISに取り込み、位置をプロットしました。

印旛の原始・古代-縄文時代編-で取り上げた事例のプロット図

一度プロットしてしまえば、その遺跡事例と様々な情報との関連をGIS上で見ることができます。

次の図は地形段彩図と縄文時代ヒートマップ(擬似プロット図から作成したもの)に遺跡事例をオーバーレイしたものです。

遺跡事例オーバーレイ図 例1
この画面をディスプレイに出して、その前でこの図書を読んでいます。
事例のサイトの置かれた状況がよくわかり、図書に書いてある事実が平面から立体にプロットし直したように感じられるようになります。

事例と自分が作ったヒートマップとの関係も気になります。
ヒートマップから自分が得たイメージと遺跡事例との関係はどうなるか?とか、ヒートマップの的確性とか事例の代表性など様々な考察の糸口が生れます。

ヒートマップの目玉(遺跡密集地)のうち2つに対応している事例が中心になっていることもわかります。

次のオーバーレイ図は例1に前ブログ記事用に作成したたまたまの旧石器時代遺跡プロット図をさらにオーバーレイしたものです。

遺跡事例オーバーレイ図 例2
この図書の説明事例群と、旧石器時代東内野遺跡付近の縄文時代遺跡密集地とが重なっていないように感じます。
この図書の学習から外れた問題意識になっていまいますが、旧石器時代東内野遺跡付近の縄文時代遺跡はどうなっているのだろうかと、興味が湧きます。

次の図は和良比遺跡など東京湾に近い遺跡の事例を読むために、GISの画面を拡大移動したものです。

遺跡事例オーバーレイ図 例3
このような画面を出すと、和良比遺跡とか木戸先遺跡の事例説明から自分なりの発想を膨らませることができます。

このような学習方法で原始古代の代表的図書を学習しています。

図書に含まれる情報の極一部をGISに取り込むことで(あるいは電子化してパソコン上で操作できるようにすることで)、図書全体を自分の土俵に持ち込んでしまい、学習を深めることができるような印象を持っています。

印旛の原始・古代-縄文時代編- を読む

原始・古代関係図書を読む 6

1 印旛の原始・古代-縄文時代編-の紹介
【諸元】
書名:印旛の原始・古代-縄文時代編-
編集・発行:財団法人印旛郡市文化財センター
発行日:平成19年3月30日
体裁:A4判、96頁
附録:CD-ROM 印旛の原始・古代-縄文時代編-

【内容】
財団法人印旛郡市文化財センター設立20周年を節目に、これまでに印旛郡内で蓄積された埋蔵文化財調査・研究の成果を広く一般の方々に還元することを目的とし、各時代別6冊の計画で普及図書を刊行する。縄文時代編はその第2分冊。膨大な縄文遺跡について網羅的に紹介することは困難なため、代表的な遺跡を取り上げる。郷土史を理解する上で役立つことを祈念するとともに、文化財保護思想の涵養に寄与することを願う。(「ごあいさつ」による)

【主要目次】
Ⅰ 草創期
Ⅱ 早期
(4遺跡説明)
Ⅲ 前期
(5遺跡説明)
Ⅳ 中期
(9遺跡説明)
Ⅴ 後・晩期
(8遺跡説明)
Ⅵ 資料集
別添CD-ROM 印旛の原始・古代-縄文時代編-
・印旛郡市縄文時代遺跡台帳
・印旛郡市縄文時代遺跡分布図
・挿図・写真図版出典一覧

印旛の原始・古代-縄文時代編-
縄文時代のデスマスクが表紙を飾っています。(デスマスクは南羽鳥中岫第1遺跡E地点(成田市)出土)

CD-ROM 印旛の原始・古代-縄文時代編-

印旛の原始・古代-縄文時代編-で取り上げられている遺跡

2 感想
昨年夏に印旛郡市文化財センターを訪問して展示物を見学した時に「印旛の原始・古代」の旧石器時代編と一緒にこの縄文時代編も無償で入手することができました。
出土物と出土状況の写真が美しく、ページ毎に考え込んでしまう、読みごたえ、見ごたえのある素晴らしい図書です。入手できたことを感謝します。

遺跡の出土物と出土状況などの発掘に関わる事実の記述が主体であり、その解釈は殆ど書いてありません。
この地域における遺跡の出土物は極めて多様であり、その写真をみて感動するものも少なくありません。

自分の問題意識(東京湾と香取の海の交通)を投影して読もうとしているのですが、折込にある遺跡位置図だけでは他の情報との関連が判らないので、工夫して読んでいます。その様子は次の記事で報告します。

東京湾と香取の海の分水界付近に立地する遺跡については特に興味を持ちました。
貝塚を伴う遺跡も多く、どこで採れた貝であるか詳しく知りたくなりました。
また大きな集落跡の遺跡もあり、それとヒートマップとの関係についても検討したくなります。

この図書に出てくる代表的遺跡の数(26)が手頃なので、それを一つの核としての材料みたいにして、自分なりに時期別、分布地域別(流域別、遺跡密集地域との関係別など)遺跡イメージをつくろうと思っています。

CD-ROMに収録されている印旛郡市縄文時代遺跡台帳と印旛郡市縄文時代遺跡分布図(いずれもPDFファイル)がとても充実している資料であり、その活用方策は別記事で検討します。

2014年9月18日木曜日

旧石器時代遺跡の地形分析の必要性と有用性

原始・古代関係図書を読む 5

印旛の原始・古代-旧石器時代編-のⅤ資料集に43遺跡の詳細が記述されています。

素人の自分には気の遠くなるような詳細な石器の検討が記述されています。残された物的情報がこれだけだと考えると、このような詳細な情報から様々な旧石器時代人の生活がわかるので、その専門性という知識を生み出す力に敬服します。

さて、素人の私の率直な感想を述べます。

旧石器時代の遺物が発見された遺跡の地形は旧石器時代の姿をかなり伝えていると思います。その地形についての検討に使っているエネルギーは、石器検討に注いでいる莫大なエネルギーに比べると、極端に少なく感じます。

地形は石器が出た場所の環境を示す1級の情報だと思いますが、遺跡記述では「樹枝状に発達した谷津の最奥部にある」とか「舌状台地の先端にある」程度の記述で、地形を示す地図はありません。

動物が集まる湧水とか動物移動ルートとか狩方法とかを考えるとさまざま地形要素の検討必要性が浮かびます。そうした遺跡を知るための地形検討が空白地帯になっているように、この本から感じます。

また素人考えですが、その場に石器が存在する理由も地形(かなりミクロな地形)によってその解釈が異なってくるに違いありません。

遺跡に関する地形検討をある程度体系に行えば、石器検討だけからは得られない別種の有用な情報を得られるように考えます。

次の図は附録の印旛郡内旧石器時代遺跡分布図の一部について遺跡の位置をプロットしたものです。
この地図では谷津をブルーに塗り地形との関係を示そうとしていて、他の資料にはない優れたものになっていますが、それでも遺跡と地形との関係は必ずしも明瞭ではありません。

印旛郡内旧石器時代遺跡分布図の一部

次の図は地形段彩図をベースにしてその旧石器時代遺跡をプロットしたものです。

印旛郡内旧石器時代遺跡分布図の情報を地形段彩図にプロットしたもの

地形段彩図と正確な遺跡位置プロットをよく見ると、私は例えば、次のような印象を持ちました。
(遺跡のある場所は狩をした場所の近くに違いないという想定で考えています。)

ア 谷津をぐるりと囲むように多数の遺跡が分布しているところがある。
→谷頭水源の分布に対応するのではないか。→水場に来た獣を狩っていたのではないか。
イ 台地中央部にも遺跡がある。
→かつて湖沼があり、その水場に来た獣を狩っていたのではないか。(東内野遺跡など)
ウ 台地が地峡になっている場所や狭窄部に遺跡がある。
→台地が狭まる地峡地形や狭窄部地形を利用して罠猟や待ち伏せ猟をしていたのではないか。
エ 台地の先端(ハナ)に遺跡がある。
→台地地形を利用して獣を追い詰めて狩っていたのではないか。

もっと遺跡と地形との関係はいろいろあるに違いありません。
上図のような地図縮尺ではなく、もっと拡大した詳細な地形について遺跡毎に記述・分析・検討して、比較していけば、石器分析を補完する有用な情報が得られるような気がします。

石器が大量に出土する場所の地形を検討・比較するだけでも、有用な情報を得られると思います。

2014年9月17日水曜日

東内野遺跡に興味を持つ

原始・古代関係図書を読む 4

印旛の原始・古代-旧石器時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)のコラムで東内野遺跡について詳しく説明しています。
とても興味を持ちました。

東内野遺跡の説明
印旛の原始・古代-旧石器時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)より引用

この遺跡は他の谷津急崖そばの遺跡とは異なり、台地上の湖沼のほとりに立地した遺跡です。説明では、その水場に来た獣を狩っていたかもしれないという説明があります。

この遺跡付近の現在の地形段彩図と地形断面図を作成しました。

東内野遺跡付近の地形

宅地開発が行われていますが、2m弱の比高の閉じた凹地の存在を確認できます。

こうした浅い窪地は下総台地の各所にあり、湖沼であったと考えられるものが多いです。最近まで湖沼(池)や湿地であったところも多くあります。

こうした台地上の湖沼を狩場として、そこがキャンプ地になっていたと考えると、旧石器時代の狩場を地形から見ると、谷津急崖付近と台地上湖沼付近の2種あることになります。

東内野遺跡の周辺台地面上にも遺跡が沢山あり、東内野遺跡はその中心部に位置しています。

ヒートマップと東内野遺跡

この図でヒートマップの赤いところ(遺跡が密集しているところ)は主として台地面上の遺跡が寄与してできているようです。

東内野遺跡付近が谷津急崖を利用するのではなく、台地面各所に存在した湖沼を利用するという特徴的な狩場であったのかどうか、調べて行きたいと思います。

また、台地上の湖沼跡はこのブログで各地で見つけていますから、そうした湖沼跡と旧石器時代遺跡との関係も観察したいと思います。

2014年9月16日火曜日

印旛郡内旧石器時代遺跡分布図を使ったヒートマップ検証

原始・古代関係図書を読む 3

印旛の原始・古代-旧石器時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)には印旛郡内旧石器時代遺跡リストが掲載され、別添として分布図が付いています。
まことに貴重な情報です。
この情報を、現在行っている遺跡密度図(ヒートマップ)検討の検証に使ってみました。

1 旧石器時代遺跡数
印旛の原始・古代-旧石器時代編-の遺跡リストとふさの国ナビゲーションの遺跡リストを比較してみました。

旧石器時代遺跡数の比較

ふさの国ナビゲーションの遺跡数より印旛の原始・古代の遺跡数の方が約33%増えています。
日々行われる遺跡調査結果の集約集計が県レベルでは難渋しているようです。

2 擬似分布図と真性分布図によるヒートマップ
附録印旛郡内旧石器時代遺跡分布図は私に言わせると真性遺跡分布図です。私がこのブログで作成したプロット図はアドレスマッチングによるもので、擬似遺跡分布図です。

真性図と擬似図が揃いましたので、それらによるヒートマップ(密度図)がどの程度違ってくるのか、検証してみました。

次の図は印旛郡内旧石器時代遺跡分布図の一部をスキャンしてGISに貼り付けた物です。

印旛郡内旧石器時代遺跡分布図スキャン図

GISのこの画面上で遺跡をプロットし、そのデータからヒートマップを作成たものが次の図です。プロットした遺跡数は170件です。またヒートマップ作成の際の半径パラメータはこれまでと同じ5000mです。

印旛郡内旧石器時代遺跡分布図の一部から作成したヒートマップ

次の図はふさの国ナビゲーションからダウンロードしたcsvファイルをアドレスマッチングによりプロット図を作成し、それによるヒートマップ図です。

ふさの国ナビゲーションデータから作成した擬似プロット図によるヒートマップ

二つのヒートマップを比較すると、分布大勢はあまり変わっていないという印象を受けます。

ふさの国ナビゲーションより印旛郡内旧石器時代遺跡分布図のほうが位置が正確で、かつデータが3割ほど増えているのですが、分布イメージがこの程度の違いであるということはかなり貴重な情報だと思います。

つまり、ふさの国ナビゲーションから得た情報によるヒートマップは使用価値があるということを示しているのだと思います。

集約集計から漏れている遺跡調査結果を追加し、なおかつその正確な位置情報を作成してヒートマップをつくる必要があるのですが、それが出来るまでの間は、擬似プロット図から作成したヒートマップでもとりあえずの代用品としての価値は十分にあるという感覚を持ちました。

2014年9月15日月曜日

下総台地古環境と風景イラストについて

原始・古代関係図書を読む 2

「印旛の原始・古代-旧石器時代編-」の石器群の変遷に関する記述はまことに詳細で、門外漢からみると気の遠くなるような詳細性です。このような詳細な検討を経て徐々に遺跡の特性がわかり、旧石器時代人の生活の様子が判っていくものだと納得できました。

さて、この図書の中に1箇所だけ違和感をおぼえたところがありますので、メモしておきます。
Ⅱ環境5下総台地の古環境と風景の項に次のイメージが掲載されています。

下総台地の古環境の変遷
印旛の原始・古代-旧石器時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)から引用

●私の感じた違和感
ア 寒冷な様子が感じられない
イ 海面が-120mに低下した時の地形の様子が全く感じられない

ア 寒冷な様子が感じられない
本書のなかで、「旧石器人が生活していた時代は氷河期のまっただ中であり、後期旧石器時代の中頃、いまから約2万~1万7千年前の最終氷期最寒冷期を例にしてみても、年間の平均気温が今より約7~8度低く、非常に寒冷であった。」と書いてあります。
しかし、3枚のイラストからは現在より寒冷であったというイメージを持てません。
緑色の使い方が濃すぎる(植生が多く、鮮やかすぎる緑になっている)ので3枚とも現在下総台地の春~初夏の明るい情景に見えてしまうのかもしれません。描き方のテクニックの問題かもしれません。
2人の旧石器時代人が毛皮の防寒具を着ていて、暑そうです。

イ 海面が-120mに低下した時の地形の様子が全く感じられない。
広い谷底平野になだらかに蛇行する川が流れ、段差のない岸辺で動物が水を飲んでいます。遠方の台地は現在と同じなだらかさです。
これはストレートに言えば、全部間違いだと思います。描き方のテクニックの問題ではありません。当時の地形がどうであったかという検証がされていないように感じます。

本書には次の氷河期の姿が説明されています。

約3万~1万2千年前
印旛の原始・古代-旧石器時代編-(財団法人印旛郡市文化財センター、平成16年)から引用(「下総台地の移り変わり」の部分)

このような環境では次のような地形断面であったことをこのブログでは2014.08.23記事「旧石器時代の谷津形状の検討」で検討しています。

断面図位置

地形断面図(印旛沼付近)

地形断面図(現在の利根川付近)

海面が-120mに低下した頃、あるいはその前後の頃は、現在は沖積層で埋没している深い谷が存在していました。

従って、広い谷底平野は存在していません。
なだらかに蛇行する河川も存在していません。
河岸は切り立った崖になっているところが多かったと思います。
谷底から台地面までの比高は現在の2倍から3倍ありました。台地面は平坦でも、谷津は切り立った地形になっていたと思います。

2014年9月14日日曜日

印旛の原始・古代-旧石器時代編- を読む

原始・古代関係図書を読む 1

都合によりしばらくシリーズ記事を中断します。その間、最近読んだ(参考にした)原始・古代関係図書の感想等を記事にします。

1 印旛の原始・古代-旧石器時代編-の紹介
【諸元】
書名:印旛の原始・古代-旧石器時代編-
編集・発行:財団法人印旛郡市文化財センター
発行日:平成16年3月31日
体裁:A4判、121頁
附録:印旛郡内旧石器時代遺跡分布図

【内容】
財団法人印旛郡市文化財センター設立20周年を節目に、これまでに印旛郡内で蓄積された埋蔵文化財調査・研究の成果を広く一般の方々に還元することを目的とし、各時代別6冊の計画で普及図書を刊行する。旧石器時代編はその第1分冊。最新研究成果を一般の方に理解できるように写真や図面を多く用いるとともに、専門家向けの研究資料としての性格も有する構成とする。(「ごあいさつ」による)

【主要目次】
Ⅰ 幕開け
Ⅱ 環境
Ⅲ 石器
Ⅳ 足跡
Ⅴ 印旛沼周辺地域における石器群の変遷
Ⅵ 資料集
別添付図 印旛郡内旧石器時代遺跡分布図

印旛の原始・古代-旧石器時代編-

付図 印旛郡内旧石器時代遺跡分布図

2 感想
昨年夏に印旛郡市文化財センターを訪問して展示物を見学した時に「印旛の原始・古代」の旧石器時代編と縄文時代編を無償で入手することができました。
「これがプロの仕事だ!」という印象を受ける充実した内容でデザインや多色刷も素晴らしい図書です。入手できたことを感謝します。

Ⅰ幕開けでは、1人類の誕生と旧石器時代、2日本における旧石器時代-すべては岩宿から-、3下総台地における旧石器時代の発見が細目次となっています。初心者には大変よい勉強になります。
Ⅱ環境では、1地誌(地史の間違いか)-下総台地の形成-、2火山灰とローム層、3動物相、4植物相、5下総台地の古環境と風景、6下総台地のおける旧石器時代の遺跡の立地が細目次になっています。旧石器時代の環境が整理されていてとてもよい勉強になります。
旧石器時代の遺跡は樹枝状の発達した谷津にともなう「張り出し地形」に分布していることが説明されています。
Ⅲ石器では、1石器の作り方、2石器の種類と使用法、3石器の再生、4石材が細目次となっています。私にとって、初めて接する領域なので、新鮮な興味を感じます。
特に石器の種類と使用法はイラストでとてもわかりやすくなっています。また、関東地方における石材原産地と移動ルートの図を見て、興味がつきません。
Ⅳ足跡では、1旧石器時代の調査、2旧石器時代の生活形態、3旧石器時代の生業が細目次になっています。ここでは石器と発掘の関係が述べれています。私にとって環状ブロック群の説明は有益でした。

Ⅴ印旛沼周辺地域における石器群の変遷では旧石器時代を11期に区分してその石器の変遷について石器スケッチを多用しながら説明しています。
出土層位、石器種類、作成技法、石材種類の違いが指標のようです。
11期別に石器スケッチと上記指標による文章記述があります。この章は専門家向けのようです。
私は記述内容を理解するまでに至りませんでした。(その詳細性に集中して興味を持続させるまでの気力がありませんでした。)
この章の最終ページに折込で総括としての旧石器変遷図が掲載されていて壮観です。

Ⅵ資料集では43遺跡について概要、文化層記述、スケッチ掲載により記述されています。
今後、必要に応じて参考として利用するつもりです。とても有用な資料だと思います。

2014年9月13日土曜日

旧石器と縄文の遺跡密度図(ヒートマップ)比較

花見川地峡史-メモ・仮説集>3花見川地峡の利用・開発史> 3.1埋蔵文化財データに基づく地域特性基礎検討>3.1.33旧石器と縄文の遺跡密度図(ヒートマップ)比較

1 旧石器時代遺跡密度図(ヒートマップ)の作成
「ふさの国ナビゲーション」(千葉県教育委員会)からダウンロードした旧石器時代遺跡データ(885件)の緯度経度情報をアドレスマッチングにより取得し、そのデータをQGISにプロットし、ヒートマッププラグインを使って半径パラメータ5000mでヒートマップを作成しました。
同じデータで以前作った市区町村別密度図と対照して次に表示します。

旧石器時代市区町村別密度図とヒートマップ

ヒートマップを見ると赤い目玉状の高密度地区が数か所分布していることが特徴的です。
この赤い目玉のような場所が旧石器時代人の代表的狩場であったと考えます。
赤い目玉をつなぐように白い場所(遺跡密度が中程度の場所)が分布していますが、この白い場所は旧石器時代人の主要移動ルートと考えることができます。

ヒートマップを作成することにより、旧石器時代の主要狩場と主要移動ルートのイメージを持つことができました。

このようなイメージ図はこれまで無かったもののようです。

このイメージ図の的確性(専門的調査研究に基づく主要狩場と主要移動ルートの想定からみた的確性)がどの程度のものであるか、ここでは評価できませんが、火の無い所に煙は立たないと考えると、赤い目玉には意味があり、検討の出発点としての価値はあると考えます。

市区町村別密度図とヒートマップに示される分布大勢がほぼ対応します。
同じ情報からつくったものですから、分布大勢が一致することは当然です。
同時に、アドレスマッチングとGIS分析(ヒートマップ分析)という最新技術を使うと、同じ情報でイメージをこれだけ具体化できるという驚きの感想も持つことができます。

2 旧石器と縄文のヒートマップの比較
次に旧石器時代遺跡密度図(ヒートマップ)と縄文時代遺跡密度図(ヒートマップ)を対照出来る図を作成しました。

旧石器と縄文のヒートマップ対照図

2-1 狩場の継承?
特徴的なことは、旧石器ア地区が縄文d地区に、ウ地区がe地区に、エ地区がa地区の一部に、オ地区がc地区にほぼそのまま対応するということです。

これは旧石器時代の代表的狩場が縄文時代に狩場として引き継がれた可能性があることを示しています。

旧石器ウ地区は近くの比高のある急崖を利用して狩が行われた可能性を検討しました(2014.09.04記事「旧石器遺跡分布から推定する狩方法」参照)が、縄文e地区の近くで規模の大きな縄文時代狩猟遺跡が発見されています。(東金市養安寺遺跡、千葉市埋蔵文化財調査センター西野雅人さんから教えていただく。)

ウ地区だけでなくア地区、エ地区、オ地区等も狩場として縄文時代に引き継がれていったのか、縄文時代を通じて狩場であったのか、個々の遺跡検討も徐々に視野に入れて検討していきたいと思います。

なお、縄文d地区は2014.09.12記事「縄文時代遺跡密度図(ヒートマップ)考察」で交易・交流機能があるのではないかと考えました。
もし交易・交流機能があるとすれば縄文時代が成熟した時期のことであると思います。
旧石器時代人から狩場として継承したということ、交易・交流機能があるということが背反するのか両立するのか、分布図だけを眺めていてもわかりませんから、縄文時代の各期別に遺跡を見るような活動に少しづつ進みます。

当面縄文時代ヒートマップを各期別に作れないか検討するつもりです。

2-2 縄文時代に生まれた拠点?
縄文時代a地区の大半、b地区は旧石器時代の遺跡密集地と関わりません。この二つの遺跡密集地は旧石器時代人が使っていなかった場所(狩場でなかった場所)を縄文時代になって初めて使った(遺跡密集地とした)場所です。そして二つとも規模が大きく一方は東京湾、一方は香取の海に面しています。

感覚的な印象として、千葉県北部における縄文時代拠点はこの二つであると考えます。
縄文時代全体ではなく、時期別ヒートマップをつくればより具体的な様子がわかると思います。