2016年8月31日水曜日

上谷遺跡 養蚕関連墨書文字

2016.08.30記事「上谷遺跡 紡錘車、鉄鎌の出土状況」で上谷遺跡の主産業(主生業)の1つが養蚕であることを出土物と多文字墨書土器から突き止めました。

主産業であるからには、他にも墨書土器があるに違いないと考え、あらためて上谷遺跡墨書文字リストを見てみました。

2016.07.30記事「上谷遺跡出土墨書土器の概要」参照

すると、時々発生する思考の予定調和的現象が発生して、2つの養蚕関連墨書文字を発見(認識)することができました。

A036竪穴住居出土多文字墨書土器の文の中に次のような対応を既に発見しています。

A036竪穴住居出土多文字墨書土器からわかった事柄

つまり「家」は養蚕用家屋(掘立柱建物)であるというこです。

その「家」が上谷遺跡で4点出土します。

「後 家家」A024
「家」A078
「大家」A171
「家」A164

の4点です。

「家」「家」は養蚕家屋建設の祈願、「大家」は大きな養蚕家屋建設の祈願と考えられます。

しかし「後 家家」の意味が判然としません。「家家」は養蚕家屋建設祈願に間違いないと考えますが、「後」の意味が養蚕と結びつきません。

一方「後」は同じA024遺構からと、近くの別の遺構から2点出土しています。A036遺構とも隣接しています。

後も養蚕と関連している可能性が感じられだします。

辞書を調べたところ、なんと後をキヌと読む情報を得ることができました。

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後をキヌと読む用例

きぬ‐ぎぬ【衣衣・後朝】

〖名〗 (「衣(きぬ)」を重ねた語で、それぞれの衣服の意)

① 男女が共寝をして、ふたりの衣を重ねてかけて寝たのが、翌朝別れる時それぞれ自分の衣をとって身につけた、その互いの衣。衣が、共寝のあとの離別の象徴となっている。

*古今(905‐914)恋三・六三七「しののめのほがらほがらとあけゆけばおのがきぬぎぬなるぞかなしき〈よみ人しらず〉」

② 男女が共寝して過ごした翌朝。またその朝の別れ。きぬぎぬの別れ。こうちょう。ごちょう。

*新勅撰(1235)恋三・七九一「後朝の心を きぬぎぬになるともきかぬとりだにもあけゆくほどぞこゑもおしまぬ〈源通親〉」

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用
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恋歌にでてくる「きぬ‐ぎぬ【衣衣・後朝】」の用例を知った上で、わざとキヌの音に漢字「後」を当てて書いたことに間違いないと判りました。

キヌを衣ではなく後と書く風流が存在していて、確かに後の墨書文字は大変達筆です。

後を後戸の神(宿神)ではないだろうかなどと考えた自分の生半可な知識が恥ずかしくなります。

蚕(コ)の当て字に子(コ)を用いる背景には「雄略天皇の命令を聞き違えて〈蚕〘こ〙〉でなく〈児〘こ〙〉を集めた少子部蜾蠃〘ちいさこべのすがる〙の伝説」(『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズから引用)があるように、墨書土器文字には当時の教養が隠されている場合が多いと考えます。

子…蚕、後…絹、家…養蚕用家屋の文字分布を示すと次のようになります。

上谷遺跡 養蚕関連墨書文字の分布

広義の意味で子(=蚕)、後(=衣、キヌ)、家(養蚕用家屋)は養蚕に関わる生業の発展祈願文字であることがわかりました。

ここで、さらに思考を深めたいと思います。

後(=衣、キヌ)は恋歌の用例にあるように男女が共寝で体の上にかけ、あるいは翌日の朝身にまとう衣(コロモ)です。絹糸ではなく、絹の布製品です。

ですから、後(キヌ)は絹糸を機(ハタ)で織った絹織物としての布(あるいは縫製した服)であると考えるのが妥当です。

つまり、後(キヌ)とは機織り作業を意味していると考えます。

そのように考えると、後(キヌ)と一緒に出てくる家(掘立柱建物)は機織用家屋を意味することになります。

子(蚕)と一緒に出てくる家は養蚕用家屋(蚕を飼育する家屋)、後(衣)と一緒にでてくる家は機織用家屋(機織機械を設置して絹織物を作製する家屋)ということになります。

家(掘立柱建物)の養蚕関連用途として2種類の存在を確認できます。

上谷遺跡 家(掘立柱建物)の用途として養蚕家屋と機織家屋の2通りが確認できる情報


墨書文字「後」と「家」が近隣遺跡でどうなっているか、早速知らべ直すことにします。

2016年8月30日火曜日

上谷遺跡 紡錘車、鉄鎌の出土状況

1 紡錘車、鉄鎌の意味

紡錘車は繭から絹糸を製糸するための道具、鉄鎌は蚕を飼育するための桑の枝切りに主に利用されていたと考えます。

紡錘車の例 (A102)
左は石製、中央と右は鉄製
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第2分冊-」(2003、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用

鉄鎌の例 (A094)
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第2分冊-」(2003、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用

2 紡錘車の出土状況

紡錘車の出土状況は次の通りです。

上谷遺跡 紡錘車出土状況

掘立柱建物密集地近くで最も密に、次いで竪穴住居密集地近くで密に分布しているように観察できます。

掘立柱建物が蚕小屋であり、その近くの竪穴住居でお湯を沸かして絹糸紡ぎした場合と、竪穴住居密集地まで繭を持ち帰って、そこでお湯を沸かして絹糸紡ぎをした場合の2通りの例が想定できます。

3 鉄鎌の出土状況

鉄鎌の出土状況は次の通りです。

上谷遺跡 鉄鎌出土状況

鉄鎌の出土状況は紡錘車の出土状況と似ていて、紡錘車と鉄鎌が同じ生糸生産という生業に関わっていたことを物語っています。

4 主要墨書文字別統計

紡錘車と鉄鎌の出土を主要墨書文字別に統計を取ると次のようになります。

上谷遺跡 主要墨書文字別 紡錘車、鉄鎌出土数

養蚕絹糸生産に全ての墨書文字集団が参加していたことがわかります。

恐らく養蚕絹糸生産が最も高付加価値の産業であり、上谷遺跡集落のメイン生業であったと考えます。

生糸からさらに機織りが行われていたかどうかは今後さらに検討します。

なお、得集団が他の3集団より紡錘車、鉄鎌出土数が多く、養蚕絹糸生産では得集団が全体をリードしてのかもしれません。

5 養蚕がメイン生業であった証拠

次の多文字墨書土器が出土していて、その祈願内容から上谷遺跡のメイン生業が養蚕と牧畜であったことが判明します。


A036竪穴住居出土多文字土器

A036竪穴住居の位置

発掘調査報告書による釈文

「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」

私の解釈

承和二年十八日(西暦835年18日)に(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。

野の開発を行い(牧の開発)、家を建設し(掘立柱建物の建設)、馬を増やし、蚕を増産することを祈願します。

(野立と馬、家立と子が対応していて、より簡潔に解釈すれば、「牧開発と養蚕小屋建設により、馬と蚕の増産を祈願します」ということになります。)

(冥界に)身を召される代わりに(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。

発掘調査報告書では墨書土器解釈の特別章を設けているにも関わらず、「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」の解釈は行われていません。

おそらく子の解釈が出来ないので、この多文字墨書土器の解釈を見送ったのだと思います。

(「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第5分冊-」(2005、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会) 第6節墨書土器に見る信仰と習俗 参照)

参考 2016.03.29記事「墨書土器「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の意味」参照


このような情報から、上谷遺跡出土の紡錘車と鉄鎌は少なくともその主要な用途は養蚕絹糸生産であったと考えます。

なお、蚕を示す墨書文字「子」「小」の分布が主に下総国に分布していることから、麻布(望陀布)の有名産地である上総国と下総国は、布生産という観点からみると、麻と絹という棲み分けが行われていた可能性を想定しています。

参考

墨書文字「子」「小」合計出土数と下総国領域


上谷遺跡で麻が生産され、麻糸が紡がれ、麻布が生産されていたことを示す材料は見つけていませんが、反対に否定する材料も現在のところありません。

近隣遺跡で乾漆のために麻が生産されていたことがわかっています。

2016.04.09記事「船尾白幡遺跡で乾漆を示す墨書文字(息)を認識」参照

2016年8月29日月曜日

上谷遺跡 土器以外の出土遺物

上谷遺跡の土器以外の出土遺物を2つのグラフに分けて示しました。

上谷遺跡 金属遺物等出土数

金属遺物等では刀子の数が87点と抜きんでて多く、次いで鉄鏃、鉄不明品、鉄釘、紡錘車などが多くなっています。

刀子は万能道具としての意味と、護身用武器としての意味の2側面から検討する必要があると感じています。

鳴神山遺跡の検討では9世紀中葉以降刀子の出土数が格段に増えたことから、単純な生活道具としての意味ではなく、護身用武器としての意味が増大したことを検討しました。

鉄鏃は対人殺傷武器以外の何物でもありませんから、鉄鏃出土数が多いことは、おそらく9世紀頃の治安状況劣悪化を物語っていると考えます。

紡錘車の素材別内訳は次の通りです。

上谷遺跡 紡錘車

紡錘車、鉄鎌は主に養蚕・生糸生産に使われたと考えます。

穂積具や鉄鍬は水田耕作や雑穀栽培に使われたと考えます。

鉄鎌の方が穂積具より多いことから、養蚕・生糸生産が稲作や雑穀栽培より重要な生業であったと想像します。

鉄器馬具出土に注目します。

上谷遺跡が馬生産の牧であったことを物語っていると考えます。

馬具出土は馬に騎乗していたことを物語りますから、馬は騎馬用であったことを証明します。

鉄鎖や鉄輪掛け金具も馬具関連かもしれません。

銙帯は官人の存在を物語っていて、官人が集落の生業活動を指導していたと考えます。

銙帯の内訳は次の通りです。

上谷遺跡 銙帯

鞴羽口と鉄滓が出土していますから、上谷遺跡で鍛冶が行われていたことがわかります。


上谷遺跡 石製遺物等出土数

石製遺物等では軽石42点、砥石28点が多くなっています。

軽石はウキとして使われたと考えると、石錘、土錘の出土と合わせると、この集落に住民が近くに印旛浦で漁業を行っていたことが判ります。

ガラス製小玉出土に興味が深まります。

ガラス製小玉出土の意義がどのようなものであるのか、今後検討します。

また温石出土にも興味が深まります。

温石出土についてもその意義がどのようなもであるのか、今後検討します。






2016年8月28日日曜日

上谷遺跡 主要墨書文字による遺構レベルゾーン区分

上谷遺跡の主要墨書文字「得」「西」「竹」「万」の主な出土遺構を全てプロットすると次のような図になります。

上谷遺跡 主要墨書文字「得」「西」「竹」「万」の主な出土遺構

各文字の出土領域はある程度まとまっていますが、思った以上に入り組んで分布している様子も見られます。

得と万は相互に混じり合い、西と竹も相互に混じり合うことが多いように感じますので、得と万、西と竹の関係は密かもしれません。

この分布から遺構レベルでゾーン区分すると次のような図になります。

上谷遺跡 主要墨書文字「得」「西」「竹」「万」による遺構レベルゾーン区分

同じ祈願文字を共有する集団が単純に、空間排他的に分布するのではなく、一部で空間的に入り組んで分布しています。

しかし、その様子を遺構レベルで排他的分布図として表現してみました。

このような特性、つまり空間排他的に表現すると島状分布が現れるという特性に着目したいと考えます。

今後の遺物出土状況の統計集計ではこの墨書文字による遺構ゾーンレベル区分を使ってみることにします。

なお、得の集中出土域付近に万だけでなく、西、竹も出土します。

得集中出土域近くの西出土遺構では多文字土器も出土していますから、西の支配層がこの付近に居を構えていたことになります。

空想以外のなにものでもありませんが、墨書文字集団「得」が他の集団より頭一つ抜きんでていて、他の3集団の指導層も「得」の本拠地に居を構えていたのかもしれません。

また発掘区域西端に得、西、万が出土していて、特別な理由があると考えます。

その特別な理由は発掘区域の西側にあるので不明であると考えます。


主要墨書文字から一般的イメージ的に空間ゾーン区分を行うと次のようになります。

上谷遺跡 主要墨書文字「得」「西」「竹」「万」による空間ゾーン区分(イメージ)

空間イメージはこのように捉えて間違いないと考えますが、出土遺物の統計等はこの空間ゾーンではなく、遺構レベルゾーン区分で行いたいと考えています。


以前の記事で竪穴住居と掘立柱建物分布に基づいて集落内ゾーン推定図を作成しました。


参考 上谷遺跡 集落内ゾーン推定
A、B、C、D、E、Fは竪穴住居の集中域、a、b、c、dは掘立柱建物の集中域、1、2,3は土坑集中域
2016.08.18記事「上谷遺跡 集落ゾーン区分推定」参照

この記事で行った主要墨書文字による遺構レベルゾーン区分は、上記集落内ゾーン推定図を精緻化したものであると考えます。





2016年8月27日土曜日

上谷遺跡 墨書文字共有集団の遺構空間配置(仮説)

上谷遺跡では「得」「西」「竹」「万」の墨書文字が特別多く、かつ出土域が集中していることが判りました。

その詳細を検討し、墨書文字共有集団特有の遺構空間配置に規則性があるか検討します。

1 墨書文字「得」の分布特性

墨書文字「得」ヒートマップと主な出土遺構を次に示します。

墨書文字「得」ヒートマップと主な出土遺構

ここで主な出土遺構とは「得」の出土数が「西」「竹」「万」より数が多い遺構を示しています。

ですから、主な出土遺構は墨書文字「得」を共有する集団が、他の集団より凌駕して強く関わっていた遺構であるといえます。

さらにその関わりの強さはヒートマップで表現されます。

「得」出土が最も大いにはA102遺構です。

A102遺構は掘立柱建物群に囲まれた広場の中心にあたるような場所に存在します。

多数の出土遺物はその覆土層に集中しています。

A102遺構の遺物出土場所
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第2分冊-」(2003、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用

打ち欠きされて出土した墨書土器「得」
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第2分冊-」(2003、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用


掘立柱建物群の近くに存在した集落有力家の当主が死亡して、モガリ等の後その家(竪穴住居)跡が一種の聖地になり、打ち欠き土器を捨てる穴(埋める穴)になったのではないかと空想します。

掘立柱建物群近くの最も重要な竪穴住居跡が打ち欠き土器を捨てる穴(埋める穴)になるという現象は、「得」だけでなく、「西」「竹」「万」も全く同じですから、上記空想解釈の合理性があってもなくても、大いに興味が湧きます。

生活に重要な鉄製品等の出土もあるため、掘立柱建物群近く(生業に関わる業務地区近く)の特定竪穴住居跡が特別の意味(聖地など)を持ったのだと思います。

単純なゴミ捨て場ではないと考えます。

現代でも水辺にコインを投げるような風習が日本と世界にありますが、それと類似した祈願の場所が聖地化した特定竪穴住居跡に生まれたと想像します。

「得」の分布はA102竪穴住居住居付近に集中しますが、少し離れた西にヒートマップの色が変わったところがあります。

「得」の出土が多い遺構があります。

副次的な祈願場所であった可能性があります。

さらによく見ると、「得」の分布は離れた北にも、発掘区域南西にも飛び地的に分布します。

このような分布は他の文字でもほとんど同じになります。

2 墨書土器「西」の分布特性

墨書文字「西」ヒートマップと主な出土遺構を次に示します。

墨書文字「西」ヒートマップと主な出土遺構

掘立柱建物群に囲まれたA233竪穴住居跡から多量の遺物が覆土層から出土します。

A233遺構の遺物出土場所
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第5分冊-」(2005、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用


打ち欠きされて出土した墨書土器「西」
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第5分冊-」(2005、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用


A233竪穴住居付近だけでなく、集落全体に「西」が他の文字より量が凌駕して出土する遺構が点在します。

3 墨書土器「竹」の分布特性

墨書文字「竹」ヒートマップと主な出土遺構を次に示します。

墨書文字「竹」ヒートマップと主な出土遺構

掘立柱建物群に囲まれたA209竪穴住居跡から多量の遺物が覆土層から出土します。

A209遺構の遺物出土場所
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第4分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用

打ち欠きされて出土した墨書土器「竹」
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第4分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用


墨書土器「竹」もA209竪穴住居の周辺だけでなく集落の南半部の広い範囲から出土します。


4 墨書土器「万」の分布特性

墨書文字「万」ヒートマップと主な出土遺構を次に示します。

墨書文字「万」ヒートマップと主な出土遺構

掘立柱建物群に囲まれたA078竪穴住居から打ち欠きされた多数の墨書土器「万」が出土します。

この遺構でも覆土層から出土しています。(図なし)

打ち欠きされて出土した墨書土器「万」
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第2分冊-」(2003、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用


他の文字と同じく「万」もメイン集中出土域、サブ出土域のほか集落の離れた場所にも出土場所があります。

5 墨書文字共有集団の遺構空間配置(仮説)

以上の4つの文字共有集団の遺構観察から、次のような墨書文字共有集団の遺構空間配置仮説を考えてみました。

墨書文字共有集団の遺構空間配置(仮説)

「得」「西」「竹」「万」の文字については、墨書土器が1つあるいは2つ出土する遺構はその集団が居住していたと想像しました。

多数出土する遺構は、その場所が集団の「聖地」であり、打ち欠き墨書土器が捨てられた(埋められた)と考えました。

近隣遺跡検討を踏まえれば、次のような時間的変化の空想が頭をよぎります。

8世紀から9世紀初頭頃までは掘立柱建物群に囲まれる広場中央に位置するような場所に、同じ墨書文字を共有する集団リーダーが居住する竪穴住居が存在していて、家(集団拠点)として利用されていた。

9世紀前半から始まった急激な集落発展、人口増加時期にそれまで集団リーダーが居住していた竪穴住居が家から聖地(穴)に変化して、その場所が祭祀(集団祈願)の場に変化した。

集団リーダーの家(拠点)は近くの場所に移転した。(おそらく数十メートル範囲内程度の場所、鳴神山遺跡の例による)



なお、残念ながら上谷遺跡の発掘調査報告書では遺構の年代推定は行われていません。

2016年8月25日木曜日

上谷遺跡 人面土器・多文字土器出土の特徴

上谷遺跡の主な人面土器、多文字土器を地図にプロットしました。

上谷遺跡主な人面・多文字土器

人面土器のうちA204遺構出土はヘラ書人面土器であり、焼成前に書かれたものですから他の人面土器とは意義が異なる可能性があります。

多文字土器は延命祈願の文字が書かれています。

その分布は掘立柱建物群から離れた竪穴住居から出土していて、集落の「住宅地区」から出土しているように観察できます。

一方単文字の墨書土器のうち出土数の多いものは掘立柱建物群に取り囲まれた広場の位置が集中出土場所です。

単文字墨書土器は集落の「業務地区」から出土しているように観察できます。

参考 上谷遺跡掘立柱建物分布と墨書土器出土ヒートマップ及び主要文字

この出土場所が異なるという観察から人面土器、多文字土器と単文字墨書土器はその意義が異なると考えます。

単文字墨書土器は生業集団の業務発展等の祭祀(酒宴)に使われ、打ち欠きされて祭祀場所近くの竪穴住居跡穴に投げ込まれたと考えます。

人面土器、多文字土器は出土状況が覆土ではなく底面からのものがあり(A112出土4点など)、出土竪穴住居で使用されていた可能が高いものがあります。

人面土器、多文字土器は集落支配層が酒宴の余興でかいたような印象を受けます。

文字が書けるという教養の自慢やその行為をとがめる人がいないという支配層としての地位を誇示するために書いたのだと考えます。

なお、発掘調査報告書などでは「延命祭祀」に使われたと書かれていますが、有る個人が延命祈願文字を土器に書いたという行為が即「祭祀」になるのならば、その通りだと思います。

しかし、指導層個人の延命祭祀を家族や関係集団が執り行ったという考えには強い違和感を持ちます。

奈良・平安時代にあっても、指導層が家族や集団の健康や安全を祈願することはあっても、逆に家族や集団に自分の健康や安全を祈願させるということはコミュニティの心性に反すると思います。



A112遺構出土多文字土器のうち2点には延命祈願文字の他に「西」が書かれています。

「西」の集中出土域はA112遺構から直線距離250m離れた場所にあります。

A112遺構のある場所は集落内の「住宅地区」であり、そこに住む指導幹部が昼間は250mほど離れた集落西部の掘立柱建物群の業務地区に出勤していたと考えられます。

墨書文字「西」多出域の近くには溝状遺構があり、この遺構を「住宅地区」と「業務地区」を結ぶ集落内道路と考えることもありうると思います。

上谷遺跡 溝状遺構の場所

2016年8月24日水曜日

上谷遺跡 主要墨書文字検討 その1

墨書土器データベース及びそれ以外の遺物データのGIS化が済み、いよいよ上谷遺跡の本格検討開始です。

墨書土器の検討から入ります。

この記事では上谷遺跡の主要墨書文字の検討を始めます。

1 上谷遺跡の主要墨書文字

上谷遺跡の主要墨書文字は次に示すように、得、西、竹、万の4文字です。

上谷遺跡墨書土器 文字別出土数

2 墨書文字得の出土域

墨書文字得のヒートマップと出土遺構を示します。

上谷遺跡 墨書文字 得ヒートマップと出土遺構

ヒートマップの赤色部分(集中出土域)は次に示す得多数出土遺構が存在しているために生まれています。

上谷遺跡 墨書文字 得 遺構別出土土器数

得ヒートマップに掘立柱建物分布をオーバーレイすると次のようになります。

上谷遺跡 得ヒートマップと掘立柱建物

ヒートマップの赤色部分(集中出土域)が塊状に分布する掘立柱建物群の1つに対応します。

ヒートマップの赤色部分(集中出土域)はその近くで祭祀(酒宴)が行われ、得と墨書された土器が集団で打ち欠きされ、捨てられた(埋められた)場所であると考えることができます。

自分の当初予想と比べるとはるかに単純で明瞭な文字-遺構対応関係が読み取れます。

墨書文字得が集落内小集団に対応している可能性が生まれます。

3 墨書文字西の出土域

墨書文字西のヒートマップと出土遺構を示します。

上谷遺跡 墨書文字 西ヒートマップと出土遺構

ヒートマップの赤色部分(集中出土域)は次に示す西多数出土遺構が存在しているために生まれています。

上谷遺跡 墨書文字 西 遺構別出土土器数

西ヒートマップに掘立柱建物分布をオーバーレイすると次のようになります。

上谷遺跡 西ヒートマップと掘立柱建物

ヒートマップの赤色部分(集中出土域)が塊状に分布する掘立柱建物群の1つに対応します。

ヒートマップの赤色部分(集中出土域)はその近くで祭祀(酒宴)が行われ、西と墨書された土器が集団で打ち欠きされ、捨てられた(埋められた)場所であると考えることができます。

得と同じように、自分の当初予想と比べるとはるかに単純で明瞭な文字-遺構対応関係が読み取れます。

墨書文字西が得とともに集落内小集団に対応している可能性が強まります。

4 墨書文字竹の出土域

墨書文字竹のヒートマップと出土遺構を示します。

上谷遺跡 墨書文字 竹ヒートマップと出土遺構

ヒートマップの赤色部分(集中出土域)は次に示す竹多数出土遺構が存在しているために生まれています。

上谷遺跡 墨書文字 竹 遺構別出土土器数

竹ヒートマップに掘立柱建物分布をオーバーレイすると次のようになります。

上谷遺跡 竹ヒートマップと掘立柱建物

ヒートマップの赤色部分(集中出土域)が塊状に分布する掘立柱建物群の1つに対応します。

ヒートマップの赤色部分(集中出土域)はその近くで祭祀(酒宴)が行われ、竹と墨書された土器が集団で打ち欠きされ、捨てられた(埋められた)場所であると考えることができます。

得、西と同じように、自分の当初予想と比べるとはるかに単純で明瞭な文字-遺構対応関係が読み取れます。

得、西とともに墨書文字竹が集落内小集団に対応している可能性がさらに強まります。

5 墨書文字万の出土域

墨書文字万のヒートマップと出土遺構を示します。

上谷遺跡 墨書文字 万ヒートマップと出土遺構

ヒートマップの赤色部分(集中出土域)は次に示す万多数出土遺構が存在しているために生まれています。

上谷遺跡 墨書文字 万 遺構別出土土器数

万ヒートマップに掘立柱建物分布をオーバーレイすると次のようになります。

上谷遺跡 万ヒートマップと掘立柱建物

ヒートマップの赤色部分(集中出土域)が塊状に分布する掘立柱建物群の1つに対応します。

ヒートマップの赤色部分(集中出土域)はその近くで祭祀(酒宴)が行われ、万と墨書された土器が集団で打ち欠きされ、捨てられた(埋められた)場所であると考えることができます。

得、西、竹、万ともに自分の当初予想と比べるとはるかに単純で明瞭な文字-遺構対応関係が読み取れます。

墨書文字得、西、竹、万はが集落内小集団に対応していると考えて間違いないと思います。

6 主要墨書文字分布のまとめ

以上の検討結果をまとめると次のようになります。

上谷遺跡 掘立柱建物分布と墨書土器出土ヒートマップ及び主要文字

遺構や墨書土器ヒートマップから捉えていた上谷遺跡の構造、つまり南北に2分され、それぞれ2つの集団から構成されるという構造に、主要墨書文字が見事に対応していることが判明しました。

集落内小集団がその独自性を祈願語レベルで区別(識別)している様子の観察に成功したことになります。

2016年8月23日火曜日

花見川放水風景

今朝、大和田排水機場から印旛沼の洪水が花見川に放水されていました。

水の流れるざわざわした音は久しぶりです。

過去の観察体験からポンプ能力目いっぱいの120m3/sの放水が行われているようです。

音を立てて流れる花見川 2016.08.23 5:31頃

普段の同じ風景 2016.08.15

音を立てて流れる花見川 2016.08.23 5:36頃

普段の同じ風景 2016.08.15

音を立てて流れる花見川 2016.08.23 5:47頃

普段の同じ風景 2016.08.15

音を立てて流れる花見川 2016.08.23 5:49頃

普段の同じ風景 2016.08.15